チッポ家な夢

チッポ観察日記

小説初期原稿

肱雲の隠微な噺 作者:肱雲

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「痛み」システムへの一考察~痛いの痛いの飛んでけ~

腰痛に苦しんだ私は、とある整形外科病院でトンデモナイ経験をする。それが「痛み」システムへの一考察へと繋がっていく。

「痛み」が世の中を形作る源泉の一つだ。

「痛み」システムを形創る上で、必須な者が、マゾ(M)とサド(S)だ。両者共に、「痛い」のがお好きなのは変わらない。僕は、痛いのが苦手で大嫌いなので、どちらにも属しない。否、ソンナ事は言い切れない。48年前亡くなった三島由紀夫は、前者ではなかっただろうか。切腹の「激痛」を求め、その辛苦を耐え忍び、憂国の「魂」が「痛みやその恐怖」を超克し勝利する姿を、自作自演した彼は、正しく真正Mと言っても過言ではなかろう。そうしたミシマを吉本隆明同様、訝しくも無視し得ぬ私、肱雲は、後者の佐渡グループの末席にいるのかも知れぬ。サドあるいはサディズムやサディストの語源は、マルキ・ド・サド(1740~1814年)に起因すのはよく知られている事だ。彼は、フランス革命期の貴族、小説家であった。マルキはフランス語で侯爵の意である。サドの作品は暴力的で、法や宗教・モラルの制約を受けず、究極の自由・放逸と、肉体的快楽を追求している。彼も自身の作品を地で行くかの如く、虐待と放蕩の果て、パリの刑務所や精神病院に長きに渡り入れられた。バスティーユ牢獄に11年、精神病院には13年入れられた。彼の作品の殆どは獄中で書かれたものであり、正当評価されることは無かったが、現在は高い評価を受けている。血で血を洗う革命期に生き、ギロチンの恐怖政治を目の当たりにしていたであろう彼は、その精神を「大いに歪められた」のかも知れぬ。

オリンパスファイバースコープ問題で、フト思った事。上からの拷問が胃カメラ検査で、下からのそれが大腸内視鏡検査。両者共に嫌なものだが、検診には付き物なので致し方なく「俎板の鯉」状態となる。胃カメラは口からではなく鼻から入れられると拷問ではなくなるとよく言われるが、私にはそれが通用しなかった。口からだろうが鼻からだろうが、両方とも拷問には変わりなし。そして下から肛門カンチョウの如く入れられるファイバースコープ内視鏡オリンパス製品のこれが、今回、海外で耐性菌による死者を出す元凶と見做され、問題となっている。私は、どちらかと言うと、下からの拷問には耐えられる。大腸がん検診で、何度かファイバースコープをケツの穴から突っ込まれ、シンドイ思いをして来た。だが、胃カメラに比べるとまだマシで、何とかやり過ごせる。その昔、尿路結石の激痛予防で使い出したボルタレン座薬を、今でも常備している。尿管結石は程無く治まり、現在は全く問題無いが、座薬は時折、風邪等の痛み止めに流用する事がある。言い方が変だが、下から攻めたり攻められたりするのは、然程、苦手意識は無い。だが、現在、世界的に問題視されようとしているファイバースコープ内視鏡挿入は、私も以前から疑念があった。完全な洗浄及び殺菌をされた内視鏡が、果して使用されているのかどうか。これは誰しも懸念する事ではある。日本ならば安心だとは言い切れない。完璧なるクリーンは不可能に近く、アリエナイであろう。話は変わるが、中世魔女狩り等、権力は上からの各種の拷問を用意し、その支配体制を盤石にしようと、「痛み」及び「痛みに伴う恐怖」創りに余念が無かった。フランス救国の聖少女ジャンヌ・ダークは、正しく、「下からの拷問」である火炙り刑で最期を遂げた。遠藤周作「沈黙」で描かれる隠れキリシタンへの拷問に、「蓑踊り」と言う火炙りが出て来るが、奉行井上も、幕藩体制権力維持の先兵として使われ、「上からの拷問」のお先棒を担がされたのではなかったか。目を背けたくなるような凄惨シーンが人目を惹く。天下の大泥棒「石川五右衛門」の処刑は、「釜茹で」刑だった。人間を熱湯でボイルし、茹でタコ状態にするのだ。この時の権力者は豊臣秀吉だった。殿上人となった秀吉に下からレジスタンスで抗しようとした石川五右衛門は、権力システムと言う上からの拷問を、釜茹で刑と言う下からの拷問で、惨殺されたのだった。石川五右衛門レジスタンスを大々的に連動させ、ブルジョアGなる市民が、「革命」の名のもとに、上からの拷問に抗するべくちゃぶ台返しの大どんでん返しに臨んだフランス革命は、民衆が下からの拷問「ギロチン」を使い、国王支配の絶対王政という上から拷問を打倒し、「飢えからの恐怖」から解放されようとしたものだった。下(民衆)からの拷問を受け、上からの拷問を操る国王が、上から落とされるギロチンにより、首を落とされてしまった。だが、そのギロチンを使い、下からの拷問を利用し体制を奪おうと、「恐怖(テロ)政治」を断行したロベスピエールは、正しく、その恐怖を具現化したギロチンで、「革命の露」と消されてしまったのは、逆説的であろう。そうした我々は、あの手この手で、拷問手法を編み出し、「痛み」を創り乍ら、その痛みから惹起する「恐怖」を、秩序維持を図る為の「抑止力」として、恐怖を操る視覚的拷問の創造に余念が無かった。今それが「核」となり、「痛みや痛みに付随する恐怖」を操る為の覇権システムに内包され、世の中が危ういバランスの中で移ろい続けている。低度化された戦争を随時引き起こし乍ら、高度化され全面核戦争を未然に抑止するため、「痛み」を絶えず創り続けなければならなくもなる。その過程で、「テロ戦」を始めとする諸種の小さな「痛み」が小刻みに起こされ、それが結果的にはシステム維持に繋がって行くのでもある。そうすると、以前、私が苦い思いを経験した「腰痛」も、私の心身をまがりなりにも維持しバランスシステム構築の為、必要悪としてあるものなのかも知れぬと思えて来たものだ。さて今度は、腰痛に代わる何か「小さな痛み」を準備し、私の心身維持システムバランスを図る為、その働きを始動しようとしているのだろうか。

 

 吉本隆明は、三島と同じ戦中戦後を通った世代の人間として、事件の衝撃を自身への問いとして次の様に語っている。三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。これは衝撃である。この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを〈コケ〉にみせるだけの迫力をもっている。この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの〈檄文〉や〈辞世〉の歌の下らなさ、政治的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写させるような所にあらわれている大向うむけの〈醒めた計算〉の仕方等々の奇妙なアマルガムが、衝撃に色彩をあたえている。そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。どこまで本気なのかね。つまり、わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。そしてこの答は一瞬おまえはなにをしてきたのか!〉と迫るだけの力をわたしに対してもっている。—吉本隆明「暫定的メモ」

 

「痛み」がどうも曲者と思い出した今日この頃、三島由紀夫の命日がやって来た。彼が自決した48年前の「痛み」は、果たして如何許りであっただろう。私は台所で洗い物をする際に、包丁の刃先を洗うたび、先端恐怖症に似た感覚に襲われる。それ程、刃物を見ると、何かしら「痛み」を想起して身体の神経細胞が過剰反応し、身構えるのだろう。こんな小心で軟弱極まりない私が、ミシマを論ずる資格など毛頭無いと自覚しているのだが、彼を無視する事の方が供養にならぬと思い、苦言を呈する事を御勘弁頂きたい。遠藤周作の「沈黙」で、棄教を「転ぶ」と蔑称し、拷問の「痛み」の「恐怖」に打ちのめされ、自身の守るべき至上の価値を放棄する事の意味を、私なりに解釈し、「痛み」の「恐怖」に敗北したと看做される「転ぶ」を吟味した。そして、時代は違うが、治安維持法で逮捕され、その後の拷問で赤狩りの犠牲となって惨殺された、社会主義者プロレタリア文学小林多喜二の最期は、正しく、遠藤の「沈黙」で描かれた、隠れキリシタンへの責め苦を、彷彿とさせるものではなかったかと、言及した。そして、どちらにせよ、「痛み」の「恐怖」を操る側に、最期まで屈服せず、「転ばぬ」精神性に尊さを見出すのが、我々「世間」の「常識」であり、それに反する行為は批判中傷の対象となる事への疑問を呈した。さて、ミシマはハラキリを通して、艱難辛苦に堪え忍んだ現代の「イエス」たらんと、「自作自演」の「痛み」と、その「痛み」から惹起される「恐怖」を「演出」し、根源的テーマを投げ掛けてしまったのではないだろうか。

 「痛み」は、様々な事を発見させてくれる。痛みに喘ぐと、考える余裕は無くなるが、そんな痛みも、究極技で、撃退可能なのではないか。それを感じた出来事が、実際にあったので、ここで紹介しておく。未だに忘れる事は出来ない、不思議な体感であった。それは、腰痛で診察を受けた際に、発生したある「トラブル」から始まった。私は、何度か通った事のある「整形外科」で、朝一番に赴き診察を受ける事になった。何時もの挨拶から始まり、先ずは、ベッドに横たわって、ドクターの触診が為された。その際、両足の足先に筆の毛で触診を行うのであるが、何か今迄記憶にあったその医者のイメージとは掛け離れた、強い口調で、感触を「ハッキリと即答しなさい」と諫められたのだった。私は面食らった。なかなか感触が的確な言葉で表現し得ぬものであり、暫く何と言っていいのか口篭る私に対し、ぶっきら棒と言うか、鋭い「物言い」で、正しく上から目線の対応だったのである。流石に、この私も、我慢の限界を超えてしまい、ベッドからスクッと起き上がり、受診拒否を態度表明したのである。一瞬何が起こったのだろうかと、周りに立って我々を見守っていた数人の女性看護師達は、完全に凍り付いてしまう程、緊張した空気感が漂った。医者と私は、椅子に腰掛け、十数分間の間、お互い強張った表情で、それぞれの言い分を主張し合い、平行線のまま診察も出来ず、部屋を後にした。待合室に戻り「怒り」が治まらない私は、再度、診察室にツカツカっと入り、また、お互いが角突き合わせる格好となった。ドクターは、私の目を睨み付ける様な顔付で、「私も一生懸命診察してるんですよ…だから…(<これは実際には言ってないが想像するに>こんな口調になったのなら申し訳ない)謝りますよ…」の様な苦言を呈し、あくまで謝ろうとする様な姿勢は見せなかった。私も待合室に4・5人の患者が待機していたので、「あの物言いは無いでしょ。不愉快極まりなく残念だ」とか、それ以上言い続ける事はせず、立ち去ったのである。その間、痛みは何時の間にか完全に消え去ってしまっていたのである。「怒り」が、「痛み」を一時的にでも忘れさせる効果を、発揮したのであった。だが、その日から暫くの間、別の心の痛みとして、私を苛めるのであった。「痛み」撃退法は、「怒り」では無く、何かに集中して囚われ続けていた「痛み」意識を瞬間的に忘れさせ、別の意識へと気を向けさせる事だったのだ。従って、それは、一つの執着した囚われ意識からの解放を意味し、要するに仏教で言われるところの煩悩(=執着心)を払拭する事なのだ。仏教では、「人生皆苦」と言い切り、本来、我々の生まれてから死ぬ迄、全ては「苦の集積」であると見做し、当たり前と心得よと諭す。だが、なかなかそんなに簡単には受け入れ難いのが、「四苦」であり、「八苦」なのである。「四苦八苦」する人生を当たり前と受け入れる為には、中・程度レベルの「痛み」を恒常的に体感し乍ら、生活する必要があるだろう。従って、「腰痛」や「歯痛」や「頭痛」を、適当なスパンで繰り返し経験し乍ら、人生を送り続けるのが賢明なのである。そして、適当にそれらの「痛み」を「薬」で散らし、「痛み」から逃避しつつ向き合い付き合って行くべきなのであろう。

 

【「痛み」がシステム作りの源泉】

 さて、痛みの集約される極限の状況は、「戦争」だろう。この戦争だけは私を含め、人類として最も避けなければならぬ所業である。それを避けようとしながらも、戦争を敢えて創り続けて来たのが人類史でもある。最大の痛みを伴いその苦痛から派生する「恐怖」を避けたいとする思いが、民主化を促進しても来た。国家間戦争を未然に防ぐシステム作りが、国際社会を形成する上で切っ掛けとなる「ドイツ三十年戦争」を通して展開して行く。17世紀前半期に、ヨーロッパ全土を覆う宗教戦争が引き起こされ、キリスト教の名のもとに大量虐殺が為されて行った。こうした状況に逸早く対応しようとした国が、当時、世界覇権を狙う英国のライバル国として急成長を遂げた、貿易立国のオランダだった。戦争で荒廃するヨーロッパでは、オランダの富は水泡に帰す恐れがあり、安定した秩序を取り戻させる為の枠組み作りに率先して取り掛かる。1648年に、ウェストファリア条約締結の際、世界初の国際会議が開かれる運びとなり、戦争を抑止する為のシステム作りが進捗して行った。同年、オランダのグロチウスは、正しく国際法の父と言われる所以となる『戦争と平和の法』で、戦時国際法の原型を世に示した。奇しくも彼のその著書名に、世の中の縮図が込められていたのだ。平和よりも戦争を先に出し、戦争のルールを弁えさせる為の法の必要性を優先し、強調している点だ。「殺し方」にもきちんとした枠組みを設け、ルールに則った戦争をする為の法が、立法化される端緒が作られたのだ。何と言うシビア―さであろうか。だが、こうしなければ、我々は「皆殺し=ホロコースト」へ邁進してしまい、誰も居なくなる世界が待ち構えている可能性が、十分に考えられるからだ。核戦争などを想起すれば分かる筈だ。それでは、儲けを目論もうとする輩達にとっても、好ましい事ではなくなるのであり、平和を導く為の民主化を進めるシステム創りが必要となる訳だ。従って、「痛み」は「恐怖」の対象であり、それをコントロールする為のシステムが、覇権を暗黙裡に合理化させるものともなるのだ。痛みから解放されたい願望は、それをさせないよう、絶えず痛みである恐怖をチラつかせ支配する側の思惑に絡めとられ、利用される。腰痛に苦しむ私も、そのシステムの中で翻弄されている一人だ。早速、先日、病衣巡りをし乍ら、病院の民主化の具にされているか弱き自分を、垣間見たのであった。医療関係者は医療保険点数を稼ごうと、痛みに顔を歪める患者達を、「カーモンベイビー…」の流行り歌の如く、手薬煉を引いて待ち構え、受付から始まり諸検査を経てドクターXの診断を仰ぎ、様々な投薬を処方されて、長時間、肉体的・精神的苦痛を伴い乍ら、医療界のメシの種とされる。我々の痛みがカネに姿を変え、その医療界を束ねる圧力団体の日本医師会からの政治献金となって、自民党政権を下支えするのである。そうしたシステム創りの一過程に於いて、天下り厚労省幹部と大学経営者並びに医学部学部長とを医療コンサルタント会社が仲介し、東京医科大学等の不正入試や公金の不正流用の一コマが造られて行く。その医療界の基盤となるのが、大学最高峰に君臨する東大医学部であり、それを目指す事を至上主義とする日本の偏差値教育が横たわる。

 

【七転び八起き】棄教を「転ぶ」と言う。転ぶことを拒否し、惨たらしく拷問処刑される。似た様な事が大日本帝国下でもあった。治安維持法で多くの「赤狩り」が為されたのがそれだ。プロレタリア文学の代表作『蟹工船』の作者、小林多喜二は、正しくキリスト教信仰がマルクス主義信仰に置き換えられただけの事である。小林も築地署で特高警察から、嘗て隠れキリシタンが受けた様な壮絶な拷問を受け、「転ぶ」事を拒み死を余儀なくされた。この場合、転ぶ事は、即ち「責め苦」を拒む事であり、社会主義者からの「転向」を意味する。さて、果たして責め苦を拒まず、逍遥として死を受け入れる事で、自分の弱さに負けず一時の苦痛に耐え忍び、魂を売り飛ばす事無く、永遠の勝利者となれるとでも言うのであろうか。その魂とは、一体全体、何なのだろうか。ソクラテスの言うところの「絶対的真理」なのか。彼も転ぶ事を拒み、プラトンら弟子達の逃亡の勧めを受け入れる事無く、毒杯を呷り自死を選択した。さて、弟子達からの逃亡の勧めを、「悪法も法なり」と一蹴し拒否したソクラテスは、果たして彼の守り通そうとした絶対的真理、即ちプシュケーに殉じたとでも言えるのであろうか。此処でも、「転ぶ」か「転ばない」かの、究極の選択に伴う葛藤があったのだろう。そして、ソクラテスは、転ぶ事を拒んだ。此処でもし、彼が転ぶ事を受け入れ、即ち弟子プラトンらと逃亡でもしていたら、どうなっていたであろう。その瞬間に、彼の価値は半減、否、皆無となったのであろうか。そして、違った形での永遠なる責め苦が、待ち構えていたとでも言うのであろうか。更には、あの戦争で、特攻隊で米艦に突っ込めず、生き永らえてしまった隊員は、特攻で散華した仲間に対し、生き続ける負い目から起こる責め苦に、未来永劫に渡り苛まれ続けなければならぬとでも言うのか。ソクラテスにしろ特攻隊員にしろ、彼等に共通する心理は、結局のところ「世間」体であり、自分以外の他者の目や訳の分からぬ常識と言われているモノサシへの同調なのではないか。何故なら、ソクラテスが言ったとされる(恐らく脚色された後付けであろうが)「悪法も法なり」の法とは、如何なる性格のものであるのか。彼が最重要視しプラトンら弟子達に教示した、永遠不変なる普遍的立法なるものが、果たして此の世に在り得るものなのか。弟子プラトンもその意味で、下らぬ当時のアテナの法に遵う事なかれと、師匠に逃亡を勧め様としたのではないか。所謂、此の世の法律は全て「時限的立法」なのである。それこそ、現憲法などは、様々なる不純なる如何わしい大国の思惑が交錯する中、錬金術師が制定した代物ではなかったか。特攻隊にしろ、彼等が純粋に真面目過ぎる程、護ろうとした当時(現在も含め)の「国」及び「国家」(国家機関に重きを置いた)なるものの「正体」は、果たしてどのようなものであった(ある)のか。こうしたバックグラウンドを考えていれば、簡単に「転ばず」カッコ良く死を選ぶ事より、苦渋に堪え世間(体)や得体の知れぬ「常識」なるものに抗い、「転ぶ」を「思慮深く」選択し「生き永らえる」事の方が、如何に困難であり真の「勝利者」と呼ぶに相応しい存在と、成り得るのではないだろうか。私は、遠藤の「沈黙」で、「転ばない」事でその後待ち構えている凄まじい拷問による死の責め苦を恐れ、「転ぶ」生き方を学んだ「沈黙」する似非キリシタンを肯定的に観る一人だ。従って、作中のキチジローは、私自身でもあるのだ。記憶というものは、余程のことでない限り残らないのが普通である。昨日のことは直ぐに忘れ去られてしまう。稀薄な内容では、記憶には留まらない。永く残り続けるものにはそれなりの価値や輝きがある。キリスト教は最大の組織を有しながら、二千年の永きにわたり我々の歴史・人生を左右してきた。その事実は何を意味するのか。これほど長期間、多くの者の支持及び関心を得たものが他にあるであろうか。その教祖はとうとう神に祭り上げられた。彼は「右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい」「汝の敵を愛しなさい」と教えた。何というマゾヒスティックな手法だろう。この手法を戦術とし、世論を味方につけ大英帝国との政治的駆け引きに勝利したのがガンジーであった。人類はこの二千年間イエスを担ぎ上げ、彼を楯にして自身の安心立命を図り、エゴを最大限に追求し続けてきた。その間、一体どれ程の思考と思案をめぐらしてきたのだろうか。21世紀の現在、もうそろそろイエスへの惚れ薬から覚醒してもよいのではないか。否、人類における恐怖との対峙の歴史が続く限り、第2・第3のイエスは登場するのかもしれぬ。

 自死という犠牲が、不朽の輝きとなり永遠に語り継がれるものとなる。三島もその幻想に取り憑かれてしまった一人だろう。三島には男と女の両性が混在している。ホモ=セクシャルを漂わせる三島であった。彼の本質は「性の倒錯」である。彼は陽明学中江藤樹)の「知行合一」の思想に傾倒していた。そして言葉を弄するだけの文化人になりかけた自分に辟易していた。また、言葉遊びに終始する似非文化人では、不朽の価値として残り得ないという危機意識を強くしていたと思われる。そこから抜けるには、「行動」しかない。しかも我々が一番に恐れる「死」を前提とした「行動」で。そうした「義挙」に我々は「勇」を感得し、魅了される。「赤穂浪士」はその典型であり、日本的なる精神の象徴でもあった。しかし、その「勇」が不自然にパフォーマンス(演出)されてしまうと、それは単なる「偽挙」に終わってしまう。三島につきまとう疑問符は、そこに収斂される。見(魅)せる「死」でなく、「見せない」死に方であったなら、より以上に世人は彼に魅せられたのではないか。要するに三島は「劣等感と優越感の相克に苛まれ続けたナルシスト」であり、「自己の存在価値を劇化し、叶わぬエロス世界への到達をタナトス世界への下降により昇華しようとした」人物だと思う。タナトス的在り方ではなく、エロス的有り様を追求するなかで、我々にもっと美学の真髄を示してほしかった。しかし、三島のなかに、自分や日本(人)の精神性を見出し、哀れに感じるのであり、それが彼を無視できず魅入ってしまう理由であり、少なくとも私の心のなかには残り続けているのは事実なのだ。三島的なるものは、映画人にも見受けられる。それは、ブルース=リーである。三島のタナトス的在り方を、ブルースは格闘技世界で模索していた。彼は日本の宮本武蔵に惹かれていたという。武蔵も、武士道世界のなか求道者として、理想と現実の狭間で苦悩していた。我々の人生は、概ね、理想と現実の狭間で相剋し煩悶する。理想と現実が乖離する場合、タナトス的在り方を求める度合いが強くなる。その道に真剣に立ち合う者ほど、その理想は高く、孤高の存在者となる。通常の者は、理想と現実の両者が妥協し、その距離が近接する。無限に続くハードルを乗り越えなければ、求道の先にある自分に見合う理想(自由世界)には到達できない。勢い求道過程でタナトス的在り方を見出し、ワープしようとするのではないか。ナルシズムも、そうしたなかで引き起こされる。

勝ち続けなければならない。ひょっとして、今のアメリカは剣豪武蔵と同じ心境ではないだろうか。恐怖を直視した武蔵も、武士道世界という「お化け屋敷」のなかで、数多くの仕掛けに翻弄され続けていただろう。無敗の武蔵は、負ける(=死ぬ)ことに対する異常な恐怖心につきまとわれていたはずである。9.11以降、要するに世界中が「お化け屋敷」となった。恐怖を司る側はそれに操られ翻弄する側の姿に快感を憶え、ついつい仕掛けはエスカレートしていくものだ。恐い者知らずが横行し、モラル=ハザードが進行している現代においては、恐怖は必要とされるものかもしれない。私は怖がりの性分で、お化けは苦手である。この苦手意識の克服策は、逆療法しかないのかもしれない。基本的には恐怖に浸る状況に身を曝せながら、恐怖を相対化させようとする森田療法的方式とでも言えるだろうか。しかし、「恐怖からの自由」が却って生死に対する感覚を鈍麻させ、新たな問題を突きつけることにもなる。死の恐怖の克服により、世界屈指の軍隊を作り出すことを可能にさせた大日本帝国などはどうだろう。感覚鈍麻のなかで、自身の実力を錯誤させ破滅への道を辿らせることにもなる例が、その他にも見出される。ベトナム戦争中、米軍が、兵士にビデオで残虐シーンを見せ続け、殺戮行為を容易にさせるトレーニングをしたことなどもその一つではないか。常勝アメリカもベトナムには結果的に敗北してしまい、その後遺症が尾を引いている。敗北恐怖症とでも言うか。恐怖の克服が、死をも恐れず暴走する輩を駆り立て、戦争の歴史を繰り返させることにもなってしまう。恐怖の克服は、核抑止をも上回るというシニカルな結果を招くことすらあるわけだ。

我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中に生きてはいない。刀に対するある種の恐怖を通し精神修養や修行がなされるとするならば、戦争という恐怖について考察することは、堕落した日常を戒めるためにも必要なことである。毎年のことながら、戦争体験者にとり8月は特別な意味を持つ時期だが、戦争体験のない我々も、「靖国」など戦争について考えさせられる。人間の最も嫌がることの一つは、責任を取ることだ。戦犯者は、日本(人)のやった、否、欧米帝国主義諸国のやった侵略戦争の罪を背負わされているのではないか。戦犯者は、キリスト教でいうと十字架に架けられ人類の原罪を背負わされ犠牲となったイエスに近い性格を有す存在ではないか。クリスチャンはイエスに後ろめたさを感じ、彼を拝み続ける。なぜ、戦犯者を靖国に合祀し、それを首相が公式参拝するのか。その根底に、キリスト教徒が抱くイエスへの感情と同様に、日本人の戦犯者に対する後ろめたさが隠されているからだ。要するに人間の一番嫌がる責任を負わされた存在は、後生大事に祀られ拝まれ続けるのだ。紀元前後に生きた一人の男は、とうとう神に祭り上げられてしまった。この二千年間、彼を担ぎ上げ彼を楯にして頼りながら、我々は自身の安心立命を図りエゴを最大に追求し続けてきたのだ。 

 特攻隊も自爆テロも、自己犠牲を通して何かのために殉じようとする。死を賭して何かを訴える。自殺行為もその一つではある。死は大きな恐怖であると同時に、大きな力、影響力を有す。そんな死に少なからず憧れを持ったりもする。これが、いわゆる死への衝動、タナトスである。堕落した惰性的な生、生への衝動、エロスが続く中で、それを諫めようとする死への衝動が呼び覚まされる。両者の闘争が文明史の興亡に少なからず影響を与えてきた。宗教から派生する科学は死を遠ざけようと、不自然な重力に反する文明を追求する。延命治療はその象徴であり、延命操作で不自然な生を贈り届け、死を遅らせる。 歴史は恐怖との対峙の展開である。恐怖を司る側とそれを余儀なく被る側が社会を形成し、その体制からの逃避を「自由」や「平等」という価値で模索してきた。恐怖の典型は「死」であり、死は即ち「未知」ということである。簡単に言うと「分からない」領域である。その領域をめぐり宗教が人類史と伴に並存し、「神」なる精神安定装置を創出し、不安定からの逃避の歴史を繰り返してきた。ショウペンハウエルも「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。老後に生き甲斐を無くした者は、老いを加速させるものである。目的喪失は「死に至る病」であり、逆に目的保持は生きようとする欲望を喚起し、それが強ければ強い程、生命に活力が注入される。プラトニズムにしても理想を高く掲げ、それを追求し続けるなかで生命力を輝かせようとするのであり、我々はその虜になり、文明史を形成してきた。そして、死に伴う精神的・肉体的苦痛から解放してくれる文明という名の快楽を追求してもきた。その最先端にアメリカニズムがあり、核抑止も付随する。「毒を毒で以て制す」ならぬ「恐怖を恐怖で以て制す」という構図が、ハンムラビの「目には目を」の応報主義法典から抜け出せず、相も変わらずDNAの如く受け継がれてきた。

 その恐怖の構図への挑戦を仕掛けたのがイエスであろう。その変態的姿勢を敢えてとり続けられるなかで、相手は自己矛盾に苛まれ自壊作用を来すのである。キリスト教古代ローマ帝国との関係において、それは如実に示された。近代以降においては、ガンジーの非暴力・無抵抗主義をバックにしたインドと大英帝国との関係が正しくそれである。現代では、憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、それをじっと我慢しているわけだ。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が現在のわが国である。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華されるようになったのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、結局ニーチェの指摘したルサンチマンを基盤としている。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑であるとか、ウォーラーステインの「世界システム(資本主義)論」を照合しつつ問題分析なり検証をしていかなければならないが、そうすることによりかえって「表象の世界」を合理化してしまうおそれがある。

 生き甲斐の完全に喪失した状況のなかでも生き続けるということの何という虚無感。昨今の此処彼処で嘯かれる「生きる力」なる造語は、平和惚けで空中浮遊する日本社会の風潮を象徴するものである。軽薄で脆弱な実感の得られない時代のなかで、空念仏「生きる力」の大合唱に繋がっているようでもある。特攻を余儀なくされ散り逝った海神の声に耳を傾け、死ぬこと以上に苦しい生の連続が待ち構える神経難病ALS患者の余りにも重厚なその一瞬をイメージすることから始めなければならない。さて、死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、宮本武蔵であるが、彼の真骨頂は、その強さというより、恐怖心との対決を終生の課題としたことではないだろうか。「葉隠れ」に「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」とあるが、彼もいつか自分が敗者となり、死ぬ時が来るであろうことを、絶えず予期していただろう。だが、その覚悟ができない場合、死にきれなくなることも起こり得る。そうすると、とにかく勝ち続けなければならない。ひょっとして、無敗の武蔵は、負ける(=死ぬ)ことに対する異常な恐怖心につきまとわれていたのかもしれぬ。

 我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。恐怖を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界というお化け屋敷のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も武士道における刀の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。それは、自衛隊の存在価値を考える場合である。

 自衛隊は刀という暴力装置であるが、戦後、その刀を決して抜かぬよう武士道を心掛けてきた。しかし、暴力世界という現実に翻弄され、武士道に押し潰されることから逃避しようと抜刀することで自身の弱さを誤魔化した。アメリカが仕掛ける「大義なき戦争」への逡巡は、我々が果たして「ラストサムライ」に成り得るかどうかの踏み絵であった。しかし、私自身かつて何度か体罰を行使した過去を持つ。そのほとんどは、自身の弱さの裏返しの感情的表明であった。見て見ぬふりのなあなあ関係が、かえってお互いの距離を隔てさせ、モラル低下に歯止めが効かなくなる場合がある。また放縦的関係性の継続が、質の悪い苛めに繋がったりする。感情的爆発でお互いの馴れ合い関係を瞬間的に壊した方が、言葉を駆使してその場凌ぎをするより後腐れがなくて良いこともある。「金八先生」も、昨今のモラル=ハザードに、その教師像を変容せざるを得ないのである。慇懃無頼な輩を野放しにする偽善的人権擁護論が後を絶たず、教育荒廃に拍車を掛ける。死刑廃止論を追い風に犯罪者が跋扈し、悪事に抑止力が全く機能しなくなりつつある様相が随所で展開中だ。そうした中、慇懃無頼な輩を野放しにしたモラル=ハザードの現代において、死刑廃止論は未だ大勢を占めない。

 M=ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかでも指摘されているように、プロテスタントの宗教心の根幹をなす勤勉・努力というエトスが、近代以降の資本主義社会の構築に多大な影響を与えてきたことは、よく言われるところである。さて、その努力なる言葉の背後にあるものは、一体何なのであろうか。努力を怠ると、忽ちその先には奈落が待ち構えている。そうした「共同幻想」を味わいたくないという恐怖を、我々は日々掻き立てられ日常生活を余儀なくされている。しかし、この努力の遠い先に待ち構えているものは、何であろうか。それは、努力により期せずして獲得された覇権主義核兵器保有論ではないだろうか。さて、奈落の底は、我々にとって苦痛となり、その逆の覇権や核保有は、幸福となるのであろうか。

 人間は生物界の数多の種のなかで自然(神秘)に盲従し続けられず、その摂理を解明し盲従からの離脱を絶えず試みながら、錯誤する動物である。それは、あたかも神経衰弱者がその苦痛から逃れようと、悩みの原因を模索し苦痛(恐怖)を相対化しながら気休めを図るパターンのようである。自然(神秘)は人間にとっての試金石であり、人類史を形成する源泉でもある。人類は中世まで自然に則ってその支配下に甘んじてきたが、理性という有為を身に付け出す近世以降、被支配的立場からの脱却を謀り続けその則を越えてしまい、そして今、錯誤しようとしている。ところで人類史は以下のように人間のライフ=サイクルと比較することができるだろう。一般的には人間は誕生してから乳幼児期頃まで母親の従属下に置かれるが、教育を通して知恵を身に付け出す児童期以降、従属的立場から自立しようとし続ける。そのピークが青年期だが、人類史においては自然を人間の支配下に置こうと試み出す近代に相当する。人類史も人間のライフサイクルもこの時期が大きなターニングポイントになる。人類は近代、科学を駆使し自然(物質的外界)の改造に努め、人間は青年期、教育により自己(精神的内界)の探求に勤しみながら、神秘的世界に近付きその正体を究明しコントロールしようとする。両者ともにそれ以前は自然(神秘)の脅威に屈伏し畏れおののきつつも、従順なるがゆえの生き易さがあり、それ以降は被支配側から支配側に転換し恐怖の克服が図られるが、独立独歩なるが故の生き難さがある。このように、我々はいかなる時期においても不安定要因に苛れる存在なのであり、そのなかで絶えず安定化を求め続ける存在でもある。そのための手段として、宗教も位置付けられよう。安定化を図るためには絶対的依存物を創出する必要があり、それが真理(神)として求められるようになる。その神(真理)を宗教は解くなかで信仰をも説いていくのであるが、信仰を通して垂直的関係が強いられ、絶対的帰依、恭順を余儀なくしていくのである。なぜなら、単なる信じるという水平的形態ではより強い安定化が求められないからである。従って宗教は必然的にヒエラルキーを構築するのであって、人類史を宗教との関わりの歴史とみるならば、それはひいてはこのヒエラルキーを人間社会の隅々に及ぼしていく過程とも言えるだろう。ヨーロッパ・キリスト教世界は、このヒエラルキーを教会を母体として国家にまで擬制していったのである。そしてヨーロッパ社会を模範に近代化してきた日本及び世界の国々は、このヒエラルキーを社会の原型としながらも、そのなかにおける支配体制を絶えず問い続け脱却しようとしてきたのである。 古代人にとり自然(神秘)は不可思議で、その脅威から沸き起こる畏怖は計り知れぬものがあっただろう。宗教の全盛期であった中・近世は、自然(神秘)の脅威への盲従から離脱を試み出そうとする時代だが、その切っ掛けをつくったのは取りも直さず宗教家であった。先述したように、宗教は自然(神秘)の脅威が惹起させる恐怖心を克服するよう、その神秘を垣間見せながら未知が醸し出す恐怖による苦痛を相対化させようとする。そのため、宗教家は神(真理)を説くなかで自然(神秘)の摂理を解こうとし、科学的視野の萌芽が形成されていく。また、神秘(自然)の摂理を解くことは、同時に知を司ることでもあり、宗教家は知の占有者として尊敬される権威的存在となるのである。しかし、宗教改革により万人祭司主義がとられ、知の占有及び権威体制が崩れるとともに、神秘に対する捉え方も変容せざるを得なくなる。そして、近・現代人はそのベールを少しずつ剥がしながら畏怖を忘れかけつつあるようだ。 死も我々人類にとり脅威の的であり続けてきた。死は未知への恐怖を醸し出すものでもある。人類史は、この死の恐怖との対峙の過程とも言えるだろう。そして人間は、宗教のなかで未知なる死を黄泉の国への扉と解し、未知への恐怖心を克服する方便を模索してきた。また人間は、死の恐怖を克服するもう一つの工夫を編み出してもきた。すなわち文明の歴史を構築するうえで不可欠の労働である。労働は人間生活に必要不可欠の物質的糧を与えるだけでなく、その日常性(=ケ)は死の煩悶を紛らわせるものでもあり、それが精神的安定を図るのに果たした役割は少なくないだろう。また、この日常性の継続は絶えず死の恐怖を強迫観念として潜在化させるものともなる。こうして非日常(=ハレ)としての安息は、この強迫観念を顕在させそれを相対化させる役割を担わされてきた。

 私はこの数十年間、アメリカニズムを懐疑し、その源泉であるヨーロッパ近代を問い続けている。アメリカニズムとは、アメリカ的思考及び行動様式であるが、その根幹にはアメリカの母体であるイギリスの思想が、特にベーコン以降の英国経験論やその系譜にある功利主義などが影響している。そしてそれら英国思想の影響下にあるアメリカの哲学、すなわちプラグマティズムアメリカ二ズムの核をなしている。更にプラグマティズム相対主義を唱道するものであり、価値相対主義の延長線上には、様々な領域におけるボーダーレス化が待ち構えている。例えば男性の女性化・女性の男性化という性のボーダーレス化もそのうちの一つとして指摘される。こうしてあらゆるジャンルで差異を淘汰していこうとする傾向が、今後益々進行していくであろう。多用される「チェインジ」という言葉は、価値相対主義的動向を表象する代名詞であると同時に、アメリカ一極支配に迎合するべく、日本のシステム及び日本人を変えるために用意された造語に思えてならないのである。

ニーチェは『善悪の彼岸』の中で、当時、キリスト教を母体としたヨーロッパ近代を懐疑しそれに警鐘を鳴らした。そのためには、「いじめ」による孤立無援をも覚悟で我が侭を徹さねばならず、そしてそれは一筋縄ではいかぬ最終的な修業であるとも言わしめたのであろう。アメリカ一極支配が継続するなかで、彼の言葉は示唆に富むものがあるのではないか。さりとて、真のエゴイストたらんと金権力に塗れ、最終的な修業を踏み間違え、「普通の国」を目指しながら「権力への意志」を滾らせ、自滅への道に至らぬよう気を付けなければならないことは勿論の事である。ソ連邦の崩壊後、核開発に関わる技術や頭脳がロシアから世界に流出拡散し、核管理体制の杜撰さが大きな問題になっている。そんな折、北朝鮮が国際的孤立化を辿るなかで、最後の切り札として核保有を実現した現在、極東における日本の位置付けが微妙に変化している。もし、対北朝鮮ないし中国を考慮した米国の戦略上、日本にいつでも核開発(保有)へ転用がきく原子力対策が暗黙裏に検討されているのだとすれば、これは日米双方にとり諸刃の剣でもある。日本に咬ませ犬としての役割を担わせようとするなかで、日本自体が脅威の的になりかねないからだ。特に日米安保の見直しあるいは不要論までが実際に取り沙汰されている昨今、将来、核武装化を踏まえた上でのプルトニウム政策があるのではないか、厳重に監視していく必要がある。

果して、主人公の「痛み」は永遠に続くのであろうか

チッポ家な日記

【フランスパリの高校生やるの~】フランスパリの暴動は未だに収束のめどが立たぬ程、過激化している。そして、高校生までデモに加わり逮捕者も出る始末。ホントにフランスパリは元気やね~。然るべきところに自分達の不平・不満を、ちゃんとブツケとるがな。それに比し、日本の若者はドナイシトンかいな~。昨日は、不登校傾向の者がエライ大勢いるなんていう、何とも情けないニュースが報じられてたが、何しとんねん。家に引き籠って一日中、部屋の中でパソコンゲームしたりして、下らん事に時間を潰しとんやろ~。そんなんじゃ、アカンやろ~。夜中に外へ出て、密かに体鍛える方がまだマシやんか。学校や社会に文句があるんやったら、然るべき手段に訴えて、ちょっとはデモンストレーションでもせんと、何にも変わらへんで~。パソコンがあったら何か出来るやろが。例えば、文科相にメール送るなりして、直訴してみんかい。オラはその昔、小泉純一郎(当時の首相)に米国の仕掛けたイラク戦争へ追従した件に関し、抗議メール送ったで~。本人には届いてないやろけど、遣る事はやってるよ。安倍晋三にも何かでメールしとるわ。こんな感じで、今の時代やったら、パソコンやスマホ一つあれば、それをツールに何でも出来るで~。自己満足で終わったとしても、何にもせんよりはマシやないかいな。新聞投稿もあるで~。ワシは昨年から今年にかけて、地元新聞を中心に結構投稿したよ。加計問題や原発再稼働問題を中心に、どんどん発信したぜ。基本はピンポイントで抗議すべきやね~。あくまでも民主的に訴えるのは当然で、暴力的手段に訴えるのはアカンよ。捕まるの覚悟でやるんなら別やが、そんな事になったらタダでは済まんわいな~。自分だけじゃなく、他人にも迷惑掛けてしまうし、もの凄いロスに繋がってしまうわな。だから、即効性が無く効果的で無い手段でも、小さい事を繰り返し巻き返し遣り続けていたら、少しずつ扉が開かれて行くと思うよ。不登校や引き籠り続けて、一生働きもせず何にも社会との繋がり持たずに、親や誰かのスネ齧り捲って老いさらばえるのでは、余りにも哀し過ぎやないかいな~。オラのブログでも読んで、少しは腹立てたらエエと思うで~。「腹が立つ」事が、先ず一番大事な事なんや~。これが全ての原点になるんよ~

 

【( ^ω^)おっノーベル】ノーベル賞授賞式に、最初から最後まで和服の紋付き袴姿で出席した本庶さんに、アッパレを挙げたい。私はノーベル賞自体にはその在り方や選考方法などに関し、普段からあまり好印象は持ち得ない。ある意味、「知のオリンピック」みたいなものだろうが、純然たる選抜ではない。多分に妬み僻み嫉みのヤッカミ根性がその様な穿った見方をさせるのであろうが、肉体界の王者決定戦に対し、精神界のそれを競わせるノーベル賞大会に、矢張り疑念が付き纏う。両者共に欧米世界の国々が、圧倒的にその強さを見せ付けて来た事実が、その歴史であろう。従って、政治的・経済的に劣位な発展途上地域の国々に、その王者決定戦に勝ち目はないのだ。名乗りすら出来ぬのが現実だろう。「衣食足りて礼節を知る」の諺通り、衣食が慢性的に不足し、その日暮らしに追われ食うに食えない極貧生活を余儀無くされている国では、ノーベル賞やオリンピックなどで活躍しようなどと云う、呑気で気ままな生活が送れるほんの一握りの贅沢なお金持ちしか出来そうにない暇潰し大会などに、参加する事すら可能ではないのだ。その呑気で気ままな贅沢三昧の生活者が多数存在する国、アメリカが、肉体・精神両世界の百獣の王に君臨し続ける事は、至極当然の事であり、そうした事実を確認する作業が繰り返されているに過ぎないのだ。こうしたピラミッド構造を踏まえて、我々は一喜一憂しなければならない。だが、「それを言っちゃあ、御終いよ」の寅さん口調に圧されて、ピラミッドシステムを容認し乍ら、日本人受賞者にガンバレ~のエールを送るのだ。だが、日本はピラミッドの上層階に近代以降、居座り始め、今では常連組に属している。だから、本来なら近隣の東南アジアなどの、下層階に属した国々にエールを送るべきなのだが、如何せん、この歴史的に堅牢に築かれたピラミッドシステムは、そう簡単には崩す事は百%に近い確率で不可能なのだ。だから、偶に起こる奇跡的快挙を待つしかないのだが、そんな偶発的事象は殆ど皆無に近い。さて、再度話を蒸し返して、ピラミッドシステムに目を向けよう。本庶さんは京都大学で研究活動をされていた。自然科学系のノーベル賞受賞者は、日本人なら「京都閥」が多数派である。京都大学の理学部や医学部などでの研究者が、ノーベル賞の誉に与れる確率が非常に高い。湯川秀樹朝永振一郎がその先鞭を切った。最近では名古屋大学などもノーベル賞受賞者を出したりしたが、日本の大学では京大・東大がノーベル賞に最も近い双璧だろう。この大学に入る為の偏差値教育が、此の国の教育の根幹にあるのは周知の事実で、それをより強固で不動なものへ形成していく営みが、日本社会の隅々に様々なる形に姿を変えて展開されているのではないだろうか。そのネットワークにぶら下がろうと悪戦苦闘し、日本人一人ひとりが「知のネットワーク」参加者としてバーコード化され、先ず第一段階として品評されるかされないかの二大別区分が、大学入試のセンター試験で実行される。さて、五十年前に起きた三億円事件は、高度経済成長下の日本で、その後に於ける拝金主義社会の行く末を暗に仄めかす、極めてエポックメーキングな出来事であり、「知のネットワーク」に反逆する、正しく「結構変態仮面」張りの戯偽義挙となったのではないか。勤勉努力を逆撫でした詐欺的手法で、金を効率良く獲得出来る手口をデモンストレーションし、経済動物として飼い慣らされ、偏差値教育に絡めとられコントロール支配されていく連中を、嘲笑うかの如き反逆行為となった。

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【インドの余韻~「ナマステ」は全てに通ず】インドから帰って2か月が経とうとしている。あの時の衝撃は今も脳裏に焼き付き、振り返る事が多い。何とも言えぬ、今迄、体験する事の無かった異空間が、其処には歴然とあった。私の生っチョロい人生観や価値観は、全く通用しないだろう、正しく「カオス」そのものが広がっていた。目の前に、牛・馬・犬・(猫と象は意外にも私が行動したエリア内で見掛けた事は無かった)バイク・車(日本車は小回りが利くスズキが多く見られた)・人人人が、人畜一体となり、自然調和の如く、お互い棲み分け宜しく、大自然の営みが滔々と、粛々と展開されていたのだ。ガンジス支流の河川敷には、数多くの沐浴場があり、人々が水辺で祈りを捧げる光景を、何度となく目にした。先日まで、日本の片隅で、パソコンを前に悶々と日々を遣り過ごしていた自分の存在意義を、改めて問い直す機会となった。インドの人々の眼差しには、優しさの中にも、その日の糧を求める厳しく鋭い光で、観光見物で通りすがる呑気な日本人として映っているように思われた。均質で上質な日本人及び日本社会の、何と言う「贅沢三昧」で「横着この上ない」、清潔感の充満した幸福空間は、此処では異端空間とも見做される程、特異な世界である事が実感され、我々の目指そうとしている世の中が、果たして真っ当な行末であるのだろうかと、大いなる疑念を抱かされる旅となった。 私はこれ迄、中国へは何度も足を運び、日本とは違うそのスケールの大きさに、度肝を抜かれた。東京の何倍もの大きさを感じさせる北京や上海に、日本の小ささをまざまざと見せ付けられ、中国人の日本人に対する見方や考え方の基底に、こうした生活空間スケールの大小が、多分に影響しているのだと、思い知らされた。そうした中国とも、また違う何か「得体の知れぬ」「不気味さ」を感じさせるインドだった。だが、この両国には共鳴性も見出し得る。インドは仏教発祥の地であるが、紀元前5世紀以降、仏教の「輪廻」思想を中心とする教えが、アジア各所に伝播し、中国の古代儒教精神に少なからず影響を与えて来たであろう事は、容易に推察出来る。その後インドは、仏教がヒンドゥーに取って代られて、その釈迦の精神は中国で花開く事となる。輪廻思想は儒教と対抗的位置付けを示す、老荘思想道家へ、正しく「上善如水」へと注ぎ込まれて行った。水の姿は実に人の道に近い。この老子の考えは、インドの旅に於いて再考する事となる。至る所、人畜一体の光景を目の当たりにし、人と他の動物達が争う事無く、お互いの存在を認め合い、信頼関係が自然と出来上がっていたのである。特に、愛犬家の私が注目したのは、犬の佇まいと、その犬の眼差しであった。日本では考えられぬ「放し飼い」状態が、普通であったのだ。鎖やリードで繋がれた犬を、殆ど見付ける事は出来なかった。道路の呂畑にのんびりと横たわり、人はそうした犬に、何の危害を加える様な素振りすらせず、犬もそんな人間達に対し威嚇する必要性も無く、無駄吠えをしたりした犬を見受ける事は皆無だった。また、危害を加えられない生活環境が、犬の瞳に如実に反映されていたのである。どの犬も、本当に「優しい目」をして、ゆったりとした立ち居振る舞いだったのだ。日本だったら、直ぐに通報され然るべき措置がとられる筈だと、何度も複雑な思いに駆られたものだ。そして、中国にも思いが及んだ。中国では、犬にとっては其処は「地獄の修羅場」と化す。犬を食用とする彼の国では、露店で丸焼きの犬が吊るされていたりするのは、当たり前の光景となる。そんな国では、自ずと犬の目付きも変わらざるを得ないだろう。優しい目など、在り得ない事なのだ。潰されたくないのなら、犬は人間を攻撃対象としてしか見ず、人を見れば直ぐ一目散に逃げ去るか、威嚇行動をとり牙をむき吠え続け、人間に齧り付くかのどちらかだろう。そんな中国とは一転して、犬にとりインドは正しく、「ガンダーラ」そのものなのだ。

2018-12-11

「覇権システム神経症」って!?~「システム」と云う名の「お化け屋敷」

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【「痛み」を感じないと🙅よダメダメ!】「このハゲ~!」って、何処かの女代議士が自分の秘書に禿呼ばわりして問題になり、結局、政治生命絶たれる事にナッチャッタよね。それ程、ハゲはデリケートなものなのだろうね。さて、それはそうと、先程のナマハゲは、何処からそんな差別的用語と化したのだろう。今は昔のお噺だが、威勢の良かった某女代議士が「このハゲ~!」と秘書に対しメチャクチャ罵倒し話題となったが、たら、誰だって禿になる位、大きな精神的ダメージを受ける事だろう。世界文化遺産に登録された「ナマハゲ」だって、これ迄、どれだけ禿呼ばわりされて来たことか。ハゲ呼ばわりされるナマハゲの気持ちになって、少しは「他人の痛み」を我が身の事としてじっくり考えようではないか。さて、この私は以前、腰痛を患い、「痛み」に拘り続けていたのだが、最近、腰回りの痛みから少しずつ解放されている。痛み(苦)からの解放は、「他人への思い遣り」を希薄にさせる事ともなる。「他人の痛みは、自分も同様に踏まれてみないと分からない」もので、「自分が踏まれてみて初めて、その真の痛みの意味を共感出来る」ものである。だから、人は概ね、他人の抱える苦しみや問題に対し、無関心であり、無頓着なのだ。世間では様々なトラブルで、大怪我や最悪の場合、死に至る事だって枚挙に暇が無いが、それらを我が事として受け留め、その痛みに寄り添うなんて事は不可能に近い。ましてや、よその遠い国に於ける戦争で、人の命が軽んぜられ、日常的に悲惨な出来事がニュースで報道されても、その悲痛な叫びは殆ど心に響かないのが現実だろう。だが、一端、そうした他人事だった筈の出来事が、いざ自分自身に降りかかってくれば、それまでの対応が豹変してしまうのは想像に難くない。他人の痛みが、自分自身に跳ね返って来た時、初めて、その痛みが理解され、その対応行動が始動し出すのだ。そして、その痛みが強ければ強い程、その痛みを自身に与えて来た対象に、強い「怒り」となって発露し、「行動」へと駆り立てられる事となる。究極の行動が「戦争」だ。さて、此処で私が取り上げたいテーマは、「人の痛み」は「他人の痛み」を理解し得る者に、真に理解され得ると云うなどの、「人」や「他人」ではなく「人間以外の他生物の痛み」についてなのである。「人権論」者は、一般に「人間の権利」をテーマにして、様々な論考を展開する。世間から「人権活動家」であるとか、「人権擁護論者」と見做されて思しき人々は、案外、人間以外の他生物に対してはシビアな考え方をとる者が多い。「灯台下暗し」で、他人に愛想振り撒く者ほど、身近な家族には冷たい素振りをしていたりするのと同様で、人以外の生き物には全く目もくれず、虐待や人の温もりを感じさせぬ行動を、何食わぬ顔で取り続けている者が、人権論者の中にも居るだろう。

【「あんま」は差別用語!?「ザリガニ(イザリガニ)」も差別用語!?「言葉狩り」で「表現の自由」侵害か!?】杖とサングラスを身に付けとぼとぼ歩く人の姿を見れば、それは視覚障害者の「盲人」であるだろうなと分かる。さて、嘗ては視覚障害者の盲人を、「あんま」という言葉を使って呼ぶ場合もあった。だが、今では「あんま」という言葉自体が、放送禁止用語扱いされ差別用語と見做される。自宅などで「按摩」をしていても、看板広告には「マッサージ」と表記する様になった。だが、私は「腰に按摩を掛ける」などと、未だに口走っている。言葉使いには気を付けなければと自戒するが、長年培われて来た言語文化の習慣は、一朝一夕には改まらないのも実情である。盲人も何か引っ掛かるが、ギリギリセーフか。だか、「盲」一字となるとアウトギリギリになりそうだ。その一字にしても、盲をモウと呼べば特段問題ではないが、「メクラ」なんて言おうものなら、大問題となる。更には、障害者も「障がい者」と表記する事が多くなり、「害」という字を差別的イメージとして捉える心象傾向が窺える。そうすると、害と云う一字は、我々から差別的取り扱いをされている事になるのか。害は兎角「災い」を意味し、そうしたイメージがこの一字を「忌避する行動」へと繋がる。忌避する行動とは、この場合、使用しないと云う意味で、それはこの一字を目の前から「遠ざける」と云う事であり、最終的には「消し去る」事をも視野に入れた、何とも意味深な対応なのだろう。「害を及ぼす」や「災いを招く」など、行き着く先には人の「死」が待ち構えていると云う、負のイメージを伴う表現は、出来得る限り、近付かない、近付けない、よって「使わない」方が得策だと考えるからであろう。究極は「触らぬ神に祟り無し」の諺に収斂される訳だ。だが、この諺自体も多分に差別的色合いが含まれた表現であるとされ、昨今は使用を躊躇う傾向がある。今夏の西日本豪雨災害も、何時の日か「豪雨災がい」や「豪雨さいがい」と、ひらがな表記されて行く事になるのだろうか。さて、「ザリガニ」は果たして、何処に問題があると云うのだろうか。読者諸氏、お分かりだろうか。ヒントは( )内の別名に起因する。ザリガニの語源は、「いざり蟹」の転訛とする説(「いざる」は「膝や尻を地につけたまま進む」こと)と、「しさり蟹」(しざり蟹)の転訛とする説(「しさる」「しざる」は後退り、後退行すること)とがある。ほかに「砂礫質に棲むことから“砂利蟹”」であるとか、体内で生成される白色結石から仏舎利を連想して“舎利蟹”と呼んだというような説もあるが、前者についていえば、ニホンザリガニはとくに砂礫質の場所を好んで棲むわけではない。地方によってはエビガニと呼ぶ。身近に生息しているためザリ、ザリンコ、マッカチンなど多くの俗称がある。これ迄、ほんの一事例を挙げ、微妙でデリケートな言葉への対応を検討して来たが、表現を変えたり表記し直したりする事は、何を意味しているのだろうか。先ずは、その表現や表記により、著しい心的被害を被った場合、人権侵害で訴えられたり、糾弾されたりする恐れがあると云う事への恐怖反応が起こるからだ。一つ間違えば、裁判沙汰になり、世間からの厳しいバッシングや風評被害が待ち受け、それは当人にとり、社会的存立を著しく危うくさせる大問題であり、大いなる脅威でもある。だから、深刻に受け止め、過剰過ぎる程の対応に突き進んでしまうのだ。誰かが言い始めると、忽ち燎原の火の如く全土を覆い尽くす程のスピードで、差別用語、或いは差別的表現・表記だと揶揄され、一端、差別性のある表現・表記だとのレッテテルを張られたものは、忽ち世の中から淘汰されて行くのである。嘗て、筒井康隆氏の『無人警察』で、表現上、「てんかん」の取り扱いが差別的だと抗議団体からの誹りを受け、「表現の自由」が著しく歪められると、「断筆宣言」で徹底抗戦の構えを示したのは、記憶に懐かしい。

【「ナマハゲ~」の「痛み」を感じないと🙅よダメダメ!】ナマハゲが世界的に認知される。さて、ナマハゲって、一体、どんな禿なんだろう。「このハゲ~!」って、何処かの女代議士が自分の秘書に禿呼ばわりして問題になり、結局、政治生命絶たれる事にナッチャッタよね。それ程、ハゲはデリケートなものなのだろうね。さて、それはそうと、先程のナマハゲは、何処からそんな差別的用語と化したのだろう。と思いきや、実はその語源には差別的意味合いは見出せない。冬に囲炉裏(いろり)にあたっていると手足に「ナモミ」 「アマ」と呼ばれる低温火傷(温熱性紅斑)ができることがある。“それを剥いで”怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与えるという意味での「ナモミ剥ぎ」から「なまはげ」 「アマハゲ」 「アマメハギ」 「ナモミハギ」などと呼ばれるようになった。従ってナマに「生」の字を当て「生剥」とするのは誤りであり、頭髪の無い人へのバカにした呼称である「禿げ頭」の「禿」でも無いのである。なまはげの仮面の形は地域によって様々異なるが、赤面と青面の1対に定型化もされており、この場合は赤面がジジナマハゲ、青面がババナマハゲと呼ばれる。

【ナマハゲは道徳教育代行者】私が幼かった頃、ナマハゲは私にとり此の世でコワイもののベストテンには入っていた様に記憶する。それ程、本当にこんなのが居るものと信じて疑わなかったのだ。兎に角、怖かった。今は遠い昔の話だ。今でも東北北部地方では、子供達の前に現れ、子供達をビビらせているのだろう。そのナマハゲが、世界に認知された形となったのだ。私は、怖がり性分で、今もその性格は不変だ。臆病者と言うか、小心者大将と言っても過言ではない。そうした性分が、私の終生のテーマ「恐怖とは」に繋がっているのだろう。私は、この恐怖が曲者だと、常日頃から思い続けている。私は、恐怖は必要悪と捉えている。「恐さ」は、あらゆる営みに関わる源泉であり、コレなくしては、我々の生命維持は図られないだろう。簡単な話をすれば、俗な例として、「何故、生きるのか」と云う問いに対する答えが、それに該当するであろう。それは、「死ぬのが怖いから」だ。極、シンプルな答えで、核心を突いている。この答えは、単純明快過ぎて子供扱いされるが、これが一番、重要で大切な鍵を握っている。逆に考えれば分かる事だが、「死ぬのが怖くなければ、何でもやれてしまう」となり、これは良い解釈なら「死んだ気になれば、出来ない事はない」と、挫折し掛けた際の励ましの言葉となる。だが、ここで取り上げるべきものは、そうした捉え方ではなく、「恐さを知らぬが故に、抑止力が働かなくなり、不善行為に至ってしまう」と云う解釈の方だ。「恐くなければ、何でもやらかし、殺人行為も抵抗なくやれる」となってしまう。それが、最悪の場合、「戦争なんて怖くないから、核を始めとする大量殺戮兵器を使用して、全面核戦争も辞さない」なんて事にも成り兼ねない。だから、「核抑止論」なる恐怖による核のシーソーゲームの背景理論が誕生し、それが実しやかに通用し、戦争が未然に防がれている等と、核保持が正当化されるようになる。再度、身近な話に戻して、怖さが全ての営みの元になる例を季節行事で示せば、更に理解し易いだろう。この時期、中学や高校では期末考査の頃だ。生徒に「何故、勉強するのか」と問えばどうだろう。それは、普通、「いい点数が取れるように勉強する」なのだろうが、その先には「悪い点数を取るのが怖いから」となるのではないか。悪い点数は悪い成績となり、自分の評価が下げられ、その積み重ねの先には、思わしくない進路選択が待ち構えている。そうした先々の予測も含め、勉強しなければ悪い出来事が待っているとする「恐怖心」が先立ち、期末考査に向けた勉強へと生徒達を駆り立てるのではないか。この様に、怖さが必要悪として存在し、その恐怖心が曲がりなりにも自身の生活保障へと導く鍵なのである。「ナマハゲ」で子供時代に恐怖心を体感させられるのは、ナマハゲが子供達に「悪さする者イネ~か」とその鬼の強面で叫び乍ら、子供達に不善行為の禁止を幼心に刷り込ませている、道徳的代行行為としてあるからなのだ。「三つ子の魂百までも」の金言通り、小さい子供時代に不善行為に対する怖さを、ナマハゲがその象徴となって道徳教育の代替的役割を担っているのである。

【瀬尾孫左衛門の「悲痛」&「大日本帝国」江上少尉最期の意味深な「辞世絶叫」】討ち入り前、チクデンした瀬尾孫左衛門も、遠藤周作「沈黙」で描かれた「キチジロー」と、ほぼ同様な「痛み」を抱き続け、艱難辛苦の人生を送り続けた人物ではなかっただろうか。例え、この映画の様に大石の遺志を受け継ぎ、それを一身に「心の支え」として生きていたとしても、生き続ける事は、死ぬ事より辛い「責め苦」として、彼の魂に絶えず蔑みの雷鳴の如く、鳴り響き続けていたのではなかっただろうか。
 私は、赤穂浪士が、イエスを信じ殉教して逝った隠れキリシタン達や、特攻で散華して逝った隊員と同様の立場であって、状況は違えど本質的には変わらぬ心性傾向を有していたのではないかと、考えるのである。それは、逃げようのない閉鎖的精神空間領域に追い込まれた立場であり、その逃避行動不可能な「究極の極限」状況からの精神的解脱を、「大義」と云う「得体の知れぬ共同幻想」を持ち出して掲げ、それに依存して適応規制を図り、やり過ごそうとした心性傾向である。
 ミシマも、その「大義」なるものを、「天皇」やその存在を含む「天皇制」に見出し、割腹殉死を遂げようとしたのではないか。だが、ミシマには物理的空間領域に於いては、自由な逃亡が可能な立場には居たのだが、彼が考え彼が構想する精神的レジーム領域に於いては、現実の日本社会では何処にも見出せない程に逃げ場はなく、彼なりの究極の極限状態に、自らを追い込んでいたのだろう。
 我々一人ひとりも、大なり小なりミシマ的存在であり、自分なりに何等かの「大義」を用意し、日常生活を遣り過ごしているのではないか。その大義が、一般的定義に於ける「公的なるもの」への帰依や帰属意識を意味しなくても、個人レベルでの言うなれば「小義」を引っ張り出して、生き甲斐としているのではないだろうか。だが、そうしたプライベートな個人にしか通用しない「小義」では、究極の極限状況に追い込まれ、どうにもこうにもならなくなった際、脆弱なものでしかないと思い知るのだろう。そうした心理状態では、死に際を「見苦しく」してしまうばかりになるので、そこで安全弁としての「大義」を持ち出し、曲がりなりにも「潔い」「死に際」を演出せざるを得なくなるのではないか。それを見事に描いたものが、映画「大日本帝国」の中で、見付け出す事が出来る。それは、3人の主人公の一人、「江上少尉」であり、彼の生き様と死に様であった。私は、篠田三郎演ずる江上に、これ迄、何度、自分を重ね合わせて来た事だろう。戦争犯罪のカドで留置されたフィリピン刑務所内で、江上の恋人であった夏目雅子演ずる「京子」が、江上との別れ際で涙に咽び江上に訴え乍ら言い放った最後の言葉が、私の思いを代弁してくれているのだ。だが、それを打ち消すような、それを遥かに凌駕する程のパワーを抱いた江上少尉の恋人京子への「心の叫び」を発露する「絶叫」に感動し、思わず涙した私だった。そして、いよいよ、最後の処刑の瞬間、江上の発した辞世の絶叫が、全てを象徴的に物語る「警句」として、私の心に反響し続けているのだ。そして、これら殆ど全ての営みに神の如く鎮座し、我々を操り続ける<a href="https://blog.goo.ne.jp/noborou55/e/9abfffe9369d77d67b9577d88fb5ec17"><font size="5">覇権システム</font></a>があり、その<a href="https://www.google.co.jp/search?q=21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%99%AE%E9%81%8D%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%80%8D:+%E3%80%8C%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AA%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%80%8D%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E3%80%8C%E5%8B%9D%E3%81%A1%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%83%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89&stick=H4sIAAAAAAAAAONgFuLRT9c3LDRNKjE1Ks5V4gXxDJPMC83TSyqztAQcS0sy8otC8p3y87P983IqASJndt8xAAAA&sa=X&ved=2ahUKEwiH37_om-LeAhVIW7wKHXteAIwQxA0wD3oECAUQBg&biw=1258&bih=620"><font size="5">史的検証</font></a>をしなければ、累々の涙と屍が待ち構え続けるのだ。</font>

【勝ち続けなければ、自分が負けて無くなってしまうと思い込む錯誤の中で~宮本武蔵とU.S.A.】
 我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。恐怖を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界というお化け屋敷のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も武士道における刀の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。
  勝ち続けなければならない。ひょっとして、今のアメリカは剣豪武蔵と同じ心境ではないだろうか。死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、宮本武蔵であるが、彼の真骨頂は、その強さというより、恐怖心との対決を終生の課題国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、それをじっと我慢しているわけだ。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が現在のわが国である。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華されるようになったのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、結局ニーチェの指摘したルサンチマンを基盤としている。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑であるとか、<font size="4"><font color="red">ウォーラーステインの「<a href="https://ncode.syosetu.com/n1622fd/">世界システム</a>(資本主義)論</font>」</font>を照合しつつ問題分析なり検証をしていかなければならないが、そうすることによりかえって「表象の世界」を合理化してしまうおそれがある。

【宝くじなど当たる訳無いと思いつつ買う。神など居る訳無いと思いつつ信じる。是即ち八百長!?】分かっちゃいるけど、止められない。これが、イエスを祭り上げる心にすり替えられる。宝くじなど当たる訳ない。もし当たりでもしたら、それこそが罰当たりと思う。それでも、何かを信じ買ってしまう。神様なんて、居る訳ないだろ~と思いつつ、山下達郎の「クリスマス・イブ」を聞き乍ら、サンタクロースの御伽噺に結局、嵌められる。この何かを信じなければ、遣り過ごせぬ弱い者達に付け込み、彼等をコントロールしようと目論むサタンが、有りもしない神などの共同幻想を創り上げ、その物語に平伏すシステム構築を謀ろうとする。八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべえ)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海太夫囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海太夫の機嫌をとっていた。しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、<font color="red">真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長</font>と呼ぶようになった。2002年に発刊された日本相撲協会監修の『相撲大事典』の八百長の項目では、おおむね上記の通りで書かれているが、異説として長兵衛は囲碁ではなく花相撲に参加して親戚一同の前でわざと勝たせてもらった事を挙げているが、どちらも伝承で真偽は不明としており、「呑込八百長」とも言われたと記述されている。1901年10月4日付の読売新聞では、「八百長」とは、もと八百屋で水茶屋「島屋」を営んでいた斎藤長吉のことであるとしている。
 以上ウィキペディアから出典したが、冷戦体制は、正しく、八百長の権化だった。今にも第三次大戦が核戦争となって勃発するぞと思わせ乍ら、米・ソが熾烈な核軍拡競争を、「核抑止論」と言う都合の良い子供騙しの論理で、遣らかして行った。そして、止め処ない核弾頭を保持する事に成功し、戦後の米ソお互いの住み分けが、資本主義・社会主義のイデオローグのもと、展開して行く。その間、それぞれの軍産複合体が盤石に構築され、兵器産業が羽振りを利かせ、景気の舵取り役を担ったりもした。ロッキードマーティン社やボーイング社はその主役と成り、大儲けして大量の労働者を雇い入れる大企業となった。その兵器製造を一手に担う大企業は、政治を動かすキーマンであり、大統領はこの大口の政治献金を賄ってくれる軍需産業の意向を無視しては、その政権維持が可能ではなくなり、政治を操る程のダークマターともなった。また、兵器産業は大統領を動かし、世界の不安定要因となる紛争や戦争を敢えて創らせるよう仕向け、その先兵として、CIAが偽装工作に大活躍していく。だが一方で、こうした状況が中長期的に継続すれば、軍拡競争の煽りを受けた軍事予算の突出による財政赤字に直面せざるを得ず、それが八十年代以降の旧ソ連邦に於ける社会主義崩壊へのカウントダウンとなって露見する。ゴルバチョフ登場後、立て直しを図る政策が打ち出されるが、その本質は軍拡狂騒に歯止めをかける為の施策であった。従って、彼の存在は、軍産複合体の側からすれば、非常に煙たい存在であり、消すべき指導者と見做されるのであった。それが、世界を一時震撼させた彼のクリミア幽閉であり、その後の彼の政治生命を短命化させる要因ともなった。ゴルバチョフを幽閉し失脚させようとしたのは、軍産複合体に突き動かされた保守派であり、ペレストロイカを阻もうとした旧ソ連共産党ノーメンクラツーラ達だったのだ。
 米国側も、軍需産業をバックにしたブッシュ親子が、二代に渡り、ソ連に取って代わる新たなる仮想敵探しを演出して行く。そのお芝居が、中東イラクフセインとの八百長であった。だが、分限を弁えず、猿芝居に辟易としてしまったフセインは、自らの命を落とす破目と成り、次なるターゲットとして、テロ戦の幕開けに繋がるシンボリックな人物が登場する。それが、今は昔となった、ウサマ・ビン・ラディンその人だった。彼は当初、米国との協力関係をとり、反ソ親米路線の人物だったが、サウジアラビアへ居座り続ける米軍に業を煮やし、それが彼を嫌米・反米の旗手に変貌させてしまった。このパターンは、イラクフセインも同様であり、彼も当初は反米ホメイニ・イランの対抗者として、アメリカに利用懐柔され、ビッグモンスターに成長させられた存在だったのだ。すなわち、米国がシナリオを描き、それを演じさせられた役者が両人だった。両人ともシナリオ通りに演じ切れなくなり、消される事となった訳だが、そして現在は、更にビン・ラディンのアルカイーダの血脈を受け継ぐISが、八百長試合を継続中であり、注射とガチンコの繰り返しで、危うい演技が続いているのである。
 冷戦構造を日本国内に取り入れた形となったのが、55年体制だった。日本列島で米ソの代理戦争が政治の季節となって展開したのだ。米帝資本主義の代理を与党自民党政権が、ソ連社会主義のお先棒を社・共両党を中心とする野党が担わされ、その元、九条を巡る憲法論争が国会で神学論争となって繰り広げられ、その実、自民党一党独裁支配体制が形成されていった。ここでも、日本国内の軍需産業が暗躍し、軍産複合体が盤石に構築される事となる。それが、朝鮮戦争勃発を端緒とする自衛隊創設過程であり、それ迄、米国の対日占領政策の下、完全非武装化要求と言う去勢され丸裸状態だった日本の防衛が、180度方針転換を余儀なくされて行く布石が作られた。自衛隊自民党保守合同で誕生した55年のちょうど1年前に創設され、正しく日本の再軍備化と自民党政治がタイアップする形で、強固な軍産複合体が出来上がって行くのである。それは、世界の八百長芝居が日本でも上演されて行くと言う事であり、自民党社会党の対立が、米ソ対立同様、迫真の演技で公演されて行ったのだ。その過程で、そのお芝居に気付けない純粋無垢の学生達は、安保闘争ベトナム反戦運動に大量動員され、その後の人生を翻弄される事ともなる。割腹自決で「痛み」システムに挑戦しようと自作自演でそれを超克しようと熱演したミシマや、その死をその後問い続け、先般、他者幇助により自裁した西部らも、八百長世界の一員として演じ切るのに辟易として、そのシステムからの消極的逃避を試みた人物達だった。だがその他殆どの者達は、そのシステムをも理解し得ず、意味の解らぬ儘におチャラケ生活を過ごしているか、そのシステムをある程度理解しつつも、消極的逃避すら出来ずに、覇権システムの中で、枝葉末節的事象把握に終始し、変に悟り切った様に思い込んでいるかの、どちらかに属しているのだ。そしてこの私はどうかと言えば、前者でもあり、またある時は後者でもあり、八百長ネット社会の空蝉の如く、仮想現実を浮遊する哀しき無名ブロガーでしか無い。挙句の果てに、「カ~モン・ベイビー・アメリカ…」なんて、イイねマークを指で真似して、浮かれポンチの写真ポーズで、年甲斐もなくニタニタしながら、越年しようとしているだけなのである。猿芝居も出来ぬオッサンに、明日は無い

【負け続けてばかりでいいのかな~八百長世界のなかで】小中学校で不登校の児童生徒は過去最多の約14万人、いじめの数は分かっているだけで約41万人を超えた。無理に学校に行く必要はないとする保護者や子供の意識も、市民権を得つつある。だが、こんな学校になってしまったのは、個の弱さに目を背け、弱さに胡坐をかき居直る側からの糾弾を畏怖する社会や、そうした社会風潮に異議を唱えようとせず身を隠す世間に、その背景の一端があるのではないだろうか。難しい事には拘らずバッシングを避け、見て見ぬ振りをする事勿れ主義が得策だと、殆どの者が変に悟りを開いてしまってはいないか。そしてそれが、平和憲法を嘯き続け姑息な生き方を身に付けて来た、戦後日本の生き様に正しく収斂され、延いては個の弱さに反映し、綺麗事で済まそうとする学校社会に露見されている様に思えてならない。

【社会から虐められる学校に、夢など語れよう筈がない】過去5年間に教員と看護師が精神疾患となったケースを調べた、2018年版「過労死白書」が示された。保護者や患者など業務上の関係者とのトラブルが、それぞれ疾患の原因の半数近くを占め、教育・医療現場における労働環境の厳しさが改めて確認された。兎角、先生と呼ばれる者達が形成する組織集団は、事勿れ主義を前提とする隠蔽的体質が通常化している。だから陰湿な諸問題が後を絶たず、理想を抱いて職場に赴いた若い先生達は、理想とは掛け離れた現実世界に打ちひしがれ精神を病んでしまうのだ。それに追い打ちを掛けるのが、地域社会の現代教師への冷ややかな眼差しである。古き良き時代の教師は尊敬の眼差しで見守られ、それに胡 坐をかけていた。だが今は違う。最早、信頼を前提とする学校教育では、有り得ぬのだ。生徒の苛めやそれによる自殺者が後を絶たないが、教師への社会的苛めも深刻度を増しているように思われる。苦しい立場を話し合い分かち合える筈の教師同士が分断化され、孤独で物言えぬ存在と成り果てている。政治と同様、信なくば学校教育は成り立たたぬ。

 

【勝ち続けなければならなくなる、八百長世界の中で翻弄される「宮本武蔵」と「U.S.A.」?】
 我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。恐怖を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界というお化け屋敷のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も武士道における刀の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。それは、自衛隊の存在価値を考える場合である。

  <a href="https://ncode.syosetu.com/n9646fc/1/">勝ち続けなければならない。ひょっとして、今のアメリカは剣豪武蔵と同じ心境ではないだろうか。死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、宮本武蔵であるが、彼の真骨頂は、その強さというより、恐怖心との対決を終生の課題としたことではないだろうか。「葉隠れ」に「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」とあるが、彼もいつか自分が敗者となり、死ぬ時が来るであろうことを、絶えず予期していただろう。だが、その覚悟ができない場合、死にきれなくなることも起こり得る。そうすると、とにかく勝ち続けなければならない。ひょっとして、無敗の武蔵は、負ける(=死ぬ)ことに対する異常な恐怖心につきまとわれていたのかもしれぬ。恐怖を直視した武蔵も、武士道世界という「お化け屋敷」のなかで、数多くの仕掛けに翻弄され続けていただろう。無敗の武蔵は、負ける(=死ぬ)ことに対する異常な恐怖心につきまとわれていたはずである。</a>
  9.11以降、要するに世界中が「お化け屋敷」となった。恐怖を司る側はそれに操られ翻弄する側の姿に快感を憶え、ついつい仕掛けはエスカレートしていくものだ。恐い者知らずが横行し、モラル=ハザードが進行している現代においては、恐怖は必要とされるものかもしれない。私は怖がりの性分で、お化けは苦手である。この苦手意識の克服策は、逆療法しかないのかもしれない。基本的には恐怖に浸る状況に身を曝せながら、恐怖を相対化させようとする森田療法的方式とでも言えるだろうか。しかし、「恐怖からの自由」が却って生死に対する感覚を鈍麻させ、新たな問題を突きつけることにもなる。死の恐怖の克服により、世界屈指の軍隊を作り出すことを可能にさせた大日本帝国などはどうだろう。感覚鈍麻のなかで、自身の実力を錯誤させ破滅への道を辿らせることにもなる例が、その他にも見出される。ベトナム戦争中、米軍が、兵士にビデオで残虐シーンを見せ続け、殺戮行為を容易にさせるトレーニングをしたことなどもその一つではないか。常勝アメリカもベトナムには結果的に敗北してしまい、その後遺症が尾を引いている。敗北恐怖症とでも言うか。恐怖の克服が、死をも恐れず暴走する輩を駆り立て、戦争の歴史を繰り返させることにもなってしまう。恐怖の克服は、核抑止をも上回るというシニカルな結果を招くことすらあるわけだ。
  我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中に生きてはいない。刀に対するある種の恐怖を通し精神修養や修行がなされるとするならば、戦争という恐怖について考察することは、堕落した日常を戒めるためにも必要なことである。毎年のことながら、戦争体験者にとり8月は特別な意味を持つ時期だが、戦争体験のない我々も、「靖国」など戦争について考えさせられる。人間の最も嫌がることの一つは、責任を取ることだ。戦犯者は、日本(人)のやった、否、欧米帝国主義諸国のやった侵略戦争の罪を背負わされているのではないか。戦犯者は、キリスト教でいうと十字架に架けられ人類の原罪を背負わされ犠牲となったイエスに近い性格を有す存在ではないか。クリスチャンはイエスに後ろめたさを感じ、彼を拝み続ける。なぜ、戦犯者を靖国に合祀し、それを首相が公式参拝するのか。その根底に、キリスト教徒が抱くイエスへの感情と同様に、日本人の戦犯者に対する後ろめたさが隠されているからだ。要するに人間の一番嫌がる責任を負わされた存在は、後生大事に祀られ拝まれ続けるのだ。紀元前後に生きた一人の男は、とうとう神に祭り上げられてしまった。この二千年間、彼を担ぎ上げ彼を楯にして頼りながら、我々は自身の安心立命を図りエゴを最大に追求し続けてきたのだ。 
 特攻隊も自爆テロも、自己犠牲を通して何かのために殉じようとする。死を賭して何かを訴える。自殺行為もその一つではある。死は大きな恐怖であると同時に、大きな力、影響力を有す。そんな死に少なからず憧れを持ったりもする。これが、いわゆる死への衝動、タナトスである。堕落した惰性的な生、生への衝動、エロスが続く中で、それを諫めようとする死への衝動が呼び覚まされる。両者の闘争が文明史の興亡に少なからず影響を与えてきた。宗教から派生する科学は死を遠ざけようと、不自然な重力に反する文明を追求する。延命治療はその象徴であり、延命操作で不自然な生を贈り届け、死を遅らせる。 歴史は恐怖との対峙の展開である。恐怖を司る側とそれを余儀なく被る側が社会を形成し、その体制からの逃避を「自由」や「平等」という価値で模索してきた。恐怖の典型は「死」であり、死は即ち「未知」ということである。簡単に言うと「分からない」領域である。その領域をめぐり宗教が人類史と伴に並存し、「神」なる精神安定装置を創出し、不安定からの逃避の歴史を繰り返してきた。ショウペンハウエルも「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。老後に生き甲斐を無くした者は、老いを加速させるものである。目的喪失は「死に至る病」であり、逆に目的保持は生きようとする欲望を喚起し、それが強ければ強い程、生命に活力が注入される。プラトニズムにしても理想を高く掲げ、それを追求し続けるなかで生命力を輝かせようとするのであり、我々はその虜になり、文明史を形成してきた。そして、死に伴う精神的・肉体的苦痛から解放してくれる文明という名の快楽を追求してもきた。その最先端にアメリカニズムがあり、核抑止も付随する。「毒を毒で以て制す」ならぬ「恐怖を恐怖で以て制す」という構図が、ハンムラビの「目には目を」の応報主義法典から抜け出せず、相も変わらずDNAの如く受け継がれてきた。
 <a href="https://ncode.syosetu.com/n9646fc/2/">その恐怖の構図への挑戦を仕掛けたのがイエスであろう。その変態的姿勢を敢えてとり続けられるなかで、相手は自己矛盾に苛まれ自壊作用を来すのである。キリスト教古代ローマ帝国との関係において、それは如実に示された。近代以降においては、ガンジーの非暴力・無抵抗主義をバックにしたインドと大英帝国との関係が正しくそれである。現代では、憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、それをじっと我慢しているわけだ。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が現在のわが国である。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華されるようになったのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、結局ニーチェの指摘したルサンチマンを基盤としている。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑であるとか、ウォーラーステインの「世界システム(資本主義)論」を照合しつつ問題分析なり検証をしていかなければならないが、そうすることによりかえって「表象の世界」を合理化してしまうおそれがある。

 歴史は恐怖との対峙の展開である。恐怖を司る側とそれを余儀なく被る側が社会を形成し、その体制からの逃避を「自由」や「平等」という価値で模索してきた。恐怖の典型は「死」であり、死は即ち「未知」ということである。簡単に言うと「分からない」領域である。その領域をめぐり宗教が人類史と伴に並存し、「神」なる精神安定装置を創出し、不安定からの逃避の歴史を繰り返してきた。ショウペンハウエルも「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。
 私は、赤穂浪士が、イエスを信じ殉教して逝った隠れキリシタン達や、特攻で散華して逝った隊員と同様の立場であって、状況は違えど本質的には変わらぬ心性傾向を有していたのではないかと、考えるのである。それは、逃げようのない閉鎖的精神空間領域に追い込まれた立場であり、その逃避行動不可能な「究極の極限」状況からの精神的解脱を、「大義」と云う「得体の知れぬ共同幻想」を持ち出して掲げ、それに依存して適応規制を図り、やり過ごそうとした心性傾向である。
 我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。恐怖を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界というお化け屋敷のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も武士道における刀の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。
 勝ち続けなければならない。ひょっとして、今のアメリカは剣豪武蔵と同じ心境ではないだろうか。死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、宮本武蔵であるが、彼の真骨頂は、その強さというより、恐怖心との対決を終生の課題とした事だ。

アンビバレントなジャポン&私【「犬のお巡りさん」逝く~犬も歩けばQUEENに当たる2018.12.6】童謡「いぬのおまわりさん」「サッちゃん」の作曲家、大中恩さん死去、94歳
「ボ~っと生きてんじゃねー!」は認知症患者への侮蔑に繋がりませんかなんて思ってたが、ホントに何にも知らずにボーっと生きて来たのかも。サっちゃん</a>」の歌も、よく知ってる曲だが、2番の歌詞は殆ど知らなかった。「サっちゃんはね、バナナが大好き」だったんだよね~。全然知らなかったよ~。ホンマに「ボーっと生きて来たんだよね~」

フランス革命再来!?「ボ~っと生きてんじゃねー!」抗議デモ激化受け、増税6か月延期発表2018年12月05日】フランスで燃料税増税に対する抗議デモが激化し一部が暴徒化して死者も出ており、マクロン政権はいったん方針転換し、増税を先送りせざるを得ないと判断した。しかし、8日予定の抗議デモは実施されそうだ。抗議デモは11月17日から土曜日を中心に断続的に行われ、死者は計4人に上った。1日のデモはパリのシャンゼリゼ通りのほか、全国で約13万人が参加し、治安部隊との衝突などで260人以上が負傷した。安倍首相の祖父岸信介が、安保闘争で国会周辺をデモ隊に取り囲まれ、一時は命の危険すら感じた58年前とは、隔世の感がする。私は当時、未だ幼少期だったが、戦後の貧しさの記憶と豊かさへの憧憬を同時に体感し、前者の余韻を訝りそれを打ち消して後者に恭順した「アンビバレント・ジャポンの申し子」となった。そんな覚悟の定まらぬ昭和30年代初頭に誕生した我等の子供達が今、親となり世相を創る主役となろうとしている。燃料税増税に抗議するパリっ子を眺めるだけでは、カタルシスの持って行き場を、益々、現実ではないネット社会の仮想空間へと見出して行くだけに終わり、それこそ政権の思う壺だ。仏日共に、ストレス溜まっているのだろうが、フランスと違い此の国の住人は大人し過ぎる。「怒り」のぶつけ処を間違えてはいないだろうか。パリっ子は昔も今も変わらず、熱く行動する。マクロンは嘸かしビビリアンの絶頂になっているのかも知れぬ。ルイ十六世がギロチン台に赴かんとする心境程では無いにしても、ちょっとだけ追い込まれた際の、気持ちが伝わったのか。方や、此の国のリーダーは独裁恐怖政治を長期に渡り継続し、国民の自身に向けられ掛けたカタルシスを、おフランス自動車ルノーカルロス・ゴーンに向け変えるさせ、ギロチン台からまた一歩後退する事に成功した様だ。
渋谷ハロウィン乱痴気騒ぎを、パリっ子は笑っちゃってるかもね!?「そのエネルギーを然るべきところにブツケねーか!こんな事して恥ずかしいと思えんのか。恥ずかしいと思えば、こんな事出来ませんね。そんな元気があれば、安倍政権への抗議に振り向けてみろ~!
寝ては🙅、寝たら彼が出て来るよ
夢の世界で彼に襲われる
この私も、「夢か現の狭間」で、ドウシヨウモナイ世界に引き込まれ掛けて
「無我夢中」で夢から覚めようとした事が何度かある
きっと誰にでも、心の中に、自分だけの、自分にしか解り様の無い(否、自分ですら説明し様の無い)
アイツが潜んでいるのだろう

【「アストリッド」&ルノー「ゴーン」との司法取引!?】私は、怖がり性分で、今もその性格は不変だ。臆病者と言うか、小心者大将と言っても過言ではない。そうした性分が、私の終生のテーマ「恐怖とは」に繋がっているのだろう。私は、この恐怖が曲者だと、常日頃から思い続けている。私は、<font size="4">恐怖は必要悪</font>と捉えている。「恐さ」は、あらゆる営みに関わる源泉であり、コレなくしては、我々の生命維持は図られないだろう。簡単な話をすれば、「何故、フクシマ原発事故があっても再稼働出来るのか」と云う問いに対する答えが、それに該当するであろう。それは、「フランスが怖いから」だ。極、シンプルな答えで、核心を突いている。六ケ所村の再処理工場がフクシマ以降、運転停止しているので、日本国内の原発内に貯蔵されている放射性廃棄物と云う厄介な核の「ゴミ処理」を、フランスに委託して代行処理して貰っているからだ。「もんじゅ」が膨大な高額予算を空費して、計画頓挫へと至り、それが日仏共同計画の次世代型高機能コンパクトタイプの原子炉「アストリッド」へと繋がった。fd/">原子力ムラの懲りない住人達は、この「アストリッド」計画に自分達の生き残りを賭けて、着々と粛々と悪業を推進していた。そこに起こった「ゴーン逮捕」劇は、日本の原子力ムラの住人達を蒼褪めさせることとなる。ゴーン逮捕の意匠返しに「アスリッド計画からの撤退」をチラつかせてきたのだ。「恐怖は必要悪」として存在し、その恐怖心が曲がりなりにも我々自身の生活保障へと導く鍵なのであると先述したが、「アストリッド」共同計画中止を「必要悪の恐怖」として、日仏両首脳がどの様に操り操られ乍ら、我々を揺さ振り続けて行くか注視しなければならない。ナマハゲに登場して貰い、「悪さする者イネ~か」と「原子力ムラ」の懲りない面々に対し、「必要善としての恐怖」を下す必要がある。おフランスは好きだけど、今の仏マクロン政権は嫌いだと云う、アンビバレントな私がいる。そして、これら殆ど全ての営みに神の如く鎮座し、我々をコントロール支配し続ける覇権システムの史的検証をしなければ、累々の涙と屍が待ち構え続けるのだ。

僕の名前は「チッポ」。「チポ」とも呼ばれている。余り聞かれない名前だけど、ポチの反対と聞けば納得して覚えて貰えるかも。これから僕のお父さんの書き物を紹介するね。その殆どがボヤキに似たお父さんのストレス発散パフォーマンスで、読まされる方は大いに迷惑で堪ったもんじゃないけど、読者諸氏も僕に免じて御容赦下さい。何か感じた事があれば、最後のコメント欄に書いて下さいね。

【もう師走~先生は走っているの?】僕の好きな愛犬チポの年だった戌年も、残すところ後、1か月を切って来た。師走とは、教師が走る位、忙しい12月と云う事だ。「バタバタして気忙しくなる年末」と云う意味で、教師がその代表格に挙げられてる訳だ。さてそれは本当だろうか。教師はどれだけ走っていると言うのだろう。走るどころか歩きもせず、パソコンばかりに目をやり現を抜かしているのと違うだろうか。パソコン画面しか見てなくて、子供の顔が見えていないのと違うか。子供をパソコンデータとしてしか見ようとしない。それがそもそも教育を「恐育」や「狂育」にしてしまうのではないのか。誰かが教育は「共育」なんて、カッコいい事を言っていたが、共に潰し合いしてるだけではないか。子供も子供で、家へ帰って何しているかと思いきや、自分の部屋に籠りっきりで、勉強もせず何時間もゲーム三昧に明け暮れる毎日。これでは、学力低下当然の帰結であり、高校生の家庭学習時間の問題も何が原因かは、言わずもがなであろう。こうしたおバカな子供達を躾も出来ず、自分達の代わりにゲーム機器やパソコンを子供に宛がい、自分の子供の顔も六すっぽ見ずに、親達自体も各人がパソコン画面に見入り、AmazonビデオやFC2に現を抜かしているのと違うだろうか。これでは、教育荒廃に拍車を掛けるのも当然であり、頷ける話だ。

【ブッシュ「オイルウォー」マスター逝く】チェイニーらネオコン仲間と共謀して湾岸戦争を仕組み、テロ戦への布石を創ったブッシュ親爺が亡くなった。「世界の警察官」となり、その後のアメリカ「単独行動主義(ユニラテラリズム)」へ直走る立役者となった。「砂漠の嵐」作戦でパウエルやシュワルツコフ等の制(軍)服組が、幅を利かせる切っ掛けとなった。冷戦崩壊後、仮想敵創りに彷徨しつつカムバックに余念の無かった、「軍産複合体」が完全復活した。イラクフセインが、世界の悪者役を買って出て、12年後にはブッシュ息子にとうとう抹殺される憂き目に遭う。親爺は、国連を都合良く利用し安保理決議をベーカーに取り付けさせ、戦争突入への「大義」が未だ辛うじて用意された。だが、バカ息子になってそれが確保し得ず、「大量破壊兵器」所持の言い掛かりを口実に、米軍単独行動主義で完全なる国際法違反の「侵略戦争」が挙行され、小泉純一郎政権はそれに追従した。その後、大量破壊兵器の存在が完全な「デッチアゲ」だったという事が世界的に公認されるが、日本政府は何一つ未だに総括すらせず仕舞いで、今日に至る。フセイン処刑後、新たな悪役としビン・ラディンが立候補する運びとなる。その後の流れは皆さんも御存知の通りだ。

【キチジロー&江上少尉の「悲痛」】遠藤周作「沈黙」で描かれた「キチジロー」と、ほぼ同様な「痛み」を抱き続け、艱難辛苦の人生を送り続けた人物はいなかっただろうか。生き続ける事は、死ぬ事より辛い「責め苦」として、彼の魂に絶えず蔑みの雷鳴の如く、鳴り響き続けていたのではなかっただろうか。否、もう一人の人物はどうだっただろう。それは、映画「大日本帝国」で、篠田三郎が演じた江上少尉だ。私はこれ迄、何度、江上に自分を重ね合わせて来た事だろう。戦争犯罪のカドで留置されたフィリピン刑務所内で、彼の恋人であった夏目雅子演ずる「京子」が、江上との別れ際で涙に咽び江上に訴え乍ら言い放った最後の言葉が、私の思いを代弁してくれているのだ。だが、それを打ち消すような、それを遥かに凌駕する程のパワーを抱いた江上少尉の恋人京子への「心の叫び」を発露する「絶叫」</a>に感動し、思わず涙した私だった。このブログ記事を書いているこの瞬間でも、それを思い出す度、涙目になる自分をセンチメンタルで軟弱な利己主義者だと自覚し、確認するだけでは済まないのである。そして、いよいよ、最後の処刑の瞬間、江上の発した辞世の絶叫が、全てを象徴的に物語る「警句」として、私の心に反響し続けているのだ。そして、これら殆ど全ての営みに神の如く鎮座し、我々を操り続ける覇権システムがあり、その史的検証をしなければ、累々の涙と屍が待ち構え続けるのだ。

僕の名前は「チッポ」。「チポ」とも呼ばれている。余り聞かれない名前だけど、ポチの反対と聞けば納得して覚えて貰えるかも。これから僕のお父さんの書き物を紹介するね。その殆どがボヤキに似たお父さんのストレス発散パフォーマンスで、読まされる方は大いに迷惑で堪ったもんじゃないけど、読者諸氏も僕に免じて御容赦下さい。何か感じた事があれば、最後のコメント欄に書いて下さいね。

続きはこのドアーから<a href="http://kouun727.blogspot.com/">☛エンター</a></font>

今年は戌年だった。私は犬(自分の飼ってるチポだけを指す)をコヨナク愛しているが、「犬公方」と呼ばれ、「バカ殿」の代名詞ともなって来た、徳川5代将軍「綱吉」に対する見方と言うか、認識が、ここ数年でガラリと変わりつつある。その事に関し、少し言及したい。徳川綱吉は、皆さんが御存知の「生類憐みの令」で犬を人よりも大切にして、犬の事を「お犬様」と呼び、綱吉自身もお犬様と侮蔑的呼称で皮肉られ、後世に悪名を轟かせて行った。だが、彼は善政を布いたとも言われ、近年、バカ殿と云うイメージを覆す綱吉研究も多く示されて来ている。愛犬家の私は、これまで世間一般に流布されて来たバカ殿意識で、綱吉を見続けていた見方を、かなり変えざるを得ない心境に至っているのである。と言うより、彼こそは、「ロブスター論争」を逸早く見通し、先見性を持った生命倫理観を提唱し、且つ実践していたのではないかとすら思えて来ているのだ。先般、和歌山で「紀州ドンファン怪死事件」が世間を騒がせたが、奇怪な死に方をした大金持ちの彼は、綱吉同様、犬好きで、犬をこよなく寵愛していた人物であった。彼は、世間の人達が金でしか動かず、金に目が眩んで、自分に近寄るだけで、本心とは裏腹な態度を取る世間の嫌らしさに、辟易としていたのではなかったか。「カネの切れ目が、縁の切れ目」の諺通り、金が無くなると、それまでヘイコラして自分に群がっていた者達が、一気に手の平返しをして、寄り付きもしなくなる。こんな世を、誰よりも疎ましく眺め、人知れず孤独感に苛まれ続けていたのではないかと想像する。そんな中、唯一、彼の虚しくポッカリと空いた心の隙間を埋めて、癒してくれたのが、愛犬の存在ではなかっただろうか。私も愛犬と日がなベッタリと相思相愛の溺愛関係を継続していると、そうしたドンファンの心の底に沈んだ、どうしようもない程、哀しくて居た堪れない闇の世界を、何となく理解し得る様な気になってしまうものなのだ。今頃、怪死を遂げたドンファンは、あの世でも、愛犬と共に慈しみ合い、此の世を天上界から儚んで見下ろしている事だろう。それはそうと、犬公方徳川5代将軍綱吉の治世に、天下を騒がす大事件が起こる。赤穂浪士の吉良邸討ち入りだ。私は、赤穂浪士が、イエスを信じ殉教して逝った隠れキリシタン達や、特攻で散華して逝った隊員と同様の立場であって、状況は違えど本質的には変わらぬ心性傾向を有していたのではないかと、考えるのである。それは、逃げようのない閉鎖的精神空間領域に追い込まれた立場であり、その逃避行動不可能な「究極の極限」状況からの精神的解脱を、「大義」と云う「得体の知れぬ共同幻想」を持ち出して掲げ、それに依存して適応規制を図り、やり過ごそうとした心性傾向である。そうした赤穂浪士はテレビ・映画等で数多く取り上げられ、NHK大河ドラマでも、「赤穂浪士」として描かれ国民に親しまれた。私もそのうちの一人で、子供心に討ち入り時期に合わせて年末に向けたこの頃に放映された最終回を、固唾を飲んでテレビの前に釘付けになって見入ったのを、今も忘れる事が出来ないのである。長谷川一夫演ずる大石内蔵助が、滝沢修演ずる吉良上野介を追い詰め敵討ちを遂げる迄の討ち入りシーンを、家族で見入っていたのを思い起こす。芥川龍之介の三男で音楽家芥川也寸志作曲のテーマ曲が、ドラマを盛り上げるのにとても効果的に使われていて、今も口遊む事が出来る程の名曲だった。その後、大河ドラマは日本のお茶の間で毎週日曜日の夜の定番となり、それを見て我々は歴史上の人物イメージを刷り込まれても行く事となる。そして、その大河ドラマ赤穂浪士」の前年が、初代大河の「花の生涯」だった。その中で描かれた人物は、桜田門外の変で暗殺される「井伊直弼」だった。井伊を暗殺する水戸浪士の首謀者、「関鉄之助」を取り上げ映画化された「桜田門外の変」を、つい最近観た。彼等も追い詰められ、「覚悟」に翻弄された存在ではなかっただろうか。追い詰められた苦しい状況は、棺桶だ。だが、我々は最後にこの中で業火に焼かれて永遠の苦痛から解放されるのか~。これはカネ掛けずに上手く創った傑作ダ~!続きはこのドアーから☛エンター

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ロシアもなかなかやるね~!コレ
【映画に見える世相~追い詰められた「究極の極限」】1日に閉幕したG20首脳会議で、ロシアプーチンがサウジ人記者カショギ氏殺害事件への関与が疑われているサウジのムハンマド皇太子と大袈裟に「ハイタッチ」し、友好関係をアピールした。中国習近平国家主席も皇太子と経済協力強化で一致した。皇太子は、欧州などからは批判を受けたが、サウジの資金力を目当てに関係を維持したいトランプ米政権や中露を味方につけて事件の幕引きを図ろうとしているとみられる。兎角、露国は、過去社会主義の旧友として中国と暗黙の連携で、米国との一線を画した「差異化」姿勢を随所で示そうとする。このアトラクションも、そうしたロシアの現況を少なからず反映した映画ではなかろうか。また、水道法改悪のテーマ「水」を巡る攻防も、作中に込められ、今後の世界の行末に、良きに付け悪しきに付け、「ウォーター」がキーワードになるであろう事をも示唆する注目作だ。数年前、実際、ロシアに隕石が落下し、それが世界的に動画配信視聴され話題となった。私もそのうちの一人だった。それを異星人の宇宙船に置き換え、その異星人と主人公のヒロインが異種間恋愛を通し、CG合成技術でモビルスーツを着用した者達とのバトルシーン満載で、ハリウッド映画をパクリ捲りのエンターテインメント満載の作品に仕上げている。映画作品にも、米国との見せ掛けの覇権争いを意識した中国との共鳴性を感ずる。

 今年は戌年だった。私は犬(自分の飼ってるチポだけを指す)をコヨナク愛しているが、「犬公方」と呼ばれ、「バカ殿」の代名詞ともなって来た、徳川5代将軍「綱吉」に対する見方と言うか、認識が、ここ数年でガラリと変わりつつある。その事に関し、少し言及したい。徳川綱吉は、皆さんが御存知の「生類憐みの令」で犬を人よりも大切にして、犬の事を「お犬様」と呼び、綱吉自身もお犬様と侮蔑的呼称で皮肉られ、後世に悪名を轟かせて行った。だが、彼は善政を布いたとも言われ、近年、バカ殿と云うイメージを覆す綱吉研究も多く示されて来ている。愛犬家の私は、これまで世間一般に流布されて来たバカ殿意識で、綱吉を見続けていた見方を、かなり変えざるを得ない心境に至っているのである。と言うより、彼こそは、「ロブスター論争」を逸早く見通し、先見性を持った生命倫理観を提唱し、且つ実践していたのではないかとすら思えて来ているのだ。先般、和歌山で「紀州ドンファン怪死事件」が世間を騒がせたが、奇怪な死に方をした大金持ちの彼は、綱吉同様、犬好きで、犬をこよなく寵愛していた人物であった。彼は、世間の人達が金でしか動かず、金に目が眩んで、自分に近寄るだけで、本心とは裏腹な態度を取る世間の嫌らしさに、辟易としていたのではなかったか。「カネの切れ目が、縁の切れ目」の諺通り、金が無くなると、それまでヘイコラして自分に群がっていた者達が、一気に手の平返しをして、寄り付きもしなくなる。こんな世を、誰よりも疎ましく眺め、人知れず孤独感に苛まれ続けていたのではないかと想像する。そんな中、唯一、彼の虚しくポッカリと空いた心の隙間を埋めて、癒してくれたのが、愛犬の存在ではなかっただろうか。私も愛犬と日がなベッタリと相思相愛の溺愛関係を継続していると、そうしたドンファンの心の底に沈んだ、どうしようもない程、哀しくて居た堪れない闇の世界を、何となく理解し得る様な気になってしまうものなのだ。今頃、怪死を遂げたドンファンは、あの世でも、愛犬と共に慈しみ合い、此の世を天上界から儚んで見下ろしている事だろう。それはそうと、犬公方徳川5代将軍綱吉の治世に、天下を騒がす大事件が起こる。赤穂浪士の吉良邸討ち入りだ。私は、赤穂浪士が、イエスを信じ殉教して逝った隠れキリシタン達や、特攻で散華して逝った隊員と同様の立場であって、状況は違えど本質的には変わらぬ心性傾向を有していたのではないかと、考えるのである。それは、逃げようのない閉鎖的精神空間領域に追い込まれた立場であり、その逃避行動不可能な「究極の極限」状況からの精神的解脱を、「大義」と云う「得体の知れぬ共同幻想」を持ち出して掲げ、それに依存して適応規制を図り、やり過ごそうとした心性傾向である。そうした赤穂浪士はテレビ・映画等で数多く取り上げられ、NHK大河ドラマでも、「赤穂浪士」として描かれ国民に親しまれた。私もそのうちの一人で、子供心に討ち入り時期に合わせて年末に向けたこの頃に放映された最終回を、固唾を飲んでテレビの前に釘付けになって見入ったのを、今も忘れる事が出来ないのである。長谷川一夫演ずる大石内蔵助が、滝沢修演ずる吉良上野介を追い詰め敵討ちを遂げる迄の討ち入りシーンを、家族で見入っていたのを思い起こす。芥川龍之介の三男で音楽家芥川也寸志作曲のテーマ曲が、ドラマを盛り上げるのにとても効果的に使われていて、今も口遊む事が出来る程の名曲だった。その後、大河ドラマは日本のお茶の間で毎週日曜日の夜の定番となり、それを見て我々は歴史上の人物イメージを刷り込まれても行く事となる。そして、その大河ドラマ赤穂浪士」の前年が、初代大河の「花の生涯」だった。その中で描かれた人物は、桜田門外の変で暗殺される「井伊直弼」だった。井伊を暗殺する水戸浪士の首謀者、「関鉄之助」を取り上げ映画化された「桜田門外の変」を、つい最近観た。彼等も追い詰められ、「覚悟」に翻弄された存在ではなかっただろうか。究極の極限まで追い詰められた苦しい状況は、棺桶だ。だが、我々は最後にこの中で業火に焼かれて永遠の苦痛から解放されるのか~。これはカネ掛けずに上手く創った傑作ダ~!
僕の考えてることを、橋本智津子女史がこの本でまとめていたよ。先越されちゃってたね。

【上からの拷問vs下からの拷問って、要するにMorSかと云う事(マルキストはどっちダ~!?)】
小浜逸郎氏ブログ「ことばの闘い」で、水道法改悪に関し私もコメントしたが、以下に紹介するコレだ!

【平和と水はタダ同然では無い】
(肱雲)2018-11-30「日本の水」は、世界でトップクラスの上質で安全性の確保されたものだ。日本人は、そうした水を当たり前の様に、水道の蛇口を開けば、タダ同然で何時でも何処でも簡単に飲めると思っているし、事実、災害時以外はその通りだ。こんな国は、世界広しと言えども、日本かスイス位であろう。世界に冠たる「水(道)大国」なのだ。それを、海外に出て初めて知り、実感する事になる。世界をリードして来た欧米先進諸国ですら、基本的に絶対安心して飲める水確保は、「ミネラルウォーター」を購入しなければ、可能とはならない。それ程、我が国の上水道浄水技術は、秀でた高度技術を有す。こうしたレベルは、「水道法」の下、水道事業は基本的に自治体が独立採算制で運営するシステムとなっているからだ。だが、そうした水道事業を支える人口が減少しているため、水道管、浄水場などの設備の維持・更新費が上がり、現状の設備を維持しようとすれば水道料金を上げなければならない。こうした公営事業の赤字補填をどうするかが課題となる中、過去の三公社や郵政事業同様に、水道も民営化しようとする流れの中で、今回の水道法改訂の運びとなっているのであろうが、入管法改悪以上に殆ど審議時間を掛ける事も無く、スルーしてしまうとは言語道断である。我々の「命に直結する水」を、「外国メジャー」に都合良く扱われ、利益を簒奪されるのは目に見えた話ではないか。そしてそのツケは、我々国民への水道料金値上げとなって跳ね返り、低質化し安全でない水を飲まされるという結末になる。こんな悪い状況でも企業は利益を出さなければならず、ましてや役員報酬や株主配当という新たなコストも発生するだろう。民営化に伴う利益追求は、更なる水道料金値上げに繋がり、サービス低下は不可避となろう。こうした事への関心が、殆どの国民には認識されておらず、それだけ、水確保は何もしなくても当たり前の様に可能だとする、日本人の余りにも楽観的で能天気な国民性向の証左ともなっている。グローバル経済の荒波の中で、虎視眈々と我が国の富を掠め取ろうとする外国資本の動向を、絶えず注視していなければならない。平和と安全保障同様、水も安穏としたオマカセ対応では、死守出来ないものである事を、再認識する必要に迫られている。

いろいろあるね~
きなこのブログこれはエグイ!ね~、スルドイ!ね~、ヤルね~!
言葉の正しい使い方が確認出来る
コレ色々使えるかもヤッパ「有名と無名」は「月と鼈」、「天国と地獄」の格差🐜
ブログとは?僕みたいな何にも知らないアホにも分かる様に解説してくれる
「目指せ芥川賞」なんて、誰も相手にしてくれまへん完全なる「劇団ひとり」ならぬ「ブログ一人」てかワンコを救え
政治ブログランキング上位…「かっちの言い分」&「BBの覚醒記録

ブルース・リーがドウタラと言って来て、その師匠の何たるかをちょっと前まで全然知らなかったとは。こんな日本人もいたのに、彼はブルースを感じさせるブルース・リー
知られざる少林寺拳法
  
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チッポ家な夢

僕の名前は「チッポ」。「チポ」とも呼ばれている。余り聞かれない名前だけど、ポチの反対と聞けば納得して覚えて貰えるかも。この家の人々(特にお母さん)が、本当の息子に子供の頃、時々呼んでいた愛称だったそうで、お母さんが名付け親だ。お父さんは日本が米国のポチなのが気に食わないのでそれを嫌い、お母さんのチポ案に直ぐ賛同したと聞く。僕は5年前の5月3日、この家に引き取られ、目下、溺愛されていて、相思相愛中。勝手に思い込んでいるのかな。もう今ではお互い犬や人間とは思えない。僕が可愛くて仕方がないみたい。僕もお父さんとお母さんが大好きで甘えてばかりいる。甘えん坊が過ぎてオモラシしたりしてゴメンね。もう少し僕の自己紹介を続けるね。僕は2013年2月4日生まれのトイプードル犬だ。お父さんはビーグル好みで、毛むくじゃらじゃないワンコが良かったそうなんだけど、このお父さんが最後に僕を選んでくれた。ありがとね、父さん。僕はスクスク大きくなり体重はちょうど5㎏程で、この家に来た当初から比べると、3倍以上になっちゃった。手足も長くなり、スマートボディーでみんなを悩殺してる。何時も「ごぞごぞ」して、何かを「がじがじ」噛んでいので、お父さんに「ゴゾガジ」と仇名を付けられた事もあったね。かじがじするのは、ストレス溜まって落ち着かないからかな。昔、お父さんの帽子の金具を囓っていたら、何時の間にか穴が開いちゃった。こんな感じで、いろいろな物を囓りまくってボコボコにして来たけど、ファスナーの金具の噛み心地が最高だったね。今では、僕はこの家に無くてはならない主人公なのだ。僕の今の生活に欠かせない存在は、62歳になるお父さんである。何時も僕の傍に居てくれて、僕を見守り続けている。犬種は容姿端麗なトイプードルである。可愛過ぎて、お父さんは何時も僕を最後はいびり倒す。僕もお父さんのパターンは熟知してるので、弄られるのに慣れて来た。でも、余りにも櫃濃くされると、流石の僕でもこの親父がウザくなり、ガブリと甘噛みする。お父さんは小さい頃、黒猫ミーコを飼ったのが抑々の弄りの始まりらしい。中・高時代は、ポインター猟犬とビーグル犬のあいの子ようなジョンを飼っていたそうだ。その犬は、何処かからフラッとこの家に舞い込んで来て、何時の間にか家族となっていたと言う。お父さんはそのジョンに対しても、可愛がり過ぎて、苛めてしまったりする事もあったらしい。最後は、ジステンパーか何かの病気に罹ったのか、体が硬直して惨めな姿になって死んで逝ったのを、お父さんは忘れないと言う。僕との別れは…、考えただけでも涙ぐんでしまいそうだと、僕によく語っている。父さんが退職後、一日中、僕とベッタリしてくれている。とても安心なんだけど、ちょっとウザくなって来た。このお父さんを相手しているとホントに疲れちゃう事もある。溺愛関係が続き濃厚なスキンシップがエスカレートして、怪しい関係になったりもしてる。それでも飽きない関係と言うか、お互い許容範囲の間柄になっており、これからも末永く、チッポ様に忠義を尽くしてくれそうなので、何の問題も無い。これから日々の生活について呟いたりぼやいたりするので、どうぞヨロシクね。この爺さんとの付き合いも、5年半が過ぎたけど、退職後、日がな僕と共に一日を過ごす中、今迄、何気なく見過ごして来た事に気付かされている様だ。当然ながら僕は言葉を持たず喋れない。だから僕なりに必死で、ありとあらゆる方法を駆使し、こちらの思いを伝えようとする。僕のメッセージツールとして、吠える・オシッコする・クンクン鳴く・グーグーを銜える・爪でガリガリ引っ掻く・ウーウー鳴いて威嚇する・尻尾を振る・体をスイングする・仰向けに寝転がる・ピョンピョンジャンプするなどなど、様々なバリエーションに相応してこれらの仕草を使い分け、人間との関係を良好に構築しようと日々努力しているのだ。あ、それと忘れてはならないものがまだあった。 

 

   
 

「目」。目は口ほどにモノを言うって、人間世界には諺にもなってる。僕達、動物にとっても、目は大切な意思表示ツールの一つなのだ。だからアイコンタクトはとても重要だ。さて、その要求を飼い主であるお父さんは、僕の発する様々なサインを汲み取ろうとする。そのサインを読み間違えられる事も度々だが、概ね以心伝心で関係構築を図る事が出来ている。より良好な関係を作るには、物言えぬ僕の心を察して貰わねばならない。お父さんに僕のメッセージを送り、僕の「言葉」を汲み取ってもらう。大体、僕の気持ちは伝わっている。だけど、やはり人間の言葉が話せないと、よく誤解されるのも事実だ。例えば、こんな事がしょっちゅうある。僕は喉が渇いて水が飲みたくなると、お父さんの口元をペロペロ嘗め回し、一生懸命、その要求を伝えようとする。最近は何とか理解してくれ出したようだが、それ迄は違う捉えられ方の連続だった。僕のお父さんに対する親愛の情として、全て愛情表現メッセージだと捉えられてしまい、なかなか水場へ行かせてくれなかった事もあった。おまけに、誤解したお父さんに、あろうことか僕の気持ちを逆なでする行為をされた事もあった。例えば、お父さんの唾をキス代わりだと、よく飲まされた。最初は臭くて微妙な味だったけど、次第に癖になる味になり、僕の方からお父さんの唾を飲みたいと要求してたんだけど。この様に、コミュニケーションには違う意味で味がある事を学習したものだ。それはそうとして、寡黙な僕も、自分の要求を相手に伝えたい場合は、目を見開き大きな甲高い声を発し、何度も吠える。日本の殆どの人達も、僕の様に飼い主に身を任せ、物言えぬ存在に成り果てているのではないかな。政治指導者は、日本人の要求をどれだけ受け留めているだろう。これから、僕のお父さんが退職した去年の春以降、暇潰しに書いてる文章を、紹介するね。その殆どが、ボヤキに似たお父さんのストレス発散パフォーマンスで、聞かされる方は大いに迷惑で堪ったもんじゃないけど、読者諸氏も僕に免じて御容赦下さい。

お父さんの秘密①

 お父さんは僕が知らないと思っているだろうが、オッとどっこい、それは大間違いで、僕はお父さんが隠れてコソコソ何やら遣ってる、小説家紛いの隠微な著述活動を、コッソリと覗き見しているのだ。以下に、それを紹介しよう。なかなかの内容もあるみたいだけど、殆どがオヤジのボヤキみたいな感じかな。これを読んで共感してくれる人が居たら、お父さんも感謝感激雨霰ってとこかな。それと、もし興味があれば、これからもお父さんの秘密をコッソリ教えるから、乞う御期待を。それでは、一部、紹介するね。 

 

 【「痛み」がシステム作りの源泉~痛いの痛いの飛んでK~】

 数日前から腰痛を患い、不快な気分が継続している。「痛い」こと、これが僕にとって一番嫌な事で、要するに、苦痛が不幸の原点だと思う。僕は禁欲主義ではなく、快楽主義者に該当する。苦痛が幸福だなんて、それはマゾヒストの何者でもない。普通は痛いのは嫌だし、そんなことに関わりたくない。もし愛犬が脚折ったりして、「キャイーンキャイーン」と 泣き叫び続けるシーンを想像してみたら分かる筈だ。絶対、見るに忍びない。痛がる仕草を見るに堪えないし、だからドウシヨウモナイ場合に、苦痛を味わわさないで済むよう、薬殺とかの殺処分が考えられるんだし、しかもその際、出来るだけ苦しまなくて死なす方法を考えるだろう。更に、自分の最愛の人間が事故に遭ったりした場合、そして最悪の状況になった場合、「最後は苦しまなくて亡くなったかどうか」という事が、一番気になる点だと思う。苦しみを味わわずに逝ったなら、少しでも救いとなる。納得がいく。結局は、これなんだと思う。それは多分にジェレミーベンサムの考え方になるのか。すると私は「功利主義者」か。功利主義の先駆者ベンサムは、幸福とは快楽であり、不幸は苦痛であると捉え、苦痛を避けることが人間にとり善的行為であると解釈している。すると、善的医療行為とは、まずは苦痛の除去であることになり、刺激に対する反応が弱まるように仕向けることを旨とするようになる。麻酔をかけたりする行為はその典型で、末期ガン患者の激痛を和らげる際に使用されるモルヒネ投与はその代表となる。患者が痛みのどん底に突き落とされ、その状態から解放されず終いであること程の苦しみはない。その苦痛が幾らかでも和らげられれば、患者にとってそれは地獄での責め苦からの解放とまで感じられるかも知れぬ。苦痛という責め苦が永遠に続くことほど、失意に苛まれることはない。それはすなわち人間にとっての最大の不幸事になる。死刑(閲覧注意)という極刑を犯罪行為を防ぐための抑止力とするのは、一般的にそれが人間にとり耐え難く苦痛をともなうものであり、そして最大の恐怖になるからである。そう、苦痛は恐怖であり、肉体的苦痛・精神的苦痛は人間をはじめとする高等動物にとり、避けるべき一番の対象ともなる。苦痛からの逃避は、人間に安らぎを与え安定化をもたらすということになる。精神的苦痛は精神病患者にとり忍びがたいものであるが、抗うつ剤などの薬剤はそれを緩和し精神的苦痛からの解放を導き出す。それがさらに高揚感などを誘引するに至れば、麻薬的効果を与えることにもなりかねない。苦痛は患者本人だけのものとは限らず、患者を取り巻く家族や関係者らのものでもある。患者の肉体的・精神的苦痛を直視させられる親族の精神的苦痛も、患者程ではないにしろ結構なものである。その苦しみからお互い解放されたいという衝動が、安楽死への衝動へと駆り立てる。苦痛に苛まれる患者を看るに忍びないという患者の親族や担当医らは、その精神的苦痛からの解放を待望し、そうした思いは多分に彼らのエゴに立脚するものでもあり、患者からすると迷惑千万な場合もある。また、苦痛を感じる動物ほど、高等動物の証明となり、人間並に扱おうとする心理が働くのではないか。アリや蚊を造作なく殺生できるのも、我々が彼らに苦痛を感じる能力を見出せないからであろう。

去年の11月6日だったろうか、私のダイアリーに以下の様な内容の書き物が残っていた。以下、抜き書きしておく。…ラスト・ゴキブリか、まだまだ暖かい。早朝というより深夜、台所で不振な小さい黒影が動いた。久し振りにあいつが活動している。前回の逢瀬では、死んだふりされ忍者の如く逃げられた。今度はひつこく追い回す。タワシが命中し、仮死状態に。ひっくり返っているところにトドメを刺す。ゴキブリの生命力には脱帽する。しかし気持ち悪い。彼等を見た瞬間、殺意が起こる。こちらの本能に刷り込まれた殺意。相手にしたらかなりの迷惑だろうが。ヘビとゴキブリはどうしてもやってしまう。何でだろう。殺蛇・殺ゴキのキラーマン。今までいったい何匹やってきたか。彼等からすると、私は地獄行き間違いなし。熱湯掛けも辞さなかった。ナンという殺戮か。南無阿弥陀仏。…、今年も先週あたりは温かかった。遠藤周作の「沈黙」を取り上げ、悪逆非道な奉行井上の所業がドウタラとコメントしながら、私自身も身近な生物に対し、何という残虐この上ない仕打ちをしている事か。彼等からすれば、この私は、奉行井上より恐れられるトンデモナイSATANなのかも知れない。私は貴方や貴女にとっては🎅であるが、ゴキブリ等にしてみれば、何たる残虐非道なデーモンサタンな存在か。残虐非道を懺悔する。
 さて、痛みの集約される極限の状況は、「戦争」だろう。この戦争だけは私を含め、人類として最も避けなければならぬ所業である。それを避けようとしながらも、戦争を敢えて創り続けて来たのが人類史でもある。最大の痛みを伴いその苦痛から派生する「恐怖」を避けたいとする思いが、民主化を促進しても来た。国家間戦争を未然に防ぐシステム作りが、国際社会を形成する上で切っ掛けとなる「ドイツ三十年戦争」を通して展開して行く。17世紀前半期に、ヨーロッパ全土を覆う宗教戦争が引き起こされ、キリスト教の名のもとに大量虐殺が為されて行った。こうした状況に逸早く対応しようとした国が、当時、世界覇権を狙う英国のライバル国として急成長を遂げた、貿易立国のオランダだった。戦争で荒廃するヨーロッパでは、オランダの富は水泡に帰す恐れがあり、安定した秩序を取り戻させる為の枠組み作りに率先して取り掛かる。1648年に、ウェストファリア条約締結の際、世界初の国際会議が開かれる運びとなり、戦争を抑止する為のシステム作りが進捗して行った。同年、オランダのグロチウスは、正しく国際法の父と言われる所以となる『戦争と平和の法』で、戦時国際法の原型を世に示した。奇しくも彼のその著書名に、世の中の縮図が込められていたのだ。平和よりも戦争を先に出し、戦争のルールを弁えさせる為の法の必要性を優先し、強調している点だ。「殺し方」にもきちんとした枠組みを設け、ルールに則った戦争をする為の法が、立法化される端緒が作られたのだ。何と言うシビア―さであろうか。だが、こうしなければ、我々は「皆殺し=ホロコースト」へ邁進してしまい、誰も居なくなる世界が待ち構えている可能性が、十分に考えられるからだ。核戦争などを想起すれば分かる筈だ。それでは、儲けを目論もうとする輩達にとっても、好ましい事ではなくなるのであり、平和を導く為の民主化を進めるシステム創りが必要となる訳だ。従って、「痛み」は「恐怖」の対象であり、それをコントロールする為のシステムが、覇権を暗黙裡に合理化させるものともなるのだ。痛みから解放されたい願望は、それをさせないよう、絶えず痛みである恐怖をチラつかせ支配する側の思惑に絡めとられ、利用される。腰痛に苦しむ私も、そのシステムの中で翻弄されている一人だ。早速、先日、病衣巡りをし乍ら、病院の民主化の具にされているか弱き自分を、垣間見たのであった。医療関係者は医療保険点数を稼ごうと、痛みに顔を歪める患者達を、「カーモンベイビー…」の流行り歌の如く、手薬煉を引いて待ち構え、受付から始まり諸検査を経てドクターXの診断を仰ぎ、様々な投薬を処方されて、長時間、肉体的・精神的苦痛を伴い乍ら、医療界のメシの種とされる。我々の痛みがカネに姿を変え、その医療界を束ねる圧力団体の日本医師会からの政治献金となって、自民党政権を下支えするのである。そうしたシステム創りの一過程に於いて、天下り厚労省幹部と大学経営者並びに医学部学部長とを医療コンサルタント会社が仲介し、東京医科大学等の不正入試や公金の不正流用の一コマが造られて行く。その医療界の基盤となるのが、大学最高峰に君臨する東大医学部であり、それを目指す事を至上主義とする日本の偏差値教育が横たわる。 

”神と仏陀”  

【七転び八起き】マーティン・スコセッシ監督映画作品「沈黙」を観た。原作者は遠藤周作で、その「沈黙」のリメイク作品だ。主人公のポルトガル人宣教師が、師と仰いだ先輩宣教師を追って、日本の長崎五島を目指す。到着した島で、隠れキリシタンの非業の死を数多く見乍ら、自身の信仰心が揺らぎ掛けるのを何度も感じ、それでも棄教を頑なに拒み続ける。キリシタン狩りの急先鋒である悪逆非道な奉行井上は、ありとあらゆる手段で、主人公の信仰心を揺さ振り続ける。そして遂に、頑なに井上の言葉に耳を貸そうとしなかった主人公は、責め苦に喘ぐ殉教覚悟の信徒達を救うべく、先輩宣教師の言い分を聞き入れ、とうとう棄教してしまう。もう一人の主人公キチジローも、宣教師同様、自分の弱さに苛まれ、裏切り行為を繰り返し乍ら、宣教師に最後の救いを求めるのだった。主人公は棄教した先輩宣教師を、自分達への背信行為として卑怯者と非難していたのだが、今はその先輩以上に背信行為に身を委ねるしかない自分を卑下し、日本人名と日本人妻を奉行井上から頂き、余生を送るしかなかった。キリスト教エスと縁を切ったかに見えた主人公だったが、荼毘に付される彼の掌には、その直前、妻から密かに手渡されたイエス像が抱かれていたのであった。オーマイガー!何と言う、沈黙サイレンスであろうか。神は答えてはくれぬと、何度も天を仰ぎ怒りを発した沈黙の中にも、主人公は最後迄、神イエスの声を見出そうと、必死に心の中でもがき苦しみ、秘蹟に耳を傾けようとしていたのではないか。沈黙の中に神の意志があった。この作品は、我々の心の琴線に絶えず触れ乍ら、人間の本性的弱さと強さの織り成す大パノラマの様相を呈する。それと、遠藤の高い精神性を上手く描きつつ、スコセッシならではの視角も随所に鏤められている。特に、キリスト教を背景とするヨーロッパ世界の優位性に、棄教した先輩宣教師フェレイラの口を通して、疑問を投げ掛ける手法は、スコセッシ監督ならではの慧眼だろう。そうした視点が、他の追随を許さぬスコセッシの所以たるものでもある。そして何より、そうしたスコセッシに深い感銘を与え、氏の集大成とも言って過言ではないこの作品に具現化した、遠藤周作の「深い魂」の慟哭に、心を揺り動かされるのである。

棄教を「転ぶ」と言う。転ぶことを拒否し、惨たらしく拷問処刑される。似た様な事が大日本帝国下でもあった。治安維持法で多くの「赤狩り」が為されたのがそれだ。プロレタリア文学の代表作『蟹工船』の作者、小林多喜二は、正しくキリスト教信仰がマルクス主義信仰に置き換えられただけの事である。小林も築地署で特高警察から、嘗て隠れキリシタンが受けた様な壮絶な拷問を受け、「転ぶ」事を拒み死を余儀なくされた。この場合、転ぶ事は、即ち「責め苦」を拒む事であり、社会主義者からの「転向」を意味する。さて、果たして責め苦を拒まず、逍遥として死を受け入れる事で、自分の弱さに負けず一時の苦痛に耐え忍び、魂を売り飛ばす事無く、永遠の勝利者となれるとでも言うのであろうか。その魂とは、一体全体、何なのだろうか。ソクラテスの言うところの「絶対的真理」なのか。彼も転ぶ事を拒み、プラトンら弟子達の逃亡の勧めを受け入れる事無く、毒杯を呷り自死を選択した。さて、弟子達からの逃亡の勧めを、「悪法も法なり」と一蹴し拒否したソクラテスは、果たして彼の守り通そうとした絶対的真理、即ち魂(プシュケー)に殉じたとでも言えるのであろうか。此処でも、「転ぶ」か「転ばない」かの、究極の選択に伴う葛藤があったのだろう。そして、ソクラテスは、転ぶ事を拒んだ。此処でもし、彼が転ぶ事を受け入れ、即ち弟子プラトンらと逃亡でもしていたら、どうなっていたであろう。その瞬間に、彼の価値は半減、否、皆無となったのであろうか。そして、違った形での永遠なる責め苦が、待ち構えていたとでも言うのであろうか。更には、あの戦争で、特攻隊で米艦に突っ込めず、生き永らえてしまった隊員は、特攻で散華した仲間に対し、生き続ける負い目から起こる責め苦に、未来永劫に渡り苛まれ続けなければならぬとでも言うのか。ソクラテスにしろ特攻隊員にしろ、彼等に共通する心理は、結局のところ「世間」体であり、自分以外の他者の目や訳の分からぬ常識と言われているモノサシへの同調なのではないか。何故なら、ソクラテスが言ったとされる(恐らく脚色された後付けであろうが)「悪法も法なり」の法とは、如何なる性格のものであるのか。彼が最重要視しプラトンら弟子達に教示した、永遠不変なる普遍的立法なるものが、果たして此の世に在り得るものなのか。弟子プラトンもその意味で、下らぬ当時のアテナの法に遵う事なかれと、師匠に逃亡を勧め様としたのではないか。所謂、此の世の法律は全て「時限的立法」なのである。それこそ、現憲法などは、様々なる不純なる如何わしい大国の思惑が交錯する中、錬金術師が制定した代物ではなかったか。特攻隊にしろ、彼等が純粋に真面目過ぎる程、護ろうとした当時(現在も含め)の「国」及び「国家」(国家機関に重きを置いた)なるものの「正体」は、果たしてどのようなものであった(ある)のか。こうしたバックグラウンドを考えていれば、簡単に「転ばず」カッコ良く死を選ぶ事より、苦渋に堪え世間(体)や得体の知れぬ「常識」なるものに抗い、「転ぶ」を「思慮深く」選択し「生き永らえる」事の方が、如何に困難であり真の「勝利者」と呼ぶに相応しい存在と、成り得るのではないだろうか。私は、遠藤の「沈黙」で、「転ばない」事でその後待ち構えている凄まじい拷問による死の責め苦を恐れ、「転ぶ」生き方を学んだ「沈黙」する似非キリシタンを肯定的に観る一人だ。従って、作中のキチジローは、私自身でもあるのだ。

【人の話を聞くな、聞いたふりをしろ2018.10.23】私は他人から「人の話を聞かない」と、よく言われる。妻からも同様な言われ方をして、不愉快になる。だが、私が人の話を聞かないのは殆ど当たっていて、その通りだと自覚してはいる。ここで私が思うのは、人の話にも色々あり、その人によりけりだと言う事だ。こんな私でも、私がこの人はと思う相手には、耳を傾けようとする。誰でも彼でも、言う事を聞かない訳ではないのだ。従って、私が人の言う事を聞かないのは、私の考えている事が一般的な人の考え方と反りが合わない事を意味する。簡単に言うと、常識を信じていないと言う事だろう。更には、私が信じられるものが、此の世には極めて少ないと言う事でもある。インド旅行でガイド役のシンさんからも、貴方は他人の言う事を聞かないと、半分呆れ顔で言われた。そのシンさんが連れ込んだ旅行者相手の販売店でも、私に店の品物を何とかして売り付け様と迫る印度オバサンからも、「アンタは難しい人」と捨て台詞を吐かれた。だが、私がそのオバさんの言う事を聞いていたら、ボッタクられていただろう。

【インドで目覚めた煩悩】其処は正しくカオスで、多様性に満ちた臨機応変の、何でもありの国だった。至る所、舗装されておらぬ道路から巻きがる土埃で、空気がスモッグの様に燻り、埃塗れの霞んだ空気の中を、小回りが利く乗用車に乗り移動した。大気汚染が深刻な状況だった。この国の道路を始めとするインフラ整備には、かなりの時間を要するであろう事を感した。混雑する道路は、隣の車とスレスレで車間距離もギリギリになり、ぶつからないか何時も冷や冷やしていた。それにしても、矢鱈とバイクの警笛音が耳障りで、最初、喧嘩でも売っているのかと思う程だった。だが、ああでもしなければ追突や接触事故が多発するだろうし、自分達の存在を他者に逸早く知らせるための警告音だと理解した。一見、無軌道でいて最終的には調和のとれた人畜一体の、何とも不思議な光景が随所で見受けられた。私が愛犬家のせいか、特に犬の顔付が優しく感じられたものだ。野犬同様の姿が道端で散見されたが、何かに怯える様子もなく優しい眼差しで、伸び伸びと人間と共存していた。日本なら、直ぐにとっ捕まり保健所にでも連れて行かれ、殺処分の憂き目に遭う筈が、聖なる牛だけでなく犬までもが、大切に扱われていた。ヨガ体験後の占いは、意外に思い当たる節があり信じてしまった。「貴方は金運が良いので、お金が手に入るでしょう」と言われ、仏教発祥国インドで悟りを開くどころか、煩悩に魅入られてしまう旅となった。さてこんな私は、ガンジス河にはどう映っていただろうか。

【ガンジス風呂最高!?2018.10.22】昨日、無事帰国。何と言っても今回の旅のメインは、ガンジス川での沐浴だった。初めは見てるだけのつもりだったが、息子から「それでいいのか」と半分脅され、一緒に入水しガンジス風呂を楽しんだ。一生の思い出が出来た。ヨガ体験後の占いは、此方の状況が良く当たっている気がして、意外に思い当たる節があり信じてしまった。ガイド役のシンさんに、「信じる」事の意味を示唆された思いがした。「貴方は金運が良いので、お金が手に入るでしょう」の占いは、インパクトがあり、これだけは信じたい。仏教発祥国であるにも拘らず、煩悩に魅入られてしまう旅でもあった。

ガンジー生誕150年に寄せて2018.10.16】明治維新150周年の今年は、奇しくもインド独立の父マハトマ・ガンジー生誕150年目の年でもある。そんな時、私はインドへ旅に出る。行く筈ではなかったが、息子が親子での旅を誘ってくれ決断した。ベナレスでの沐浴やタージマハルくらいしか興味がないが、家族3人でインドへ旅行するのも何かの縁か。インドは仏教の発祥地であるが、今はヒンドゥー教が主流で、仏教徒は殆どいない。仏滅の地クシナガラ辺りに行ってみたいが、行程表には其処は含まれていない。インドに旅した人は、それ迄と人生観が変わると、よく又聞きするが、それはどんな意味なのだろう。当初、中国上海に行こうと考えていたのが、インドへ変更となったのだが、はてさて吉と出るか、それとも…。あと少しで、その答えが見えて来る。

【人権侵害による怒りを訴えで昇華】昨年秋、米国ハリウッドの大物プロデューサー、ハーベイ・ワインスタインが、数多くの映画女優からセクハラで訴えられた。その後、同種の著名人に対する女性からの訴えが後を絶たず、最近では、モーガン・フリーマンまでも槍玉に挙げられる始末となっている。これらセクハラ問題に共通する点は、立場上、被害を申し出る事に躊躇せざるを得ない相手の弱みに付け込み、水面下で問題が進行する事である。加害者側は雇用関係などを盾に、反抗できない状況に追い込み、破廉恥行為を恒常的に繰り返す。生活保障が危ぶまれ、将来に渡りプライバシーを著しく侵害される非常にデリケートな問題であり、それらを十分覚悟の上で、勇気を振り絞り訴えなければならぬ。正しく命懸けの行為となろう。翻って、日大タックル問題で、悪質行為を命じられ世間からバッシングを受け掛けたアメフト選手も、破廉恥な要求を余儀なくされセクハラ被害に追い込まれた女優達同様、苦しい人生の岐路に立たされた事だろう。だが、孤独な記者会見での訴えで、事態は一変した。泣き寝入りするのでは浮かばれまい。

【狩られたくなければ武器を持て】止め処ない銃乱射事件。米国留学中の高校生だった服部剛丈氏が、銃の犠牲になってから四半世紀は経つだろうか。銃規制の叫びが虚しく続く。トランプは教師に銃所持させて子供を守れと言う始末。銃規制なんていう考えは微塵もないようだ。全米ライフル協会の存在は大きい。国は、殺人を狩りの如く解釈する国だ。狩りをする為には銃がなければ始まらぬ。人を人とも思わず、鹿や猪のように射撃の標的にしか見ていない。狩りを愉しむゲーム感覚で、殺人が日常茶飯事である国がアメリカ。こんな国が世界を支配する。その国のトップが狩られたくなければ、狩る側と同じ様に武器を持てと、真顔で世界に発信する。これでは、狩られたくなければ国家もそれなりの武器を持ち、狩る奴に対抗しろと言わんばかりだ。狩る国はアメリカだろう。北朝鮮もこんな恐ろしい国に狩られたくないので、核という武器を手にしたのではないか。今度はそれを許さじとばかりに、武器をもつ国をぶっ潰そうとしている。どちらの国がより狂っているのだろうか。

【姑息な安倍首相の改憲案】日米安保がある以上、此の国の真の独立は有り得ない。日米安保を廃棄すべしと主張する政治家は皆無だ。では、どうして安保体制下、米軍は駐留し続けやりたい放題なのか。それは、憲法9条がある中で、此の国には「戦力」の存在が認められないからだ。だから米軍により、日本及び東アジア極東地域の防衛を肩代わりして貰わざるを得ない。従って、米帝の植民地状態から抜けるには、憲法9条の戦力不保持条項を廃棄するしかないのだ。それは即ち現憲法のままでは有り得ないことを意味する。自衛隊を政争の具から解放し、国軍としての位置付けを明確化させる事こそが、此の国の真の独立が達成される必要条件である。安倍政権が考える改憲案は、9条2項には触れず新たに3項を加え自衛隊を明記する加憲案だ。これでは米軍指揮権の下で体良く下働きさせられ、今迄以上に我が国が米帝戦争に巻き込まれるだけで、深刻な事態に窮する事は目に見えている。北朝鮮テロ支援国家再指定をトランプに口添えし脅威論を煽り、姑息な加計隠しに利用しようとする安倍首相の考える改憲案など、米帝従属姿勢には何の変化も見られぬ愚策としか言い様が無いものだ。

【宗教と狂気】22年もの歳月を掛けたオウム裁判に、一応のケリが付けられた。が果たして、事件が提議した問題の深層に、我々は何処まで近付けたのであろうか。社会主義及び冷戦構造が崩壊していく過程の中で起きた、世界を震撼させる大事件であった。生物化学兵器を使うテロが、この日本で起ころうとは、誰が想像したであろうか。教団に疑惑の目が向けられても、まさかという思いが最後まで付き纏い、広報宣伝担当役でテレビによく登場していた上祐史浩の弁明に、俄かに信じ難い事とは思いつつも騙されてしまった感は否めなかった。そして、教祖以下、教団幹部によるマインドコントロール(洗脳)により、多くの信者を狂気に走らせた出来事を、全くの他人事として解釈できなかったように当時を振り返る。大日本帝国下の日本はどうであったのか、将又、現在の北朝鮮情勢はどうなのかと考えさせられたりもした。絶対的真理を希求する信仰心が、得てして仇になる場合もあると言う教訓を、オウム問題は示唆しているように思う。

<オウム裁判は22年で幕だと報じられても、根本問題には幕引きはない>1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件が我々に突き付けた問題。それは「宗教と狂気」だ。松本智津夫こと麻原彰晃は、天下の極悪人として処刑を待つのみとなった。彼のやった事は、正しく宗教が内包する「絶対的真理追及過程の一コマ」であったのではないか。オウムに限らず、他の諸宗教も、大なり小なり自分達の勢力拡大を目指す途上で、凄惨なる殺戮行為が、歴史上、繰り返されて来たではないか。その最たるものが、キリスト教史の中で展開して来た宗教戦争であろう。ドイツ三十年戦争など、血みどろの悲惨な出来事は、枚挙にいとまがない程だ。オウムが此処まで注視された背景の一つは、松本サリン事件に端を発する、生物化学兵器の使用という、今迄に見られなかった殺害行為を伴った事である。VXガス炭疽菌であるとか、現在のテロ殺害でも使用される毒物を、彼等が言うところの「ボア」なる聖的宗教行為の一環として使用した事にあった。だが、殺害手段に拳銃を使用しようが、刀を使おうが大同小異である筈なのだが、「サリン」という化学物質に、正しく化学反応の如く我々は異様な反応を示したのである。

そこで、考えてみよう。イスラム過激派組織が、聖戦ジハードとして何の躊躇(ためら)いもなく、自爆して多くの市民を犠牲にしても、自分達のやっている無差別テロを、正当化する事と、オウムが、サリンで地下鉄乗客を無差別にボアし、「ハルマゲドン」を声高に宣明する事と、どれだけの違いがあるかと言う点だ。

私は、何も麻原やオウムを擁護したいのではない。逆に、彼等の偏向した偏狭なる志向に対して、大いに嫌悪感を抱いている一人なのだ。断罪すべきは、宗教を利用し、支配権力を掌中に収めようと悪巧みする、「ダークマター」の存在なのである。

オウム問題と西部はリンクする。西部は、オウム麻原に思想的影響を少なからず及ぼしたとされる「中沢新一」と、かなり密接に繋がる人物であるからだ。昨年末、右翼主催の対談に元気な姿で出演し、何時もの西部節を披露していた。そのネット番組の最後の方で、冗談っぽく「死んでやる〜」とボヤいていた。あれから1ヶ月も経たない中で、多摩川に飛び込んで自殺したとは。日本社会へのある意味、諫言的な死だったのではないか。だが、三島の自決ほどセンセーショナルなものではなく、粛々と追悼報道がなされるだけで、西部も今頃あの世で、この程度のニュースにしか成り得ない自身の死の評価に、愕然としているのかも知れぬ。単なるボヤキ爺の自殺として、三面記事的に取り上げられて済まされようとしている世間の軽さに、彼の世で彼の嘆きは一段と深化されている事だろう。

痛みを感じない、感じられない戦争 リアルじゃない、バーチャルな戦争 大勢でない、ごくごく限られた戦争 限られた者がボタン押すだけの戦争 まさかマサカまさか嘘だろうの戦争 そんな戦争が近付いて来てる。

【怨念が民主化を促した】ところで、踏まれた痛みは踏まれた者でないと本当のことがわからないとよく言われる。広島・長崎、あるいは沖縄の人々に関しても同様のことが言えるのではないだろうか。原爆を投下され犠牲となった広島・長崎の人々にとり、加害者への恨みは一個人に対してだけでは済まず、加害国及び戦争に関わった全てに向けられてもいくのである。大変な人権侵害を受けた側にとり、その痛手や心の傷あるいは加害者に対する恨みは、永久的に続く。国家的犯罪とされる北朝鮮による悪辣な拉致事件問題が簡単に解決されないのも、日朝の過去の歴史がそうさせているのである。日本の一時期において諸外国に対し甚大な被害を与え、その責任を我々も含め今も問われ続けているのである。自分に直接、関わりのないことに対して、人はとかく鈍感になるものだ。しかしひとたび、わが身に害が及んで来たとき、安穏としていた自分が豹変してしまう場合もある。サカキバラ事件で殺害された土師淳君の父親もその内の一人だった。殺人は新たな殺意を引き起こすものであるということを噛み締め、「なぜ人を殺してはいけないのか」という一見子供染みた愚問のような問いにも、真摯に答える必要がある。

【ドウシヨウモナイ政治状況】無差別テロは、自身をも含めた破滅的行為により、己のルサンチマンを当て付けて憂さを晴らそうとする、卑怯な手口だ。テロ対象をピンポイントに絞り、相応の理由を持って然るべき相手に、破壊行為を振り向けるならまだ理解できる。例えば、我が国の戦前における、右翼によるテロ行為だ。井上日召血盟団事件などはそれである。「一人一殺主義」を実行し井上準之助や團琢磨を特定し暗殺した。他に何の迷惑も掛けず、己の思想・信条に基付くテロリズム。そうした性格のテロが、国内外ともに近年、皆無になっている。何とも情けない現状である。祭りやパレードなどで賑わう大勢の群衆に向かって、トラックを猛スピードで突っ込ませ、無垢な子供も含め多数の人間を轢き殺す。この非道この上ない遣り口が、最近、多くなって来た。凄惨な事件は全世界に広まり、彼等の存在を知らしめる世間へのPR効果は絶大だ。これを狙い、何度も同様の痛ましい事件が繰り返され、何の罪も無い、それまで幸せに暮らしていた筈の、平和な市民が巻き添えを被り、犠牲となる。犯人達テログループは、米帝に支配された世界の愚かしさを論い、自分達の悪逆非道な殺人テロ行為を正当化しようとする。ならば、そうした支配者をピンポイントで狙った正当的テロに特化していけば済む事だ。そうした努力をせず、安易な無差別爆弾テロ等に活路を見出すようでは、決して世界は変えられない。殺す事に対する躊躇(ためら)いも無く、殺した死者の魂への怯(おび)えも感じ無い。これが殺人者の通例だ。普通の精神を持った人間は、人を殺す事に対する想像を絶する躊躇いや、その後、自身に降り掛かるだろう死者への怯えに、到底、耐えられない。だから、殺さないし、殺せないのだ。

投票所に行く事が、意外に億劫だと感じてる人は、少なくないと思う。特に今回の衆院選は、台風日本直撃で風雨が強く、投票所まで足を運ぶのを厭う有権者が多く居たのではないか。そうした下らない理由が、案外、投票率の低下に関わってるものだ。斯く言うこの私も、そのショウもない輩の一人だった。そんな時、ネットで簡単に投票が出来るシステムなら、全然良いのになと思う事頻りである。従って、私はネット投票賛成派だ。データベース上に履歴が残ったりする事が回避できれば、問題ない。技術的に無理なのか。完全に履歴が消せると、実施が出来る。国会でも、審議後の多数決をとる際、ボタンを押して電光掲示板に瞬時に数字が示されたりしているのを、よくテレビ中継で見たりする。そんな時代なのに、投票が今でもアナログ方式で、多額の税金を使途して選挙・投票に無駄遣いする。もし、ネット投票が問題なく可能となれば、そうした事も改善されるし、現在の政治状況を激変させる事も可能と思うのだが。それが良い変化になるのか、そうじゃないのかは定かではないが、投票率は百%近くに跳ね上がり、それこそ直接民主制が実現できる。

最高裁国民審査この制度程、完全に有ってな無きが如しのものは無い。未だ嘗て一人たりとも辞めさせられた例はない。全員信任制度でしかない。最高裁は完全に御用化しており、その時の政権に顔を向け国民にはソッポを向く。砂川事件で、長官の田中耕太郎が米帝と日本政府に忖度し、「統治行為論」なる詭弁論法で、日米安保に対する憲法判断を回避した時から、この組織は不正義の象徴となった。現在もその本質は不変だ。「憲法の番人」「人権の砦」なんて、チャンチャラ可笑しい。正しく「米帝と政権の番犬」で、我々の人権侵害を見て見ぬ振りをするだけの、下らない権力の手先なのだ。「司法権の独立」も、最高裁による下級裁支配統制で、裁判官相互の独立、即ち司法内部における独立は、全く機能していない。それは、長沼ナイキ基地訴訟に於いて、当時、違憲判決を下した、札幌地裁福島裁判官のその後の人生が、如実に物語っている。トランプ戦争で、我々の命は守れないのである。「日米合同委員会」然り、超法規的米帝による日本支配及び植民地化は、日本の法律なんて全く通用しない。幕末・明治維新における不平等条約治外法権が、ほとんど同じ様にこの時代も罷り通っている。この現実は如何ともし難い、哀しい現実だ。

基本的には、天皇制に纏わるの暗い歴史が、知識人や言論人の態度表明に影響するのだろう。天皇制は、体制派であるかどうかの、正しく「踏み絵」であり、日本人であるかないかの「証明」でもある。天皇制に対するアンチテーゼは、反体制派であり、同胞とは見做されない事を覚悟しなければならない。そうした事に因る、自身に降り掛かる不利益を避けたいのが、一般国民の心情で普通の人なら、皇族に対して、日の丸の小旗を沿道で振り乍ら、笑みを絶やさず「万歳」の連呼に心掛ける。最たる不利益は、身の危険だ。昔なら非国民と謗(そし)られ、共同体から摘ま弾きにされた。疎外が高じて命を奪われる事も多々あった。小林多喜二の非業の死は、その象徴的弾圧として後世に語り継がれる。現在でも、暴力団的右翼のターゲットになり、嫌がらせの街宣が繰り返されたり、最悪の場合、暗殺の憂き目に合ったりもする。こうした事に対する恐怖が、言論活動への自粛や、天皇制に対する自由闊達な発言が抑制される背景となっている。為政者に対する愚痴や反体制的言動は、天皇制批判をしていない限り、概ね許容される。従って、近時に於いては、「天皇陛下のお言葉」を尊重する姿勢を、一応とっていれば、身の危険からは免れるのだ。そうした天皇及び天皇制の消極的政治利用が、少なからず知識人や言論人の頭を過ぎり、連綿と継承される隠微な日本文化の象徴ともなっている。

改憲に向け改憲論の前に】現実と理想の相克をどう解消するかがポイントだと思う。この場合、3通りの方法があって、①現実に理想を合わせる、②理想に現実を合わせる、③現実と理想お互い妥協させ歩み寄る、とまあ、こんなパターンかな。で、戦後、日本は③でやって来た。現実と理想は本来、対極的なる性格から歩み寄りなんて出来っこない。それをしようとすると、必ず「矛盾」や「偽装」が起こり、問題が連綿と続いていく。それによって自己破綻が生じてしまう。人間個々人の人生における営みに関しても、同様のパターンが展開しているのではないか。現在センター試験を始め大学入試本番真最中なので、進路を例に考えてみよう。①を実行するには、理想レベルを著しく下げなければならない。偏差値の低い現実の自分は、理想とする偏差値の高い大学には入れない。だから、偏差値の低い進路先を選定する。②を実行するには、逆に不甲斐無く情けない自身の無学力を、相当な「努力」により向上させ、低レベル偏差値を理想とする進路先の偏差値レベルに押し上げる必要がある。最後の③は、前記の①②共に中途半端な実行の帰結であり、そこそこの理想にそこそこの現実を擦り合わせて見出される着地点だ。憲法9条1項の「戦争放棄による平和主義」は、2項の「戦力不保持及び交戦権否認」で具現化される。だが、2項の「戦力不保持」という「理想」と現存する「自衛隊」という「現実」が、50年代中葉期以降、矛盾を来し、戦後日本政治史を大いに翻弄して来たのだ。米帝支配下の与党自民党政権は、野党からの矛盾追及指摘からH(叡智)を見出して来た。我々日本国民も、戦後最大の矛盾から多大なる影響下に晒され続け、戦後民主主義を嘯きながら「捻れ」た日本精神を育まされてきた。政権党のHは、イソップ童話の「酸っぱい🍇」の逸話に収斂されるだろう。喉の渇きを抑えながら、たわわに実ったブドウの木の下を通り掛かった狐の行動と心理だ。何度ジャンプしても、美味しそうに実った高木のブドウに届かない。ジャンプしても葡萄の果実にありつけず、喉の渇きを癒せないストレスから生じた「苦肉の策」が、狐の正しく狐の知恵(H:叡知)だった。自分の努力不足による目標未達成を遣り過ごし、高じたストレスから解放される方便を。「あの葡萄は腐っている。だから届かなくて幸いだ。通り過ぎよう」これを、フロイトは、防衛(適応)機制(反応)として、『合理化』と位置付けた。簡単に言うと、「自分の都合のいいように『解釈』して、難を逃れる」事だ。自民党政権も、2項の戦力不保持と自衛隊の絶対的矛盾を様々な苦肉の策を使い、自党へのストレスを解消する術を身に着けて来たのである。自衛隊は戦力ではなく、「必要最小限の『実力』である」と『解釈』して遣り過ごして来た。③の立場を基調にした離れ技を次々と編み出し、憲法条文を変えることなく、事実上の所謂『解釈改憲』を行って来たわけである。

2項の「戦力」不保持に関し、どれだけ国民がその本当の意味を理解しているのだろうか。1項と2項を結ぶ、謂わば接続詞的ワードがカギを握る。即ち、「前項の目的を達するため…」のフレーズである。1項で平和主義の第一要件である「戦争放棄」を謳っている。ここで「戦争」をどう捉えるかでも、その後の戦力の定義付けが微妙に変化する。戦争を「侵略戦争」と限定すればどうなるか。侵略戦争を行うための戦力を放棄するのであり、そうでない「自衛戦争」のための戦力までも放棄したのではない。自衛隊は、自衛戦争のための戦力であり、放棄したものではない。従って、自衛隊憲法違反(違憲)ではない。だが、自衛の名のもとに戦争はなされる事が概ねで、自衛戦争も含めた例外なき全ての戦争を戦争と看做すべきで、そうすると、自衛のための戦力、即ち自衛隊憲法違反となる。こうした神学論争が戦後、与野党間で繰り返されて来た。更に、自衛隊は自衛のための戦力ではなく、自衛のための「必要最小限度の『実力』である」なんて言う、苦肉の策が弄されて来た。必要最小限度の実力は戦力ではないと『解釈』され、改憲せずとも、事実上の改憲と変わらぬ、所謂『解釈改憲』がなされ現在に至って来た。

何が何でも改憲への流れ、これは止まらないし止められない。改憲イコール9条改定、すなわち自衛隊を曖昧的存在から脱皮。米帝はどちらでもいいとするスタンスをとる。現状維持なら今まで通りで、曖昧的存在のまま限定利用。改憲ならば自衛隊のフル活用が可能で米軍の補完手段。前者だと米軍負担は従来のままで大きいが、日本は去勢状態で傀儡可能。後者だと米軍の軍事的負担軽減できるが、日本本格的再軍備許容。日米安保への比重が急減し、日本の自助努力へ向けた姿勢転換。米帝ジャパンハンドラーは改憲勢力米帝言い成りに反抗しない程度ならば、彼等を操り、自衛隊を米軍の傘下で完全利用が可能になるよう暗躍するだろう。どう転んでも、米帝の軍産複合ネットワークから抜けられず、軍需産業の思う壺に、どんどん嵌められて行く。その過程で米帝戦争に自衛隊が組み込まれ、既に制定された安保法に則り、海外派兵を余儀なくされる自衛隊員の犠牲者が多発することは目に見えている。それだけでなく、米帝と一体化した日本は、ISなど反米勢力のターゲットとされ、国内外で邦人のテロ攻撃による犠牲者も続出する筈だ。そしてその先に待ち構えているものは何なのか。そう、それが一番の問題なのだが、結局、戦争という結末に至らないと収まらないのだ。歴史は繰り返す。絶対権力は腐敗する同様、絶対歴史は繰り返すのだ。もう日本国民もこの流れに身を委ね、自爆して活路を見出すしかないことを悟り始めている。所謂、ヤケクソなのだ。憲法が精神に該当するのなら、筋肉に該当するのは何なのか。それは、軍隊だろう。日本の自衛隊は、憲法上、軍隊ではない。もし、自衛隊が軍隊でないなら、この国には筋肉が無いことになる。そんなのクラゲ国家。国家とは言えない。その実力を手にしなければならない。

自衛隊の存在価値は、「刀」を持つ意味と同様である。自衛隊は刀という「暴力」装置であるが、戦後、その刀を決して抜かぬよう「武士道」を心掛けてきた。しかし、暴力世界という現実に翻弄され、「武士道」に押し潰されることから逃避しようと抜刀することで自身の弱さを誤魔化した。アメリカが仕掛ける「大義なき戦争」への逡巡は、我々が果たして「ラストサムライ」になり得るかどうかの踏み絵であった。見て見ぬふりのなあなあ関係がかえってお互いの距離を隔てさせ、モラル低下に歯止めが効かなくなる場合がある。また放縦的関係性の継続が、質の悪い苛めに繋がったりする。感情的爆発でお互いの馴れ合い関係を瞬間的に壊した方が、言葉を駆使してその場凌ぎをするより後腐れがなくて良いこともある。慇懃無頼な輩を野放しにする偽善的人権擁護論が後を絶たず、荒廃に拍車を掛ける。死刑廃止論を追い風に犯罪者が跋扈し、悪事に抑止力が全く機能しなくなる。そうした中、慇懃無頼な輩を野放しにしたモラル・ハザードの現代において、死刑廃止論は未だ大勢を占めない。ホッブズが人間の本質を「恐怖」から見詰め、近代的国家観を提唱したのも頷ける。

9条を正しく窮状へと追い込んだ。米国の我が国への再武装要求による自衛隊創設が、9条2項に明記された戦力不保持条項と矛盾を来たしたからだ。その後、現実に在る自衛隊と無いものとする条項との、無理な摺り合せが続く事となり、現在に至る。世界的にも有数の防衛力を誇る自衛隊は、2項の戦力に該当するのは明白であり、都合のいい解釈でそうではないと換言し続けても、嘘の上塗りでしかない。このまま2項の軍隊ではないとされる自衛隊では、隊員に命を賭して国を守ろとする気概や矜持は持ち得ようがなく、戦争を止めることはできない。人類史は戦争史でもある。戦争をしない時代は皆無と言っていい。世界大戦後、国際平和組織も二度にわたり形成されたが、覇権大国の具になるばかりだ。戦争がなくならない根本的背景として、「軍産複合体」がある。兵器産業の暗躍と政治や軍事との癒着構造だ。毎度、この厄介な代物に人類史は辛酸を舐めさせられて来た。戦争反対と念仏の如く言い続けても、戦争はなくならない。

日本会議の本質は、米帝支配植民地主義を後ろ盾にした、「寄らば大樹の陰」会議である。桜井よしこは、一体、何様のつもりなのか。小池以上に保守思想を軽々に扱い、ライトをファッション感覚的に標榜し、愛国者を嘯くだけの輩が、九条改憲翼賛体制推進会議の広告塔として君臨す。こんな輩に洗脳された似非ライト徒党集団が、此の国を米帝支配翼賛勢力の巣窟にさせ、ジャパンハンドラーに操られて行くだけなのだ。そもそも、彼等の口にする改憲とは、戦力不保持を謳った9条2項だけで、それ以外はどうでもいい話なのだ。彼等の叫ぶ憲法改正とは、九条2項に明記された「戦力」が、現存する自衛隊と矛盾なきものとなるようにする事だけを目的とした、非常に単純で卑小な矮小化されたものだ。その表れが、安倍晋三の9条3項加憲案。1・2項はそのままにして、2項に矛盾を来す「自衛隊」を3項に明示し、米帝馬鹿トランプの言い成りになるだけの、その場凌ぎ改定で済まそうとする小手先改憲である。このような姑息で、対米従属を念頭に置いた改憲が、果たして、保守派の狙い目であって良いものなのか。真の保守や右翼を宣言するならば、2項の戦力不保持条項は廃棄し、正規軍即ち国軍樹立に向けた条項に変える改正でなければ、嘘になる。そうした改正は、非現実的で国内外ともに支持を得られないだろうと、先走る浅知恵に負け、前述の安倍晋三等の加憲案が提示されるのだ。だが、この提示を衆院選勝利をバックに、今後、前面に打ち出していく事となるだろう。そして、この姑息改憲が現実のものと成ればどうなるか。米帝の世界支配に、自衛隊がフル活用され、自衛官の殉死者が累増するのは目に見えている。それだけではなく、世界各地に展開する日本の自衛隊を見た反米勢力は、テロ等のターゲットを直接、日本及び日本人に向けて来るのは間違いない。今迄、経験した事のない大惨劇が起こり、多大な邦人犠牲者を出す破目になるのを覚悟せねばならない。そうした事態に至るや否や、自説を都合良く翻し、憂国をカッコ良く発言するだけの、腑抜け勘違いデンデン首相を担ぐクラブが、日本会議なのである。

【学校教育から防衛問題を考える~教師と自衛隊~】「尊敬」される先生は遠い過去の肖像と化し、現在、「馬鹿」にされる「センセイ」が常態となる。センセイは社会的に「いじめ」の対象となり果てる。そんな社会的威信というバックボーンを喪失したセンセイは、自信をもてるはずもなく、子供達からも小馬鹿にされる正しく「悲しき玩具」となるのである。国家も教師も尊敬されるためには何が必要か。それは、「実力」である。実力には様々な要素がある。大別するとそれは二つに絞られるのではないか。一つは、精神的側面、もう一つが物理的側面。この両者がバランス良く並立していれば、最高の実力者と成り得るだろう。しかし現実は、そのどちらかを強く有する実力者か、あるいは、そのどちらも持ち得ない「無力」者に分かれる。さしずめ、トランプ政権下の米国は前者であり、物理的実力者の典型国だ。世界最強の軍事力を有する物理的実力国と言っていい。しかし、そうした力の米国に対し、世界は概ねひれ伏し、恭順の構えを示す。だが、心底、かの国を尊敬の眼差しで見ている国は少ないだろう。特にアメリカ第一主義を掲げ、他に対し排他的で強圧的姿勢を標榜する現アメリカには、敵愾心を抱く国が多く存在する筈だ。我国も同盟国ではあるが、表面的な友好関係を取り繕うだけで、腹に据えかねている事が多くあろう。教師も、米国型タイプになると厄介である。更にどうしようもなくなるのが、物理的実力もなければ精神的威信もない、無力な教師だ。まだ、前者のような教師に対して生徒は、曲がりなりにも従順的姿勢を取ろうとするが、後者になると悲惨である。生徒集団を無軌道で無秩序な暴徒に変容させてしまう。一部の正義感を持つ良心的生徒も、その性格を捻じ曲げざるを得ない場合も起こってくる。そうした最悪で最低の空気環境を打破するのは、矢張り実力なのだ。しかも物理的行使を伴う実力である。現在の日本国における物理力は、「自衛隊」だ。しかし、愚かな政治的作為を濃厚にした戦後のドサクサの中で、性急に捏造された憲法の元、「必要最小限度の『実力』」にしか過ぎない存在となっている。国連同様、正しく「哀しき『玩具』」なのだ。真の「実力」を有するためには、実力行使が可能な、言い換えれば体罰を行使しうる「軍隊」となる事が必要条件となる。現憲法の九条二項に去勢され無力化された自衛隊では、馬鹿にされることはあっても、尊敬に値する国軍とは程遠い存在なのだ。こうした状況を変える第一歩が、国家においては憲法第九条二項の「戦力不保持」の改定であり、教育においては学校教育法改定による「体罰」禁止条項の是正とその法的(制限的)許容である。この国自体が、不倫してると考える。「自分に嘘をつく」こと、コレが一番の不倫だ。日本は、自国に嘘をつき続けて来てる。自国を誤魔化し続けて来てる。是こそが、最大の不倫だ。

対教師暴力問題は、日本の防衛問題と通底するものだ。教師の生徒による暴行に対して、全くの無防備状況は、正しく戦力不保持の日本の現況と同様なのだ。米軍と言う後ろ盾がなければ、早晩、何処かの教師の如く、バカ生徒に足蹴りされそれを動画配信されて笑い者の種になるばかりだ。従って、必ず、現実世界においては、不当不正なる暴力を抑止し得る何某(がし)かの物理力が必要となるのは当然なのだ。憲法9条で軍隊を持てぬ日本も、体罰を禁止され、何も出来ない状況下に置かれた、去勢された教師と何ら変わらぬ存在なのである。唯一、相違する点は、日本国には前述の米軍という世界最強の物理力がバックに有る事だ。だが、哀しいかな日本の教師には、後ろ盾になってくれる味方は、何も存在しない。平教員同士で構成された相互扶助組織の組合は、対教師暴力の抑止力に何の役にも立たない。況(いわん)や、職場の同僚にしても、自分の身の安全を確保するのに精一杯で、更に管理職は、「生徒への体罰は絶対に許されるものではない」の一点張りだ。文科省の御触れに従うのみで、蚤の心臓しか持ち得ない下らぬ輩でしかない。それに、世間は、教師のスキャンダルネタを報じて、金儲け目当てに走るマスゴミのメシの種として踊らされるだけの、無見識な集団でしかない。家庭における教育力は皆無状態で、子供を躾けなければならない保護者が、崩壊する家族をまとめる事が出来よう筈がない。幼少期から子育てを放棄して、子供にゲーム機器を安易に買い与える。その挙句に、歳だけ取ったバカ者達は、バーチャル感覚で一日の殆どの時間、ゲームに現を抜かし、人を傷付けたり、殺めたりしても、何も感じない無機質人間と成り果てる。そうした連中が、学校で教師をゴミ扱いの如く、何の躊躇(ためら)いもなく、万座の前で蹴り上げ、それを見た生徒は止めようともせず、逆に煽り行為に加わり、動画を撮って面白半分でネット配信するのだ。こうした状況を打開する手立ては、体罰厳禁の中では、警察への即時通報による現行犯逮捕しかない。

ホンマに下らない事にエネルギーを費やし、挙句の果ては子供の人生を狂わせる。幾らなんでも、やり過ぎだろ。生まれつき赤毛の者もいたり、色々なタイプの人間が居る。それを一律、黒一色に染め上げさせる。正しくファシズムじゃないか。だけど、学校文化は、学校化された社会の縮図なだ。何も学校だけに限った事ではない。会社だって、皆、リクルートスタイルを強要され、それに合わせられぬ人間は、疎外の対象となる。だから、学校内だけの問題ではないのと違うか。こうした背景に、一人の我が儘を例外的に認めたら、体制が成り立たなくなり、崩壊してしまうと思い込む、管理・支配側の恐怖がある。学校で言えば、教師サイドの論理だ。これを広げてみると、北朝鮮権威主義的中央集権型の社会主義になる。この国でも大日本帝国軍国主義を邁進してた、1930年代から40年代半ばまでの時期、臣民として殆ど全員の日本人が同一色に染められ、戦争へと突っ込んで行った。だから、黒染めをシツコく、之でもかと強要するような教師が、大勢を占めた学校は、そうした戦争を翼賛する勢力に、直ぐ利用されるって事も考えとかなくちゃダメなのだ。少々の例外を作ろうが、世の中、そう簡単に変わらないものだ。逆に、日本人は乱れ過ぎて来ると、自主規制する国民性と言うか、文化を有している。だから、学校の先生も、タカが生徒の頭髪の色がドウタラと、下らぬ事にエネルギーを浪費するんじゃなくて、然るべきところにそのパワーを振り向けろって言いたい。先生自体が、皆、同じ色に染められ、文科省教育委員会の顔色ばかり覗い、変な忖度教育ばっかしてると、こう言うゲス極狂育になってしまうのだ。校長や生徒指導部(生徒課)平教員が、ショーモナイ糞メンツに縛られ、糞オモロナイ学校にしているのは、単(ひとえ)に学校管理職の器の小ささなのだ。一昔前の、持ち上げられた古き良き時代の先生と違い、今のガッコのセンセは、小心に世間体を気にし、体罰一つ出来ない。馬鹿にされるだけで何の権威も持てない、苦しい社会環境にあるのは共感できるが、年の若い生徒も、ちゃんと年長者を敬うと言う、基本的生活習慣は身に付ける事は大事だ。どんな奴でも先生は先生で、家で我が子が担任をボロカスに言ってたら、先ずは親が子を諫めないと駄目だろ。今は横柄横着な子供以上に、親が酷くなっている。

苛めは学校だけの問題ではない。学校化された世界の、至る所で見受けられるものである。苛めの構造は、権力構造とも一致する。まず、日本の近代化途上での欧米諸国との関係を通し、見比べてみよう。異質な日本が、西欧文化を旨とする国際社会の中で認知されるまでには、様々な苛めを受け、その試練を経験しながら、同様の欧米帝国主義の真似事をして、近隣東アジア地域で、植民地侵略と言う苛め行為を苛める側に組して行って来た。よく言われる、苛めっ子は、過去に苛められた経験のある者が殆どだという見方は、的を得た解釈である。苛めの苦痛を味わいたくないなら、苛める側の真似事をして、苛めの恐怖を回避する。例えば眉を剃り込んで強面にするとか、ヤンキーな風貌に変身するとか、苛める側に身を置き、苛めの加担をする。パシリをやらされたり、コンビニで盗みを働かされたりしていく。正しく、個人も国家も同様なパターンで、恐怖を巡るシーソーゲームを繰り広げているのだ。現在、北朝鮮を異物と看做し、苛めのボス米帝が日本をパシリ役にして、北朝鮮苛めの真最中なのだ。そうした構造を見極めて、決して自爆(殺)することなく、強かにサバイバルを図らなければならない。出来得れば、富を簒奪し捲る苛めのボスを退治していける手立てを見付けられたり、その覇権構造システムを打っ壊すキーマンに成れれば、言う事ないのだが。

そもそも、昔は不登校なんて言葉すらなかった。それぐらい、学校に行かない奴は殆ど居らず、行かないのは、よっぽどの事だった。それなりの理由があった。その代表が経済的問題で、勉強したくても、家が貧しくて、学費を納められず学校に行きたいけど行けない。これが普通だった。今は全然違う。自分の思い通りにならないので、学校に行かない。昔だったら、悪いのはお前だ‼︎で終わる話だった。それが今はズル休みが市民権を持ち、ズル休みを作る原因は、本人ではなく学校やそれを取り巻く社会環境にあると、主客転倒の扱い方となってしまった。戸塚ヨットスクールが世間に問うた、本質的問題は、似非生きる力ではない。生きて行きたいと、もがき苦しむ事から逃げず耐え忍ぶ力ではないか。戸塚宏の考え方が、未だに再考されているのには、それなりの理由がある。

2003年の経済協力開発機構OECD)の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど、低迷する日本教育の実態が浮き彫りとなった。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされた。昭和50年代半ばにゆとり教育が導入されて以来、授業時間と授業内容が一貫して削減されてきた。ゆとり教育は、子供の中にある怠惰を黙認・許容し、知識偏重の偏差値教育を揶揄する「勉強否定論」にまで至り、学習意欲のない生徒を甘やかせる結果となった。ゆとり教育総合学習も、日教組が昭和40年代後半から唱えてきたもので、文部省(現文科省)がその後30年間にわたって日教組の主張を結果的には実現してきたわけである。ゆとり教育学力低下した世代が、今、子の親となり、家庭における教育力低下に拍車を掛けている。校内暴力やいじめ、不登校などが激増した時期は、ゆとり教育を開始した時期に概ね符合している。小学校低学年にまで及ぶ学級崩壊は、幼児期の育てられ方に関係し、学力不足で大人に成り切れていない親たちの問題でもある。核家族化の進行のなかで、老人を疎外する社会が、結果的にはしっぺ返しを受けていると言ってもいい。生活の知恵や生きる術に長けた老人を家族から切り離し、臭いものには蓋をせよとばかりに隔離していくことが、未熟な夫婦による家庭における教育力の低下を促し、躾などで問題を有する近年の青少年を輩出する社会的な土壌となっているのではないか。また、そうしたバカ親に限って、昨今のモンスター=ペアレントになり得るのである。『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦氏は、「日本の子どもはバカだ」と指摘する。なぜこうなったのか。藤原氏は、個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという、子ども中心主義が信奉されてきたことを第一の理由に挙げる。インターネットの普及などの文明化と逆行する人々が増えている。大国の読み書き算術能力が退化すると何が起こるか。一部のエリートが、単純な言葉で大衆の人気取りに専念し、権力に居座る。ワンフレーズ首相と言われたパフォーマーが、劇場国家の中で一世を風靡したのはどの国のことであったろう。

昨今の安易で早計な改革論に押し流され、国家百年の大計を過つようなことがあっては、取り返しのつかないことにもなり得る。欧米近代合理主義を根幹とする戦後民主主義教育が至る所でその綻びを露呈している中、学校化する現代社会の病巣を修復するための処方箋として、学校教育の分析検証は必要不可欠である。日本の教育力は戦後の発展と成長を支えた柱の一つと言われ、若者の知の水準も主要国のトップを維持してきた。ゆとり教育の指導要領は有馬朗人文相(当時)が告示し、小中学校では2002年度から、高校では03年度から実施された。しかし文科省ゆとり教育の失敗を重く受け止め、総合学習により減少した授業時間数を一転、増やすことになった。が、こうしたブレまくる文科省の方針転換が、教育現場を大混乱させたことは想像に難くない。学力低下批判や公立学校不信の高まりをよそに、ゆとり教育をひたすら推し進めてきた行政の責任は大きい。失敗が明らかになった以上、自らの誤りを認めず場当たり的施策を打ち出すだけで詰め込み競争と揶揄し、基礎学力を軽視したことを深く反省する必要がある。2007年に希望者全員が定員枠に収まる全入時代となり、大学倒産も現実のものとなった。そして定員確保のための入試の安易化と受験生の負担軽減が大学生の学力低下に拍車を掛けた。小学校から大学に至る日本の若者の知的レベルの地盤沈下は、バブル崩壊以降のこの国の社会が抱える構造的なひずみと重なる部分も多い。ニートと呼ばれる無職層の若者の急増もこれと無関係ではなかろう。国の教育政策の失敗を十分検証するとともに、社会構造の変化も踏まえて新たな知を創造する仕組みが必要である。

高野連の悪巧みと言うより、それを操る大新聞メディアの罪は深い。夏は朝日、春は毎日、正月は読売。この3社が、スポーツを売り物にして、メシを食っているのだ。そして、高校野球箱根駅伝が教育的に美化され、国民の目を騙し続ける。学校教育も野球部を始め部活動というファジー領域を抱え、教員は時間外労働に無給で動員される。夏の甲子園に出場するために、青春時代を野球一筋に明け暮れ、勉強も六スッポせず数年間を過ごす。野球でメシ食える者は、ホンの一握り。イチローや松井の様に、大リーグでの活躍を夢見て、プロ野球を目指す。そんなピラミッドの頂点に立てる逸材を、育む為のシステム作りに学校は利用され、生徒・教職員が大なり小なり巻き込まれていく。熱中症死も出る確率の高い、一年で最も蒸し暑い過酷な時期に、甲子園大会に向けての地方予選の日程が一律に組まれ、ほぼ全国同時進行で試合が消化されていく。学校によっては、地区予選の一回戦から全校応援を余儀なくされる場合もある。それによって、野球優先の学校行事予定とも成り兼ねない。地方予選は、概ね7月中旬頃からスタートするので、まだ梅雨の明け切れない気候の不安定な中、雨で順延する事もしょっちゅうだ。大会役員はその度に試合日程の変更に苦慮し、学校現場も授業変更等、振り回されてしまう。こうした事が、年中行事の如く、毎年、全国津々浦々の高校現場で展開しているのだ。何というエネルギーの消耗だろう。これだけ大々的に為されるスポーツイベントは、他には見当たらない。マイナー競技に至れば、全国大会優勝戦ですら、学校からの応援は皆無だったりする事も当たり前だ。こうした競技に対する差別的取り扱いは、公正・公平を旨とする筈の学校教育上、誠に遺憾な事ではないだろうか。そうした苦言を呈する事も、学校現場ではタブー視されているのが、現状ではなかろうか。

【社会諸々】縄文は日本の原型なのであり、弥生は朝鮮渡来の異型なのだ。弥生人が原日本人の縄文を周縁に追い遣り、大和支配が完了する。その過程で、天皇制の枠組みも、構築されて行ったのである。九州熊襲や東北・北海道の蝦夷アイヌの人々は差別の歴史と共にあるが、我々日本人の祖先縄文は、こうした被差別の側に立たされている人達なのだ。我々自体は、朝鮮渡来の弥生系で、御先祖様である縄文系の人達を疎外し差別しながら、同時に朝鮮半島の人々に対しても、それ以上の歴史的差別を繰り広げて今に至る。そうした事を認識しない中での、天皇制日本の表層的事象に対する言及が通常であり、それが全くズレた言行へと、人々を誘導する背景としてある。

キリスト教古代ローマ帝国との関係において、それは如実に示された。近代以降においては、ガンジーの非暴力・無抵抗主義をバックにしたインドと大英帝国との関係が正しくそれである。現代では、憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。正義を嘯くアメリカというサタン。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、去勢されてきた。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が続いてきた。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華できるようになっている。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいる。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑がある。

人は他人の秘め事を知りたがると同時に、自身については他人に知られたくないものだ。「知る権利」を主張しながら、知られたくないと「プライバシー権」を盾にする。都合がいいのだ。政府は更に上手で自身に向けられた情報公開請求を逆手に取って、国民生活に対し情報開示を迫り、知る権利を有するかの如く振舞う。不確かな安心・安全に縋り、偽装された自由をかなぐり捨てようとしている。正しくエーリッヒ・フロムが嘗て警鐘を鳴らした「自由からの逃走」を再演しようとしている。 ポピュリストが輩出し事大主義に煽られ、我々は一体何処ヘ突き進もうとしているのか。核の平和利用の美名の下で「原子力ムラ」は着実に「増殖」する。6年前、世界中にあれだけの大惨事を曝け出し、痛い目に遭ったはずなのだが。この国の「センセイ」達は、「寄らば大樹の陰」で、「米国第一主義」なのだ。誰もが「日米同盟ファースト」とよく口ずさむ。当然、同盟によるハイリスクを覚悟せねばならぬ。ジョーカー・トランプが米国の覇権生き残りのため、日本を「切り札」として「捨て駒」にする日が近付いて来ているように感じる。都合の悪い事は直ぐ忘れようとするものだが、日本は現同盟国に、過去、核爆弾を2発も落とされた。これ以上ない理不尽を味わわされたにもかかわらず、奇襲攻撃という負い目を引きずり相手の顔色を窺い続ける。米国に砲艦外交で開国を余儀なくされて160年以上が経つ。ある意味、日本は、凌辱された女(日本)が、その意識を押し殺し凌辱した男(米国)への復讐を遂げる日を夢想しているなかで、米国との関係を成立させているようだ。正しく日本(人)は、「汚れちまった悲しみ」をバネに、それを生き甲斐としている。近代以降の日本人が、忠臣蔵の「仇討ち」に惹かれる背景には、こうした米国に対するどうしようもない怨念感情(ルサンチマン)があるからかも知れぬ。戦争を知らない平和ボケ世代がほとんどになり、過去の「悲しみ」の歴史を「忘れていく」事により、近い将来、「トランプ戦争」に巻き込まれ「忘れちまった悲しみ」に直面するのではないかと危惧する。

ゴジラ」は、「恐怖心の象徴」であると同時に、55年体制から今に至る「自民党」その物だ。野党から攻撃されて瀕死の状態になっても、ずっと進化を遂げ生き続ける。進化し続けるゴジラは、絶対多数党になった一強体制の自民だ。様々なエレメントを獲り込み、不死鳥の如く蘇りサバイブする。エレメントの筆頭は核。ゴジラの原点は、ビキニ環礁沖の水爆実験だった。核の被害者であると同時に、核エネルギーを吸収し巨大化したモンスター。それは正しく日本その物だ。原爆を2発もブチ落とされ、メゲルことなく核エネルギーの平和利用と嘯き、原発大国に伸し上がった。今や神の化身の如く在り続けるゴジラの中には、今後も様々なエレメントが集積されていくのであろう。ゴジラを倒すべきなのか、それとも共存すべきか、将又、ゴジラが臨界点を超え自爆してくれるのを待ち続けるのか。もう私自身もゴジラに取り込まれてしまっている。

憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、去勢されてきた。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が続いてきた。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華できるようになっているのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけ。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑。

我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。「恐怖」を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界という「お化け屋敷」のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も「武士道」における「刀」の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。見て見ぬふりのなあなあ関係がかえってお互いの距離を隔てさせ、モラル低下に歯止めが効かなくなる場合がある。また放縦的関係性の継続が、質の悪い苛めに繋がったりする。感情的爆発でお互いの馴れ合い関係を瞬間的に壊した方が、言葉を駆使してその場凌ぎをするより後腐れがなくて良いこともある。

7年前、世界中にあれだけの大惨事を曝け出し、痛い目に遭ったはずなのだが。この国の「センセイ」達は、「寄らば大樹の陰」で、「米国第一主義」なのだ。誰もが「日米同盟ファースト」とよく口ずさむ。当然、同盟によるハイリスクを覚悟せねばならぬ。ジョーカー・トランプが米国の覇権生き残りのため、日本を「切り札」として「捨て駒」にする日が近付いて来ているように感じる。都合の悪い事は直ぐ忘れようとするものだが、日本は現同盟国に、過去、核爆弾を2発も落とされた。これ以上ない理不尽を味わわされたにもかかわらず、奇襲攻撃という負い目を引きずり相手の顔色を窺い続ける。米国に砲艦外交で開国を余儀なくされて160年以上が経つ。ある意味、日本は、凌辱された女(日本)が、その意識を押し殺し凌辱した男(米国)への復讐を遂げる日を夢想しているなかで、米国との関係を成立させているようだ。正しく日本(人)は、「汚れちまった悲しみ」をバネに、それを生き甲斐としている。近代以降の日本人が、忠臣蔵の「仇討ち」に惹かれる背景には、こうした米国に対するどうしようもない怨念感情(ルサンチマン)があるからかも知れぬ。戦争を知らない平和ボケ世代がほとんどになり、過去の「悲しみ」の歴史を「忘れていく」事により、近い将来、「トランプ戦争」に巻き込まれ「忘れちまった悲しみ」に直面するのではないかと危惧する。

矛盾がある際、人はストレスに苛まれる。それを克服する手立てを古来から講じて来た。それが「辻褄合わせ」であり、フロイト精神分析で言う「合理化」である。簡単に言うと、「自分に都合のいい様に捉える=解釈する」と言う事だ。だが、それは「誤魔化し」に過ぎず、結局、破綻を迎える可能性が高い。今が正しくその次期であろう。だが、変えるのではなく、今まで通り変えない道もあり得る。ただその場合、姑息で歪曲した生き方を選ぶ覚悟が前提となる。それを検証する前に、憲法制定に纏わるアウトラインを押さえておく必要がある。憲法9条は1条との関連性をもつ。天皇制の存置がGHQ(連合国軍総司令部)にとり大きな課題となった。枢軸国の各責任者に対しては厳しい眼差しが向けられていた。独・伊の最高指導者は共に、その死で責めを負わされたが、日本は未だであり、侵略を余儀なくされた中国など社会主義国から、天皇断罪を求める声が高まっていた。そうした極東委員会における天皇制打倒を声高に掲げるソ連や中国などに対し、米国やマッカーサーには天皇制を占領政策を円滑に進める上で存置させ、資本主義の盟主米国の反共政策遂行に利用する必要があった。そこで、極東委員会でソ中がリードする天皇制廃止論勢力への懐柔策として、戦争放棄と戦力不保持を掲げた平和主義の条文が9条として用意された。こうした、戦後の極東委員会とGHQマッカーサーとの駆け引きのもと、天皇制存置を可能とする1条及び、その副産物的9条を核とした現憲法が、マッカーサー草案をネガとする米国主導で急造された。

1条で天皇制存置が可能となるなか、完全非武装憲法9条が設けられた。だが、49年の中華人民共和国成立と、翌年の朝鮮戦争勃発で、米国の対日占領政策に大きな転換が起こる。日本の武装化(再軍備)要求である。警察力の補強という触れ込みで警察予備隊、続いて保安隊、そして1954年の自衛隊となる。憲法との矛盾が顕在化していくなか、極東での対ソ戦略上、日本の米国への軍事協力は、喫緊の課題となっていった。自衛隊の発足の3年前の1951年には、日本独立がサンフランシスコ講和条約で達成される。と同時に、米軍は占領軍としてその存在理由がなくなり、 撤退せざるを得なくなるが、それは冷戦構造下、対ソ・中戦略上、不可能であり、占領ではなくて駐留するための口実作りが、「日米安保条約」となる。これで世界最強の米軍が日本に居座り続ける事が可能となった。そして同時に日本は、米軍の核の傘の下、平和維持が可能となった。従って、9条がある以上、日米ともに安保体制は堅持しなければならなくなったのである。なぜなら、日本は自衛隊という9条により制約を受けた状況下、米軍に守って貰わなければならず、米国も、自衛隊という実効性のない軍隊とは看做せず覚束無い組織には、米国の世界戦略上、極東地域のプレゼンスを任せられず、日米安保を維持するしかないのである。だから、沖縄基地問題が在り続け、それに付随する様々な精神的・身体的・経済的負担を強いられ余儀なくされ続けるのである。

我々日本人のルーツはモンゴルだ(とオラは思う)。正確に言えば、バイカル湖周辺当たり。医学的にも血液型タイプの共通性から、かなりの整合性がある。その昔、江上波夫史観「騎馬民族征服王朝説」というのがあった。東北ユーラシア系の騎馬民族が、朝鮮を支配しやがて日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して大和朝廷を立てたという説だ。騎馬民族日本征服論とも言い、支持を集めたが、学会では多くの疑問も出され、定説には至らなかった。今日ではほとんど否定されているが、オラはこの少数派の一人だ。小さい頃、蒙古斑がどうのこうのと身近に話題となっていた。日本史上、初めての国難に直面したのも、蒙古襲来と言うモンゴル騒ぎだった。そのモンゴルが、今や日本の国技であり伝統文化とも言える、「相撲」界を席巻している。これを良しとするのか、そうでないとするのかで、「日馬富士暴行事件」の見方が多少なりとも変化するのではないか。オラは、「朝青龍」が日本相撲を大いに揺さ振る元凶になったと振り返る。朝青龍は強かったが、その態度は実力以上にデカかった。突出する彼の存在を緩衝する役割として台頭したのが、「白鳳」だったように記憶する。だが、今度は、彼が第二の朝青龍的存在となって来ている。質が悪いのは、自分は表にはならずに、子分達を陰で操り、相撲界を牛耳ろうとしている事だ。そうした動きに反発しマッタを掛けたのが、貴乃花ではないか。だが、彼も同じムジナである事には変わらず、最後は「排除」されてしまった。一番の問題は、相撲協会の隠蔽体質だろうが、そんな「隠蔽」は何処にでもある事で、言ってても詮無い事だ。それより、協会トップの「八角理事長」が何の責めも負わず、ノウノウとしている事が最も問われなければならない。

【流行語「忖度」を振り返る】(2017.12.27 愛媛投稿) 今年の流行語「忖度」は、加計問題に端を発して忽ち、至るところで使い回されるようになった。前川喜平氏の言を借りれば、今回の問題で本来の意味や言葉の有すニュアンスが、大いに「歪められた」。来日したトランプ大統領に対し、安倍首相の姿勢には様々な忖度が垣間見れた。更には忖度を通り越し、媚び諂いの感も否めぬ面もあった。さて、忖度なる流行語の切っ掛けとなった、加計問題に話を戻そう。先の総選挙結果を、首相は自身に向けられた国民の疑惑への禊と捉え、長期政権5年目のメッセージで、もう加計問題は完全に消滅したかの素振りで無視し続けた。だが、不明朗極まりない血税流用疑惑に対し、加計孝太郎からは何の説明も無いままだ。疑惑の禊を済ませたと勝手に見做した安倍政権は、今後益々、暴走し続けるだろう。愛媛県民も、先細りする地元の地域興しを最優先させ、加計問題に目を瞑り、ある意味、談合政治に忖度してしまった。私もそうした県民の一人として、今年を苦々しく振り返っている。

ロシア革命から百年~天秤にかけられた自由と平等】「自由」と「平等」の価値は、近代市民革命のシンボルとして並置追求され始めた。だが、この両価値は水と油の関係でもあった。自由を追求すれば不平等になり、平等を追求すれば不自由となる。頑なに平等を追い求めるべく、百年前、ロシア革命が成され、70年程で挫折に至る。今は、不平等を尻目に自由が進化を遂げている。国家独占資本主義段階における、控え目な自由からの卒業である。だが、新自由主義も倦怠期を迎える昨今、パラダイム無き自由は、彷徨せざるを得ない。自由・平等ともに、その追求過程における「欲望」コントロールが必要だが、コントローラー役は個人では務まらない。国家権力による、両価値の操作が必然となる。平等を追求する共産党一党独裁が、自由を「規制・管理」し、国民には不自由を強要しながら、共産党ノーメンクラツーラのみの自由を、最大限に欲望し貪った。革命の名のもとに平等を嘯き、殆どの富を簒奪して成り立つ共産主義体制。マルクス理論を実践化したレーニンロシア革命から百年を迎えたが、結果的にはその敵失により資本主義の延命に手を貸す事となった。最後の末裔として、北朝鮮が足掻き続ける。国民の藻掻き苦しむ様に目を向けようとはしない金正恩体制は、早晩、破綻し、その後、平等は更に肩身の狭い思いを、余儀なくされるであろう。

【加計問題に関する今治市議会議員への調査確認要請について】本日、今治加計学園獣医学部新設許可が文科相から認可されました。地元愛媛県人として、慚愧に堪えない出来事であると痛感します。さて、加計学園の加計孝太郎氏と菅良二今治市長及び今治市議会議員の多くが金銭授受を通し癒着しているのではないかと、以前から問題視されていました。私も、菅良二市長へはメールで直接問い質した事もありましたが、案の定、核心に触れる返事は頂けませんでした。また、松田澄子市議に対しても、Facebook上で失礼ながら疑惑問題の潔白確認をさせて頂き、御本人から根も葉もない大いなる誤解であったという返事を示して貰いました。しかし、今治市民団体の一人、黒川敦彦氏は、菅市長らの不正に対し未だに疑念は晴らせていないと、一人孤軍奮闘し総選挙において安倍首相の選挙区山口4区にまで乗り込んで徹底抗戦するなど、全国にこの問題の重大性を問い続けています。しかし、加計問題への関心は急速にトーンダウンしているのは否めません。この私も、愛媛新聞に投稿したり、黒川氏による松山地裁検察庁への提訴を見て、それがきちんと受理されたかどうかの確認を問い合わせたりしました。血税の私物化のみならず、民主主義の根幹を揺るがす大問題に対し、御用組織の権力への忖度三昧は、最早、如何ともし難い正しく国難と化しています。特別国会でも真面に審議をしようとせず、このまま加計問題が闇に葬られる事は、全く許し難く看過するに忍び難い思いで、貴党へのメールとなりました。松田澄子今治市議を通して、今一度、今治市議会と加計学園との癒着疑惑の徹底調査をして頂くとともに、愛媛県議会において、県から96億円もの県税が、今正に今治市加計学園に使途されんとする中、貴党田中克彦県議による最期の抗いを強く祈念しております。 此の国は、北朝鮮と殆ど変わらない。メディアも政権に阿(おもね)る忖度機関と堕す。会計検査院はその存在自体が怪しい。政府からの独立性なんて保てるわけがない。税金無駄遣いの指摘なんて、政権チェック機能を果たしてますよとばかりの猿芝居を国民に見せる。官邸から演技芝居をさせられているのだ。更にそうした下手なガス抜き芝居を、御用メディアが忖度報道に買って出る。それこそ、下衆の極みの真骨頂だ。あの戦争の時代も、多くの著名文化人が体制翼賛に名を連ねた。菊池寛武者小路実篤谷崎潤一郎、等々、錚々(そうそう)たるメンバーが、戦争遂行に大いに利用された。市川房江も例外ではなかった。そうした愚を、繰り返しているのが現在なのである。会計検査院長とNHK会長だけではないのだ。森友・加計問題や伊藤詩織のレイプ事件を封印してしまった検察及び司法も、イカサマで出鱈目の御用組織の権化と化している。

トランプ親子に振り回された挙句、ATM安倍の大盤振る舞い。何処迄、国民の血税を私物化すれば気が済むのか。イバンカ基金などと訳の分からぬものに、57億円もの資金を提供する。数日前には、ドテルテに数千億円を無償援助すると約束したばかりだった。国民の合意の上での話なら、まだ分からぬ事ではないが、こうした不分明な税金流用が、安倍政権下では際立って多く感ずるのは、この私だけの事だろうか。加計問題での百数十億円もの不明朗な税金使途に関しても、未だにきちんとした説明を受けてはいない。先般の選挙で、安倍首相の不正に対する国民の疑惑を、拭い切れたとでも思っているのだろうか。そうであるならば、国民は舐められたものだ。これで10日に文科省の設置認可が下りる様だったら、今迄の事が全てイカサマだと言う事になる。黒川敦彦氏の訴えに耳を貸そうともせず、権力ヘの忖度ばかりに汲々とする法曹と御用メディアにより、この国の未来と民主主義が危うくされて行く。

60年代は正しく「政治の季節」だった。ベトナム戦争の泥沼化による米国覇権崩壊が、左翼勢力に活力を与える隙を作った。日本国内も戦後復興が完了し、高度成長へ向けエネルギーを発散している最中だった。こうした国内外情勢を背景に、学生運動が、日米同盟強化を目論む自民独裁打倒を掲げる野党陣営と連動し、全国展開したのだった。当時の青年達はゲバ棒を振り翳し、熱き青春の血を政治にぶつけようとした。或者は、幕末動乱に生きる草莽崛起の志士と、自身をだぶらせていたのかも知れぬ。ちょうど終戦直後生まれの世代が、戦後体制打倒の旗振り役となり、その挫折後は、経済大国へ躍進する時代の中核となった。そして今、戦後体制の総仕上げをしようとする安倍政権を、陰で支える70代世代となっている。さて、翻って今の青年達は、半世紀前にスクラム組んでデモ隊の一員として大義に突進しようとしていた連中を、どう観察しているのだろう。ただ、殺人をゲーム感覚で行うよりは、エネルギー発散のしがいもあるだろうが。

【加速化する改憲への動きにどう対応】小池・前原両氏の新党立ち上げに伴う野党分断が、安倍自公政権の窮地を救う結果となった。今後、改憲勢力による九条改定に向けた具体的動きが、一段と加速化するであろう。その際、我々、国民一人ひとりが、憲法とどう向き合うのかが問われる事になる。安倍首相は、現在の九条に自衛隊を明記した三項を加える、いわゆる加憲案を念頭に置き、国民投票で信を問う構えだ。従来、二項で保持が禁じられた「戦力」に、現存する自衛隊が該当するかどうかで、神学論争がなされる中、曖昧な性格を有す自衛隊を、事実上の解釈改憲でその都度運用して来た。稲田前防衛相の日報問題も、こうした自衛隊憲法における不分明な位置付けが、何等かの要因になっていた事は否めない。その自衛隊は1950年代初頭、極東情勢の変化に伴う再武装化の過程で創出された。だが憲法上、国家正規軍として認められず肩身の狭い自衛隊は、抜刀を禁ぜられた帯刀武士の如く、彷徨い続ける十字架を背負わされて来たのだ。憲法9条が改められれば、集団的自衛権及び安保法制をバックに、米国の世界戦略の一翼を積極的に担わされる事は必至であろう。その後に起こる必然的諸問題を引き受ける覚悟があるかどうか、国民投票で賛否の一票を投ずる日が、どんどん近付こうとしている。 忖度と啐啄は、読みもだがその意味合いも似ている。お互い相手を思い遣り、意気投合する。本来、両用語とも良き心情表現としてのものであった筈だ。しかし前者は、本来有すニュアンスやイメージが、今年、大きく歪められてしまった。正しく、前川喜平語録の一つに成り果てた。こうした言語のバックグラウンドには、矢張り文化的素地の関連を感じる。「以心伝心」と言う、双方の分かり合えぬ内心を、言葉を駆使せず、お互いの心底を感得し行動へと移す。物質至上の西欧文化とは一線を画し、明瞭化する事に因る浅薄さを回避し、曖昧模糊とした精神世界に優位性を置こうとする、東洋ならではの工夫が内包された用語でもある。だが、精神的に高尚なる場合に使われる事を想定して創られた筈の用語も、低俗な現象世界の営みを通し、本来の意義を変容させられても行く。今回の加計問題での前川氏の内部告発的発言は、奇しくも、新旧官僚文化の殻を、啐啄するかの如く発せられたものではなかったろうか。

【一本化された国体を望む】国体に明け暮れたこの数年間だった。愛媛県天皇杯獲得を目指し、膨大な予算を県費に計上し、全国から助っ人選手を引っ張り抜き、強化に傾注してきた。だが、後一歩のところで、賜杯獲得の夢は潰えた。だが、一強の東京をあわやのところ迄追い詰めた各競技選手達の頑張りは、賞賛に値する。こうした努力を決して無駄にしない為にも、今月末に開催される障害者の国体を是非とも成功裏に繋げてもらいたい。とかく、障害者の大会には、国民の目がなかなか向かないのも否めない。オリンピックにしても、パラリンピックは盛大な祭典から程遠い感を呈する。健常者と障害者の二本立てで大会を運営すれば、一般の健常者は、障害者の方へ目を向けようとはしなくなるのが常だ。その分離された大会を一本化して、同期間に実施する事も検討すべきではないか。そうすれば障害者大会も盛り上がりに欠ける事もなくなるだろうし、ノーマライゼーションの精神にも合致したものとなる。こうした取り組みから変えなければ、上辺だけの付け足し大会で終わってしまう。更には、障害者大会の得点も加点された中での、賜杯獲得合戦にするのが、本来在るべき国体の姿だと思う。

【苛めは学校だけの問題ではない】昨年度、全国の学校での苛め件数は、認知されただけでも、過去最多となった。こうした中、学校現場では、自殺される事を恐れるが故の、消極的苛め防止策に追われていはしないだろうか。だが、苛めは学校だけの問題ではない。学校化された世界の、至る所で見受けられるものである。近代化途上で異質な日本が、不平等条約など様々な苛めを受け、その試練を経ながら、同様の欧米帝国主義に便乗し、近隣東アジア地域で、植民地侵略と言う苛め行為を苛める側に組して行った過去の歴史を忘れてはなるまい。苛めっ子は、過去に苛められた経験のある者が多いとよく言われるが、強ち間違いではない。苛めの苦痛を味わいたくないなら、苛める側の真似事をして、苛めの恐怖を回避する。苛める側に身を置き、苛めの加担をする。正しく、個人も国家も同様なパターンで、恐怖を巡るシーソーゲームを繰り広げているのだ。そうした構造を見極め、決して自爆(殺)することなく、強かにサバイバルを図らなければならない。出来得れば、富を簒奪し続ける苛めのボスを退治する手立てを見付けられたり、その覇権システムを打っ壊すキーマンに成れれば、言う事ないのだが。現世での解決努力を諦め、「生きる力」が「死ぬ力」に凌駕された挙句に選択した、怨念を抱き乍らの自死は、余りにも哀しい。 自殺は、いかなる理由にしろ、自身に向けられた最大の暴力行為である事を確認したい。自爆テロとは違い、他者を巻き添えにしたものではないが、何等かの怨念を抱き乍ら、死を賭して世間に訴えようとする事に於いて変わりない。現世での解決努力を諦め、「生きる力」が「死ぬ力」に凌駕された末の自死。学校現場では、自殺される事を恐れるが故の、消極的いじめ防止策を講じているのが現状ではないだろうか。世界には、戦争や不治の病気などで、生きたくても生きれない、死にたくても死ねない人達が、多く居るという事を、教師は声高に叫ぶ必要もある。

加計捨てでいいのか  加計問題は、政界を利用して優位に教育ビジネスを展開しようと、悪巧みを図る加計孝太郎と首相との癒着を巡る、単なる利権問題として済ませられない。  前川喜平氏の言を借りれば、地方自治が大いに歪められた由々しき大問題と認識せざるを得ない。加計学園から口裏合わせの今治市議会工作資金が議員多数に配られ、獣医学部誘致の話が決められた。正しく公金横領事件だ。こうした事が殆ど報じられず、愛媛県議会で幕引きが謀られた。中村知事は、伊方原発再稼働許容と同様、政権忖度姿勢を崩さず、斯くして百億単位の血税が糞塗れに流用される。

小池は軽はずみに排除発言して、自分自身を首相の座から排除してしまった。正しく、「廃女」と化した。立憲民主党なんぞと言う、アナクロニズム的政党名を掲げ、小池アレルギーの連中の溜まり場を作った。改憲論者の枝野に又もや国民は騙され、この掃き溜め似非政党が躍進した。逆に、策に溺れた小池は、自身の賞味期限切れを悟り、衆院選出馬断念で女性初宰相への夢は露と消えた。こうした絶妙な敵失が、自公政権を勢い付かせた。安倍晋も、小池や前原の汚い遣り口に対する国民のソッポにより、命拾いし延命が叶った。

ポスト安倍が誰であれ憲法改正は進む。そもそも、反体制のシンボル憲法9条とは何なのか。「9条護れ」是れ即ち「護憲」で、これを主張すれば善良なのか。そりゃあ、平和で非武装で済めば何も言うこと無しだが、それができれば苦労はしない。国内だって、警察があって市民生活の安心・安全が成り立ってる訳で、警察がなければ矢張り困る。パトカーや警察官見たら、自然に緊張する。片手運転してたのが、さっと両手で運転している。どんなに格好良く言ってても 武力がなければ、抑えが効かない。嘗められるだけだ。自衛隊は軍隊じゃないと、2項で解釈されている。じゃあ、軍隊でなければ何なのか。簡単に言うと、「案山子」だと言う事だ。カカシの様に、「在って無きが如し」の存在なのだ。そうでないと、憲法違反となってしまう。しかし、カカシだと分かっていたら、嘗められ捲るのは必定で、それでは、国民の生命・安全・財産は守れない。だから、日米安保条約で強面の米軍に日本を守って貰っている。従って、アメリカの言いなりにならざるを得ない。そして、沖縄基地問題が永遠と続き、少女が米兵にレイプされても、オスプレイが何度落ちても、何も言えない。更には、北朝鮮ミサイルが日本上空を悠々と通過して然様ならの繰り返しとなる。それに対して、北朝鮮はケシカラン、米軍の振る舞いは慇懃無礼だ、地位協定はダメだ、日米合同委員会が諸悪の根源だと、言い上げていく。さて、こうした事になってしまうのは、何が原因なのか。それは、憲法9条があるからだ。これがある以上、日米安保及び米帝の日本支配は無くならない。日本の植民地状態は永遠に続く。それならば、どうしたらいいのか。憲法九条を変える、否、無くす。国家正規軍が出来ると、日米安保は不必要となり米軍は撤退する。それを実は米帝も密かに願っている。その米帝の底意を見切れずに、変に曲解して「忖度」外交しているから、こんな国になってしまった。この国自体が、不倫してる。日本は、自国に嘘をつき誤魔化し続けて来た。是こそが、最大の不倫だ。諸悪の根源、それは、日本が米帝の植民地支配から何時までも抜けられずにいる事だ。

安倍政権誕生後、日本社会は懐古主義へと大きく舵を切った。少子化で学生数確保が困難となる中、経営不振に喘ぐ教育ビジネスの急先鋒加計孝太郎が、利益誘導を目論み首相を狡猾に利用した。地方の生き残りと中央の思惑を見事に結び付けたプロジェクトを、教育ビジネスを追求する加計学園が巧みに操る。財政難を抱え地域興しを願う地元選出の議員がお友達関係を利用し、中央官僚の政権に対する忖度を引き出すことに成功した。また、財政再建を図らんと策謀された経済戦略が、結果的にそれを隠れ蓑にした特定業界だけを潤わせ、血税簒奪の為の特区制度に成り下がっている現実が垣間見れた。

反安倍勢力の肥大化するカタルシスの持って行き場が捏造され、ガス抜きを謀ろうとする。同時に立憲民主党の枝野が女狐小池に代わり、安倍改憲勢力の補完機能として大いに利用される。 タカ派色を前面に出して仮想敵をつくって煽り立て、内憂を外患へ振り向けガス抜きを謀り、声高に危機感を煽情する政治屋が輩出する。バカトランプは軍産複合体にとって操り傀儡し易い大統領であり、兵器産業界からすると、願ったり叶ったりの存在になる。北朝鮮への強硬姿勢を取り続けるのも頷ける。トランプの腰巾着になってる日本の安倍晋三も、加計問題で窮地に追い込まれてもどうした訳か、長期政権を維持できるのは、それなりの絡繰があるのだ。そして、世界中のカタルシスの行き場として、ISや北朝鮮が位置付けられる。北朝鮮をメシの種にしようと企む軍産複合に蜷局を巻かれ、それに担がれ旗振り役を担わされているのが、アホのミクス安倍晋ちゃんなのだ。

【糞ダメにヨウコソ】「偽装」社会どうのこうのとよく言うが、偽装はそもそも必要悪じゃないのか。偽装は、ある意味、生き抜く知恵で、コレ無くして、生存は危ぶまれる。擬態なんてその典型だ。また、「不倫」も偽装の一形態だ。浮気は、生物学的に眺めると、男女のより良い遺伝子を、後世に伝える為の手段なのだ。尤も、そんな見方は一般的に通用せず、屁理屈として一笑に伏されるだけであろうが。だが、以下の事例を通して、強(あなが)ちそうした解釈が、満更でもない事が理解される。それは、この国自体が、不倫していると考えられないかである。古代、此の国がパトロンとして選んだパートナーは、中国だった。大和政権は、日本神道をDNAの核としながらも、圧倒的なパワーを誇る隣の大国中国の存在に怯え、自身の生き残りを模索し始めた。そして、聖徳の時代、中国仏教を大胆に受容し、日本初の遺伝子操作がなされたのである。その後、鎌倉期における外敵からの侵略の脅威に晒される中、神仏混交を深化させ、日本の文化的遺伝子の強化に努めた。更には、近代以降、欧米列強の猛烈な帝国主義侵略行為を目の当たりにし、英仏欄から西洋の遺伝子を絡めながら、国の肉体改造を謀るべく、本格的な遺伝子操作をバージョンアップさせていった。最後に日本の遺伝子をサバイバルさせるために擦り寄った相手が、米帝だったと云う事である。人間個々人における「一夫一婦制」も、時代や地域により、その制度にも変化や相違が見られる。例えば、我が国もその昔、妾を何人も持ち、それが一般常識であった時代もある。多くの妾を有す男ほど、経済的に裕福で社会的ステイタスが優位な者の証ともなっていたのだ。また、イスラム世界では、度重なるジハードにより、人口比で男が女より激減する中、「一夫多妻制」の歴史を前提として来た。

「嘘吐きは政治屋の始まり」 女狐小池がチャンス到来とばかりに動いた。だが女狐小池は首相の座を狙い損ねた。「希望」の党は「絶望そして死亡」の党へ様変わりした。狡猾で慇懃で小賢しい小池も賞味期限切れだ。彼女の「排除」発言で墓穴を掘り、安倍晋は延命したか。民進党は前原の裏切りで一気に瓦解した。目的の為には、平気で噓をつき騙す。勝ち馬に乗り続け、勝ち目がないと見切るや否や乗り換える。こうした女狐に、国民も嫌気がさして来た。正しく、ハイエナのようなエゲツナイ抜け目ない火事場ドロボーだ。それにしてもまあ、情けないのがそれに巣食う男ども。雪崩を切ったように、彼女に群がる奴等。此奴らこそが、ハイエナであり下らぬ輩だ。

今回の政変劇は、小沢が前原を唆(ソソノカ)して、小池に民進党を明け渡させた事だ。それを好機に枝野が反旗を翻し、立憲民主党なんぞと言う、アナクロニズム的政党名を掲げ、小池アレルギーの連中の溜まり場を作った。改憲論者の枝野に又もや国民は騙され、この掃き溜め似非政党が躍進した。逆に、策に溺れた小池は、自身の賞味期限切れを悟り、衆院選出馬断念で女性初宰相への夢は露と消えた。こうした絶妙な敵失が、自公政権を勢い付かせた。安倍晋も、小池や前原の汚い遣り口に対する国民のソッポにより、命拾いし延命が叶った。

信頼の政治なんてあり得ない。嘘なんて平気で吐き、嘘吐き狐と狸の騙し合いが続く。誤魔化し小池の原発政策もウソに決まってる。山本太郎が揺れている。糞ダメに入るべきか、入らざるべきか。糞ダメを用意した小沢と太郎は合わないのは、最初から分かっていた事で、二人は袂を分かつ時が来た。共産党も糞ダメはちょっと遠慮したいと、ポッタン便所の中を覗き込んでる。我々は何時も何処でも「うんこ」を腹蔵してる。皆うんこの前では平等なのだ。

安倍を退陣に追い込んでも、その後が小池じゃもっと質悪い。誰が日本のトップになろうが、ジャパン・ハンドラーは日本支配を続けるのに大した影響はない。

さて、「安倍政権へ鉄槌を下せ」という民意が達成された後、どうなるのか。ポスト安倍が誰であれ憲法改正は進む。それは、安倍晋と自民結党以来の悲願と言う事で、目出度しメデタシ。そもそも、反体制のシンボルだった憲法9条とは何なのか。「9条護れ」是れ即ち「護憲」で、これを主張する側が良い人なのか。そりゃあ、平和で非武装で済めば何も言うこと無しだが、それができれば苦労はしない。国内だって、警察があって市民生活の安心・安全が成り立ってる訳で、警察がなければ矢張り困る。パトカーや警察官見たら、自然に緊張する。片手運転してたのが、さっと両手で運転している。どんなに格好良く言ってても 武力がなければ、抑えが効かない。嘗められるだけだから、今のままでは日本はずっと嘗められっ放しとなる。自衛隊は軍隊じゃないと、2項で解釈されている。じゃあ、軍隊でなければ何なのか。簡単に言うと、「案山子・カカシ」だと言う事だ。カカシのように、「在って無きが如し」のような存在なのだ。そうでないと、憲法違反だからだ。カカシだと分かっていたら、嘗められ捲るのは必定で、それでは、国民の生命・安全・財産は守れない。だから、日米安保条約で真の実力ある米軍に日本を守って貰っている。従って、アメリカの言いなりにならざるを得ない。そして、沖縄基地問題が永遠と続き、少女が米兵にレイプされても、オスプレイ原発に落ちても、何も言えない。更には、北朝鮮ミサイルが日本上空を悠々と通過して然様ならの繰り返しとなる。それに対して、北朝鮮はケシカラン、米軍の振る舞いは慇懃無礼だ、地位協定はダメだ、日米合同委員会が諸悪の根源だと、言い上げていく。さて、こうした事になってしまうのは、何が原因なのか。それは、憲法9条があるからだ。これがある以上、日米安保はなくならない 米帝の日本支配はなくならない。日本の植民地状態は永遠に続く。それならば、どうしたらいいのか。憲法九条を変える、否、無くす。国家正規軍が出来ると、日米安保は不必要となり米軍は撤退する。それを実は米帝も密かに願っている。その米帝の底意を見切れずに、変に曲解して「忖度」外交しているから、こんな国になってしまった。

ただよそよそしいしゃべりの舌足らで気弱な、一国のリーダーとしての風格など一欠片も感じない安倍晋三。典型的世襲政治家に過ぎぬ優男が、その実像とは掛け離れた評価を真に受けその気になり、高飛車な言動や政策を実行し、将来の日本に禍根を残そうとしている。こんな馬鹿らしい宰相を担ぎ上げ、長期政権を意図的に形成させている奇妙な社会現象こそ、問い質すべき対象である。ここで、我々の命運を左右する程の危機的状況を作り上げた安倍晋三について、その生い立ちから始まり彼の浅薄な歴史認識や政治観を再確認し、そういう人物に国の将来を託す事が、如何に過ちであり愚かであるかを明確にしなければならない。

彼は戦後政治で危惧されてきた、極右勢力の神輿に担がれ、憲法改正へ猪突猛進している。なまじ知性があって哲学や歴史観をもつ人物は、猪突猛進型の政治的突破の障害となる。ほとんどの独裁的政治指導者は、浅薄な歴史社会観を持つの人物が常なのである。そういう無能な人物を祭り上げ、背後から自在に操る。安倍晋三の右旋回思考とその背後にある極右勢力との利害が一致し相乗作用が働いている。この神輿に乗る安倍晋三はどんな環境でどう育ち、将来の日本に大きな禍根を残す政治家となったのか。

近年、アメリカも日本も政治家の質が極めて低下している。過去賢人政治家たちと違い、現代のそれは国家百年の計を考えて政治にあたる者ではない。トランプであれ安倍であれ、どれも近視眼的政治屋であり、その知性や歴史社会観の質に大差ない。現在の閣僚にしても、漫画に現を抜かし勉強などろくにせず、卒業して直ぐに政治家の書生になった漢字も読めない者が、要職を担い内閣を取り仕切っている。小手先の政策や根回しには長けているが、とても国家百年の計を考えられる知性など持ち合わせていない。政治家というより政治屋である。そういう者達がアメリカの軍事政策の言い成りになり、米帝のため公金を湯水の如く無駄遣いしている。下らぬ政治家が浪費した付けは、何十年後の国民が全て負わなければならない。騙す政治屋が悪いのか、騙される国民が悪いのか。どっちもどっちだが、馬鹿な政治屋を選べば、国は滅びるだけなのだ。

安倍晋三の態度と発言は、常に、よそよそしく、何事を語っても、気持ちが感じられない。彼の言動の背景には、そうさせるに至った幼少期における家庭環境があったのではないか。安倍家の内情に詳しく、安倍の乳母だった久保ウメは、晋三の幼年期から思春期にかけて家庭状況や精神的発育の状況を詳しく語っている。 晋三は親の愛情を注がれて育っていない。父晋太郎は子供に愛情を注ぐ時間を削って政治活動に没頭し、母は支援者回りに勤しんでいた。二人の兄弟の面倒は、乳母の久保ウメが見ていた。添い寝をしたのは母ではなく乳母だった。だから、安倍家の親と子供の関係はきわめて冷めたものだった事は容易に想像される。晋三が生まれた頃には晋太郎の政治活動が繁忙を極め、父母の愛情を受ける機会がなかった。幼児期における親の愛情不足は子供の情緒を不安定にし、人を思いやる感性を育まない。父母より晋三に目を向けたのは、母方の祖父岸信介であった。晋三が父晋太郎ではなく、祖父の岸を意識する背景がここにある。その祖父も、三男が生まれて岸家の養子としてから、晋三への態度がそれまでとは一変する。祖父に気に入られる弟と冷静で父の後継と目される兄との狭間で、晋三の精神的コンプレックスが植え付けられた事だろう。しかし、父晋太郎は、兄や弟にはない晋三の頑なに持論を守る姿勢に、政治家の資質を見出し、最終的には晋三の方が政治家向きだと考えるに至ったという。だが、頑なに持論にしがみつくのは、愚鈍なだけではないか。

安倍政権誕生後、日本社会は懐古主義へと大きく舵を切った。安倍氏が祖父等の果たせなかった改憲を最大目標とし、自らの手で実現しようといきり立つ焦りがここ数年における政権暴走に拍車を掛け、それにブレーキが効かなくなって来た。安倍政権下の異常事態に対する国民のアレルギー反応が都議選結果に示された。安倍に必要なのは、「李下に冠を正さず」より、「過ちては改むるに憚ること勿れ」であろう。森友・加計問題における彼の行状は、一国の首相とその知人絡みの国政私物化という点で、辞任に追い込まれた韓国前大統領と酷似する。少子化で学生数確保が困難となる中、経営不振に喘ぐ教育ビジネスの急先鋒加計孝太郎が、利益誘導を目論み首相を狡猾に利用した。奇しくも「県議と加計の事務局長がお友達で話が進んだ」と、前愛媛県知事が謀議的計画であったことを自ら暴露した。地方の生き残りと中央の思惑を見事に結び付けたプロジェクトを、教育ビジネスを追求する加計学園が巧みに操る。財政難を抱え地域興しを願う地元選出の議員がお友達関係を利用し、中央官僚の政権に対する忖度を引き出すことに成功した。また、財政再建を図らんと策謀された経済戦略が、結果的にそれを隠れ蓑にした特定業界だけを潤わせ、血税簒奪の為の特区制度に成り下がっている現実が垣間見れた。渦中の地元民が事の真相を全く知らされず、蚊帳の外に置き去りにされている事に、唖然とさせられる。アベノミクスだと言われても、生活向上が実感されなかったり、安保法制や共謀罪など、安倍政権下でゴリ押しされた数々の出来事も、今にして思えば安倍氏の公僕精神から程遠い、私利私欲の賜物であったからではないか。また、日本会議メンバーの一人加戸守行が使った「おもちゃにされた」発言は、何の説明もされず百億円相当の血税加計学園に使途された今治市民及び愛媛県民に該当するのではないか。先細りの地域を応援したいところだが、問題が有耶無耶にされる事は看過できない。

憲法が精神に該当するのなら、筋肉に該当するのは何なのか。それは、軍隊だろう。日本の自衛隊は、憲法上、軍隊ではない。もし、自衛隊が軍隊でないなら、この国には筋肉が無いことになる。そんなのクラゲ国家。国家とは言えない。「イップ・マン」を見てて、最近の極東情勢がダブって、次の様な事を考えさせられた。イップ・マンは、やられっ放しの日本とは違い、相手をやらせっ放しにして相手の様子を窺い、相手の力量を試しながら、相手のスタミナが切れていくのを見計らいながら、逆に攻勢をかけて、形成を逆転する、決して今の日本などではない、強かな何処かの国ではないだろうかと。しかも、一見 、相手にやられっ放しの様に様に見え、全然、そうじゃなくて、攻めさせながら、相手に自分の非力さを悟らせている。このやり方が、一番の強さで、この戦術を、我々は身に付けなくてはならない。しかし、そうした真の強さは、イップ・マンの絶対的実力に裏付けられているのも事実であろう。こうした事を踏まえ、日本も、その実力を、今後、どのように身に付ければ良いのか真剣に考え、その実力を手にするべく、実行しなければならない。

【映画と私】なかなか変われない現実の自分から、暫しの脱出を図るべく、映画の世界に逃避行する。私が映画好きなのは、こうした表れなのかもしれぬ。毎日ボヤキながら「精神的に死に体状態で存在する」自分が情けない。「人間は合理化する動物である」。合理化とは精神的ストレスから身を守る防衛機制の代表格。私もよくこれをやりながら今まで何とか生き延びてきた。これからもこれをやり続けるだろう。やっていることに「意味付け」する、これをしないとやってられなくなる。「ジョニーは戦場へ行った」の主人公ジョニーは、完全に閉鎖された身体世界の戦場で、狂わんばかりの精神を武器にして闘い続けていたのだ。

我々は理想と現実の狭間で矛盾を睨めながら生き続ける。そうした根本的課題を提示してくれた作品が「プラトーン」であった。ベトナム戦争で主人公の若者が対照的な二人の人物に大いに翻弄される。戦場においては柔な人道主義を捨て、現実的に身を処していかなければならないとするA、それに対していかなる場合であろうと人間性をなくしてはならぬと主張するB、二人は事あるごとに真っ向から対立する。次第にBに感化され同時にAに対する敵愾心を強めていく主人公であるが、BがAに殺されたことを知り、とうとうAを撃ち殺してしまう。我々も「人生プラトーン」という戦場で、映画の主人公の如くA(現実)とB(理想)の狭間で煩悶しているのかもしれぬ。人間性がどうのとBに洗脳されたくもないし、Aに撃ち殺されたくもない。

「ライフイズビューティフル」の主人公グイドは、何の変哲もない日常のなかで、夢のような非日常を創り出していく。別に金がなくても、ちょっとしたユーモアのセンス、ちょっとした相手に対する思いやり、機転があればライフいずビューティフルになるはずだよと、基本的なことを教えてくれたような気がする。自分の置かれている環境がなんて幸せで甘いものかを見せ付けられる。夢のない自分が嫌になったりもする。どんな環境に置かれても、その人の考え方ひとつで全然違った世界が展開するという、大切なことを教えてもくれる。主人公のような本当の強さを持てるよう、自分をなんとか少しでも変えようと努力したい。

感動する映画の基本パターンは、始め年老いた主人公の現在シーンからスタートし、回想して過去に遡っていき、そしてまた現在に辿り着くというやつ。「タイタニック」、「イングリッシュ・ペイシェント」も然り。「嵐が丘」、「ダウンタウン・ヒーローズ」、そして「野菊の墓」も。こうしたパターンではなく、圧倒的感動を与えたものもあった。高校生の時見た「燃えよドラゴン」。圧巻であった。今まで見たこともない超(鳥)人「ブルース・リー」。圧倒的迫力とは正しく彼のために用意された言葉だった。彼に多大な影響を受けた。ブルース・リーの生誕70周年が過ぎた。存命中なら、今、彼もいい歳だろう。よぼついた彼の姿など、想像したくない。超人的な身のこなしに、目を疑った。彼は私の憧れの的となり、学生時代のヒーローだった。彼に近付きたいと、よく物真似に没頭し、武道系サークルにも所属して、飛び跳ねた。彼の魅力に吸い込まれ、影響される人物の最右翼となった。それにしても男を二つ書いて、その間に女が書かれてる字が「嬲る」なんて知らなかった。よく考えたもんだ。僕は男一人だけのナブりの方が絶対いい。男2人だったら、女を奪うために殺し合うかも。これは「嵐が丘」の本質的テーマに通じる。ローレンス・オリピエ演ずるヒースクリフは僕自身かもしれない。最愛の存在(マール・オベロン演ずるキャシー)を独占せんがために、その存在を嬲り続ける。

数年前、久し振りに映画館で話題作を見た。次から次へと、飽きさせないよう、だれないよう仕掛け満載なのだが、見た後、内容が思い出せないくらい、何を見ていたのだろうとピンと来ないのだ。刺激はあるのだが、感動せず、印象に残っていないのである。一体なぜなのだろう。これでもかこれでもかとジェットコースター方式の展開は、スピルバーグ作品から始まったと振り返る。しかし、何十年もそうしたパターン映画を見せ付けられてくると、さすがに慣れてきて、逆に辟易とした感じとなる。感覚が麻痺してしまうというか、感動が拡散されるというか、正しくピンボケしてしまうのだ。自分の健康状態や体型に対する認識も、現状に慣れてしまうと、感じなくなってしまうというのが実際だろう。最近は、映画館に足を運ばなくても、ホームシアターで楽しめる時代になった。ケイブに落ち、右手を岩間に挟まれ身動きの取れなくなった冒険家が、四苦八苦した挙げ句、右腕を自らの手で切断し、脱出生還するという、サバイバルものを見た。「死の恐怖」に直面した主人公が、何とか精一杯の力を振り絞り、窮地から抜けようと足掻き藻掻く様は、臨場感を刺激され見ている者を釘付けにする。自分なら、いざこんな時、どうするだろうと、考えさせられる。閉塞された空間でサバイバルを図るのだが、人間追い詰められると、最後は「やけくそ」となり、普段、想像も付かないとんでもない行為をしてしまうのだなと、見ていて思わされた。死に直面し、それまでの何気ない日常の有り難さを痛感し、半ば諦めながら、尚も生きたいと思い続ける主人公。有らん限りの体力と知力を駆使して、生き延びようとする。その過程で、途中、死への恐怖と疲労が錯綜する。その恐怖を睨めながら、感覚麻痺が漂い、追い詰められて自棄糞(やけくそ)になる。戦争が正しくそれだ。我慢し続けることから惹起する耐えられない疲労感。これから解放されたい一心で、「最後の審判」を迎えるのだ。

 

第一話 「日本(人)と西欧近代」について

 

 日本文化は、集団主義を旨とする。勝手な言動は厳しく諌められ、常に集団全体を最優先する規律のなかで、自ずと全体の調和を乱す者は集団内で疎外の対象としてレッテルを貼られ煙たがられる存在になってしまう。だから集団生活のなかでできるだけ目立たないようにしようとしていく意思が働いて、皆、能面を被ったような個性のないタイプがつくられるのだ。そうした中で、ストレス発散の具として、異色なタイプをリーダーとして要望する傾向が強まるのだが、最終的には日本文化の集団主義が、「出る杭は打たれる」方式を働かせてしまうのである。しかし、均質でお互いの力関係が拮抗していると、絶えず緊張感によるストレスに苛まれなければならない。それに耐えられなくて、拮抗した力関係を自発的に壊そうとするなかで犠牲者(スケープゴート)がつくられる。それを疎外することによって同質同士関係の息苦しさから一時的にでも解放されたいとする。特に日本は集団主義で、和を以て尊しとすを旨とする文化的土壌や、横並び志向の社会的背景が絡って、余計、均質的風土におけるストレス社会を醸成しているように思われる。それと、昔より今のほうが均質的集団組織になってる分、いじめが深刻化すると考えられる。昔は学校のなかで必ずガキ大将っていた。絶対的リーダーが同質集団のなかにおいて、ある意味で異質的存在として君臨することにより、拮抗関係によるストレスがうまくガス抜きされていたともみれる。やはりリーダーは必要なのだが、リーダー的存在というのは、要するに責任者ということだ。集団内にそいう責任をとる者がいないと、その集団はいつも落ち着かなく不安に駆られてしまい、お互いぎすぎすしてストレスが高じてしまう。責任をとることはリーダーの必要条件であり、その見返りとしてまわりの者はそういうリーダーに権力を委譲する。かつて、独裁者の出現が問題となる訳である。

 

 「自分は一体、何者なんだ」を考えていると、「日本人とは何か」ということに行き当たる。 今から40年ほど前に、「大きいことはいいことだ…」というチョコレートのテレビコマーシャルが流行り、私もそれを口ずさんでいた。何か気持ちも大きくなり、浪費に現を抜かしたような記憶がある。そうした時代とは違い、現在は大きく様変わりし、世の中が世知辛くなった。私を含めた前世代の営みのツケを払わされているような気もする。しかし「大きい」ことばかりがいいとは限らない。「小さい」ことが功を奏す場合だってある。日本人の身体は欧米人に比べ小さいが、小さいなりの知恵を編み出し、世界と渡り合ってきた。ちっちゃい日本(人)は、古来からほぼ同様のパターンで、その克服に翻弄され続けてきた。聖徳太子も中国との冊封関係による劣等国から離脱するために福沢諭吉の脱亜論の魁を実行した。中国支配から離脱するために、中国仏教を日本に取り込み文明化することに成功した。敵に勝つためには、まず敵のことを熟知しなければならない。しかし、敵と同じムジナになってしまった。中国の日本から日本の中国へと逆転し、中国侵略という覇権の歴史へと邁進してしまった。「坂の上の雲」を仰ぎ過ぎて、身の丈に合わぬ大望により墓穴を掘った一時期もあるが、「小よく大を制す」の諺通りここまでこれた。そうした延長線上に「イチロー」の活躍がある。中途半端な大きさや力で勝負しようとすれば、絶対的な大きさや力を持つ側に弾かれてしまう。日本文化を体現したイチローは、徹底した小ささと技で大きい連中を翻弄させ続けている。そうした姿に「義経」をだぶらせながら、彼を日本や日本人の象徴として持ち上げ賞賛するのだ。

 

日本の歴史文化は、「天皇制」という不変システムを基層として擁しながら、その表層は、仏教文化流入しての中国化、そして文明技術を模倣しての欧米化をしつつ、絶ゆまず進化を遂げてきた。その過程で、物真似の上手いイエロー・モンキーであるとか、猿真似の得意な変節国家などのそしりを甘受してきた。しかし、それも天皇制という、不易なるものを保守せんがための、苦肉の策であった。正しく自国を鍛え続けてきたのである。そうした努力が、他地域に対する徒花と化したことも、幾たびかあったことは否めない。古代日本は、冊封体制下、中国との朝貢関係を余儀なくされた。日本の中国化は、中国優位を如実に示すものであった。中国化の典型は、漢字使用だ。日本が中国の漢字使用を歴史的に日常化してきたのは、中国が日本より文化的優位性を示す表れで、それは日本の中国に対する劣等感の証左でもある。その中国に対するコンプレックスの反動が、その後における暗い日中関係史を構築することともなった。しかし、日本文化に純粋性を求めること自体に無理がある。結局、日本文化あるいは日本的と言えるものは何かと問われたら、外来文化を受容し折衷加工するシステムとなるのではないか。だから、何事も程々のところで折り合いをつけなければならない。人間同士に限らず、国同士においても、「苛め」は厳然としてある。帝国主義の歴史過程の中で、日本は苛められまいと、必死に悪戦苦闘してきた。苛められる対象がまず、その「恐怖」から逃れるために為すことは、苛める側の物真似をすることである。弱い者ほどツッパリのマネをするのは、苛めのターゲットから抜けてその脅威から逃げ延びたいがためなのだ。従って苛められる者は、苛める者に加担し、そして同化していく。いつの間にか苛められる側から苛める側に変身するのだ。日本帝国主義は欧米帝国主義の卵であった。

 

 日本はかつて福沢諭吉等の「脱亜入欧」論に乗じ、欧米列強(西洋近代)に伍し、白人支配の帝国主義路線の末端に参画しながら、近代日本を構築してきた。その結果、西洋近代を西洋にかわり大東亜に広げていったと評価され、不名誉にも日本(人)に対して「名誉白人」というレッテルが下賜されたのではなかったか。そして今、日本では「脱欧入亜」論が叫ばれ、日米安保体制との鬩ぎあいが高じつつある。アメリカはアジアシフトを念頭に置きだした日本を警戒しながらアジア外交を展開している。

 

 戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、それをじっと我慢してきた。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が現在のわが国である。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華されるようになったのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、結局ニーチェの指摘したルサンチマンを基盤としている。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑であるとか、ウォーラーステインの「世界システム(資本主義)論」を照合しつつ問題分析なり検証をしていかなければならないが、そうすることによりかえって「表象の世界」を合理化してしまうおそれがある。

 

 米国の一極支配にとり気懸かりなのは中国の台頭であり、その中国をいかに封じ込めていくかが今後における米国の外交主題の一つとなりそうである。また近代(米欧)とポスト近代(アジア)の間で、両者を曖昧な(アムビギュアス)姿で共有する日本は両者の「文明の衝突」による終末を回避させる鍵を握っている。あるいは、両者の摩擦による軋み回避のため、両者が連合してJバッシングという防衛規制を働かせ、日本はいつか来た道を辿らされるのかも知れぬ。日本の外交上、片や「日米基軸」、もう一方では「アジアの一員」と、異なる二原則で倒れずに前進するのは容易ではない。

 

 “山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。”かつて漱石が山路を登りながら、智=近代西洋と情=前近代東洋の板挟みに苦悶した時と同様に、日本は西洋(米欧)と非西洋(アジア)の狭間で、今後益々葛藤を余儀なくされるであろう。

 

 私はこの数十年間、アメリカニズムを懐疑し、その源泉であるヨーロッパ近代を問い続けている。アメリカニズムとは、アメリカ的思考及び行動様式であるが、その源泉にはアメリカの母体であるイギリスの思想が、特にベーコン以降の英国経験論やその系譜にある功利主義などがある。そしてそれら英国思想の影響下にあるアメリカの哲学、すなわちプラグマティズムアメリカ二ズムの核をなしている。更にプラグマティズム相対主義を唱道するものであり、価値相対主義の延長線上には、様々な領域におけるボーダーレス化が待ち構えている。例えば男性の女性化・女性の男性化という性のボーダーレス化もそのうちの一つとして指摘される。こうしてあらゆるジャンルで差異を淘汰していこうとする傾向が、今後益々進行していくであろう。多用される「チェインジ」という言葉は、価値相対主義的動向を表象する代名詞であると同時に、アメリカ一極支配に迎合するべく、日本のシステム及び日本人を変えるために用意された造語に思えてならないのである。

 

 西欧近代は、理性を尊重する合理主義を根幹として発展を遂げてきた。その反面ナショナリズムは非理性的なものとして抑圧され続けてきた。ナショナリズムは、近代の象徴である個人主義自由主義と葛藤し、それらにより返って孤立し不安を募らせる近代人にとって、母胎内の羊水の如くアイデンティティを満たしてくれるものでもあった。また近代文明により疎外度を増していく近現代人は、不変的なるナショナリズムへの永劫回帰すなわち自由からの逃走によって自慰しようとするのである。近代を人類史における自我形成期とすると、現代はその自我の分裂期にあたる。20世紀、西洋近代の危機を克服するため、社会主義イデオロギーが要望されたが、その挫折が自我分裂に拍車をかけている。西洋近代の自我分裂は日本近代の自我分裂でもある。経済立国日本の低迷、政界の混沌も結局、近代の挫折の延長線上にあるように思われる。 我々の社会構造の至る所に、競争の原理は仕組まれている。そして我々が現実の競争社会を生き抜いていくなかで、条件反射的に常用してきた言葉は「努力」である。M.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかでも指摘されているように、プロテスタントの宗教心の根幹をなす勤勉・努力というエトスが、近代以降の資本主義社会の構築に多大な影響を与えてきたことは、よく言われるところである。さて、その「努力」なる言葉の背後にあるものは、一体何なのであろうか。努力を怠ると、忽ちその先には奈落が待ち構えている。そうした「共同幻想」を味わいたくないという「恐怖」を、我々は日々掻き立てられ日常生活を余儀なくされている。しかし、この努力の遠い先に待ち構えているものは、何であろうか。それは、努力により期せずして獲得された覇権主義核兵器保有論ではないだろうか。さて、奈落の底は、我々にとって苦痛となり、その逆の覇権や核保有は、幸福となるのであろうか。

 

日常が当たり前と受け止められて時が過ぎ行く。人生、黄昏時が進行中であるが、何も疑わなくなっている自分が、そこにはある。疑わないとは、考えないと言うことである。「疑う」とは「考える」ことである。考えるには、それなりの労力がいる。労力を惜しむようになった自分とは、退廃する自分である。思い続けたい。疑い続けたい。私は、何事もすぐに信じてしまうタイプである。この殻からなかなか抜けられぬ。信じる者はだまされる。全くその通りだ。何も疑わず温々と生きてきた。疑わないから生きて来られたのかも。マルクスは「全てを疑え」と権力体制に疑義を唱え革命を叫んだ。猜疑心は不安を助長する。疑い続け、最後に自分をも信じられなくなる。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」で言う、疑っている自分自身は果たして疑いようがないのだろうかと、疑ったりもする。さて、どっちなんだ。「疑う」のか「信じる」のか。前者には、孤立無援が待ち構える。後者には共有し共生する道が開ける。お前はどっちなんだと自問自答するのだか。どちらを選択するにしても、何らかの労力は付き纏いそうだ。両者の狭間に立つ。これはどうだ。疑いながら信じる。なかなか両立しにくいようだが。古代ギリシアの時代から思考停止状態は続いている。プラトン流の「二元論」からアリストテレスの「動的一元論」へシフトするか。真っ向から対立する両極端は、得てして繋がりを持ったりするものだ。冷戦下の米ソも、「軍産複合」体制という儲け主義においては、水面下で繋がっていた。表層では対立を装い、その実、基層では濃厚に融合化している。これが世の中だろう。暫くは「フュージョン」を指針としてみようか。

 

 現代は、労働(日常)が軽減され安息(非日常)が増加している時代でもある。そして日常と非日常の差異が見失われ、「越境」化が進行している。更には、近い将来において、日常と非日常の逆転がなされることも考えられる。このような、非日常の日常化のなかで、「毎日が日曜日」であることに耐えなければならず、現代人は益々、ストレスを高じさせようとしている。非日常が日常的に繰り返されると、感動はなくなる。慣れは、初心を忘れさせてしまう。繰り返される現代の驚愕的諸事象にも慣らされ、感覚麻痺が漂う。そうした世相は、必然的に某作家の「鈍感力」を、ベストセラーへと押し上げたり、某政治家の「鈍感力が大事」発言に繋がり、「格差社会」の拡大に、その力を大いに発揮させたりした。とかく、「鈍感」より「敏感」の方が評価され易いが、敏感が過敏となると、落ち込んでネガティブでマイナス思考に悩まされ、体調を崩すことさえある。アレルギー体質など、外の変化に敏感に反応し過ぎると、病気がちとなる。「鈍感力」があれば、こうした周囲の変化に振り回されず、常に自然体でいられる。そして、鈍感力が自信へと繋がる。一つのことに集中すると、没頭する余り周囲に鈍感となり、周りを気にせず、変に気を奪われなくなることがある。つまり、鈍感力を身につけるとは、「夢」を抱きながら、何かに熱中するということであろうか。「釣りバカ日誌」は釣りと出会い、その面白さについ没頭してしまう話であるが、バカになれるほどの鈍感力を身に付けたいものだ。

 

 ニーチェは、『善悪の彼岸』のなかで「道徳的現象などというものはまったく存在しない。むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。」と述べたが、現代社会に道徳的現象が存在しなくなってきているとするならば、「KOUUNな十三の話」もただ現象の道徳的解釈のみに終始したわけになる。尤も、今という時代は道徳的解釈すらも存在しなくなりつつあるのではないか懸念されるのだが。ニーチェは、当時、キリスト教を母体としたヨーロッパ近代を懐疑しそれに警鐘を鳴らした。そのためには、「いじめ」による孤立無援をも覚悟で我が侭を徹さねばならず、そしてそれは一筋縄ではいかぬ最終的な修業であるとも言わしめたのだった。アメリカ一極支配が継続するなかで、彼の言葉は示唆に富むものがあるのではないか。さりとて、真のエゴイストたらんと金権力に塗れ、最終的な修業を踏み間違え、「権力への意志」を滾らせ、自滅への道に至らぬよう、気を付けなければならないことは勿論の事である。

 
 

第二話 「リビドー」について

 

 

   機器を通し、居乍らにしてあらゆる情報が苦もなく入手でき、様々なことが疑似体験できる環境のなかで、虚(バーチャル)と実(リアリティー)との「越境」化が進行しているように思われる。今、政治・経済的思惑のもとソフトな越境化がなされようとしているのかも知れぬ。越境化は、境界で仕切られていたものを融合し平準化させるが、相互の差異やそれにより醸し出されていた価値を希薄にさせるものでもある。また、価値希薄化に伴う権威の喪失がもたらすモラルの低下も懸念される。パソコンの画面を通して世界と一体化が図られると幻想を抱かせるインターネットは、バーチャルリアリティーを加速させた。バーチャル、すなわち仮想(虚像)を現実と錯覚する社会的事象も至る所で展開している。例えば、その一つとしてバブル経済が挙げられよう。プラザ合意後の消費扇情経済のなかで、儲け主義に現を抜かし、バブルの幻影に錯誤して今だに覚醒しきれてはいない。あるいはまた、カルト集団によるテロ行為の背景として、ファミコン世代の若い信者を中心とする心性傾向がかなりの面でバーチャル化されているなかで、簡単にそれを操作洗脳し破壊活動を容易に実行させるようになったことも指摘されうるディスクロージャー(情報公開)や規制緩和などの自由化の波は、その目的とは裏腹にこの傾向に拍車をかけてしまう虞れのあるものではあるまいか。性別越境シンドロームにまでつながりかねない問題をも内包することになる。核家族化の進行する現在においては、女性の職場進出によって家庭での様々な機能を男性も当然果たさなければならなくなった。学校教育の見直しが図られ、高校家庭科男女共修実施など、家庭における男女協業が真剣に検討され出した。官民あげて文化的・社会的性の境界タブーにどんどん踏み込まざるを得ない状況になりつつあるのだが、そうしたなかでユニ(モノ)セックス化や種の保存に不可欠の生殖行為を減退させるような傾向がつくられているのではないか懸念される

 戦後ちょうど半世紀を経た95年に発現したオウム問題や、世間を騒がす凶悪犯罪も、真の「生きる力」を見失い空中浮遊して彷徨するバーチャル社会の延長線上にあったのではないか。性懲りもなく平気で嘘をつき続け、犯行を合理化していく彼等のやり方に、憤りを募らせたものだ。しかし、カルト教団を国家に、信者を我々国民に置き換えた場合、同様のパターンが、その昔、国家的に展開していたのではないかとも思われた。ソト(諸外国)から異質として受けとめられがちの日本教を、ウチなる日本人信徒はそれを信じて疑わず、徹底的にイニシエーションかつ洗脳され続け、過去において正しく最終戦争ならぬ聖戦をしかけ、挙げ句の果ては教祖のためならば命をも惜しまず集団自決で一億総玉砕にまで猪突猛進しようとしていたのだから。その傾向は今も拭いきれずに我々の遺伝子に組み込まれている。イスラム原理主義を背景とするテロや、北朝鮮問題をみていく場合、我々の内なる日本教の過去及び現在を絶えず比較検証する必要がある。

 ネット社会では閉鎖的な自分を解放させてくれる。得体の知れぬ怪しさが自分を変身させるのだ。正しく、「アバター」効果だ。簡単に言えば、「匿名」で「無責任」になれるということである。「ウソ」が罷り通るバーチャル虚構社会で、お気楽に自分の憂さをある程度さらけ出しながら、最後のところで本性を隠し遣り通せる知のネットワークが構築され、弁証法的に自分を止揚することが可能なことは利点だが、匿名の問題点は、その「無責任」さが「軽薄」社会を助長することだ。そうした先に、秋葉原無差別殺傷事件は位置付けられよう。事件を起こした者のほとんどは、自身の弱さを他者や社会のせいにして、我が儘で身勝手な欲求不満を、世間への恨みに肥大化させ当て付ける。劇場型ともいえる理不尽な凶行には、呆れるばかりで反吐が出る。

 それにしても、殺人犯の少年から「殺す経験をしてみたかった」というコメントが出てきたり、また、その際に周囲から、「なぜ人を殺してはいけないのか」という呆れ返った言葉が投げ掛けられたり、それに対する返答までも窮するという始末だ。子が親を殺し、親が子を殺す。そして自分自身をも。他人の尊い命をも奪うことが自由であるなどと、とんでもないはき違いまでするほどのモラル=ハザードだ。ところで、踏まれた痛みは踏まれた者でないと本当のことがわからないとよく言われる。広島・長崎、あるいは沖縄の人々に関しても同様のことが言えるのではないだろうか。原爆を投下され犠牲となった広島・長崎の人々にとり、加害者への恨みは一個人に対してだけでは済まず、加害国及び戦争に関わった全てに向けられてもいくのである。大変な人権侵害を受けた側にとり、その痛手や心の傷あるいは加害者に対する恨みは、永久的に続く。国家的犯罪とされる北朝鮮による悪辣な拉致事件問題が簡単に解決されないのも、日朝の過去の歴史がそうさせているのである日本の一時期において諸外国に対し甚大な被害を与え、その責任を我々も含め今も問われ続けているのである自分に直接、関わりのないことに対して、人はとかく鈍感になるものだ。しかしひとたび、わが身に害が及んで来たとき、安穏としていた自分が豹変してしまう場合もある。サカキバラ事件で殺害された土師淳君の父親もその内の一人だった。殺人は新たな殺意を引き起こすものであるということを噛み締め、「なぜ人を殺してはいけないのか」という一見子供染みた愚問のような問いにも、真摯に答える必要がある。

 ブログ流行りの昨今だが、その本質は「己の内なる欲望の部分解放」である。得てしてブロガーは異性の閲覧者を想定して、その内容や構成を考え創作に勤しむ。暫くして特定の閲覧者ができると、その相手の悦ぶ姿を想い描きながら、時間が経つのも忘れ作家に成り切る。相手の反応が創作のエネルギー源となっていく。その根源には、最終的には特定の異性閲覧者へ到達したいという、妖しい渇望がある。それと同様、人間の営みの諸相には、こうした異性を意識した単純動機が隠されている。性対象への渇望を考える際、フロイトの「リビドー」論は必要不可欠である。リビドーとは、性的欲望または性衝動のことであり、性的衝動を発動させる力である。一方、ユングは、すべての本能のエネルギーのことをリビドーとした。心的エネルギーであるリビドーは、人間の性を非常にバラエティに富んだものへと変換させる本質的な力と考えられている。全ての人間活動はこれの変形として表象される。特に文化的活動や人間の道徳的防衛はリビドーが変形し、もしくはそのリビドーから身を守るために自我が無意識的に防衛したものとして理解されている。

 エジプト女王クレオパトラは、古代ローマの礎を築いたカエサルとの性交渉を通して、崩壊する自国の政治的安寧を図ろうとした。中国三国時代、魏の曹操は呉の軍師の妻を奪おうとし、蜀・呉連合軍と天下分け目の「赤壁の戦い」で一杯血に塗れた。政治史を彩る男と女の性の攻防が、国の命運を左右しその興亡の鍵を握るファクターとなる。政治は性との相関により展開している、と言っても過言ではない。政治は「権力への志向」とともにある。権力志向はその者の「欲望」により形成される。欲望の基本的構成には、生理的なものと社会的なものとに分類されるが、前者の代表格は「性」的なものであろう。

 イギリスのビクトリア朝時代の厳格過ぎる道徳により抑圧され帯電した性エネルギーは、そのはけ口を資本主義に求め、爆発的生産及び消費社会の構築に発散していった。勤勉・禁欲・節制・貞淑などのピューリタニズムをベースとする価値観や道徳が強要されたのは、産業資本主義から独占資本主義へと高度化する過渡期でもあった。そうした資本主義の高度化が文化的諸事象にも強く影響を与えた。産業資本主義段階の終盤にあたるビクトリア朝の前半は、まだ労働市場が男性主体の時代に該当しており、女性は職場で疲れた男達を癒す家庭内存在として位置付けられていた。それが、イギリス経済が急成長するビクトリア朝後半の独占資本主義段階になると、女性の社会進出が図られ出し、ジェンダーも変貌する。そしてそれは、現代の男女共同参画社会と同様、「女性の労働(納税)者化」でもあった。女性の社会進出が、不特定多数の視線及びメディアを意識した動きやすく見せるファッションや、自己身体認識の変化へと繋がっていく。こうして過度の外見的美へのこだわりや、拒食症を伴う不健康な美の追求が、美的コンプレックスを利用し消費社会のマーケティングに絡め捕られることになった

 性は秘め事であり、いつしか抑圧される対象ともなる。抑圧された性は、エネルギーを蓄え、その解放を希求する。その解放過程が人間の様々な営みへと変容するのである。人類の文明史は、「性の抑圧により蓄積されたエネルギーの発散過程」と言えよう。人類史上、最も忌み嫌われた人物は、ヒトラーであろう。その彼は「同性愛」的傾向を指摘されてきた人物でもある。同性愛者であることを隠微するかの如く、エバ・ブラウンを愛人として側腹に侍らした。彼がエバと結婚したのは世を欺くためだったという説もある。この性的はぐらかし行為は、「割腹自殺」というセンセーショナルな終焉を演じ、後世に謎を残した三島由紀夫にも見受けられる。それは、『仮面の告白』の中に隠されている。男色同性愛者のミシマが、結婚生活という「仮面」を被ることで自分をはぐらかそうとしたのである。逆に同性愛者であることを臆面もなく晒け出したのは、構造主義の泰斗、ミッシェル=フーコーである。彼の思想形成には、二つの事が影響していると思われる。一つは、医者であった父親との進路をめぐる確執である。自殺未遂事件を起こすなどの精神的混乱は、こうした父親との関係が少なからず影響していたであろう。もう一つは、ニーチェである。フーコーの思想は、ニーチェの「力への意志」や伝統的価値の無力化の指摘に影響を受け、それをもとに、社会内で権力が変化する様々なパターンと、権力が自我に関わる様とを探究した。彼は、自分自身がホモ・セクシャルの同性愛者であったこともあり、人間社会とセクシャリティ(性関連事象)の歴史的変遷に関心を持って、権力・性的快楽・性の道徳規範の関係を歴史資料を元に論証した大著『性の歴史』を書き上げたキリスト教世界宗教となる以前のギリシアやオリエントの古代社会では、ホモ=セクシャリティの性行動や少年愛は貴族階級の一般的な性愛として社会的に承認されていた。何故、キリスト教倫理が支配的となる中世社会で、同性愛者は罪深い神への冒涜者とされ性倒錯者として排除されたのか、何故、産業文明が発達する近代社会で、ホモ=セクシャリティは蔑視や差別の対象になってしまったのかを精緻に理論化した。そして彼は、権力構造とは「国力の増強に繋がらず、共同体の存続維持を妨げる異質性の排除及び隔離」と捉えた。現代でも未だに根強い精神疾患精神障害)などに対する誤解や偏見が残存していて、うつ病統合失調症等の精神疾患に罹患したことをカミングアウトすることにより社会的経済的不利益を招くことが少なくないフーコーが看破した近代の資本主義社会における精神の病理とは、共同体の存続維持と発展繁栄に貢献するものを善、貢献しないものを悪とし、その存在が社会にとり有用であるかどうかを価値判断基準にするという、多分に功利主義的な共同体倫理であった

 「うつの時代」の今日、森田療法の対象者はべらぼうにふえている。森田はこれを治癒するには、何かの「執着」や「とらわれ」に陥っていることから解放させることが最も重要だと考えた。自分の理想と現実のギャップに囚われてばかりいるのではなく、「あるがまま」の自分を受け入れるほうがいいと判断した。彼の考え方には中国の老荘思想に共通する見解が見受けられる。老荘思想道家思想とも呼ばれ、老子荘子の考え方である。老子の思想の根本は「無為自然」である。「人為」を排した「自然」を重要視する。人は、大人になるに従い概ね人為に絡め捕られてしまう。その挙げ句、生き苦しくなるものだ。それに比べ、未だ成長の見られぬ「子供」や原初的段階の「赤子」には、素直で人為(=嘘偽り)がなく、その赤裸々な生き様には屈託も見受けられない。「赤子」には人為的「生き方」はなく、あるのは正しくその「生き様」であり、「有り様」のみなのだ。また森田の考え方は、結局のところニーチェ思想に通底する。ニーチェは「偽善」を嫌った。偽善は「キリスト教」そのものであり、「他者」への愛である。道徳的なるものの本質は、「建前」であり、それは「嘘」なのだ。彼は偽善に対する猜疑心を絶えず研ぎ澄ませた。そうした彼には、嘘で覆われた物事は軽蔑の対象でしかない。しかし、ニーチェは、魔性の女「ルー=ザロメ」の魅力に嫉妬した。彼を無力化(=骨抜き)するほどの得体の知れぬ魔力。その所有者である彼女にメロメロになってしまった。非凡さに更に研きをかけたものが、彼女に対する嫉妬心であった。それが創造力の源泉となった。彼女を独占することが可能であったなら、「ツァラトゥストラ」の誕生はなかっただろう。彼女に翻弄されたニーチェだったが、「欲望」の獲得挫折が、人の潜在能力を呼び覚まし、芸術なるものが創造される。ルー=ザロメの魅力は、ニーチェの非凡な能力を開花させる触媒であったのだ。彼の狂気にも似た才能は、彼の性的嫉妬によりアウフヘーベンされたのだ。ニーチェを袖にしたルー=ザロメは、ショパンが恋した永遠のジョルジュ=サンドと比肩され得る。両者の共通点は、関係する男性の能力を高めたことである。男性能力とは、性機能というより文化的創作能力である。ザロメに失恋したニーチェは、その絶望により彼の代表作「ツァラトゥストラ」の創作に着手する切っ掛けを掴んだ。これは、性交渉の途絶による反動が、芸術創造に関わった象徴的事例である。ショパンも、自分にはないジョルジュ=サンドの自由奔放な生き方に触発され、彼の文化的創造力を大いに掻き立てられることになる。ショパンのサンドに対する求愛行為を逆撫でするような彼女の男性遍歴が、ショパンの嫉妬心を燃えたぎらせ、それにより彼の偉大な作曲活動が増幅されたのであった。エミリー=ブロンテの傑作『嵐が丘』で描かれた人間の根源的テーマも、ニーチェショパンが翻弄された、異性に対する「嫉妬心」が引き起こす「エネルギー」であった。

 森田療法と共鳴するニーチェ思想の根本は、「近代」を超克することであった。ニーチェ自身及び彼の思想にも矛盾は内包されていることは否めないが、彼はそうした自身に巣くう「内なる諸矛盾」をも含め、ポスト近代という精神革命を意図したのではなかったか。ニーチェに感化されたろうヒトラーにも、自身における内部矛盾の相剋が見受けられる。あるがままを称揚する「権力への意志」を滾らせ、ドイツ第三帝国という夢物語を芸術家気取りで「超人」として夢想した。そうした彼の政治活動に「ホモ=セクシャリティー」という、あるがままの姿を隠そうとする「性の倒錯」が多分に関連していると、私は見ている。ニーチェとともに実存主義の双璧とされるキルケゴールにも、ショパンと何かしら共通した雰囲気を感ずる。それは、屈折した優男。しかし、その優男達は屈折した精神をバネに、不朽の名作を世に残すことに成功した。彼等の屈折は、両者とも思い通りにならぬ女性との関係に起因すると考えられる。キルケゴールは、恋人との破局が余りにも有名だ。彼女を独占することから起こる罪悪感。キリスト教信者としての敬虔さが、恋愛の持続を妨げる仇となった。そして、彼の最後は路頭に迷い、雪道に倒れ昏睡するという悲業な結末であった。いわゆる野垂れ死にである。世間一般からは不可解にしか映らなかった一方的婚約破棄。そのことを切っ掛けに晩年、彼は社会的批判を一身に浴びながら、そうした近代社会及び近代人を懐疑し対峙格闘したのであった。存命中には、全くと言っていいほど相手にされなかったキルケゴールであったが、彼の近代に対する慟哭の意味するところは、死後一世紀を待たねば理解されるようにはならなかった。彼が生前書き残した著書には、生前の繊細でか弱い女性的印象を完全に払拭するかの如き思想が隠されていたのであった。

 ニーチェとともに実存主義の双璧とされるキルケゴールにも、ショパンと何かしら共通した雰囲気を感ずる。それは、屈折した優男。しかし、その優男達は屈折した精神をバネに、不朽の名作を世に残すことに成功した。彼等の屈折は、両者とも思い通りにならぬ女性との関係に起因すると考えられる。キルケゴールは、恋人との破局が余りにも有名だ。彼女を独占することから起こる罪悪感。キリスト教信者としての敬虔さが、恋愛の持続を妨げる仇となった。そして、彼の最後は路頭に迷い、雪道に倒れ昏睡するという悲業な結末であった。いわゆる野垂れ死にである。世間一般からは不可解にしか映らなかった一方的婚約破棄。そのことを切っ掛けに晩年、彼は社会的批判を一身に浴びながら、そうした近代社会及び近代人を懐疑し対峙格闘したのであった。存命中には、全くと言っていいほど相手にされなかったキルケゴールであったが、彼の近代に対する慟哭の意味するところは、死後一世紀を待たねば理解されるようにはならなかった。彼が生前書き残した著書には、生前の繊細でか弱い女性的印象を完全に払拭するかの如き思想が隠されていたのであった。

 

 三島的なるものは、映画人にも見受けられる。それは、ブルース=リーである。三島のタナトス的在り方を、ブルースは格闘技世界で模索していた。彼は日本の宮本武蔵に惹かれていたという。武蔵も、武士道世界のなか求道者として、理想と現実の狭間で苦悩していた。我々の人生は、概ね、理想と現実の狭間で相剋し煩悶する。理想と現実が乖離する場合、タナトス的在り方を求める度合いが強くなる。その道に真剣に立ち合う者ほど、その理想は高く、孤高の存在者となる。通常の者は、理想と現実の両者が妥協し、その距離が近接する。無限に続くハードルを乗り越えなければ、求道の先にある自分に見合う理想(自由世界)には到達できない。勢い求道過程でタナトス的在り方を見出し、ワープしようとするのではないか。ナルシズムも、そうしたなかで引き起こされる。マイケル=ジャクソンにも、そうした傾向がなかっただろうか。人類史は文明化の過程でもあり、それは、自然との関係史とも言えよう。自然を改変し続ける人間は、自身が自然の一部であることを忘れ、何時しか、自分の心身をも改変しようと試みる。そうした現代人の最先端に、彼は立っていた。彼は地球だけでなく、月面にも立とうとしていた。ムーン=ウォーカー、マイケルの死は、機械化が日常化する今を警鐘している。その動きは正に機械だった。人間と機械の越境化だけでなく、人種のフュージョンも実体験しようと整形を重ね、何時しか、タナトス的マシーンに「トランスフォーム」して-しまい、本当の自分が分からなくなった。機械化が日常的となる現代だが、そうした流れに抗うことが、真のターミネーター(抵抗器)であるはずだ。国家においても、理想と現実の狭間に苦悶し続けている姿が垣間見られる。それは、中国である。社会主義という政治的理想を掲げながら、現実的経済で資本主義を謳歌している。ここ数年における中国の躍進には目を見張るものがある。そしてそれが映画の話題作にも表れている。「アバター」では中国が侵略者の汚名を被ったと、抗議が起こったというが、最近の映画作品には、躍進する中国が皮肉られてよく作中に描かれる。「2012」の中にも、地球最後の日を目前にして、人類を救う現代版「ノアの方舟」まがいの巨船建造を手掛け、サバイバルを図ろうとイニシアティブをと-る大国中国の姿があった。冷戦崩壊後、現実的資本主義に取り込まれる国が大半を占めるなか、社会主義という理想をかなぐり捨てない中国は、孤高の国として残り続けることができるであろうか。今後、理想と現実の齟齬のなかで、タナトス的在り方をとろうとする中国が危惧される。

 

 エジプト女王クレオパトラは、古代ローマの礎を築いたカエサルとの性交渉を通して、崩壊する自国の政治的安寧を図ろうとした。中国三国時代、魏の曹操は呉の軍師の妻を奪おうとし、蜀・呉連合軍と天下分け目の「赤壁の戦い」で一杯血に塗れた。政治史を彩る男と女の性の攻防が、国の命運を左右しその興亡の鍵を握るファクターとなる。政治は性との相関により展開している、と言っても過言ではない。政治は「権力への志向」とともにある。権力志向はその者の「欲望」により形成される。欲望の基本的構成には、生理的なものと社会的なものとに分類されるが、前者の代表格は「性」的なものであろう。 イギリスのビクトリア朝時代の厳格過ぎる道徳により抑圧され帯電した性エネルギーは、そのはけ口を資本主義に求め、爆発的生産及び消費社会の構築に発散していった。勤勉・禁欲・節制・貞淑などのピューリタニズムをベースとする価値観や道徳が強要されたのは、産業資本主義から独占資本主義へと高度化する過渡期でもあった。そうした資本主義の高度化が文化的諸事象にも強く影響を与えた。産業資本主義段階の終盤にあたるビクトリア朝の前半は、まだ労働市場が男性主体の時代に該当しており、女性は職場で疲れた男達を癒す家庭内存在として位置付けられていた。それが、イギリス経済が急成長するビクトリア朝後半の独占資本主義段階になると、女性の社会進出が図られ出し、ジェンダーも変貌する。そしてそれは、現代の男女共同参画社会と同様、「女性の労働(納税)者化」でもあった。女性の社会進出が、不特定多数の視線及びメディアを意識した動きやすく見せるファッションや、自己身体認識の変化へと繋がっていく。こうして過度の外見的美へのこだわりや、拒食症を伴う不健康な美の追求が、美的コンプレックスを利用し消費社会のマーケティングに絡め捕られることになった。 性は秘め事であり、いつしか抑圧される対象ともなる。抑圧された性は、エネルギーを蓄え、その解放を希求する。その解放過程が人間の様々な営みへと変容するのである。人類の文明史は、「性の抑圧により蓄積されたエネルギーの発散過程」と言えよう。

 
 

第三話 「戦争(暴力)」について

 

 私は時折、年老いた父の住む家へ足を運ぶ。その父の傍らには、一枚の古ぼけた写真が飾られている。それは、軍服姿で軍刀を真ん中に携え、こちらを威嚇するが如く見詰め端座する、父の若かりし日のスナップ写真である。私はそれを見る度、父の心のなかに占める戦争の記憶の大きさ・重さ、そして悲しさを痛感するのだ。これまで父と戦争中のことについて語り合うことは何度もあった。しかし、父の方から私にあの時代や戦争について、あまり語ろうとはしなかった。そんな父に対し、かつて私は、「オヤジにも戦争責任がある」とか、「こんな写真を見て、結局は戦争を美化しているのと違うか」などと言ったりして、概ね次のような口論が続いた。「そういうお前みたいな利己的な輩が、戦後、やたらに増え続け社会の荒廃に拍車をかけているんやないか。みんな砂のようにばらばらで一体、何を考えとんかわからん。わしは、物質的には豊かになった今より、挙国一致で何かのために命懸けで結束していた戦争中のほうがまだましやったんやないかと、ふと思うことがある。自分の命を犠牲にしてまで、何かのためにまっすぐに生きていくってどういうことかわかるか。自分より他人のことを考え実行した特攻隊員の方々の自己犠牲こそ、今の世の中に一番欠けていることやないか。現在の社会的問題となっているモラル・ハザードは、戦後民主主義の産物である個人主義に胡座をかいてきた帰結なんやないか」、「かといって復古主義的風潮を是とする考え方は、かえって危険なナショナリズムに糾合されてしまうばかりだろ。 偏狭なナショナリズムが若者をはじめとして台頭していることを危惧するよ。ナショナリズムには、全体に対しての個人の自己犠牲が絶えず付き纏う。一人ひとりの私的なるものより国家などの公共的なるものが至上とされる時代に逆行するなんてもう御免だよ。特攻隊員はそんな時代潮流の中で生死を翻弄され、正しくそんな時代の犠牲者となったんじゃないのか。関行夫氏が特攻一号として軍神に崇められているなんて、同郷人として複雑な思いだよ」、「それはどういう意味や。特攻で散華された方々に対して余りにも失礼な言い方やないんか。愛する人達と共に生きたくてもそれが許されず、死出の旅路しか選択できない人の心根を少しでも考えたことがあるんか」特攻で死にきれなかった隊員は、その後の人生を狂わされただろう。絶えず生死を賭けたギリギリのところに身を置く非日常を旨とした場合には、かえって苦渋に満ちた永遠の時間に曝されていく。そこには、死ぬこと以上に苦しい生の連続が待ち構える。父は「お前らには、何言うても、わからへん。あの時代は、そんなお前らが簡単に言うて済むようなもんやなかったんじゃ」と繰り返し、平行線のままジェネレーション=ギャップを募らせていた。そんな二人であったが、最近、私の方が、父に理解を示し出した。「何でもありのモラル=ハザードが進行するこんな時代より、オヤジの戦争中の方が考えようによると良かったかもしれんな。不幸のなかでも人間としては何かのために尽くそうという目的意識があり、その意味では生き甲斐があったんやなかろか。感謝を忘れた今の日本は、みんなエゴイストばかりで、バラバラやけんな」と言うなど、ちょっと危ない傾向も無きにしもあらずなのだが。

 

 過去、辺境に位置付けられた日本人の意識に、中国や欧米諸国に対する劣等感が醸成され、その反動としての近代化路線が中国・朝鮮半島への侵略へ、そして欧米諸国との覇権争いへと高じてしまった。福沢諭吉脱亜入欧論は、日本人及び彼自身のコンプレックスの裏返しだった。日本(人)は、古来からほぼ同様のパターンで、コンプレックスの克服に翻弄され続けてきた。聖徳太子も中国との冊封関係による劣等国から離脱するために、中国仏教を日本に取り込んで文明化することに成功し、中国の支配から抜けようとした。そして、敵に勝つためには、まず敵のことを熟知しなければならないと言いながら、敵と同じムジナになってしまう。福沢の主張した脱亜入欧論をベースに大東亜共栄圏構想を実現するべく、中国侵略という覇権の歴史へと邁進してしまった。さて、福沢の脱亜論にしても、その背後に幕末維新期の欧米列強に対する相当の恐怖があるように思える。現代のアメリカにもそうした恐怖はないだろうか。9.11以降、要するに世界中が「お化け屋敷」となった。恐怖を司る側はそれに操られ翻弄する側の姿に快感を憶え、ついつい仕掛けはエスカレートしていくものだ。恐い者知らずが横行し、モラル・ハザードが進行している現代においては、恐怖は必要とされるものかもしれない。私は怖がりの性分で、「お化け」は苦手である。この苦手意識の克服策は、逆療法しかないのかもしれない。基本的には恐怖に浸る状況に身を曝せながら、恐怖を相対化させようとする森田療法的方式とでも言えるだろうか。しかし、「恐怖からの自由」が却って生死に対する感覚を鈍麻させ、新たな問題を突きつけることにもなる。死の恐怖の克服により、世界屈指の軍隊を作り出すことを可能にさせた大日本帝国などはどうだろう。感覚鈍麻のなかで、自身の実力を錯誤させ破滅への道を辿らせることにもなる例が、その他にも見出される。ベトナム戦争中、米軍が、兵士にビデオで残虐シーンを見せ続け、殺戮行為を容易にさせるトレーニングをしたことなどもその一つではないか。常勝アメリカもベトナムには結果的に敗北してしまい、その後遺症が尾を引いている。敗北恐怖症とでも言うか。恐怖の克服が、死をも恐れず暴走する輩を駆り立て、戦争の歴史を繰り返させることにもなってしまう。恐怖の克服は、核抑止をも上回るというシニカルな結果を招くことすらあるわけだ。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中に生きてはいない。刀に対するある種の恐怖を通し精神修養や修行がなされるとするならば、「戦争」という恐怖について考察することは、堕落した日常を戒めるためにも必要なことである。

 

 生き甲斐の完全に喪失した状況のなかでも生き続けるということの何という虚無感。昨今の此処彼処で嘯かれる「生きる力」なる造語は、平和惚けで空中浮遊する日本社会の風潮を象徴するものである。軽薄で脆弱な実感の得られない時代のなかで、空念仏「生きる力」の大合唱に繋がっているようでもある。特攻を余儀なくされ散り逝った「海神の声」に耳を傾け、死ぬこと以上に苦しい生の連続が待ち構える神経難病ALS患者の余りにも重厚なその一瞬をイメージすることから始めなければならない。さて、死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、「宮本武蔵」であるが、彼の真骨頂は、その「強さ」というより、恐怖心との対決を終生の課題としたことではないだろうか。「葉隠れ」に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあるが、彼もいつか自分が敗者となり、死ぬ時が来るであろうことを、絶えず予期していただろう。だが、その覚悟ができない場合、死にきれなくなることも起こり得る。そうすると、とにかく勝ち続けなければならない。ひょっとして、無敗の武蔵は、「負ける(=死ぬ)こと」に対する異常な恐怖心につきまとわれていたのかもしれぬ。我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。「恐怖」を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界という「お化け屋敷」のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も「武士道」における「刀」の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。それは、自衛隊の存在価値を考える場合である。自衛隊は刀という「暴力」装置であるが、戦後、その刀を決して抜かぬよう「武士道」を心掛けてきた。しかし、暴力世界という現実に翻弄され、「武士道」に押し潰されることから逃避しようと抜刀することで自身の弱さを誤魔化した。アメリカが仕掛ける「大義なき戦争」への逡巡は、我々が果たして「ラストサムライ」に成り得るかどうかの踏み絵であった。

 

 私自身かつて何度か体罰を行使した過去を持つ。そのほとんどは、自身の弱さの裏返しの感情的表明であった。見て見ぬふりのなあなあ関係が、かえってお互いの距離を隔てさせ、モラル低下に歯止めが効かなくなる場合がある。また放縦的関係性の継続が、質の悪い苛めに繋がったりする。感情的爆発でお互いの馴れ合い関係を瞬間的に壊した方が、言葉を駆使してその場凌ぎをするより後腐れがなくて良いこともある。「金八先生」も、昨今のモラル=ハザードに、その教師像を変容せざるを得ないのである。慇懃無頼な輩を野放しにする偽善的人権擁護論が後を絶たず、教育荒廃に拍車を掛ける。死刑廃止論を追い風に犯罪者が跋扈し、悪事に抑止力が全く機能しなくなりつつある様相が随所で展開中だ。そうした中、慇懃無頼な輩を野放しにしたモラル=ハザードの現代において、死刑廃止論は未だ大勢を占めない。このような現実世界の中で、湾岸戦争イラク戦争が展開し、世界中がそうした戦争を黙認したのだろう。

 

 歴史は恐怖との対峙の展開である。恐怖を司る側とそれを余儀なく被る側が社会を形成し、その体制からの逃避を「自由」や「平等」という価値で模索してきた。恐怖の典型は「死」であり、死は即ち「未知」ということである。簡単に言うと「分からない」領域である。その領域をめぐり宗教が人類史と伴に並存し、「神」なる精神安定装置を創出し、不安定からの逃避の歴史を繰り返してきた。ショウペンハウエルも「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。老後に生き甲斐を無くした者は、老いを加速させるものである。目的喪失は「死に至る病」であり、逆に目的保持は生きようとする欲望を喚起し、それが強ければ強い程、生命に活力が注入される。プラトニズムにしても理想を高く掲げ、それを追求し続けるなかで生命力を輝かせようとするのであり、我々はその虜になり、文明史を形成してきた。そして、死に伴う精神的・肉体的苦痛から解放してくれる文明という名の快楽を追求してもきた。その最先端にアメリカニズムがあり、核抑止も付随する。「毒を毒で以て制す」ならぬ「恐怖を恐怖で以て制す」という構図が、ハンムラビの「目には目を」の応報主義法典から抜け出せず、相も変わらずDNAの如く受け継がれてきた。

 

 その恐怖の構図への挑戦を仕掛けたのがイエスであろう。その変態的姿勢を敢えてとり続けられるなかで、相手は自己矛盾に苛まれ自壊作用を来すのである。キリスト教古代ローマ帝国との関係において、それは如実に示された。近代以降においては、ガンジーの非暴力・無抵抗主義をバックにしたインドと大英帝国との関係が正しくそれである。現代では、憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、それをじっと我慢しているわけだ。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が現在のわが国である。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華されるようになったのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、結局ニーチェの指摘したルサンチマンを基盤としている。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑であるとか、ウォーラーステインの「世界システム(資本主義)論」を照合しつつ問題分析なり検証をしていかなければならないが、そうすることによりかえって「表象の世界」を合理化してしまうおそれがある。

 

 我々の社会構造の至る所に、競争の原理は仕組まれている。そして我々が現実の競争社会を生き抜いていくなかで、条件反射的に常用してきた言葉は「努力」である。M=ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかでも指摘されているように、プロテスタントの宗教心の根幹をなす勤勉・努力というエトスが、近代以降の資本主義社会の構築に多大な影響を与えてきたことは、よく言われるところである。さて、その「努力」なる言葉の背後にあるものは、一体何なのであろうか。努力を怠ると、忽ちその先には奈落が待ち構えている。そうした「共同幻想」を味わいたくないという「恐怖」を、我々は日々掻き立てられ日常生活を余儀なくされている。しかし、この努力の遠い先に待ち構えているものは、何であろうか。それは、努力により期せずして獲得された覇権主義核兵器保有論ではないだろうか。さて、奈落の底は、我々にとって苦痛となり、その逆の覇権や核保有は、幸福となるのであろうか。

 
 

第四話 「教育」について

 

 偽装教育へのバッシングは、高校世界史未履修問題なで扇情された。そして教育基本法改定に、そうした世間の風潮が利用された。学習指導要領を印籠の如く振り翳し、教育への権力介入を牽制する教基法第十条を改定するのに、まんまと成功したのだ。だが、高校世界史未履修問題など、ほぼ全国的詐欺紛い行為が大昔からなされていたのなら、指導要領逸脱行為を黙認してきた文科省担当者が責任をとるべきで、それを現場の校長や平教員に責任転嫁するだけでは済まされぬ問題であった。結局、これらの問題を通して浮き彫りにされたのは、文科省の下部組織である教育委員会が全く機能不全に陥っていることが再確認されたことだった。

 

 教師にとり生徒指導は教科指導と同様、教師の資質を図る上で重要な要素である。生徒指導がきちんとできる教師は、学校社会の中で一目置かれる存在となりうる。それができない場合は、生徒からも軽視されてしまうのが常である。しかし、そうした教師像を信仰することが、学校社会を歪める一因ともなる。生徒と教師の関係は水平的関係性と垂直的関係性の織り成す微妙な彩で成り立つものである。前者の関係がほとんどの場合、秩序維持が図りにくくなったり、最悪の場合は学級崩壊の憂き目にあうかもしれぬ。しかし、後者のなかで表層的に整然と秩序が保たれている場合は、より気を付けなければならない。それは生徒の本音や意見を吐き出すことができないからだ。北朝鮮大日本帝国下の人心を想起すればわかるだろう。

 

 明治以降、近代日本の国家目標は欧米列強に追い付き追い越すことを只管、模索してきた。そのために、富国強兵・殖産興業を国是とし、その達成に向けた社会的基盤づくりのための教育が要請されてきたのである。強力な中央集権国家を形成するうえで必要不可欠のエリートを、国家的威信を背負い設立された東京大学にスポイルし、福沢諭吉の「学問のススメ」をうまく利用しながら学歴信仰社会を構築してきた。日本の教育問題の根っこの部分に、東大を頂点とする知のヒエラルキーとでもいうべきピラミッド構造と、結局そこから抜けられない学歴偏重主義の呪縛とが厳然と横たわる。そして旧態依然の東大解体論などの大学改革論が叫ばれたりするが、行政改革が口先だけの大号令に終始するのと同様、既得権益を死守したい輩の大勢いる大学内をそう簡単には変えられない。また、大学改革だけで済むような問題でもなく、元を辿っていけば、日本人の学歴信仰のルーツを探るべく、それこそ、福沢諭吉などが関わる近代史をみなければならなくなってしまう。更に、福沢の思想に影響を与えた欧米の近代合理主義までをも検証しなくてはならない。近代合理主義は理性的なものに価値を見出し、反理性的なものには価値がないとする見方だ。実利的・機能的でないのは非合理的となる。結果オーライという言葉も合理主義的用語の典型で、結果が良ければ手段化された過程も合理化される。結果良ければ全て良しで、それは目的のためには手段を選ばずという考え方にも繋がる。強力な国家は、精強なる軍隊と暴利を貪る産業界の存立に支えられ、更に企業は優秀で従順な産業人により成立する。近代化路線を強力かつ性急に展開したわが国は、それに必要な教育制度の確立が必要不可欠であった。よりよい産業人を養成するための教育指針が、日本文化の骨子である集団主義をもとに設定され、それがわが国の学校教育全般を今日まで規定し、様々な諸問題を派生し続けてきた。組織力を上げるためのトレーニングが集団主義教育のあらゆる局面で展開され、効率的な学校運営が文教行政のもと指導徹底化されてきた。国家の教育指針を司る文科省は各地方自治体の教育委員会を、教育委員会は各学校を統括し、上意下達システムが強固に形成され、そのシステムのなかで日本資本主義を担う従順な産業社会人が大量生産されてきた。特に経済立国の基盤を確立する高度経済成長期、東大を頂点とした教育界におけるヒエラルキーが磐石となり、日本では東大出身の学歴が最高の名誉であり価値であるとする見方が社会通念となった。そして、冗費問題など、その組織の著しい腐敗が指摘されて久しい官僚が、日本の閉塞社会の病巣とまで言われた。そうした官僚を輩出してきた日本の教育も、その元凶の一つとして批判対象とされる。

 

 高度経済成長を遂げた70年代後半以降、校内暴力、いじめ、不登校、そして学級崩壊が起こる。さらに少年による凶悪犯罪が相次いだ。こうしたなかで教育改革が急務とされ、そのスローガンも「人間性豊かな児童・生徒の育成」、「自己教育力」、「新しい学力観」そして「生きる力の育成」と変わってきた。1980年代には、中曽根内閣の臨時教育審議会が「学歴社会の弊害の是正」などを答申し、これを受けて文科省はその後、「ゆとり教育」への転換を図った。「生きる力」を掲げた総合学習の創設により、授業時間の削減など日教組が長年追求してきた「ゆとり教育」が、文部科学省の推奨のもと実行された。これは、プラザ合意後の日本経済における内需拡大策の一環として導入された週5日制との連動であった。しかし学力低下への批判から一転して「授業時間を増やし、総合学習を減らす」という方針転換が迫られることになった。そうした朝令暮改的方針転換に、現場は大混乱する。

 

 教育が様々な問題の源泉に位置付けられ、教育論が百家争鳴の如く展開されているにもかかわらず、なかなか日本の教育に明るい展望が見出せない。その国の教育の目指すべきものが、その国の行く末を暗示するものであり、逆に国家の掲げる目標が必然的に教育に投影される。近代以降の父性原理が現代社会における環境問題等の背景として、母性原理の見直しが叫ばれる一方、モラルなき社会の立て直しのため父性の復権を求める声も上がっている。林道義氏による同名の著書『父性の復権』のなかで、節操なき現代社会を招来させた一因に、戦中派の敗戦体験による精神的葛藤が関係しているとし、そのコンプレックスが権威を無下に否定する団塊世代に影響し、さらには宇宙人的な団塊ジュニアを輩出したと述べられている。そして、このような父性をもって育てられなかった世代、すなわちマンガ的「無脊椎人間」が大勢を占めるなか、社会の退廃化が進んでいるのであって、それを押し止めるには「ものわかりのいい父親」への逃避癖を改めなければならず、健全な権威を備えた父親が必要であると強調する。林氏の指摘はある意味で戦後民主主義が日本の教育に与えた功罪を問うものであり、戦後日本の教育問題を考察していく上で示唆を与えている。戦後教育の精神的支柱の一には子供主体の自主性を尊重し押しつけを排す欧米型自由主義的教育論があり、それに対し、それまでの儒教的教育は非民主的・非合理的なものであると見做され、軽視されてきた。そして忠孝礼節などの徳目は、戦後半世紀の間、過去の戦争を想起させる負のイメージとして、絶えず我々の脳裏にすり込まれてきたのではないだろうか。

 

 戦後教育は、自主性なるものを尊重するあまり、嫌なことから逃げることまで肯定するハメになった。スパルタ教育はアナクロニズムとなり、自己決定や自己教育力の名の下に、一方的働き掛けを否定的と捉え、真正面からの関わりを極力避ける。それは、指導困難者を相手にせざるを得ない側からすれば、都合のいい逃げ口上ともなる。カウンセリングにおいて、カウンセラーは常に受容的態度が常識とされ、子供の自発的行為をひたすら待ち、彼等を受容しようとする。そうした子供達に対する大人のおもねりが、彼等を誤解させ我が儘にさせる一因ともなる。欲求は与えられ過ぎると充足し希薄化する。従って逆療法的に欲求不満状態をつくることが、解決策になることもある。自分の好きな物だけ偏食していると、健康を害し病気になる。嫌いな食べ物には、栄養豊富で病気を防ぐものが多い。そうした嫌な食べ物を摂取していくことが、健康維持に繋がるものだ。そうすると、子供達におもねた教育環境が、果たして善であるのかということなのだ。

 

 教師は、生徒の赤いマフラーや靴下に反応し、教育上、好ましくないと注意する。そして白色のものが好ましいと指導しようとする。こうして、色に対する偏見が学校教育で植え付けられ、小さい頃から、色に関するマインドコントロールが潜在意識のなかにすり込まれる。それは、某カルト集団のやってたことと等しい。その合法的マインドコントロールが、学校というサティアンで日々イニシエーションされていく。教師は、自分の心の色まで真っ白に染め上げる。純白の鳩が平和を象徴するように、白色は世界に好ましい色と認知されていると合理化する。国際的公共の福祉に合致した、すなわち教育上、好ましい色だと。だが、白は白人の黒人をはじめとした有色人種に対する優越感を誇示する色でもあるのだ。学校も暗に差別を前提にしているところとなる。そう考えると、理不尽な学校での日常生活もそれなりに理解できる。管理上、都合のいい色を押し付けるなかで、その色に染まるようなカメレオン的生き方在り方が是とされ、それ以外の色は疎外の対象となる。生徒もオリジナリティー微塵も感じられぬパフォーマンスで応戦する。それを自己主張と錯誤して。一時期、大流行して教師を悩ませた茶髪。欧米人の真似をしてまで、アメリカニズムに迎合する彼・彼女等の精神の痴態は、棄民化思想とも通呈する。今の世の中、殺人や自殺が後を絶たない。このままだと、いずれ日本列島は軽くなり過ぎて宙に浮き、最後は空中分解するかもしれぬ。そうした中、利己主義者が蔓延していると、教育基本法を改定してまでも道徳教育を重視し、公共心の育成を図ろうとしている。日本社会はそのレベルにまで落ち込んでしまったのか。「なぜ人を殺してはいけないのか」とぬかす輩も居たりして、モラルがどんどん崩壊している現代だから、ガイドラインが必要なのだと。「在り方・生き方」というキャッチコピーも、現代の利己主義的風潮を諫めるためのキーワードとして、昔の古き良き時代を再考しようという切り札的言葉として喧伝された。しかし、生き方・在り方と言われても、何か道徳の押し付けのような胡散臭さが付き纏う。生き方より今は死に方の方が問われる時代だろう。超高齢社会だし、やはり生き方より死に方が大切だ。ソクラテスは「悪法も法なり」と、堕落した衆愚政治への警鐘を、自身の死でもって示そうとしたし、生き方はやはり死に方と深く関わっている。イエスとて脳死臓器移植だの遺伝子治療だの、やたら自然に反逆するかの如き、生命への畏敬の念をかなぐり捨てる延命操作には、頭を傾げることだろう。生き方・在り方を言う前に、政治家達にまず見本を見せてもらいたい。国民にこうあるべきだと言う前に、ちゃんと襟元を正して欲しい。政治家のモラルが一番問われる。何処かの国の元大統領なんて、言い掛かりを付け不正義の戦争を仕掛けてふんぞり返っていた。在り方・生き方と言うよりも、世界の在り方がどうしようもない状態ではないか。政治家は、きちんとした言葉使いが必要だ。言動に無責任な彼等の言葉の乱れが、学校をはじめとする乱れた現代社会の背景にある。  教師が命懸けで守るべきものは、決して得体の知れぬ学校文化ではない。教師は「服装の乱れは心の乱れにつながる」とよく言う。人を見掛けだけで判断してはいけないと言いつつ、パッと見の外観で判断しがちだ。見掛け倒しというように、外観は立派だが内容が伴わないこともよくあることで、そうした唯物論的なものの見方が誤解や偏見を生む。生徒がピアスなどをしているのは、そういう現実に対する細やかなレジスタンスであり、そういう目に見えない生徒の心の襞を、教師の心の目で汲み取ってもらいたいという、せめてもの表明なのだ。だが、何だかんだと時代に合わせて機能的に変えていきさえすればいいのでもない。社会が余りにもだらしなくなってきてるぶん、学校文化は保守すべきものなのだ。こうした考え方は、多分に復古的で、超保守的な危うさと裏腹だ。そんな自分を犠牲にしてまで守らなければならないような文化とは何なのか。犠牲と言えば、宇和島徳州会病院での臓器移植問題に関してはどうだろう。臓器提供者は自己犠牲のなかで他者を生かすと言いながら、臓器売買をめぐり金銭的問題の腐臭がしてならない。最愛の人が臓器移植をしなければ生きられないとなった場合、そんなことを言ってられるのか。そう言う者に限って金銭に物を言わせ助けようとするんじゃないか。やはり、生命すなわち生死を科学文明で操作しようとするのは、神への冒涜であり自然の法則に反することだ。脳死を人の死とする考え方は、プラトンデカルトのように二元論を基にする西洋的な発想であり、アニミズムなど日本の古来からの考え方を否定することになる。生き方より死に方が大切なのか。イエスだって脳死臓器移植だの遺伝子治療だの、やたら自然に反逆するかの如き、生命への畏敬の念をかなぐり捨てる延命操作には、頭を傾げるだろう。しかし、犠牲の精神を旨とするイエスならば、自分の腎臓を一つだけでなく両方とも切除させて与えるかも。しかも無償で。正しく右の腎臓を取られたら、左の腎臓も取らせなさいと言うだろう。

 

 教育には、何かを目標にして、それに近付くための努力に最大の価値を置く。しかし、それが強調され過ぎると、様々な問題に繋がるのも事実だ。その背景として、教育と資本主義システムとの絡みが指摘される。その一例が、スポーツ界のドーピング問題だ。薬物を使用してまでも勝利至上主義に拘り、肉体改造に勤しみながら、資本主義システムの虜となる。より高く、より速くという言葉に翻弄され、教育が資本主義システムによって歪められる。高校野球はどうだろう。都合のいい資本主義の道具と化し、そのシステム維持に利用されてはいないか。甲子園を目指し甲子園に出ることは、プロ野球への登龍門と裏腹なのだ。高校野球は学校教育の一環というが、野球用語には併殺プレーや盗塁など、殺す盗むという言葉が随所で使われる。高校野球を崇高なものと持て映やし、夏の甲子園は日本の風物詩となり、全国が振り回される。また、野球用語の犠打は、犠牲の精神を含み、。チームワーク宜しく滅私奉公的精神を強調する高校野球は、日本型資本主義システムを堅持するためのキーワードとなり、全国的に支持され、そして利用される。高校野球に心血を注ぐ監督が大勢いるが、結局、彼等は自分の家庭を正しく犠牲にしてまでも、資本主義システムを守らんとする先兵なのだ。負けて惨めな思いをする敗者を見下ろし、優越感と勝利の美酒に浸る。頂点に立ち、その他大勢のなかで独り勝ちをする監督(覇者)は、独占資本主義を支える存在なのだ。だが、単なる動物界の食物連鎖的ピラミッドシステムとは違うものだ。弱者は切磋琢磨して力を付け、努力せず胡をかく強者に取って代わるという、要するに下剋上的仕組みであり、競争のなかで緊張が維持され、お互いが活性化できる仕組みだ。固定化された身分差別的仕組ではなく、努力の有無により上下関係が決まる。最終的には、努力をするかしないかを価値判断の基準にするということだ。オリンピックが肉体世界の競争なら、精神世界のそれが知のオリンピック、ノーベル賞だ。それを無理に頑張って、機械に近付こうとしているのが現代じゃないか。人間自体がどんどん機械化していくのが恐い。三島由紀夫にも肉体と精神の一致を求めながら、結局その齟齬に悩み苦しんだ形跡が見受けられる。彼がボディービルで肉体を鍛え上げその肉体に見合う精神を模索し、挙句の果てに自らを腹切りへと追い込んでいったのと同様、現代は己れの肉体をマシーンの如くヘンシーンさせ、限り無く無機質なものにしようとしている。しかし、文化防衛論を展開し割腹で大和魂を実践化したかにみえた三島も、その理想とした肉体は古代ギリシアの彫像群であり、その精神もプラトニズムの範疇から逸脱するものではなかったように思えるのだ。だが、こうして試行錯誤している頭でっかちな人間を創造したのも、要するにプラトニズムの結末だろうか。ほとんどが猫背で腰が引けた姿勢になって塾通いする最近の子供達の姿を見るにつけ、心体のアンバランスというか不一致の兆候を強く感じる昨今でもある。もうそろそろ、学校体育に携わる先生方の認識も、変えたらどうか。今の自分の姿を尊重した体育ということだ。肉体を表象する体操の世界において、その歪みが顕著ではないか。肉体をその個人の精神性とは無関係なものとし、単なる技術的要素を競い合う様相をより強くしている。その結果、アクロバティックでメカニカルな演技を志向する傾向になっているように思われる。特に女子は中国雑技団の二番煎じに思えてならない。だが、技術を磨くことがなぜ悪いのか。特に、わが国は技術大国と言われるように、米国人の力に対抗するための技術を工夫してきたわけだ。柔道など柔よく剛を制すと言うように、どうしようもない肉体的ハンディを技術で克服しようとしていく。その際に磨かれた技術には大いに精神性が込められているのではないか。野球にしろ、本場アメリカのパワー野球に対して日本の集団主義を前提にした技術野球で勝負してきたのと違うか。その過程で、賛否両論あるなかでも高校野球が多くの支持を得ながら、その歴史が形づくられて来た。教育には社会主義と資本主義の両手法がバランス良く共存しなければならないのではないか。それが今や政治の世界と並行して、社会主義的要素が軽視され、資本主義的観点が幅を利かせている。競争至上主義が跋扈するなかで、苛めが生徒だけでなく教職員間でも切実な問題になってきている。例えば、習熟度能力別クラス編成などを採用している学校などでは、選抜クラスの担任に遣手の先生を充てたりして、教員間の競争を煽り対立の原因にもなり、そこに自ずと苛めの構造が出来上がってしまったりする。  苛め自殺が後を断たないが、自殺する勇気があるなら、苛めの構造を見抜きそれを然るべきところにぶつけないか。我々を操りほくそ笑む者達をのさばらせて、一体、何をしているのか。苛められた経験のある者は苛める者になる。日本も欧米に苛められ、そのトラウマから逃れるために、同朋の亜細亜人を苛めたのではないか。苛めは、自分達とは何か違ったものを発する存在を異質なものと見做し、それをターゲットにして疎外することによって仲間意識を確認し合う。田中角栄は、結局、マスコミに苛められ、葬り去られた。学校も今や社会的に苛めの対象として、マスコミの餌食になっている。

 

 目立つことは同質集団にとって、ウィルスのような異質物として扱われ、除菌される羽目になる。最近、癒し(ヒーリング)という言葉をよく耳にするが、複雑多岐になっている現代社会の人間関係のなかで、屈折した心を苛めという歪曲化されたシャーマニズムを取り入れることによって、“悪魔払い”しているのかも知れない。最近、個性重視の教育が何処もかしこも決まり文句になった。それは、一つ間違えれば苛めのターゲットにされかねない。いろいろな意味で我々の病原菌に対する抵抗力というか免疫力が落ちてきている。生きる力と言ってもいい。苛めに対して耐える力もつけねばならない。こうした見方は、苛めを容認してしまう考え方にもなりかねない。が、発想の転換も必要な場合もある。苛めをはじめ荒廃の一途を辿る学校を、学校の怪談とかいうオカルトの場に設定し、どうしようもない学校教育の問題を暗に揶揄しているように思われる。ひょっとして、学校が社会的に苛められていると見れないこともない。  学校も国家と同様の憂き目に遭う可能性がある。今、ボーダーレス化のなかで国家の必要性が問われているわけで、国民も権威の失墜した国家に対して、かつてのようにもう拠り所を求めようとしなくなりつつある。インターネットにより国家が機密情報を最早、占有できないことにより存立価値を喪失しつつあるように、学校も知の独占的所有を電脳機器の登場により切り崩され、その権威をどんどん低下させてるように見受けられる。だが、ボーダーレス化による国家的威信の減退現象と並行して、その流れを押し止めようとする動きもあり、拠り所をなくし右往左往している国民は、過去の国家の栄光に縋ろうとしているのも事実で、学校も浮遊化する生徒にとっては、それなりの存立価値があるのではないか。ただその際に、国家も学校も変容する国民や生徒の実態に応じてその姿を変えていくのか、それとも変わらない国家や学校の実態に国民や生徒を合わさせていくのかが、今後メルクマールとなるのではないでか。だが、後者の遣り方はもう時代遅れの観は否めない。

 

 2003年の経済協力開発機構OECD)の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど、低迷する日本教育の実態が浮き彫りとなった。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされた。昭和50年代半ばにゆとり教育が導入されて以来、授業時間と授業内容が一貫して削減されてきた。ゆとり教育は、子供の中にある怠惰を黙認・許容し、知識偏重の偏差値教育を揶揄する「勉強否定論」にまで至り、学習意欲のない生徒を甘やかせる結果となった。ゆとり教育総合学習も、日教組が昭和40年代後半から唱えてきたもので、文部省(現文科省)がその後30年間にわたって日教組の主張を結果的には実現してきたわけである。ゆとり教育学力低下した世代が、今、子の親となり、家庭における教育力低下に拍車を掛けている。校内暴力やいじめ、不登校などが激増した時期は、ゆとり教育を開始した時期に概ね符合している。小学校低学年にまで及ぶ学級崩壊は、幼児期の育てられ方に関係し、学力不足で大人に成り切れていない親たちの問題でもある。核家族化の進行のなかで、老人を疎外する社会が、結果的にはしっぺ返しを受けていると言ってもいい。生活の知恵や生きる術に長けた老人を家族から切り離し、臭いものには蓋をせよとばかりに隔離していくことが、未熟な夫婦による家庭における教育力の低下を促し、躾などで問題を有する近年の青少年を輩出する社会的な土壌となっているのではないか。また、そうしたバカ親に限って、昨今のモンスターペアレントに成り得るのである。『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦氏は、「日本の子どもはバカだ」と指摘する。なぜこうなったのか。藤原氏は、個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという子ども中心主義が信奉されてきたことを第一の理由に挙げる。インターネットの普及などの文明化と逆行する人々が増えている。大国の読み書き算術能力が退化すると何が起こるか。一部のエリートが、単純な言葉で大衆の人気取りに専念し、権力に居座る。ワンフレーズ首相と言われたパフォーマーが、劇場国家の中で一世を風靡したのはどの国のことであったろう。

 

 昨今の安易で早計な改革論に押し流され、国家百年の大計を過つようなことがあっては、取り返しのつかないことにもなり得る。欧米近代合理主義を根幹とする戦後民主主義教育が至る所でその綻びを露呈している中、学校化する現代社会の病巣を修復するための処方箋として、学校教育の分析検証は必要不可欠である。日本の教育力は戦後の発展と成長を支えた柱の一つといわれ、若者の知の水準も主要国のトップを維持してきた。ゆとり教育の指導要領は有馬朗人文相(当時)が告示し、小中学校では2002年度から、高校では03年度から実施された。しかし、文科省ゆとり教育の失敗を重く受け止め、総合学習により減少した授業時間数を一転、増やすことになった。が、こうしたブレまくる文科省の方針転換が、教育現場を大混乱させたことは想像に難くない。学力低下批判や公立学校不信の高まりをよそに、ゆとり教育をひたすら推し進めてきた行政の責任は大きい。失敗が明らかになった以上、自らの誤りを認めず場当たり的施策を打ち出すだけで詰め込み競争と揶揄し基礎学力を軽視したことを深く反省する必要がある。2007年に希望者全員が定員枠に収まる全入時代となり、大学倒産も現実のものとなった。そして定員確保のための入試の安易化と受験生の負担軽減が大学生の学力低下に拍車を掛けた。小学校から大学に至る日本の若者の知的レベルの地盤沈下は、バブル崩壊以降のこの国の社会が抱える構造的なひずみと重なる部分も多い。ニートと呼ばれる無職層の若者の急増もこれと無関係ではなかろう。国の教育政策の失敗を十分検証するとともに、社会構造の変化も踏まえて新たな知を創造する仕組みが必要である。  斜陽化する欧米世界が立ち直りの処方箋として、日本の教育を見習おうとしているなかで、当の日本ではその教育に悲観的観測を募らせ、安直な改革論を振りかざしながら、恰も欧米の辿った轍を踏もうとしているようである。モラルなき日本社会を招来させている一因が、自由民主主義を履き違え狭隘な個人主義を蔓延せしめた戦後教育にあるとするならば、今後わが国の教育の何をどのように改革していけばよいのかは、自ずと判明することであろう。

 
 

第五話 「政治・経済」について

 

 泣き愚図る赤ん坊は、ゆらゆらとあやすと、大概は治まる。小さい頃、よくブランコに乗って揺れることを楽しんだ。大きく揺さぶることに快感を覚えたりもした。許容できる範囲の揺れは、普通、気持ち良さに繋がる。しかし、度が過ぎると、それも不快に変わり、恐怖の対象となってしまう。昔から怖さの代表格として、「地震・雷・火事・親父」は定番であった。近年、親父はその中から失格したが、地震は、依然とトップに君臨する。大地を揺るがす。震度5以上のクラスになると、どうしようもない不安と恐怖に駆られる。今はそんな地震が、全国どこで起こっても不思議ではない。こうした物理力による揺れもさることながら、精神的・心理的揺れも、抜き差しならない。通常、選択肢に迷う場合、心が揺れ動き、落ち着かなくなるものだ。「自由か平等か」、「私か公か」などの選択の場合も、心穏やかではなくなる。

 

 かつて、親分肌のイメージが強い田中角栄に、日本国民は政界の改革を期待した。今太閤と褒めそやし、平民宰相の再来と、彼に日本の将来を託したのだった。しかし、疑獄事件で、「政治は力、力は数、数はカネ、従って、政治はカネ」という金権政治家としてレッテルを貼られ、マスコミや国民に苛められ、最後には葬り去られてしまったのだった。今、政治家のなかで、田中角栄のように個性豊かな人物を見出すことは困難である。しかし、集団内のストレスが再臨界を迎えようとする状況が、日本国民に破天荒なリーダーを待望させようとするだろう。

 

 財政赤字を累積し続け国民感覚に鈍感で無責任な某政党は、去る総選挙の際、臆面もなく「責任力」なんぞというキャッチコピーを掲げ、案の定、いっぱい血にまみれた。無軌道政治に辟易としていた国民は前政権党に引導を渡し、現政権党は我が世の春を謳歌するはずだった。が、旧態依然とした政治手法に対し、国民の期待が失望に急変した。優柔不断で無策振りを天下に晒し混乱を来すリーダーのあまりの不甲斐なさに、怒りを通り越して虚脱感すら漂った。そして現在、世の中に「なんとか力」が溢れ返っている。「力への意志」は無力感漂う現代社会の裏返しでもある。「愛なき力は暴力」だが、「力なき愛は無力」であり、前者より厄介な結果をもたらす場合がある。数年前のイラクをはじめ北朝鮮などにおける独裁体制の横暴を押さえ込むため、アメリカを「世界の警察官」という超法規的例外暴力装置として黙認してきた。外交的手段で平和裏に独裁者による支配欲を抑制させながら、不正義を黙認せざるを得ないことほど、遣る瀬無いモラルハザードの極みはない。湾岸戦争イラク戦争におけるアメリカの行動を世界的に容認したのは、正しくこうした人々の心理が働いていたからではないか。アメリカの嘯く「正義の戦い」を嘲笑しながらも、不正義な「アメリカの正義」が世界の不正義に利用されたのだ。そして今、世界的テロがこうした構造の再現として展開している。一極支配の維持に汲々とするアメリカは、「強さ」を誇示しながらも結局はその裏返しである「弱さ」を披瀝している。新世紀が到来したが、社会のいたるところでモラル・ハザードが日常的となり、国内外ともに明るい展望が見出せない。そして、9.11以来、世界は恐怖をめぐるお化け屋敷となった。単独行動主義と合理化された米国の先制攻撃が、テロという名の怨念紛いのエンドレス復讐劇を増幅させた。S.ハンティントンの「文明の衝突」論が狡猾に扇情され、アメリカはかつて経験済みのミッションを着実に遂行し、世界が大きく傾き掛けた。冷戦構造が崩壊し、軍産複合体制がその生き残りを模索していた最中に起こった湾岸戦争の頃と同様のパターンを繰り返した。「普通の国」を目指そうと、様々な思惑が「改革」の名のもとに実現していった。

 

 80年代を一言以てこれを蔽うことは困難だが、あえて集約すればそれは「保守化」である。ケインズ主義の破綻を克服すべく「小さな政府」の理念が掲げられ、いわゆる「新保守主義」が台頭し、80年代後半の社会主義の挫折とその崩壊が世界に与えた影響は甚大であった。旧社会主義国が次々と市場経済に移行し、ウォーラーステインの説く世界資本主義が本格化を見せ始めている。体制に対するアンチテーゼとしての社会主義イデオロギーは、体制にとり厄介なものである以上に都合のいい調節弁であった。なぜなら、体制をより強固なものにするためには、軍事的側面をはじめとして様々なる仮想敵対象が必要であり、産軍複合体を活力源にする資本主義(社会主義も同様)にとりアンチテーゼは好都合なものであった。また、様々な社会的フラストレーションを糾合させ、それをうまく誘導させるものでもあった。カルト集団によるテロにしても、その社会的背景として、社会主義挫折崩壊後の混沌が関わっていることは否めない。よりシステム化される体制のなかで、拠り所(アイデンティティー)を求められない20代・30代の若者達が、詐欺ペテンにころりと引っ掛かってしまい、二進も三進もいかない状況に追い込まれてしまった。あるいは、旧ソ連邦崩壊後のロシア経済不安定と杜撰な軍備管理が、カルト集団に付け入る隙を与え誇大妄想を駆り立たせた余地も少なからずあるだろう。このように、社会主義の挫折が残したものは多大であった。また、社会主義の挫折はすなわちヨーロッパ近代の挫折でもあり、それを模範にしてきた世界が将来へのパラダイムを描けず、右往左往しているのである。私は、社会主義崩壊後、それまで進歩的知識人と呼ばれた者達の言説に圧され影の薄い存在であった保守派文化人が捲土重来し、巻き返しに転じ伝統回帰を声高に叫び出す姿に好感は持てないが、どちらの立場に立つにせよ、アメリカニズムを懐疑する者に対しては共鳴するところである。しかし、こう言いながらも、従来から留意しなければならないと自戒してきたはずの作為的ナショナリズムに、結局誘導されてしまっている自分に行き当たらざるを得ない。今更ながら自分自身に巣くう内なる矛盾を直視せねばならなくなったわけである。

 

 マルタ会談により米ソ冷戦構造に終止符が打たれ、社会主義というイデオロギーに閉じ込められていたナショナリズムが次々と噴出した。そして世界的に民族主義をバックにした地域紛争が続発した。ソ連邦崩壊後、アメリカが唯一の超大国として「世界の警察官」となり一極支配を確固とした。「悪の帝国」ソ連に変わる新たな仮想敵国づくりが必要とされた。その第一段階が湾岸戦争を通してであった。アメリカがイラン封じ込めのためモンスターに育て上げたフセインイラクがターゲットとされた。そして、それまで軽視されていた国連が、様々なかたちで利用された。わが国の国際貢献が声高に叫ばれ、封印されてきた自衛隊の海外派遣が通例となった。また、政治大国へ変身するための政界再編が次々と仕組まれ実行されていくなかで、諸種の「構造改革」がキーワードとなった。この間世界は、「軍産複合体」制の再構築をするべく、軍需産業の生き残りを命懸けでサポートしていたのである。

 

 ナショナリズムという相対主義的動向と、アメリカニズムという絶対主義的動向が鬩ぎ合いながら世紀が変わった。テロも日常化しつつある。「軍産複合体」制の再構築が企てられ、我々は否応なしに、軍需産業の生き残りのため仕組まれる「永遠の戦争」や、アメリカの偽善的正義(普遍主義)を世界に押し付けることに利用される。イラン・イラクベネズエラ北朝鮮・中国・ロシアが連帯しているかの如くアメリカ一極支配に抵抗勢力として立ち塞がろうとしている。こうしたなか、日米同盟を後生大事に堅持し、いつまでも国民に対し偽り続ける政権党と、似非政権を後生大事に保守し、自分に嘘をつき続けようとする日本人の姿があった。

 

 国家の精神を標榜する憲法が不健全であれば、社会は次第に内部から蝕まれていく。日本国憲法は、その成立過程に不透明性を宿していた。すなわち、第二次大戦直後における、米国による対ソ封じ込め戦略の一環を担わされたということである。第一条を反共の具とし、それに異議をはさもうとした陣営を第九条の第一項で懐柔した。第一条の副産物的条文となる第九条も、更にその第二項書き出しの但し書きにより武装化が可能となる解釈の絡繰が用意され、朝鮮戦争後における米国の対日政策転換すなわち、わが国への再軍備自衛隊創設)要求に利用されるものとなった。このような憲法にまつわる諸問題が、戦後の節操なき日本社会を現出させたと言っても過言ではない。様々な欺瞞を黙認あるいは利用しながら、ふしだらな状況が露呈されてきている。また、こうしたなかで保守・革新ともにその性格を自ずと歪曲せざるを得ないのである。

 

 自民党を一とする保守陣営は、第一条及び第九条を中心とする改憲すなわち自主憲法制定を声高に叫びながら、その実、現憲法を押し付けたと見做す米国に対しこの半世紀の間日米安保体制下、自国の領土である沖縄に後方基地を設けさせ、しかもそればかりか思いやるような屈辱的従属姿勢をとり続けてきた。それで果たして、自主独立自尊を主張することができるのであろうか。また、共産党を一とする革新陣営は、日米安保体制(条約)を廃棄すべしと嫌米姿勢をとり続けながら、第二次大戦直後における米国の対ソ戦略の影響下に晒された憲法の擁護を標榜してきた。自らの主義主張と相容れないはずの第一条との矛盾から目をそらし、正義の味方を嘯くような護憲では、どのように講釈を垂れてもそれは子供騙しにしかすぎないのではないか。このように、両陣営はそれぞれアイデンティティーの矛盾に苛まれながらお互い鬩ぎあいをしてきたのである。 冷戦後におけるアメリカは、世界で唯一の超大国として君臨し一極支配するためのシナリオづくりに懸命である。そのシナリオにより軍産複合体を基盤とする儲かるシステムが実現されるからである。冷戦時代には悪の超大国ソ連が存在してくれたおかげで、儲かるシステムは左団扇でありえたが、ソ連邦崩壊により新たな仮想敵対象及び世界秩序を次々と打ち出していかなければならなくなった。湾岸戦争イラク、核疑惑の北朝鮮、中台問題の中国と冷戦後における軍産複合体の巻き返し戦略に世界が振り回されているのであり、わが国もその渦中から逃れられずに巻き込まれてしまうのである。近時の日米安保再定義にしても、沖縄での米軍兵士少女暴行事件をきっかけに日米安保見直しの気運が高まりかけたにもかかわらず、日米安保強化という日米双方における軍産複合体の目論み通りの結末に至ってしまった。

 

 日本は幕末明治以降、米欧列強のいじめに恐れおののきながら、生き残り策を模索してきた。そして、脱亜入欧論や大東亜共栄圏構想を展開するなかで、いじめの合理化をはかり、結局その呪縛から逃れられなくなり自滅への坂道を転がり落ちるしかなかった。今またいじめられる側にも問題があると言わんばかりにいじめられない「普通の国」を目指そうという声が高まりつつある。弱小異質に徹し(成り)切れず曖昧なままいじめる側に取り込まれるのでは、まさしく猪突猛進的な自殺行為でしかない。いじめの構造を見抜き、いじめる側に加担しないだけでなく、いじめられる側を擁護できるのが「普通の国」であるはずだ。

 

 覇権主義とどう向き合うかは、根幹で核抑止論を問うことでもある。結局のところ覇権主義にしろ核抑止論にしろそれが罷り通る背景には、人類史における宿命的命題が隠されているのではないか。その命題から我々は抜け出せずに、不可避的神秘のベールに身を包まれながらそれを運命愛として受容してきた。それとは要するに「恐怖による脅迫」である。我々を含む全ての生命体は、大なり小なりこの恐怖をその活動の源泉にしていると言ってもいいだろう。恐怖のなかで組織体の安寧秩序が保たれ延命が可能となる。覇権や核もそれらが醸し出す恐怖が組織集団員の横暴を抑止し、その結果、安寧秩序が保たれ生命維持が図られる。

 

 帝国主義のもと植民地争奪戦を展開していた18・19世紀の世界観が今の時代にも盤石な基層としてある。古代ローマ帝国から近代大英帝国そして現代米帝国と、支配統治権力者の姿こそ変われども、その基本的性向は不変的である。基本的性向を形成するべく以下の要素を遺伝子の如く継承してきた。それは、力(軍事力)による支配であり、白人至上主義に基づく搾取である。ヨーロッパはこの二要素を合目的的に発揮するため、近代国家なるものを踏み台にあるいは隠れ蓑にしてきたのではなかったか。個人が会社などの組織を通して、金銭欲・名誉欲など自己の欲求を満足させていくのと同様に、国家を利用して、己れの欲望を満たそうとする存在があり、その利権を保守するためのシステム造りに事欠かない歴史が展開してきた。絶対王政時代、朕は国家なりとも言われたように、国家は国王でありその主たる欲望は権力欲であった。国王以外のほとんどの者にとり国家(国王)とは正しく裸の王様的存在であって、虎の威を借る狐たちには国家は自分たちの利権を保障してくれるもの以外何物でもなかった。商業人がその金銭欲を満たすのに、国家(国王)の軍事(政治)力は強ければ強い程都合が良かった。国内においては営業活動がしやすいように安寧秩序の保持のため統治してもらい、国外においては国王に侵略戦争による世界帝国形成を実現させ、商業市場が世界的に拡大し利潤を高める必要があった。商業人が商業的利益を追求するためには、このように強い国家(国王)が要望されたのである。強い国家(国王)は力(軍事力)による支配により産み出されるものであり、それはひいては商業人らの財力に支えられるものでもあった。こうして、国王(政治)と商人(経済)は強く癒着していくのであり、この構図は古今東西、通底している。そして、より強い国家をつくるためより儲かるシステムが必要とされ、帝国主義軍産複合体はその典型となった。産業革命後の産業資本主義以降このシステムは本格化し、欧米列強による世界資本主義が世界分割のもと展開するなか、富を収奪して繁栄を謳歌する北の一部の地域と、それらに富を強奪され第一次産業を押し付けられた南の貧しい地域との南北問題が深刻化していく。そして人口問題・エネルギー問題・環境問題など抜き差しならぬ諸問題を派生させ現在に至っているのである。

 

 世界平和を司るべきはずの国連安保理常任理事国は、平和を説きながら戦争の火種になる武器輸出を盛んにしている。国連安保理常任理事国は五大国とも呼ばれるように、現在世界の強国であり、従ってより儲かるシステムを追求している国々でもある。すなわち、帝国主義路線や軍産複合体制がより顕著に見られる国々と言えよう。冷戦が終結したにもかかわらず地域紛争が後を絶たないのも、軍産複合体制が巻き返しをはかっている証拠である。冷戦という戦争準備期は、核兵器を頂点に大量の兵器生産を必要とした。そして、その生産を手掛けた軍需産業のほとんどが大企業であり、戦争を念頭に置いた緊張関係があればこそ兵器の受注、生産が可能となり、高性能のハイテク兵器などの生産は軍需産業にとっては儲け頭であったのだ。それが、冷戦後の和平のなかで軍事化に逆行する流れがつくられだし、軍産複合体という儲かるシステムが綻びだした。そこで、軍産複合体はその生き残り策を冷戦後の世界で模索していくのである。ゴルバチョフが失脚する切っ掛けとなった保守派によるクーデタも、和平路線を掲げるゴルバチョフを追い落とそうとしたソ連軍需産業が保守派リーダーを擁して仕組んだものであった。また、湾岸戦争もある意味で軍産複合体の復活を証明するものであったと言われている。当時のブッシュ大統領も、次期大統領選挙を睨んで、危ない賭けに打って出た観は否めない。軍需産業の主体である大企業の存在及びその意向は、選挙戦を有利に運ぶためには無視できないものである。現代においては、国家権力の中枢に位置する政治家と防衛産業などを担う企業家がそれぞれの利害打算で癒着し、それに付随する諸問題が後を絶たないのである。

 

 長年の日本政治に対する国民の失望感が、捨て鉢なキャラクターとシンクロして小泉人気は有り得た。それまでの政治家がとかく保守的なイメージだったのに対し、独特なヘアースタイルなどから自由闊達な雰囲気を感じさせ、人気は続いた。バブル崩壊後の不景気にともなう日本の沈滞ムードも、80%を超える異常な支持率につながった。そして、国民の政治への諦めが、ほのかな期待という錯覚へ変容した。55年体制下、自民党は様々な構造汚職問題を通して、国民の批判を受け続け、遂に93年には過半数割れをし、その後は、他党との連立でかろうじて政権を維持した。こうしたなかで、自民党と小泉はお互いが双方を利用した。彼は米大統領に行くなと言われても行くと言い、敗戦記念日に参拝して公約を実行したかの如く、最後まで姑息なパフォーマンスに終始した。

 

 今後、日本の政治は、小泉等の風見鶏的で扇動的パフォーマーに対するバブル的期待値を有す有権者の動向にかかっている。政治は「命」に直結するものである。指揮者である政治家と演奏者である国民との信頼関係のなかで、美しい音色を奏でるオーケストラにするのが政治の果たすべき役割である。現在は、政治哲学を持ち合わせていない政治家のもと、識見の乏しい有権者による似非民主主義が展開している状況と言っても過言ではない。

 

 地方自治の活性化が叫ばれて久しいが、中央集権的体質を改善するのは至難の業である。そもそもわが国の近代化は、幕末明治草創期、欧米諸国による侵略阻止のため、早急になされる必要に迫られた。従って下からの近代化を待つなどの余裕はなく、勢いお上による上からのものとなり、それが後々の中央集権化を決定付けた。切迫した危機的状況が、日本の上からの近代化を促した。そして中央と地方は主従関係のもとで、地方は中央依存体質を甘受しながら、中央からの補助金を主体とする地方財政の構造が規定され、それを維持することが中央の地方統制を容易なものとした。このように中央と地方は、地方自治が骨抜きになる体制を暗黙裏に看過しつつ、持ちつ持たれつの関係性を堅持してきた。本来、「地方の時代」というフレーズは、中央(鵜将)が、補助金という赤い糸を地方(鵜)の首に巻き付け、鮎を呑み込むという自治活動をさせない操作の絡繰りを払拭し、地方が鵜飼い状態を克服することを意味する。今や国家財政が破綻寸前というなかで、中央政府も地方丸抱えの体制を維持できなくなり、地方分権化を、政府自ら声高に叫び出しているのが現実である。要するに地方分権は、80年代以降の自由化・規制緩和に沿った路線、いわゆる「官」から「民」へのシフトである。EU統合や銀行・地方自治体などの統廃合と、これらの諸事象に共通する背景に財政難という危機的状況がある。

 

 戦後、55年体制は米ソ冷戦構造という世界の枠組みを反映したものであった。また、それは軍産複合体制を盤石なものとするためのシステムでもあった。「政治は力、力は数、数は金」すなわち「政治は金」という政治信条を永田町に定着させたのは、田中角栄であった。元々、民主主義とは、デモス(民衆)のクラトス(支配)という原義からすれば、多数による決定方式を意味する。従って民衆の質を問わずにデモクラシーを金科玉条とすれば、単なる「量の支配」となるのは必定である。田中的手法は、デモクラシーの盟主アメリカの圧倒的物量戦略をネガにし実行したものであり、その挫折は、戦後民主主義の末路であったとも解釈されよう。かつてロッキード事件田中角栄の政治手法を利益誘導型であり構造汚職の元凶として揶揄したが、そもそも政治の本質は権益をめぐる諸事象でもあるということを忘れてはならない。

 

 国家の場合も個人と同じことが言えると、岸田秀氏は以下のように指摘する。個人の人格は自我とエス(無意識)の二重構造になっている。自我とはこれが自分だとする、いわゆるアイデンティティである。反対にエスとはこれは自分ではないとする。この自我とエスとは対立関係にあり、この関係は激化する。それを回避し精神的安定を図るためには、絶えず外部に敵を捏造しなければならない。実際、世界には常にどこかの国を敵にしなければ、その国のアイデンティティが保てない国家が多数、存在する。人工的理念を設定し、その理念を普遍的に正しいと見なして設立された国家ほど、仮想敵を煽り自身を合理化する必要に迫られる。自由・平等・民主の理念を掲げ、原住民を大量虐殺して成立した人工国家はどこであったか。その国には、この理念以外に国家としてのアイデンティティを支えるものが他にない。しかも強大な軍事力を持っているから、なおさらに恐ろしいと。また、原田剛氏は以下のようにも指摘している。支配者が全面的に物理力や暴力の行使に依存するのは、不安定性を補償する必要がある時で、主として政治権力を樹立した当初とその崩壊の直前においてである。支配者はその地位を強引に引き伸ばす最終手段として暴力を行使する。支配の維持のためにもっぱら暴力に依存することは、「強さ」の表れというよりもむしろ「弱さ」の表れであると。果たしてこうした国はわが国との関係上、非常に近い所に存在しているのではないか。

 

 さて、北朝鮮問題だが、中国を後ろ盾に、上手に大国アメリカと五分に渡りあっている北朝鮮に対し、日本は米国にごねるカードは北鮮より多く持っているはずなのに、いつまで米国の腰巾着をし続けるつもりなのか。中国も米国への牽制として北鮮を利用してきたが、いつでも見限る用意はしている。そうなると、益々、北鮮は暴走する。現在の東アジア情勢は、関ヶ原前の状況と似て相手の動向を見渡しながら、決断を決めかねている。そんな危うさを伴いながら、最悪のシナリオが待ち構えているかもしれぬ。北朝鮮がいつでも日本へミサイルを撃ち込めるぞとデモンストレーションすることが、日本に駐留している米軍への牽制となるのだ。北朝鮮にとっての核保有は、米国に先制攻撃させないようにするための切り札である。さて、この国は、何でもありの愚劣国家ということがハッキリした。イラク戦後、フセインイラクとアルカイーダとの繋がりがなかったことを自ら認めたのだから。大量破壊兵器の存在も自国調査委で否定したのだし、これでイラク戦争大義が全くなくなった訳だ。ならば、あの戦争は完全なる侵略戦争だったということで、国連及び国際社会はアメリカ及びそれに加担した国々を裁かねばならないのと違うか。それを何もせず放任しているのは、この世の中が完全に狂っていることの証である。また、この国は日本に原爆を2発も落とした国なのだ。そんな国を後ろ盾にして、姑息な生き長らえ方を選択し続ける日本。どちらもどちらだが、そのどちらの国も、北朝鮮を批難する資格があるのか。日本人拉致問題は埒があかぬが、日本は、その昔、朝鮮人を強制連行し集団的に拉致をしていた歴史を忘れてはならぬ。

 

 寂寞とした時代に我々は漂流している。ルサンチマンのレジームから逸脱できずに。アジアの不統一及びそれによって引き起こされる緊張関係をほくそ笑んでいるのはどこか、その国の何らかの操作が浮かび上がってくるのではないだろうか。またその国を動かしている軍産複合体制に突き当たるのである。イラク戦争が様々な陰謀によってでっち上げられ開戦されたことが、最早、周知の事実となった現在、ブッシュ及びアメリカの仕掛けた戦争が、犯罪行為として裁かれなければならないのは当然である。また、彼等にのこのこと追従した小泉純一郎は、当然断罪されなければならない。イラク戦争後の泥沼状況のなかで、日々、多くの人命が亡くなっている現実を見るにつけ、ブッシュのあまりにも愚かで稚拙で軽率な言行がもたらしたものへの憤りを痛感するのは、この私だけのことであろうか。日本では、偽装建築・偽装教育・偽装経営など、偽装流行りのここ10年だが、これら偽装の頂点に、偽装国家を展開させる偽装政治があることを忘れてはならぬ。

 

 かつてフランシス・フクヤマは冷戦の終焉を「歴史の終わり」であると論じ、「資本主義が勝利し、社会主義が敗北した」と宣告した。あれから資本主義体制はほぼ全世界を覆い尽くし、マルクス主義は完全に過去のものとなった観がある。しかし資本主義の盟主アメリカは、かつてイギリスが辿ったように帝国崩壊へメルトダウン寸前の兆候を示している。世界恐慌の再来もあながち非現実的とは言えぬ様相を呈している。

 

 シュムペータは、「資本主義は生き延びることができるか。否、できるとは思わない」と断言した。彼は「資本主義が成功すればするほど、資本主義はその存立基盤を失っていくのではないか」と懐疑していた。そして、リーマンショック以降、アメリカを中心とするグローバル資本主義は正しくそうし懸念を地でいくかの如く邁進している。「資本主義は生き延びるか」という問いに対し、チャーチルの「民主主義は最悪の政治制度だが、他の制度に比べれば最もまし」という言葉を拝借すると、「資本主義は最上の制度ではないかもしれないが、これまでの諸制度に比べればまし」ということになろう。

 

 資本主義は、競争社会を前提とし飽くなき利潤追求を至上命題とする欲望の体系である。初期資本主義は、ヨーロッパ、イベリア半島のスペイン・ポルトガルにより展開された。両国は、中南米をはじめ世界中の富を独占すべく、帝国主義の礎を築いた。18・19世紀はアダム=スミスの古典派経済理論による自由放任主義が社会的基調となり、小さな政府(=夜警国家)のなかで自由主義経済が追求された。自由と平等という両価値理念は、フランス革命などを経て近代市民社会を構築していく上でシンボリックなものとなるが、この両者は並立することが困難なものでもある。自由を追求すれば不平等になり、逆に平等を厳守すれば不自由になる。景気変動が許容範囲のなかで展開すればいいが、勢い逸脱行為がなされるとパニックに陥る。それが独占資本主義段階が深化していく19世紀終盤から20世紀にかけて顕著となり、1929年の世界恐慌を迎えるに当たり、アダム=スミスの「国富論」は資本主義経済理論の主役から後退していく。そしてそれに取って代わる資本主義延命化のための理論がカンフル剤的に注入される。すなわち、ケインズ理論による有効需要の創出であるが、この公共投資を重視する政策は、当時躍進していた社会主義的手法を利用するという苦肉の策であった。しかしケインズ政策による公共部門への過大比重により、その後、財政赤字が慢性的となり、80年代以降、「大きな政府」から「小さな政府」への復古がなされ、資本主義の原点の見直しが図られる。18世紀のレッセ・フェールが、あたかも「神の見えざる手」により半世紀を経た後、蘇生したのである。

 

 戦後日本のアイデンティティは、「経済」立国であった。高度経済成長を経て、日本社会は大変貌する。村落から都市へ人口が供給され、産業構造が高度化していくなか、経済成長維持が図られていく地域社会の相互関係は、世界的には南(発展途上地域)が北(先進地域)の経済的繁栄に必要な資材を絶えず供給し続け、生み出される南北問題の構造と重なる。産業構造が高度化し、人口が村落地域から都市地域へと流動し、両地域における問題が相互作用のなかで深刻化していった。「外圧利用による構造改革」が、日本の生活関連社会資本整備にプラスとなったことを否定できない。日米貿易収支の不均衡が顕著になりだしていた昭和60年、ニューヨークでのプラザ合意が、その後の円高傾向を決定付けた。円高により国内市場における供給過剰が問題となってくるが、いわゆる内需拡大策が唱えられ貯蓄性向の極めて高い日本人への消費がより一層喚起されていくことになる。同時に消費行動を促すための休日の設定が週休2日制の導入によって図られていく。この実施はかねてから急務であった労働時間の短縮に、ひいてはそれが対日貿易赤字で嫌日感情を募らせていた米国や欧州先進諸国のジャパンバッシングを軟らげることに貢献するものでもあった。週休二日制導入による余暇の増加は、アメニティ社会の到来と並行して人々の週末における過ごし方に影響を与えていく。週末のレジャーをめぐりいわゆるリゾートブームが煽られ、観光開発が国家的プロジェクトのもと日本全土を覆っていった。そのなかで、哀しいかな、日本株式会社人間はリゾートやゴルフ場を目指し、ファッショ(ン)化された遊戯を真似ながらウィークデーの仕事の延長戦に興じていったわけである。そしてリゾート開発やゴルフ場増設が、業界からの後押しで施行されたリゾート整備法を追い風にして、新たな問題を育んでいった。すなわち、乱開発による自然破壊・環境汚染や政財界の癒着などの問題である。ゼネコン汚職や共和問題はリゾート開発やゴルフ場開発に絡んだものであり、結局、自民党は以上の問題を通して55年体制下における長期一党支配にピリオドをうつことになるのである。またこれらの問題の背景として、開発する側だけにとどまらず地域の活性化を図ろうと開発を安易に受け入れようとする、過疎化に悩む地方の実状があることも忘れてはならない。そして開発は土地をめぐるバブル経済を膨らませ、土地転がしの橋渡しをしながら不良債券を雪ダルマ式にため込んだ金融機関の破綻並びにその監督官庁であるはずの大蔵省の不祥事へと波及するものでもあった。

 

 経済立国日本にとり、慢性的労働力不足は深刻な問題である。この背景として、近年における少子化があげられる。少子化はまた労働問題と相関するものでもある。女性の職場進出が男女平等の理念のもと実現化するなか、夫婦共働きが一般化しつつある。それによって少産傾向に拍車がかかり、近い将来にはDINKs形態も市民権を得ようとしている。こうして、女性労働力確保による女性の職場進出は、新たな問題を提起することともなる。すなわち、先述の共働き夫婦が増加するなかで、出産を手控えようとする傾向が強まり、結果的に少子社会を助長してしまうという悪循環である。女性が子供を産み安心して働ける労働環境が、それを支えるべきはずの社会保障の未整備によりなかなか確保されないことによって、悪循環をより深刻なものとしている。このように労働問題・社会保障問題・人口問題は三位一体関係にあると言っても過言ではない。

 

 90年代「失われた10年」は、取り返しのつかない状況を現出させた。「国債」を麻薬の如く常用し続け、雪だるま式にGDPを上回る借金総額となってしまった。財政赤字は当然、経済社会に悪影響を与える。経済不況で消費が低迷しスパイラル状況から脱出できず、社会のいたるところで地盤沈下が進行している。90年代に入りバブル崩壊後、長期的に日本経済が沈滞化するのに対し、中国経済は上海など沿海地域を中心に驚異的な高度成長を遂げ、ブリックス4カ国の主軸として世界の注目を浴びている。逆にアメリカはサブプライムローン問題を切っ掛けに、経済的苦境に喘ぎながら帝国崩壊へとメルトダウンしていく。日本の食糧安全保障は非常に危うい。第一次産業を切り捨て、産業構造を高度化し続けてきたツケを払わされている。日本国内がメイドインチャイナで溢れかえる今、かつて中国大陸を軍事的に荒らし回り、負の遺産を残してきたわが国が、食料品をはじめ中国製品により報復されているかのようである。

 

 非価格競争時代のかで、同一価格商品からの選別入手が、商品差別化を生む。大衆化のなかで、現代人が差異の見出しにくい均質的傾向を強めていき、個性の発露に苦慮するのと同様、現代市場も製品の均等価傾向が僅かの差異を創出し、利益を確保するための商品差別化につながる。従って均質化し没個性化する現代人は、他者との差異を表層的個性に見出そうとして、消費生活において偽装的に差異化された品を獲得し満足させられていると言えよう。

 
 

第六話 「宗教」について

 

 極限状況に追い込まれた際、人間は果たして謙譲の姿勢を示せるものかどうか。そうした究極のテーマを描いた「タイタニック」に感動したものだ。永く残り続けるものにはそれなりの価値や輝きがある。キリスト教は最大の組織を有しながら、二千年の永きにわたり我々の歴史・人生を左右してきた。その事実は何を意味するのか。これほど長時間、多くの者の支持及び関心を得たものが他にあるであろうか。その教祖はとうとう神に祭り上げられた。彼は「右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい」「汝の敵を愛しなさい」と教えた。何というマゾヒスティックな手法だろう。この手法を戦術とし、世論を味方につけ大英帝国との政治的駆け引きに勝利したのがガンジーであった。人類はこの二千年間イエスを担ぎ上げ、彼を楯にして自身の安心立命を図り、エゴを最大限に追求し続けてきた。その間、一体どれ程の思考と思案をめぐらしてきたのだろうか。21世紀の現在、もうそろそろイエスへの惚れ薬から覚醒してもよいのではないか。否、人類における恐怖との対峙の歴史が続く限り、第2・第3のイエスは登場するのかもしれぬ。「犠牲」が、不朽の輝きとなり永遠に語り継がれるものとなる。

 

 毎年のことながら、戦争体験者にとり8月は特別な意味を持つ時期だが、戦争体験のない我々も、「靖国」など戦争について考えさせられる。人間の最も嫌がることの一つは、責任を取ることだ。戦犯者は、日本(人)のやった、否、欧米帝国主義諸国のやった侵略戦争の罪を背負わされているのではないか。戦犯者は、キリスト教でいうと十字架に架けられ人類の原罪を背負わされ犠牲となったイエスに近い性格を有す存在ではないか。クリスチャンはイエスに後ろめたさを感じ、彼を拝み続ける。なぜ、戦犯者を靖国に合祀し、それを首相が公式参拝するのか。その根底に、キリスト教徒が抱くイエスへの感情と同様に、日本人の戦犯者に対する後ろめたさが隠されているからだ。要するに人間の一番嫌がる責任を負わされた存在は、後生大事に祀られ拝まれ続けるのだ。紀元前後に生きた一人の男は、とうとう神に祭り上げられてしまった。この二千年間、彼を担ぎ上げ彼を楯にして頼りながら、我々は自身の安心立命を図りエゴを最大に追求し続けてきたのだ。また、彼は恐怖の構図への挑戦を仕掛けた。その変態的姿勢を敢えてとり続けられるなかで、相手は自己矛盾に苛まれ自壊作用を来すのである。キリスト教古代ローマ帝国との関係において、それは如実に示された。近代以降においては、ガンジーの非暴力・無抵抗主義をバックにしたインドと大英帝国との関係が正しくそれである。現代では、憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。

 

 安定化を図るためには絶対的依存物を創出する必要があり、それが真理(神)として求められるようになる。その神(真理)を宗教は解くなかで信仰をも説いていくのであるが、信仰を通して垂直的関係が強いられ、絶対的帰依、恭順を余儀なくしていくのである。なぜなら、単なる信じるという水平的形態ではより強い安定化が求められないからである。従って宗教は必然的にヒエラルキーを構築するのであって、人類史を宗教との関わりの歴史とみるならば、それはひいてはこのヒエラルキーを人間社会の隅々に及ぼしていく過程とも言えるだろう。ヨーロッパ・キリスト教世界は、このヒエラルキーを教会を母体として国家にまで擬制していったのである。そしてヨーロッパ社会を模範に近代化してきた日本及び世界の国々は、このヒエラルキーを社会の原型としながらも、そのなかにおける支配体制を絶えず問い続け脱却しようとしてきたのである。

 

 古代人にとり自然(神秘)は不可思議で、その脅威から沸き起こる畏怖は計り知れぬものがあっただろう。宗教の全盛期であった中・近世は、自然(神秘)の脅威への盲従から離脱を試み出そうとする時代だが、その切っ掛けをつくったのは取りも直さず宗教家であった。先述したように、宗教は自然(神秘)の脅威が惹起させる恐怖心を克服するよう、その神秘を垣間見せながら未知が醸し出す恐怖による苦痛を相対化させようとする。そのため、宗教家は神(真理)を説くなかで自然(神秘)の摂理を解こうとし、科学的視野の萌芽が形成されていく。また、神秘(自然)の摂理を解くことは、同時に「知」を司ることでもあり、宗教家は「知」の占有者として尊敬される権威的存在となるのである。しかし、宗教改革により万人祭司主義がとられ「知」の占有及び権威体制が崩れるとともに、神秘に対する捉え方も変容せざるを得なくなる。そして、近・現代人はそのベールを少しずつ剥がしながら畏怖を忘れかけつつあるようだ。

 

 死も、我々人類にとり脅威の的であり続けてきた。死は未知への恐怖を醸し出すものでもある。人類史は、この死の恐怖との対峙の過程とも言えるだろう。そして人間は、宗教のなかで未知なる死を黄泉の国への扉と解し、未知への恐怖心を克服する方便を模索してきた。また人間は、死の恐怖を克服するもう一つの工夫を編み出してもきた。すなわち文明の歴史を構築するうえで不可欠の労働である。労働は人間生活に必要不可欠の物質的糧を与えるだけでなく、その日常性(=ケ)は死の煩悶を紛らわせるものでもあり、それが精神的安定を図るのに果たした役割は少なくないだろう。また、この日常性の継続は絶えず死の恐怖を強迫観念として潜在化させるものともなる。こうして非日常(=ハレ)としての安息は、この強迫観念を顕在させそれを相対化させる役割を担わされてきた。

 

 死は欲望すなわちエネルギーが枯渇した際の現象であり、生は欲望という燃料が肉体という器に注入されている状態といえよう。人生も車同様に定期的に燃料を補給し続けないと停止してしまう。しかし、欲望を燃焼させる過程で廃棄物を出し続ける。この欲望エネルギーの副産物が、人間世界に戦争をはじめとする様々な害悪を引き起こすのである。そこで、欲望をできるだけクリーンに燃焼させる試みが必要となる。それがキリスト教をはじめとする宗教の営みである。

 
 

第七話 「ニーチェ」について

 

 ニーチェはその著「善悪の彼岸」で、我を抑えさせるキリスト教道徳を批判し、真のエゴイストになるべきだと主張した。イエスの説く隣人愛の容易さに対し、エゴイスト的生き方はむしろ至難であり、その実現には、一筋縄ではいかぬ修行を通し獲得された、自分を信じるということが必要であり、それこそ最終的な修業なのだと言う。  彼は「神は死んだ」の名セリフで世界思想史にその名を刻んだ。詩人のような著作。論文調ではない彼の文体。マルクスとは対照的な非科学的社会観。独り言の呟きの如く、神は死んだと言う神懸かり的作風に、多少の違和感を抱きながらも、常識を覆し、独特で、権威主義を打破するその手法に、ずっと惹かれてきた。哲学者なのか、精神錯乱者なのか、両方を合わせ持った風貌に、傾倒し続けてきた。論理性を欠き、直感が幅をきかす彼の考え方に、同調し敬意を表してきた。自分とシンパシーを感ずるニーチェが、大のお気に入りであった。彼は、「善悪の彼岸」で、我が儘な生き方を推奨する。簡単そうで、実は最も厄介な我が儘。オレ流は気儘に見えて、難しさが付きまとうものでもある。常識という体制に抗し、独自路線を貫き通す。私には到底できない、そんな生き方在り方に、憧れを抱き羨望してきた。疑うことを知らず、私は何事もすぐに信じてしまうタイプだ。この殻からなかなか抜けられぬ。信じる者はだまされる。全くその通りだ。何も疑わず温々と生きてきた。疑わないから生きて来られたのかも。マルクスは「全てを疑え」と権力体制に疑義を唱え革命を叫んだ。猜疑心は不安を助長する。疑い続け、最後に自分をも信じられなくなる。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」で言う、疑っている自分自身は果たして疑いようがないのだろうかと、疑ったりもする。こうした「疑う」ことの後には、孤立無援が待ち構える。

 

 ニーチェは、ソクラテスを始め世人に思想界の権威者として崇められてきた哲人を否定し、次々と木っ端微塵に粉砕した。そして、あらんことにキリスト教をもバッサリと斬り捨てたのだ。何という掟破り。これ以上のものはないだろう。ヨーロッパ世界に君臨し続けてきた、誰も疑おうとしなかった最高の創造物を、いとも簡単に破壊するのだ。「神は死んだ」、そして、「キリスト教は奴隷道徳だ」と。この宣言は、ヨーロッパ世界に生きる者としては、自殺行為にも繋がる文句だ。そして、今度は彼自身が思想の神として君臨していく。これは一体どういう事か。言った者勝ちなのか。否、それだけでは彼に対する支持は得られまい。やはり、我々を魅了させて止まぬ何かがそこにはあるのだ。 「うつの時代」の今日、森田療法の対象者はべらぼうにふえている。森田はこれを治癒するには、何かの「執着」や「とらわれ」に陥っていることから解放させることが最も重要だと考えた。自分の理想と現実のギャップに囚われてばかりいるのではなく、「あるがまま」の自分を受け入れるほうがいいと判断した。彼の考え方には中国の老荘思想に共通する見解が見受けられる。老荘思想道家思想とも呼ばれ、老子荘子の考え方である。老子の思想の根本は「無為自然」である。「人為」を排した「自然」を重要視する。人は、大人になるに従い概ね人為に絡め捕られてしまう。その挙げ句、生き苦しくなるものだ。それに比べ、未だ成長の見られぬ「子供」や原初的段階の「赤子」には、素直で人為(=嘘偽り)がなく、その赤裸々な生き様には屈託も見受けられられない。「赤子」には人為的「生き方」はなく、あるのは正しくその「生き様」であり、「有り様」のみなのだ。こうした森田の考え方は、結局のところニーチェ思想に通底する。

 

 ニーチェは「偽善」を嫌った。偽善はキリスト教そのものであり、他者への愛である。道徳的なるものの本質は、「建前」であり、それは「嘘」なのだと。しかし、ニーチェは、魔性の女「ルー=ザロメ」の魅力に嫉妬した。彼を無力化(=骨抜き)するほどの得体の知れぬ魔力。その所有者である彼女にメロメロになってしまった。非凡さに更に研きをかけたものが、彼女に対する嫉妬心であった。それが創造力の源泉となった。彼女を独占することが可能であったなら、「ツァラトゥストラ」の誕生はなかっただろう。彼女に弄ばれ翻弄されたニーチェだったが、「欲望」の獲得挫折が、人の潜在能力を呼び覚まし、芸術なるものが創造される。ルー=ザロメの魅力は、ニーチェの非凡な能力を開花させる触媒であったのだ。彼の狂気にも似た才能は、彼の性的嫉妬によりアウフヘーベンされたのだ。ザロメに失恋したニーチェは、その絶望により彼の代表作「ツァラトゥストラ」の創作に着手する切っ掛けを掴んだ。エミリー=ブロンテの傑作『嵐が丘』で描かれた人間の根源的テーマも、ニーチェが翻弄された、異性に対する「嫉妬心」が引き起こす「エネルギー」であった。森田療法と共鳴するニーチェ思想の根本は、「近代」を超克することであった。ニーチェ自身及び彼の思想にも矛盾は内包されていることは否めないが、彼はそうした自身に巣くう「内なる諸矛盾」をも含め、ポスト近代という精神革命を意図したのではなかったか。ニーチェに感化されたろうヒトラーにも、自身における内部矛盾の相剋が見受けられる。あるがままを称揚する「権力への意志」を滾らせ、ドイツ第三帝国という夢物語を芸術家気取りで「超人」として夢想した。

 

 ニーチェは偽善に対する猜疑心を絶えず研ぎ澄ませた。そうした彼には、嘘で覆われた物事は軽蔑の対象でしかない。しかし、どこか我が儘すぎる彼の独善に、危うさを感じざるを得ないのも事実だ。ストレスで充満した世相に、彼の考え方はある種、欲求不満解消剤として受け容れられる。そして、大爆発への起爆剤とも成りかねない。昨今の日常が当たり前と受け止められて時が過ぎ行く。人生、黄昏時が進行中であるが、何も疑わなくなっている自分が、そこにはある。疑わないとは、考えないと言うことである。「疑う」とは「考える」ことである。考えるには、それなりの労力がいる。労力を惜しむようになった自分とは、退廃する自分である。思い続けたい。疑い続けたい。そうだ。疑う対象を見つけたり。私の中に巣食うニーチェを殺す営みを通して、毎日、繰り返される日常を吟味することから始めたい。「ニーチェは死んだ」

 
 

第八話 「バーチャルリアリティー」について

 

 スキャンダラスで「何でもあり」の現代に不信感を募らせながら、我々は「バーチャルリアリティー」による疑似体験がもたらす罠にはまろうとしている。バーチャルリアリティーは、ゲーム機器などを操作する際に感じられる錯覚である。あたかも、いじめ社会でたまったストレスを、発散させるかのごとく作られた、バイオレンス物が人気の的になっているが、その前でバーチャルリアリティーの虜になりながら、命がどんどん軽んじられるようにマインドコントロールされていく。機器を通し、居乍らにしてあらゆる情報が苦もなく入手でき、様々なことが疑似体験できる環境のなかで、虚(バーチャル)と実(リアリティー)との「越境」化が進行しているように思われる。今、政治・経済的思惑のもとソフトな越境化がなされようとしているのかもしれぬ。越境化は、境界で仕切られていたものを融合し平準化させるが、相互の差異やそれにより醸し出されていた価値を希薄にさせるものでもある。また、価値希薄化に伴う権威の喪失がもたらすモラルの低下も懸念される。パソコンの画面を通して世界と一体化が図られると幻想を抱かせるインターネットは、バーチャルリアリティーを世界的に加速させた。バーチャル、すなわち仮想(虚像)を現実と錯覚する社会的事象も至る所で展開している。例えば、その一つとしてバブル経済が挙げられよう。プラザ合意後の消費扇情経済のなかで、儲け主義に現を抜かし、バブルの幻影に錯誤し、なかなか覚醒できなかった。また、カルト集団によるテロ行為には、ファミコン世代の若い信者を中心とする心性傾向が社会的背景として関わっていたのではないか。バーチャル化された彼等を簡単に操作洗脳し、破壊活動を容易に実行させた。そして、バーチャル化社会の進行は、性別越境シンドロームにまで繋がりかねない問題をも内包する。核家族化の進行する現在においては、女性の職場進出によって、家庭での様々な機能を、男性も当然果たさなければならなくなった。学校教育の見直しが図られ、高校家庭科男女共修実施など、家庭における男女協業が、真剣に検討され出した。官民あげて、文化的・社会的性の境界タブーに踏み込み、ユニ(モノ)セックス化を一般化させる。その結果、生殖行為の減退傾向が少子化に拍車をかける。世間を騒がす凶悪犯罪も、真の「生きる力」を見失い、空中浮遊して彷徨する、バーチャル社会の延長線上にあるのではないか。戦後半世紀を経て発現したオウム問題では、性懲りもなく平気で嘘をつき続け、犯行を合理化していく彼等のやり方に、憤りを募らせるばかりだった。しかし、カルト教団を国家に、信者を我々国民に置き換えた場合、かつての日本で、同様のパターンが展開していたではなかったか。ソト(諸外国)から異質として受けとめられがちの日本教を、ウチなる日本人信徒はそれを信じて疑わず、徹底的にイニシエーションかつ洗脳され続け、過去において、正しく最終戦争ならぬ聖戦をしかけ、挙げ句の果てに、教組のためならば命をも惜しまず、集団自決で一億総玉砕になるまで猪突猛進しようとした。その傾向は、今も拭いきれずに、我々の遺伝子に組み込まれている。イスラム原理主義を背景とするテロや、北朝鮮問題をみていく場合、我々の内なる日本教の過去及び現在を、絶えず比較検証する必要がある。

 

 ネット社会では閉鎖的な自分を解放させてくれる。得体の知れぬ怪しさが自分を変身させるのだ。正しく、「アバター」効果だ。簡単に言えば、「匿名」で「無責任」になれるということである。「ウソ」が罷り通るバーチャル虚構社会で、お気楽に自分の憂さをある程度さらけ出しながら、最後のところで本性を隠し遣り通せる。知のネットワークが構築され、弁証法的に自分を止揚することが可能なことは利点だが、匿名の問題点は、その「無責任」さが「軽薄」社会を助長することだ。そうした先に、無差別殺傷事件は位置付けられよう。事件を起こした者のほとんどは、自身の弱さを他者や社会のせいにして、我が儘で身勝手な欲求不満を、世間への恨みに肥大化させ当て付ける。劇場型ともいえる理不尽な凶行には、呆れるばかりで反吐が出る。モーセ十戒の中でも「汝、殺すなかれ」は一番であろう。だが、殺人犯の少年から「殺す経験をしてみたかった」というコメントが出てきたり、また、その際に周囲から、「なぜ人を殺してはいけないのか」という、呆れ返った言葉が投げ掛けられたり、それに対する返答までも窮するという現代でもあるのだ。子が親を殺し、親が子を殺す。そして自分自身をも。他人の尊い命をも奪うことが自由であるなどととんでもないはき違いまでするほどのモラル・ハザードだ。ところで、踏まれた痛みは踏まれた者でないと本当のことがわからないとよく言われる。広島・長崎、あるいは沖縄の人々に関しても同様のことが言えるのではないだろうか。原爆を投下され犠牲となった広島・長崎の人々にとり、加害者への恨みは一個人に対してだけでは済まず、加害国及び戦争に関わった全てに向けられてもいくのである。大変な人権侵害を受けた側にとり、その痛手や心の傷あるいは加害者に対する恨みは、永久的に続く。国家的犯罪とされる北朝鮮による悪辣な拉致事件問題が簡単に解決されないのも、日朝の過去の歴史がそうさせているのである。日本の一時期において諸外国に対し甚大な被害を与え、その責任を我々も含め今も問われ続けているのである。自分に直接、関わりのないことに対して、人はとかく鈍感になるものだ。しかしひとたび、わが身に害が及んで来たとき、安穏としていた自分が豹変してしまう場合もある。サカキバラ事件で殺害された土師淳君の父親もその内の一人だった。殺人は新たな殺意を引き起こすものであるということを噛み締め、「なぜ人を殺してはいけないのか」という、単純で難解な疑問と対峙し続けなければならない。

 
 

第九話 「歴史」について

 

 「歴史は繰り返す」と言う。その通りだ。それは、毎日は繰り返すと同様だろう。同じ事の繰り返し。繰り返しの中で、日常に安穏とする。変化は、不安定を引き起こす。できるだけこうした非日常は避け、安全地帯を確保する。しかし、日常の惰性が嫌悪感を呼び起こす。そして、時折、揺さ振りを実行する。マントル対流地殻変動をきたし、断層の歪みストレスを発散させるべく、地震発生により調節する。このような繰り返しにより、長時間にわたり地形が徐々に変容していく。正しく、歴史も地殻変動と同様に、安定と動揺を繰り返し、少しずつ変わっていくのだ。

 

歴史は恐怖との対峙の展開である。恐怖を司る側とそれを余儀なく被る側が社会を形成し、その体制からの逃避を「自由」や「平等」という価値で模索してきた。恐怖の典型は「死」であり、死は即ち「未知」ということである。簡単に言うと「分からない」領域である。その領域をめぐり宗教が人類史と伴に並存し、「神」なる精神安定装置を創出し、不安定からの逃避の歴史を繰り返してきた。ショウペンハウエルも「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。老後に生き甲斐を無くした者は、老いを加速させるものである。目的喪失は「死に至る病」であり、逆に目的保持は生きようとする欲望を喚起し、それが強ければ強い程、生命に活力が注入される。プラトニズムにしても理想を高く掲げ、それを追求し続けるなかで生命力を輝かせようとするのであり、我々はその虜になり、文明史を形成してきた。そして、死に伴う精神的・肉体的苦痛から解放してくれる文明という名の快楽を追求してもきた。その最先端にアメリカニズムがあり、核抑止も付随する。「毒を毒で以て制す」ならぬ「恐怖を恐怖で以て制す」という構図が、ハンムラビの「目には目を」の応報主義法典から抜け出せず、相も変わらずDNAの如く受け継がれてきた。

 

人間は生物界の数多の種のなかで自然(神秘)に盲従し続けられず、その摂理を解明し盲従からの離脱を絶えず試みながら、錯誤する動物である。それは、あたかも神経衰弱者がその苦痛から逃れようと、悩みの原因を模索し苦痛(恐怖)を相対化しながら気休めを図るパターンのようである。自然(神秘)は人間にとっての試金石であり、人類史を形成する源泉でもある。人類は中世まで自然に則ってその支配下に甘んじてきたが、理性という有為を身に付け出す近世以降、被支配的立場からの脱却を謀り続けその則を越えてしまい、そして今、錯誤しようとしている。

 

人類史は以下のように人間のライフサイクルと比較することができるだろう。一般的には人間は誕生してから乳幼児期頃まで母親の従属下に置かれるが、教育を通して知恵を身に付け出す児童期以降、従属的立場から自立しようとし続ける。そのピークが青年期だが、人類史においては自然を人間の支配下に置こうと試み出す近代に相当する。人類史も人間のライフサイクルもこの時期が大きなターニングポイントになる。人類は近代、科学を駆使し自然(物質的外界)の改造に努め、人間は青年期、教育により自己(精神的内界)の探求に勤しみながら、神秘的世界に近付きその正体を究明しコントロールしようとする。両者ともにそれ以前は自然(神秘)の脅威に屈伏し畏れおののきつつも、従順なるがゆえの生き易さがあり、それ以降は被支配側から支配側に転換し恐怖の克服が図られるが、独立独歩なるが故の生き難さがある。このように、我々はいかなる時期においても不安定要因に苛れる存在なのであり、そのなかで絶えず安定化を求め続ける存在でもある。

 

米欧による反文化相対主義の主張がなされ、それが逆説的にはナショナリズムの高揚にも繋がっている。冷戦崩壊がイデオロギーの終焉を決定付け、相対主義的動向に拍車をかけている。民族主義ナショナリズム)が相対主義的動向を象徴するのに対し、絶対主義的な動向はコスモポリタニズム(インターナショナリズム)という言葉に置き換えられよう。双方は人類史を通し、景気循環のように錯綜しながら競合しつつ交代が繰り返されてきた。社会が安定化に向かうとコスモポリタニズム的な気運が高まり、それが形骸化するなかで不安定で危機的な状況になるとナショナリズムが強くなる。湾岸戦争を契機に、アメリカ(傀儡的国連)主導の新世界秩序創りによる絶対主義的動向が再生される一方で、民族主義を代表とする相対主義的動向が顕著になり、地域域紛争が展開してきた。また、ヨーロッパでは、斜陽化するパックス・アメリカーナと対抗するべく欧州連合を形成し、絶対主義的動向を示すなかで、ネオナチなどの相対主義的動向が懸念された。こうして、世界全体が絶対主義的動向と相対主義的動向の相克のなかで鬩ぎあいをしながら、幾重にも錯綜しつつ展開した。そしてテロ時代の幕開けを迎え、S・ハンティントンの『文明の衝突』論が喧伝された。そのなかで、冷戦後の世界を「西欧と非西欧の対立」と捉え、斜陽化する西欧世界に対し、台頭する非西欧世界への警戒を暗に仄めかした。これは、それぞれの文化に固有の価値を認めようとするいわゆる文化相対主義を逆手にとった、欧米による反文化相対主義の擁護でもある。西洋近代の見直しの産物である文化相対主義を、今、西洋近代の擁護として引き合いに出しているのである。また、中国を中心とした東アジアの高度成長が西洋の危機意識を募らせ、それと並行して東洋の見直しが進んでいる。

 

歴史とは、面白いものである。吉田松陰を尊敬する人は多いだろう。私もその一人であった。学生時代、彼に憧れを抱いてもいた。自分の命を、大義のためなら、惜しむことなく捨て去ることができる。何という信念の持ち主か。しかし、彼の思想には、多分に先鋭的ナショナリスティックな側面が垣間見られる。「征韓論」は、その代表だ。彼は尊皇攘夷論者であった。列強勢力に対抗するためには、日本は西洋式軍備を取り入れて、軍事国家となり、自ら侵略者の立場に立つことを主張した。このような中で、征韓論は台頭し、朝鮮などのアジア民衆を侵略することで、日本の発展を目指そうとし、日本の帝国主義の基礎となったのである。 

 

 世界恐慌から80年、冷戦崩壊から20年以上がたった。天文学財政赤字を累積し続け国民感覚に鈍感で無責任な某政党は、去る総選挙の際、臆面もなく「責任力」なんぞというキャッチコピーを掲げ、案の定、いっぱい血にまみれた。無軌道政治に辟易としていた国民は前政権党に引導を渡し、現政権党は我が世の春を謳歌するはずだった。が、旧態依然とした政治手法に対し、国民の期待が失望に急変した。優柔不断で無策振りを天下に晒し混乱を来すリーダーのあまりの不甲斐なさに、怒りを通り越して虚脱感すら漂った。そして現在、世の中に「なんとか力」が溢れ返っている。「力への意志」は無力感漂う現代社会の裏返しでもある。「愛なき力は暴力」だが、「力なき愛は無力」であり、前者より厄介な結果をもたらす場合がある。数年前のイラクをはじめ北朝鮮などにおける独裁体制の横暴を押さえ込むため、アメリカを「世界の警察官」という超法規的例外暴力装置として黙認してきた。外交的手段で平和裏に独裁者による支配欲を抑制させながら、不正義を黙認せざるを得ないことほど、遣る瀬無いモラルハザードの極みはない。湾岸戦争イラク戦争におけるアメリカの行動を世界的に容認したのは、正しくこうした人々の心理が働いていたからではないか。アメリカの嘯く「正義の戦い」を嘲笑しながらも、不正義な「アメリカの正義」が世界の不正義に利用されたのだ。そして今、世界的テロがこうした構造の再現として展開している。一極支配の維持に汲々とするアメリカは、「強さ」を誇示しながらも結局はその裏返しである「弱さ」を披瀝している。新世紀が到来したが、社会のいたるところでモラル・ハザードが日常的となり、国内外ともに明るい展望が見出せない。そして、9.11以来、世界は恐怖をめぐるお化け屋敷となった。単独行動主義と合理化された米国の先制攻撃が、テロという名の怨念紛いのエンドレス復讐劇を増幅させた。S.ハンティントンの「文明の衝突」論が狡猾に扇情され、アメリカはかつて経験済みのミッションを着実に遂行し、世界が大きく傾き掛けた。冷戦構造が崩壊し、軍産複合体制がその生き残りを模索していた最中に起こった湾岸戦争の頃と同様のパターンを繰り返した。「普通の国」を目指そうと、様々な思惑が「改革」の名のもとに実現していった。

 

 20世紀最後の10年間を日本では「失われた10年」と呼んだ。その中頃に拙著『現代社会副読本』を出版し、その冒頭で、「変われない臆病さに愛想が尽きたと軽率な変身の合理化をする方が、変わらない愚直さに甘んじる以上に質が悪いように思えてならない」と「変化」に対する危惧を示した。果たして一体、何がどう変わったのだろう。人の心が益々、寒々しくなりはしたものの、この国の精神は一向に遅滞状態から抜け出せないままではないか。そして、経済立国日本が根底から瓦解しているなか、スパイラル状況からいかにして脱却できるのか。こうした状況下、果たしてどのような「夢」を抱けるというのか。ニーチェは、『善悪の彼岸』のなかで「道徳的現象などというものはまったく存在しない。むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。」と述べたが、現代社会に道徳的現象が存在しなくなってきているとするならば、拙著における筆者の検証もただ現象の道徳的解釈のみに終始したわけになる。尤も、今という時代は道徳的解釈すらも存在しなくなりつつあるのではないか懸念されるのだが。

 
 

第十話 「アメリカニズム」について

 

 私はこの数十年間、アメリカニズムを懐疑し、その源泉であるヨーロッパ近代を問い続けている。アメリカニズムとは、アメリカ的思考及び行動様式であるが、その源泉にはアメリカの母体であるイギリスの思想が、特にベーコン以降の英国経験論やその系譜にある功利主義などがある。そしてそれら英国思想の影響下にあるアメリカの哲学、すなわちプラグマティズムアメリカ二ズムの核をなしている。更にプラグマティズム相対主義を唱道するものであり、価値相対主義の延長線上には、様々な領域におけるボーダーレス化が待ち構えている。例えば男性の女性化・女性の男性化という性のボーダーレス化もそのうちの一つとして指摘される。こうしてあらゆるジャンルで差異を淘汰していこうとする傾向が、今後益々進行していくであろう。多用される「チェインジ」という言葉は、価値相対主義的動向を表象する代名詞であると同時に、アメリカ一極支配に迎合するべく、日本のシステム及び日本人を変えるために用意された造語に思えてならないのである。

 

 西欧近代は、理性を尊重する合理主義を根幹として発展を遂げてきた。その反面ナショナリズムは非理性的なものとして抑圧され続けてきた。ナショナリズムは、近代の象徴である個人主義自由主義と葛藤し、それらにより返って孤立し不安を募らせる近代人にとって、母胎内の羊水の如くアイデンティティを満たしてくれるものでもあった。また近代文明により疎外度を増していく近現代人は、不変的なるナショナリズムへの永劫回帰すなわち自由からの逃走によって自慰しようとするのである。近代を人類史における自我形成期とすると、現代はその自我の分裂期にあたる。20世紀、西洋近代の危機を克服するため、社会主義イデオロギーが要望されたが、その挫折が自我分裂に拍車をかけている。西洋近代の自我分裂は日本近代の自我分裂でもある。経済立国日本の低迷、政界の混沌も結局、近代の挫折の延長線上にあるように思われる。

 

 ニーチェは、キリスト教を母体としたヨーロッパ近代を懐疑しそれに警鐘を鳴らした。そのためには、「いじめ」による孤立無援をも覚悟で我が侭を徹さねばならず、そしてそれは一筋縄ではいかぬ最終的な修業であるとも言った。アメリカ一極支配が継続するなかで、彼の言葉は示唆に富むものがあるのではないか。さりとて、真のエゴイストたらんと金権力に塗れ、最終的な修業を踏み間違え、「普通の国」を目指しながら「権力への意志」を滾らせ自滅への道に至らぬよう気を付けなければならないことは勿論の事である。ソ連邦の解体後、核弾頭の解体処理が急速に進められているが、核開発に関わる技術や頭脳がロシアから世界に流出拡散し、核管理体制の杜撰さが大きな問題になっている。そんな折、北朝鮮金日成死去及びNPTからの脱退宣言、IAEAの核査察拒否と極東での緊張が高まるなか、米国は日米原子力協定で譲歩したわが国のプルトニウム路線を見守るしかなかったようだ。北朝鮮が国際的孤立化を辿るなかで、最後の切り札として核保有をちらつかせる現在、極東における日本の位置付けが微妙に変化している。もし、対北朝鮮ないし中国を考慮した米国の戦略上、日本にいつでも核開発(保有)へ転用がきく原子力対策が暗黙裏に検討されているのだとすれば、これは日米双方にとり諸刃の剣でもある。日本に咬ませ犬としての役割を担わせようとするなかで、日本自体が脅威の的になりかねないからだ。特に日米安保の見直しあるいは不要論までが実際に取り沙汰されている昨今、いわゆる「普通の国」を目指しながら将来、核武装化を踏まえたうえでのプルトニウム政策があるのではないか厳重に監視していく必要がある。

 

 米欧による反文化相対主義の主張がなされ、それが逆説的にはナショナリズムの高揚にも繋がっている。冷戦崩壊がイデオロギーの終焉を決定付け、相対主義的動向に拍車をかけている。民族主義ナショナリズム)が相対主義的動向を象徴するのに対し、絶対主義的な動向はコスモポリタニズム(インターナショナリズム)という言葉に置き換えられよう。双方は人類史を通し、景気循環のように錯綜しながら競合しつつ交代が繰り返されてきた。社会が安定化に向かうとコスモポリタニズム的な気運が高まり、それが形骸化するなかで不安定で危機的な状況になるとナショナリズムが強くなる。湾岸戦争を契機に、アメリカ(傀儡的国連)主導の新世界秩序創りによる絶対主義的動向が再生される一方で、民族主義を代表とする相対主義的動向が顕著になり、地域域紛争が展開してきた。また、ヨーロッパでは、斜陽化するパックス・アメリカーナと対抗するべく欧州連合を形成し、絶対主義的動向を示すなかで、ネオナチなどの相対主義的動向が懸念された。こうして、世界全体が絶対主義的動向と相対主義的動向の相克のなかで鬩ぎあいをしながら、幾重にも錯綜しつつ展開した。そしてテロ時代の幕開けを迎え、S・ハンティントンの『文明の衝突』論が喧伝された。そのなかで、冷戦後の世界を「西欧と非西欧の対立」と捉え、斜陽化する西欧世界に対し、台頭する非西欧世界への警戒を暗に仄めかした。これは、それぞれの文化に固有の価値を認めようとするいわゆる文化相対主義を逆手にとった、欧米による反文化相対主義の擁護でもある。西洋近代の見直しの産物である文化相対主義を、今、西洋近代の擁護として引き合いに出しているのである。また、中国を中心とした東アジアの高度成長が西洋の危機意識を募らせ、それと並行して東洋の見直しが進んでいる。

 

 日本はかつて福沢諭吉等の「脱亜入欧」論に乗じ、欧米列強(西洋近代)に伍し、白人支配の帝国主義路線の末端に参画しながら、近代日本を構築してきた。その結果、西洋近代を西洋にかわり大東亜に広げていったと評価され、不名誉にも日本(人)に対して「名誉白人」というレッテルが下賜されたのではなかったか。そして今、日本では「脱欧入亜」論が叫ばれ、日米安保体制との鬩ぎあいが高じつつある。アメリカはアジアシフトを念頭に置きだした日本を警戒しながらアジア外交を展開している。米国の一極支配にとり気懸かりなのは中国の台頭であり、その中国をいかに封じ込めていくかが今後における米国の外交主題の一つとなりそうである。また近代(米欧)とポスト近代(アジア)の間で、両者を曖昧な(アムビギュアス)姿で共有する日本は両者の「文明の衝突」による終末を回避させる鍵を握っている。あるいは、両者の摩擦による軋み回避のため、両者が連合してJバッシングという防衛規制を働かせ、日本はいつか来た道を辿らされるのかも知れぬ。日本の外交三原則のうち、「日米基軸」「アジアの一員」という二原則を満たすために、片足は米国もう一方の足はアジアと、異なる二本の足で倒れずに前に進むのは容易ではない。

 

 “山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。”かつて漱石が山路を登りながら、智=近代西洋と情=前近代東洋の板挟みに苦悶した時と同様に、日本は西洋(米欧)と非西洋(アジア)の狭間で、今後益々葛藤を余儀なくされるであろう。

 

 かつて、「小泉劇場」なる流行語があった。小泉純一郎氏は、イラク戦争の際、自ら米国に出向いて行ってまで、支援恭順の態度をネコ撫で顔で媚びた。米国本土が攻撃を加えられたのであって、日米安全保障条約第5の共同防衛義務に該当する、わが国の施政下の領域内におけるいずれか一方に対する武力攻撃に対してではなかったのだ。彼の失政は、この不正義な戦争に参戦したことだ。それが、未だに総括されず仕舞いなのは、どうしたことなのか。日本国民は、まだ、氏のパフォーマンスによる洗脳から、完全に抜け切れていないのではないか。さて、劇場なのものは至る所に見出される。劇場内の構成は概ねステージ上で演ずる役者と、それら役者の芝居をステージ下で傍観する観客に大別できる。そうすると、小泉劇場では、ステージ上の小泉首相らのパフォーマンスを、ステージ下で傍観者的に遠く離れた桟敷席から望遠鏡でも覗きながら眺めているしかなかった、日本国民の悲しい姿を物語る現れなのではないか。パフォーマンスを遠い世界のこととして眺めてはいなかっただろうか。

 

 アメリカのシンボルとされる自由は、儲けを飽くなき追求できる自由なのである。そして、その自由獲得のためならば、何でもやらかすという厄介なものでもあった。まず、それは母国イギリスからの決別戦争からスタートした。新天地北米大陸の豊かな資源を簒奪したいイギリスと、それを阻もうとするワシントン以下の北東部独立派による最初の戦いであった。そして、第2段階として依然、北米大陸南部に未練を抱く英国をバックにした勢力と、独立派の儲け主義を脈々と受け継ぐリンカーン以下の北部WASPとの内戦が展開した。その間、領土の拡張と白人定住地の拡大が国家的使命としてなされ、その使命はインディアンの征服と土地奪取という陰惨なやり方で達成された。19世紀後半、とくに1860年代から80年代にかけての西部は、インディアンと白人との激烈な戦いの場となった。今世紀に入り、それらの戦いは西部劇の題材としてたびたび取り上げられることになる。ハリウッドが創り出した「正義の騎兵隊vs野蛮で残忍なインディアン」という図式は、白人の身勝手な虚構であることはいうまでもない。インディアンにとっては、侵略者から自分たちの生活を死守するための戦いだったのであり、実際に野蛮で残虐だったのは白人の側だった。英国の影響下にあった資源豊かな南部をも制圧した連中は、19世紀終盤以降、国家的欲望を世界大に及ぼしていく。日本がこの欲望の果てに翻弄されるのに、さして時間はかからなかった。そして、ぺりーとマッカーサーが土足でやって来たのだ。  そもそもなぜ米国との軍事同盟が存在するのか。またなぜ今も、沖縄に米軍基地があり続けるのか。そして挙げ句の果てに米軍駐留兵士による愚劣極まりない横暴を余儀なくされ続けるの。結局、米国による覇権主義を容認(黙認)しているからに他ならない。動物の世界では縄張りをめぐる争いは常である。その縄張りを侵されないようマーキング行為に余念がない。人間世界も同様で、歴史のなかで唾の付けあいをし続けてきた。縄張り争い(戦争)に事欠かないのがこの世の常である。日本は50年前にその縄張り争いにおいて米国に完敗したのである。普通、敗者は勝者の縄張り(覇権)のなかで細々と余生を送るのである。その際、敗者は勝者による様々ないじめを覚悟せねばならぬ。勝者はまたその敗者いじめを示威行為としても利用し、覇権を全体に誇示するのである。そうして勝者は自分に取って代ろうとするものがないように絶えずマーキング行為に励まなければならないのである。ソ連亡き後、米国はマーキング行為に余念がない。縄張り争いに敗けたソ連が自暴自棄になっていた80年代終盤に米国は世界制覇に向けて歩み出した。'91年のイラクフセイン)いじめを手始めに制覇への地歩を固めつつある。今、制覇に 異を唱えられる実力を有する存在は中国であろう。中国は経済面で資本主義化したが、政治面は依然と社会主義なのである。当然、米国は中国をいかに封じ込めていくかに今後精力を傾注するだろう。その折り、日本は米国側の最前線に位置し楯とされるのである。そういう状況下において、沖縄の米軍基地は最重要拠点であり、冷戦構造が崩壊し戦後半世紀たったのだから基地を縮小し最終的には日米安保体制も見直し、日米安保条約を廃棄すべしとおいそれとはいかないのだろう。また、正義を旨とするはずの警察が不正義の象徴でもある暴力団に完全になめられている社会のなかで、暴力団の縄張り争いに怯える大衆が不正義がばっこし、まかり通る社会を容認している図式は要するに現在の世界においても当てはまるのではないか。正義の象徴であるはずの国連が不正義のアメリカ(当人は正義をうそぶいているが)におもちゃにされ、世界制覇を虎視眈々とねらう世界のなかで、覇権主義を黙認し力による一極支配と、それによってかもし出される冷たい平和を求め、その結果として覇者による恐喝に怯えながらも、生き残り策を模索し続けている世界、そして日本。犠牲を代償としなければ成り立たない現実を、運命愛として受け入れながら、一体いつまで自己を偽り続けていけるのか。

 

 現代の近代化論に影響を与えたものは、1970年代中期においてウォーラースティンにより提示された世界システム論だ。彼によると、近代世界システムは15世紀末に形成されたもので、それは主権国家から成る国際体系、国境を越えて利潤を求めて貿易が行われる世界資本主義体系(世界資本主義体制)、異なる文化から構成される体系という特徴を持ち、政治・経済・文化などを一体として捉えなければならないとする。また世界資本主義体制は搾取の体制でもあり、世界の国々は資本集約的で先端的な技術を持つ中心、労働集約的で時代遅れの技術しか持たない周辺、中間的に両者の特徴を合わせ持つ準周辺のいずれかに属し、この三層構造のなかで、中心はその構造を維持しようとし、また周辺はその構造を変革しようとし、世界システムにおける支配と対抗の構図が成立するとした。そして中心のなかに覇権国が出現し、その存在が世界の政治・経済の安定化につながるが、飽くなき独占利潤を求めながら、様々な分野を商品化し、もはや資本蓄積の可能性がなくなると、世界資本主義体制はその歴史的な役割を終えて、他のシステムにとって替わられるとした。

 

 米ソ両超大国の影響力の凋落と冷戦構造の崩壊を迎えた今日、新たな世界秩序ないし国際レジームの誕生の可能性が注目されるが、アジア・イスラム世界をはじめとした資本蓄積可能の対象地域が注目されだした現在、世界資本主義体制はその歴史の終わりを迎えたのではなく、新たな始まりを展開しようとしている様にも見受けられる。

お父さんの秘密②


映画『沈黙-サイレンス-』本編映像”神と仏陀”

 また、お父さんの変な書き物見付けちゃったよ。何か、独り言を呟てるみたいで不気味だけど、何処か郷愁を誘うところもあるのかな。読者の皆さんには、特別に一部、紹介するね。何か感じた事があれば、最後のコメント欄に書いて下さいね。それでは、どうぞ御覧あれ。         

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【はてさて、是からどうしたものか】
 人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句をろう弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己のすべ凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる書家となった者が幾らでもいるのだ。己は書によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて書友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共wに、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。人は菩薩と羅刹この両方の顔を持ち合わせてる。 
 

分からない事】

 分からないことは、分からない者から聞いても、結局、分からない 。そうしたことが、此の世には、本に多いことか。「宇宙の果てはあるのかないのか」から、「なぜ、生きているのか」などなど、話したって、「どうしようもない」だろうが、となる話が、何ともごまんとある。それらに対しては、自分なりに自分で答えを見出していくしかないのだ。そして、絶対に、解決などできやしないということは、悲しいかな、それだけは分かっている。「イエスは人間ではなく神だ」なんて言われても、こんな私には分かりようがない。「聖母マリアが、男性との関係を持たず、受胎した」なんて、一体、どういうこと。そんなの作り話だろ。だが、その作り話が、世界を支配し続けてきた。分からないことだらけだ。キリスト教だけの話じゃない。「日本の天皇」だって。有り得ないことが、此の世には、実際にたくさん在るのだ。不思議がることもないのだろうが、摩訶不思議な世の中だ。分からないことばかりの世の中で、分からない自分が在る。「有り難い」というこの言葉が、最近、身に染みる齢になりかけてきた。この身は確実に物理的法則に従わざるを得ない老朽に晒されかけ出した。後、何年だろう。分からず仕舞いに人生の幕が開いたのだから、終末も然りだろう。これで由とするか。この記跡を、見る者は、家族か。それとも。誰にしろ、私の思いは、大なり小なり、誰にでも付きまとうことであるものかもしれぬ。そうした思いを、何らかのかたちで表出したいという、止むに止まれぬ慟哭とでも言えようか、人間のやるせないパトスか情動かを、お互い汲み取ってもらいたいのだ。「共感する」ことに、人は飢えているのだ。 

 
【宇宙と私】
    宇宙から地球を見たら、私の存在は無に等しい 地球の存在は確認できるが、その地球上での営みは全くと言っていい程に見えない 宇宙から眺めた地球は、無音で存在している 地球上での人間の存在は、遠くからは全く確認すらできない 北朝鮮の核ミサイルが発射され、それが切っ掛けで第三次世界大戦が勃発しても 宇宙からは何も確認すら出来ない 私が生まれ四苦八苦しながら人生を終わろうとしても 宇宙はそんなの関係ないと言わんばかりの様相だ 私がどんなに喚(わめ)こうが、そんな事はお構いなしで宇宙はあり続ける こんな感じで私が生まれるずっとずっと前から、宇宙は地球に何のお構いなしだったろう そして、私がこの世から居なくなっても、ずっとずっとこの宇宙は地球に目もくれないだろう だが私にしても、宇宙について何のお構い無しでいるのだ 私がこの世に生まれる前の宇宙なんて、全く知らないし 私がこの世から消えて亡くなった後の宇宙なんて、知る由もない だからお互い様なのだ
 
【私が死んで泣いてくれる人は】
    私が死んで泣いてくれる人は、妻と息子の二人だけ この二人を泣かせたくはないが、この二人だけには泣いて貰いたい 私の墓の前でこの二人は、涙するだろう 私はこの二人だけには、絶対に先立たれたくない 私はこの二人に先立たれ、絶対に泣くのは嫌だ 妻と息子の墓参りだけは、絶対したくない 私のために涙を流してくれるのは、この二人だけ 私のために泣くのは、この二人だけでいい
 
【変わる時、変わらない時】
   変わると驚き、.心が動く 変わらないと退屈で、心が沈む 変わると不安になり、心が乱れる 変わらないと安心し、心が落ち着く 変わると目を引き、心が躍る 変わらないと見向きもされず、心が折れる 変わると焦りが出て、心が疲れる 変わらないと安穏とでき、心が休まる 変わると何かが見え、心が開ける 変わらないと留まり、心が籠(こも)る 変わるのも変わらないのも、努力がいる。
 
【チポと私】
 私の今の生活に欠かせない存在は、5歳になるトイプードルである。私はビーグル好みで、あまり毛むくじゃらじゃないワンコが良かったんだが、5年前のゴールデンウィークの最中、ペットショップからこの家に引き取り、その後、溺愛関係が続く。体重はちょうど5㎏程で、この家に来た当初から比べると、3倍以上になっちゃった。手足も長くなり、スマートボディーでみんなを悩殺している。何時も私の傍に居てくれて、私を見守り続けてくれている。愛犬の名前は、「チポ 」。正式な呼び名は「チッポ」だが、チポと呼ぶ事の方が多い。ポチの反対のチポ。私の妻が名付け親だ。その昔、本当の息子に子供の頃、時々呼んでいた愛称だった。黒猫を飼っていた幼年時代を、ふと思い出す。名前は「ミーコ」だったかな、何時も抱っこして遊んでいた。可愛過ぎて、最後はいびり倒すパターンだった。愛猫に時々イタズラしてたように思う。中高時代は、ポインター猟犬とビーグル犬のあいの子ような「ジョン」を飼っていた。その犬は、何処かからフラッと我が家に舞い込んで来て、何時の間にか家族となっていた。私はそのジョンに対しても、可愛がり過ぎて、苛めてしまったりする事もあった。最後は、ジステンパーか何かの病気に罹ったのか、体が硬直して惨めな姿になって死んで逝ったのを忘れない。チポとの別れは…、考えただけでも涙ぐんでしまいそうになる。
 チポは何かをガジガジ齧っていないと落ち着かないタイプだ。ストレスが溜まって来ると、よく齧り出す。昔、私の帽子の金具を囓っていたら、いつの間にか穴が開いてたり、こんな感じで、いろいろなものを囓りまくってボコボコにされて来たが、ファスナーの金具の噛み心地が最高だったみたいだ。でも、今では、チポはこの家には無くてはならない主人公だ。私達夫婦はチポが可愛くて仕方がない。チポも我々夫婦が大好きで甘えてばかりいる。甘えん坊が過ぎてオモラシしたりして時折、困らせられたりもしている。
 チポは当然、喋れない。チポに私のメッセージを送り、私の「言葉」を汲み取ってもらう。大体、私の気持ちは伝わっている。だけど、やはり人間の言葉が理解されず、よく誤解されるもととなる。例えば、こんな事がしょっちゅうある。チポは喉が渇いて水が飲みたくなると、私の口元をペロペロ嘗め回し、一生懸命、その要求を伝えようとする。最近は何とか理解出来るようになったが、それまでは違う捉え方の連続だった。チポの私に対する親愛の情として愛情表現メッセージの全てだと理解し、なかなか水場へ行かせてやれなかった。おまけに、誤解した私は、あろうことにチポの気持ちを逆なでする行為をした事もあった。チポのメッセージツールとして、吠える・オシッコする・クンクン鳴く・グーグーを銜える・爪でガリガリ引っ掻く・ウーウー鳴いて威嚇する・尻尾を振る・体をスイングする・仰向けに寝転がる・ピョンピョンジャンプするなどなど、様々なバリエーションに相応してこれらの仕草を使い分け、人間との関係を良好に構築しようと日々努力している様だ。あ、それと忘れてはならないものがまだあった。「目」。目は口ほどにモノを言うって、人間世界には諺にもなってる。チポ達、動物にとっても、目は大切な意思表示ツールみたいだ。人間も動物も共にアイコンタクトは重要だ。
 私は退職後、一日中、チポとベッタリしている。でも飽きない。相思相愛。勝手に思い込んでいるのかな。もう今では犬(動物)とは思えない。ちょっとウザイ程で、この私を相手しているとホントに疲れるだろう。「お母さん、助けてー」と、チポの声が聞こえてきそうだ。溺愛関係が続き濃厚なスキンシップがエスカレートして、怪しい関係になったりもしている。これからも末永く、チッポ様に忠義を尽くすのでどうぞヨロシクね。
 可愛くて可愛くてどうしようもない。この感情が人生において最大のテーマ。最愛の対象へ「可愛い」と何度も呟いた。更にその対象を何度も抱き締める。そしてこんな様に食べてしまいたくなる。目玉親父はこの私自身でもあるのだが。
 
 この歌は「みんなの歌」で
八神純子の体験をもとに作られたものだ
最初、聴いた時は、涙が流れて仕方なかった
愛犬を失くす迄のプロセスが、上手く曲になって
感情移入できる歌になり、追体験出来るものだ
私とチポも何時かはこうした別れを迎えなければならない
愛情が深まれば深まる程、別れの哀しみもその深まりは底無しとなる 
 退職後、日がな愛犬と共に一日を過ごす中、今迄、何気なく見過ごしてきた事に気付かされている。当然ながら愛犬は言葉を持たず、その要求を飼い主は様々なサインで汲み取る。そのサインを読み間違う事も度々だが、概ね以心伝心で関係構築を図る事ができる。より良好な関係を作るには、物言えぬ存在の心を察していかねばならない。寡黙な愛犬も、自分の要求を相手に伝えたい場合は、目を見開き大きな甲高い声を発し、何度も吠える。我々国民も、そのほとんどの者が、愛犬の如く飼い主に身を任せ、物言えぬ存在に成り果てているのではないか。政治指導者は、我々の要求をどれだけ受け留めているだろう。
 
【「痛い」こと、これが僕にとって一番嫌な事】
 要するに、苦痛が不幸の原点だと思う。私は「快楽主義」かな。苦痛が幸福だなんて、そりゃぁマゾヒストの何者でもない。普通はね。痛いのは嫌だし、そんなことに関わりたくない。もし愛犬が脚折ったりして、「キャイーンキャイーン」と 泣き叫び続けるシーンを想像してみろ。絶対、見るに忍びない。痛がる仕草を見るに堪えないし、だからドウシヨウモナイ場合に、苦痛を味わわさないで済むよう、薬殺とかの殺処分が考えられるんだし、しかもその際、出来るだけ苦しまなくて死なす方法を考えちゃう。更に、自分の最愛の人間が事故に遭ったりした場合、そして最悪の状況になった場合、「最後は苦しまなくて亡くなったかどうか」という事が、一番気になる点だと思うんだよね。苦しみを味わわずに逝ったなら、少しでも救いとなる。納得がいく。結局は、これなんだと思う。ジェレミーベンサムの考え方になるのかな。すると私は「功利主義者」か。

 功利主義の先駆者ベンサムは、幸福とは快楽であり、不幸は苦痛であると捉え、苦痛を避けることが人間にとり善的行為であると解釈している。すると、善的医療行為とは、まずは苦痛の除去であることになり、刺激に対する反応が弱まるように仕向けることを旨とするようになる。麻酔をかけたりする行為はその典型で、末期ガン患者の激痛を和らげる際に使用されるモルヒネ投与はその代表となる。患者が痛みのどん底に突き落とされ、その状態から解放されず終いであること程の苦しみはない。その苦痛が幾らかでも和らげられれば、患者にとってそれは地獄での責め苦からの解放とまで感じられるかも知れぬ。苦痛という責め苦が永遠に続くことほど、失意に苛まれることはない。それはすなわち人間にとっての最大の不幸事になる。死刑(閲覧注意)という極刑を犯罪行為を防ぐための抑止力とするのは、一般的にそれが人間にとり耐え難く苦痛をともなうものであり、そして最大の恐怖になるからである。そう、苦痛は恐怖であり、肉体的苦痛・精神的苦痛は人間をはじめとする高等動物にとり、避けるべき一番の対象ともなる。苦痛からの逃避は、人間に安らぎを与え安定化をもたらすということになる。精神的苦痛は精神病患者にとり忍びがたいものであるが、抗うつ剤などの薬剤はそれを緩和し精神的苦痛からの解放を導き出す。それがさらに高揚感などを誘引するに至れば、麻薬的効果を与えることにもなりかねない。苦痛は患者本人だけのものとは限らず、患者を取り巻く家族や関係者らのものでもある。患者の肉体的・精神的苦痛を直視させられる親族の精神的苦痛も、患者程ではないにしろ結構なものである。その苦しみからお互い解放されたいという衝動が、安楽死への衝動へと駆り立てる。苦痛に苛まれる患者を看るに忍びないという患者の親族や担当医らは、その精神的苦痛からの解放を待望し、そうした思いは多分に彼らのエゴに立脚するものでもあり、患者からすると迷惑千万な場合もある。また、苦痛を感じる動物ほど、高等動物の証明となり、人間並に扱おうとする心理が働くのではないか。アリや蚊を造作なく殺生できるのも、我々が彼らに苦痛を感じる能力を見出せないからであろう。

 

【納得がいくかいかないかなのだ】 

 平昌冬季五輪も佳境を迎えようとしているが、最期の勝負で金と銀の分かれ目に立たされた者達。彼等の胸の内に去来するもの。それは、納得できたかどうかだ。金メダルを逃しても、自分なりに精一杯力を出し尽くして負けたのなら、それなりに敗北を受け入れられる。だが、納得いかぬ結果なら、なかなか受け入れられぬものとなる。こうした追い込まれた際の「納得」が、人生における全ての場面で見受けられるものなのだ。例えば、究極の断末魔に際して、死を受け入れられるかどうか。それも、理不尽で不条理な理由で死を余儀なくされたりした場合はどうだろう。こうした事も、それまでの生が納得いくものであるならば、ある程度の諦めがつくのではないか。それができなくなるのは、何らかの理由で納得がいかないからである。それでも折り合いをつけて遣り過ごさなければならない。要するに「気休め」を図るのだ。カッコよく言うと、「合理化」するという事である。

 

【ヤケクソ】

 米国の高校で、銃乱射事件が頻繁に起こる。発砲する連中は、自身の遣る瀬無さを他に当て付けて発散していくのだろう。当て付けられて、銃殺を余儀なくされる者達の無念さを、当て付ける側はサディスティックに受け留め、ほくそ笑みながら自己満足するのだろう。取り返しのつかぬことを遣らかす場合の、概ねの心理状態は、ヤケクソという事だ。最後のところで、このヤケクソがパワーとなり、普段、出来ない想像もつかぬトンデモナイ事を仕出かす元凶ともなるのだ。  さて、学校での「いじめ」問題は、それを遺書を残しての自殺となると厄介な事になる。自爆テロならぬ自殺テロなのだ。自殺は他殺とは違えども、本質的には「暴力」による「命の与奪」という点で共通の「悪」である。現実には、いじめによる自殺者は被害者(=善人)と看做され、全ては自殺を誘発させたいわゆるいじめた側を絶対悪と断定し、その後の論理が展開する。人は大なり小なり「恨み辛み」を抱きながら生きているものだ。それを自分なりに折り合いを付けながら、遣り過ごしていく。そうした術の駆使が可能でない者は、ストレスを鬱積させ、他者への当て付け行為に逃げ込もうとする。それを正当化するため、大義名分を持ち出す。単なる自死では余りにも情けなく且つ自身の魂が浮かばれないからだ。遺書を残しての自殺や聖戦に名を借りた自爆テロなどがそれである。しかし、そうした行為を当て付けられた側は、たまったものではない。  以前、殺人事件での裁判で、何とも言えないコメントが発せられた。殺害動機を問われ「人を殺してみたかった」とは。一昔前、「何故、人を殺してはいけないのか」という一見、馬鹿げた若者達の発言が、世間の注目を浴びた。また、その質問に対し大人達が返答に窮するという事の方がより物議を醸した。他者に向けられた殺害行為は連鎖的殺害行為を誘発する。被害者側親族らの「怨恨」感情が、その者達による報復行為を発現させる。「殺し、殺される」という殺害事件が最悪の場合、エンドレスで止め処なく続く。こうした事の延長線上に、「戦争」がある。だから、殺してはいけない。そして更に、いじめによる「自殺」も否定されなければならない。なぜなら、自殺被害者側親族らの怨恨が、加害者側への新たな報復感情を少なからず誘発させるからだ。『「人を殺して」みたかった』を「自爆テロをして」や「戦争をして」や「核兵器を使って」に置き換えて考えると、どうだろう。「人を殺してみたかった」は、宗教や国家の名のもと、過去、何度も繰り返し試行されて来たではないか。  そうした殺人への処罰を下す場が、司法である。戦争における民間人などの殺害行為ならば、国際司法裁判所への訴追がなされるべきだ。戦時国際法に則り裁判がなされ、然るべき裁断が下されよう。国内における人権侵害に対しては、司直が各種法律に則り刑罰を下していく。だが、その司直がトンデモナイ存在なのだ。  まず、日本の司法は一体何処に顔を向けているのかだ。最高裁による下級裁統制が指摘され続けて久しい。司法人事権を内閣が一手に握っている中、こうした状況は必然的となるのだが、人権を司るべきはずの裁判所の真価が問われている。司法権の独立が、外部からの独立のみならず、内部におけるそれも儘ならぬ今、我々の人権(=命)は風前の灯火と化す。最後は国民審査権の行使が命綱となるが、未だかつて一人の最高裁判事も辞めさせられていない現実が、何とも虚しい。丸印を付けさせずほとんどが信任票となるように、権力側の簡単な絡繰りを、唯々、甘受せざるを得ないだけなのか  

 
【此の世に生を受けた際の事を知る由がない】
  分からないままにスタートしたのだ ワカラナイという事が、行動の源泉である 分からない事は、意味なく不安定で頼りない この状態から抜けたいと思う事が、行動の端緒となる 行動は「分かりたい」という「意味付け」なのでもある 意味がない事に対し、普通は興味関心を持とうとはしない 意味あることが、行動へと誘う だが、分かってしまうと、行動へのエネルギーは急速に失せてしまうのも事実だ 例えば、小説を読むのは、結末が知りたいが未だ分からないから読み続けようとする 結末が分かってしまえばその魅力は立ち所に失せ、二度と読み返そうとはしなくなる。 
 「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。老後に生き甲斐を無くした者は、老いを加速させるものである。目的喪失は「死に至る病」であり、逆に目的保持は生きようとする欲望を喚起し、それが強ければ強い程、生命に活力が注入される。プラトニズムにしても理想を高く掲げ、それを追求し続けるなかで生命力を輝かせようとするのであり、我々はその虜になり、文明史を形成してきた。そして、死に伴う精神的・肉体的苦痛から解放してくれる文明という名の快楽を追求してもきた。その最先端にアメリカニズムがあり、核抑止も付随する。「毒を毒で以て制す」ならぬ「恐怖を恐怖で以て制す」という構図が、ハンムラビの「目には目を」の応報主義法典から抜け出せず、相も変わらずDNAの如く受け継がれてきた。
  生き甲斐の完全に喪失した状況のなかでも生き続けるということの何という虚無感。昨今の此処彼処で嘯かれる「生きる力」なる造語は、平和惚けで空中浮遊する日本社会の風潮を象徴するものである。軽薄で脆弱な実感の得られない時代のなかで、空念仏「生きる力」の大合唱に繋がっているようでもある。特攻を余儀なくされ散り逝った「海神の声」に耳を傾け、死ぬこと以上に苦しい生の連続が待ち構える神経難病ALS患者の余りにも重厚なその一瞬をイメージすることから始めなければならない。さて、死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、「宮本武蔵」であるが、彼の真骨頂は、その「強さ」というより、恐怖心との対決を終生の課題としたことではないだろうか。「葉隠れ」に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあるが、彼もいつか自分が敗者となり、死ぬ時が来るであろうことを、絶えず予期していただろう。だが、その覚悟ができない場合、死にきれなくなることも起こり得る。そうすると、とにかく勝ち続けなければならない。ひょっとして、無敗の武蔵は、「負ける(=死ぬ)こと」に対する異常な恐怖心につきまとわれていたのかも知れぬ。我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。「恐怖」を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界という「お化け屋敷」のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も「武士道」における「刀」の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。それは、自衛隊の存在価値を考える場合である。自衛隊は刀という「暴力」装置であるが、戦後、その刀を決して抜かぬよう「武士道」を心掛けてきた。しかし、暴力世界という現実に翻弄され、「武士道」に押し潰されることから逃避しようと抜刀することで自身の弱さを誤魔化した。アメリカが仕掛ける「大義なき戦争」への逡巡は、我々が果たして「ラストサムライ」になり得るかどうかの踏み絵であった。見て見ぬふりのなあなあ関係がかえってお互いの距離を隔てさせ、モラル低下に歯止めが効かなくなる場合がある。また放縦的関係性の継続が、質の悪い苛めに繋がったりする。感情的爆発でお互いの馴れ合い関係を瞬間的に壊した方が、言葉を駆使してその場凌ぎをするより後腐れがなくて良いこともある。慇懃無頼な輩を野放しにする偽善的人権擁護論が後を絶たず、荒廃に拍車を掛ける。死刑廃止論を追い風に犯罪者が跋扈し、悪事に抑止力が全く機能しなくなる。そうした中、慇懃無頼な輩を野放しにしたモラル・ハザードの現代において、死刑廃止論は未だ大勢を占めない。ホッブズが人間の本質を「恐怖」から見詰め、近代的国家観を提唱したのも頷ける。
 

【「愛する」ことと「死ぬ」ということ】

 愛なんて柄でもないと、今迄、何となく避けて来たきらいがある。イメージとしては、情緒的で単発な思慕が「恋」に対し、深遠で恒久的な「いとおしさ」が「愛」だと、勝手に見做して来た。そして、何か余所余所(よそよそ)しさを感じる愛という表現を忌避し、恋の方に好感を抱いてきた。だから、相手を好きならば、恋してると極力、表現したいように意識してはいたが、言いたい対象は今迄に配偶者のみだった。
 愛について、キリスト教では「アガペー」を始め、様々な良い様で、愛を説いている。愛に関して、キリスト教が専売特許と言っても過言ではない程だ。「神の愛」をアガペーとして、プラトンの理想を思慕する「エロス」と対照的に解釈されたりする。前者が天上界の高所から地上の俗界に下される下降的愛に対し、後者は逆に地上界の不完全な人間が完全なるイデア(理想)界を見上げて追慕するものとして位置付けられる。キリスト教はその他にも、水平的位置関係の人類相互間における「隣人愛」を説いたり、アガペーとは真逆の「神への愛」を強調したしてもいる。隣人愛はニーチェにより、受動型近代人の疎外状況を作り出した元凶であったと、こっ酷(ぴど)く批判の的に晒された。神への愛はアガペーへの見返りとしてある、イエス・キリストへの「信仰」心だ。
 この程度ならば、高校生レベルの知識になるが、キリスト教徒ではない私としては、一般教養としてのものにしか過ぎぬ。東洋世界も、古代史上、愛について言及して来た。中国の孔孟思想の中で、それは「仁」として位置付けられている。他者を慈しみ思い遣る心であり、「惻隠の情」である。それを仏教では、「慈悲」という言葉に置き換える。仏教では、愛も「執着心」の一つと捉え、「煩悩」の元凶とも解される。
 私は、この仏教の解釈が、自分の理解する愛の定義に非常に近似している。私は、愛は「独占欲」となり、最終的にはその反動を、身を持って体現し苦悩しなければならなくなると考える。仏教の中で説かれる「八苦」の「愛別離苦」がそれを言い当てている。愛すれば愛する程、その対象との別れが底無しの苦悩となる。最愛の配偶者やそれに類する存在との死別に伴う苦しみは、究極の愛の証ともなるのだ。

 私の愛しているかどうの基準は、対象を「抱擁」出来るかどうかだ。この上なく愛おしい存在に対しては、自然と「抱き締め」たいという気持ちになり、それを行動に移す。愛おしければ愛おしい程、自分の懐にしっかりと抱き締めるものだ。現在の私にとり、その存在は愛犬だ。ドウシヨウモナイくらい「可愛い」。可愛くて仕方がない。そうした存在は、そうザラには見当たらない。そんな対象に対しての自然の発露は、抱き締めるという行為なのである。 

 
【残された時間をどう過ごす】
 退職して1年3ヶ月が過ぎた。バラ色とまでは思っていなかったが、灰色がかった状況からは多少抜けられるのではと、楽観していた。だが、現実は違った。何もせずただ生ける屍の如く、漫然と時間が過ぎる日々を繰り返す事の、何と怠惰な生活。非日常が日常化する事の、何とも言えぬ悍ましさ。日々の生活に追われ、本当に金に困っている者からすれば、こんな事をほざける身分は、何とも羨ましがられる事だろう。何かをしようとは思うのだが、仕事に就いて金を貰う過程で、不愉快な思いをしたくはない。この儘の状態を維持して行くのが、今の自分に出来るベストな選択なのではあるが、堕落の一途を辿りたくはない。では、どんな道が残されていると言うのか。著述家が一番の願いなのだが、金を頂ける程の物書きには到底成れそうにない。地元紙の投稿欄に、世間への不平不満をぶつける拙い文章をチョビチョビ書いて、月一程度で掲載されるのが関の山だ。果たして、此れから先、どうしたものか。如何にしてそれなりに格好の付いた暇潰しを、見付け出していけると言うのか。残された時間はありそうで余り無い。

  死ぬというのは、眠る事である。即ち、意識が無くなるという事だ。従って我々は毎日、死んでいるのである。そして、覚醒し蘇る。だから、日々、死んでは生まれの繰り返しをしているのだが、それをきちんと認識できずに、齢(よわい)を重ねる。だから、死への恐怖や躊躇(ためら)いが、何時まで経っても付き纏い続ける。

 ただ、眠った後、ずっと目が覚めないとなると、話が別になる。簡単に眠るだけだと言っても、翌朝、ほぼ間違いなく覚醒し生まれ変われるという前提であるので、安らかなる眠りに就けるのだが、そうでないとなると寝れなくなる。即ち、死寝なくなる。死を永眠とはよく言ったものだ。永遠に此の世とオサラバするとなると、かなりの覚悟がいる。かなりの準備がいる。それなりに気持ちの整理を付けてでないと、死に切れない。いきなり突然の死は、納得がいく間もなく、タイムアップの宣告を受ける事になり、釈然としない。

 納得づくなら、如何ともし難い死の運命にも、それなりに対処出来、それなりに受け入れる事も出来よう。こうした事も踏まえて、自分は日常を送っているのかと自問するが、まだまだ先があるのだからという、これまた不確かな甘い考えのもと、死を他人事として捉えてしまうのである。

 還暦も過ぎ、徐々に体力の衰えも実感し出した昨今、死への準備を着実にしなければならないとは思い掛けている。自分の存在は一体、どういう意味があったのか。自分は納得のいく人生を送って来れたのか。自分は他人の為に少しでも有意なる行動を成して来たのか。此の世に善行を通して働き掛け、何かを遺す事が果たして出来たのであろうか。否、否、否。これでは、死を逍遥として受け入れるなんて、出来ようがない。だが、もう残されている時間はそう長くはないのだ。

 兎に角、気休めでもいいから、何かを残そう。善行を残せれば良いのだが、そんな出来そうもない事ではなく、こんな卑小な自分でも成し得る事を。何だろう。金も名誉もない。ネガティブでシニカルな生き方、弱弱しくて内向き志向のセコイ性分、何だ何だ、ロクなもんしか自分には無いではないか。はてさて、残したところでどうなるものか。こんな事が頭を過(よ)ぎる。やはり、こうした下らぬものでも「書き残す」事くらいしか出来ない自分を見詰めている。

 

【「変わる」ということ】 

 我々は絶えず変化している。人体から始まり人類及び世界の進化や宇宙まで。生命も細胞分裂からスタートする。分裂は変化の核をなす。核分裂反応もその典型か。分裂は対立を引き起こす。2者間の分裂がスタンダードだが、ヘーゲル弁証法によれば、対立により高次レベルへ止揚できる。変わるためには、基の自分がなければならない。これも、「守・破・離」パターンで言うと、守に該当する。その守を核としながらも、破のレベルへと、すなわちエゴに当たる「もう一人の自分」が誕生する。青年期における「自我の目覚め」、ルソーの言う「第二の誕生」となる。以前、安易に変わることより、「変わらない」愚直さを大切にしたいと考えた時期もあった。全てがアメリカナイズされてしまうことに対しての憤りだった。日本的なるものを保守すべきだと、多分にナショナリスト的志向に傾きかけた。しかし、アメリカニズムに抗しつつも、「変われない」愚直さに甘んずるのではなく、自己を鍛えて変えようと努力することは放棄してはならないと考える。「いじ(弄)る」、「いじ(苛)める」、「いじ(虐)める」、これらは、人間の本能的行為だろう。これらの行為には、能動側と受動側の二側面があり、能動側は弄る立場、受動側は弄られる立場となる。学校化社会で問題となっているのは、「苛め」である。ここでよく見受けられる現象は、苛めという「恐怖」に遭遇し、その対処の際、苛められる立場から逃避するため、苛める立場の「物真似」をするということだ。それは、生物界における食物連鎖の最中、捕食されたくない側が、保身する際によくとる「擬態」行為に酷似する。擬態は「マネ」ること。マネは「変身」すること。我々の欲望の代表格として、「変身願望」は付き物である。 

 ヨーロッパの名所旧跡のほとんどは、キリスト教絡みの宗教色を帯びたものだ。従って、嫌が上にも教会をはじめイエス・キリストの絵画等を見せ付けられた。ローマ・バチカンの聖ピエトロ寺院内の荘厳さを増す数々のイエス像を眺めながら、クリスチャンでない自分も何時しかキリストの足元に吸い寄せられる気になるのが不思議だった。システィナ礼拝堂内の「最後の審判」を見上げ、ついつい写真やビデオに収めようとした際、警備員の鋭いチェックで規制を受けてしまった。我々はミケランジェロの芸術作品を鑑賞しようとするわけだが、ローマ・カトリック教会は著名な芸術家の作品群を利用し、人々を知らず知らずの内にキリスト教へと誘うのだろう。その際、撮影規制は、作品に対する配慮だけではなく、イエス及び教会の権威を高めるための手段とも言えようか。ところてん方式での鑑賞のなか、売店でレオナルドやミケランジェロの作品コピーの土産を買いながら、我々はキリスト教会へ喜捨しているのだ。彼らの天才ぶり・偉大さを、痛感すると同時に、それらの芸術作品をも教会の宗教的素材にさせてしまうキリスト教文明圏に一抹の嫌悪感を抱かざるをえなかった。

 ルーブル美術館やベルサイユ宮殿に代表されるヨーロッパ芸術には、度肝を抜かれる。これでもか、これでもかと迫り来る迫力は圧巻だ。だが、そうしたものを見せ付けられると、終いには疲れてくるのだ。コッテリ感の洋食に胃がもたれるように、精神的にむつこさを抱くのだ。それに対して、日本文化のサッパリ感。日本の芸術には西洋にはない癒しがある。そうした背景に、山水画を代表とする墨絵と、洋画に一般的な油絵の違いがあるように思える。洋行すると、濃い脂味ではなく、やたらとあっさりした和食が食べたくなるものだ。やはり、肉食文化と草食文化の相違だろう。

 ヨーロッパで最初に覇権主義を成そうとした国、スペイン。ポルトガルと世界史の一時期において、世界分割を計ろうとした。今でこそ、ドン・キホーテに甘んじているが、嘗ての栄華を忘れてはいない筈だ。テロターゲットになった主要国の一つでもある。長きにわたるレコンキスタは、イスラム世界との文明交流を急速に促す一方、攻防戦で軍事的に鍛え上げられ培われたパワーとなって、大航海時代の寵児と押し上げて行った。その後のルネッサンス及び宗教改革運動の誘因を、このイベリア半島の2国が先行的に牽引したと言えよう。

 日本史の上にも、この2国は多大な影響を与えた。スペインの反宗教改革の一環のもと、シャビエル他、イエズス会の宣教師が来日し、カソリックを我が国に伝えていった。これは、イザベラ女王以下のスペイン王国が世界に覇を求めていく過程で、宗教が政治に利用された結果でもあった。信長もキリスト教布教活動への寛容姿勢を通し、フロイスなどからこうしたヨーロッパの政治・軍事的思惑を、他の者より幾らかでも多く情報入手し、国内統一に向けた方策を講じていたと思われる。

 私がバルセロナで見た「闘牛」の現実は、それ迄の想像を完全に覆すものであった。我々がテレビ等で見せられて来た闘牛は、最後のホンの一瞬であったのだ。それまでの長きに渡るシーンを、全く知らない中で、闘牛の嘘イメージが創られて来たのだと言う事を、現地に来て見て、初めて知り得た。

 それは、本来の成牛の力には人間の力では、到底、太刀打ちできないと言う事である。従って、我々がテレビ等で見せられて来た闘牛なるものは、力の失せた、力を失せさせられたヘタレ牛に対しての似非闘牛だったのである。どのように力を失せさせるかと言うと、何度も牛を刺し捲るという汚い手段を使うと云う事だ。一番最初に出て来た無傷の牛は、見るからに人力では敵わない、メチャクチャパワーテンコ盛り盛りの猛牛なのである。走りも全然違い、ジャンプ力も半端ではない。こうした状態を、まず鎧で防護された馬上からヤリで何度も突き刺し、半殺し状態にする。半殺しにされても尚、パワーは漲っているところへ、周囲から多くの者に細い剣で刺され、嬲り続けられる。これは正しく「苛め」である。動物愛護団体からクレーム付けられるのは当然で、最後の瞬間ではなく、それ迄の凄まじい嬲り過程に対してのクレームが、本当のものだろう。

 今から25年程前、初めてヨーロッパ旅行をした際、石の文化に圧倒された。古代ローマの遺跡の数々は、数千年の時を越えていにしえの名残を黙って伝えてくれる。石は永きに渡り残り続ける。正しく石力(いしりょく)の賜である。しかし、石には命や温もりが感じられない。それに対し、木には息吹を感じる。日本の建造物は木製が主体である。欧米のそれに比べ、何か見劣りすることもあるが、石造りの堅固な建造物には感じられない暖かみや柔軟性が、木の文化にはある。

 92年のバルセロナオリンピックの夏以降、海外旅行が特別のものでもなくなった。家族三人の海外旅行は五回。その内、三回がヨーロッパで、息子は小学4年時のシンガポール旅行を皮切りに国際化時代の申し子と言えるだろう。私と妻も、92年、93年、96年、00年、?年、?年と6?度の訪欧となる。初めての異国の地は、ロンドンだった。飛行機の窓越しに見下ろしたヒースロー空港近辺は、朱色の屋根が広がり何か違う星のような強烈な印象を与えた。時差ぼけもあり、初日は頭痛に悩まされたが、訳のわからぬまま翌朝を迎えそれも徐々に治まる。

 早朝のロンドンは、落ち着いた大人を思わせる雰囲気であった。ホテル近くを散歩するが、いつの間にかハイドパークのピーターパンの銅像の前に立っていた。息子と初めて一緒に映画館で観た「フック」のワンシーンを感慨深く思い返す。ロンドンタクシーに初めて乗り、片言の英語を使い何とかやれそうだと思いながらも、ドアーの違う車内に暫し当惑する。ロンドンバスの渋滞する大通りを闊歩し、ハロッズなどのデパートなどでショッピングをしながら、何時しか外国人であるという違和感が消え、ロンドンっ子と同化している自分がそこにいた。

 アリタリア航空でローマに移動。ロンドンとはうって変わり、何か独特の雰囲気を感じる。それは太陽輝く「オーソレミオ」の明というより、暗の印象であった。

旅先で一番気掛かりなのはトイレ。とにかく日本のようにどこにもここにもあって、自由に使えるわけではない。イタリアでは1回につき500リラ(35円程)が必要。旅の途中、膀胱が弛みがちの自分にとり、トイレが頭にこびり付いて悩みの種にもなる。

また、水の確保も大変である。特に夏場はミネラル・ウォーターが必需品で、日本ではトイレ同様ただ同然のものが、こちら文明国と言われるヨーロッパ諸国ではスイス以外、買って入手するのが当たり前。ガス入りのものもあり、「平和と水はただ」の日本の素晴らしさが実感される。

風呂の善し悪しは旅のポイントの一つ。日本風呂と違い、バスタブはゆっくりのんびりと体を休ませてはくれぬ。日本の風呂場はその点、合理的にできている。合理精神を尊ぶヨーロッパの産物とは思えない代物で、いちいち水を抜かないと体が洗えないとは難儀。

飛行機がないと海外旅行はまず無理だが、乗らないで済むものなら絶対、乗りたくはない。自分達の旅行の前に、飛行機事故が起こると変に安心する。あるいはそれを待望するような気にさえなる。こういう自分は何時か地獄に墜ちるだろうが、やはり地に足がついてないのは、何にしても落ち着かぬ。何時まで経っても覚悟のできぬ自分から抜けられぬ。

ヨーロッパとなると、名所旧跡のほとんどがキリスト教絡みの宗教色を帯びたものとなり、従って、嫌が上にも教会をはじめイエス・キリストの絵画等を見せ付けられることになる。ローマ・バチカンの聖ピエトロ寺院内の荘厳さを増す数々のイエス像を眺めながら、クリスチャンでない自分も何時しかキリストの足元に吸い寄せられる気になるのが不思議である。システィナ礼拝堂内の「最後の審判」を見上げ、ついつい写真やビデオに収めようとするが、警備員の鋭いチェックで規制を受ける。我々はミケランジェロの芸術作品を鑑賞しようとするわけだが、ローマ・カトリック教会は著名な芸術家の作品群を利用し、人々を知らず知らずの内にキリスト教へと誘うのだろう。その際、撮影規制は、作品に対する配慮だけではなく、イエス及び教会の権威を高めるための手段とも言えようか。あらかじめレオナルドの「最後の晩餐」を予約してまで鑑賞に行くが、僅か15分の時間制限で場外へ追い遣られた。厳重な監視システムの下、正しく「ところてん方式」での鑑賞であった。場外の売店でレオナルドやミケランジェロの作品コピーの土産を買いながら、我々はキリスト教会へ喜捨しているのだ。彼らの天才ぶり・偉大さを毎回、痛感すると同時に、それらの芸術作品をも教会の宗教的素材にさせてしまうキリスト教・イエスという存在に行き着いてしまうのは事実である。漱石の文壇デビューは1904(明治)年のことであった。この年、わが国は大国ロシアと日露戦争の火蓋を切り、帝国主義路線に邁進していく。 彼は、各作品を通して自己及び近代日本を鋭くえぐり出しながら、欧米列強に翻弄される「世界のなかの日本」の歩むべき方向性を見出そうとしていたのではないだろうか。このような彼の試行錯誤は、ロンドン留学の際に感得されたであろう西洋人(及びキリスト教文化)に対するコンプレックスと、秘かに芽生え出した東洋(日本文化)への自信という、相矛盾する心情に根ざしていたようにも思われる。私もこの数年での洋行の体験を通して、近代日本の歩むべき道標を模索し続けていた漱石に、ほんの少しではあるが近付けたような錯覚をしている。

8月15日は、日本と同様、ミラノも特別の日であった。街の至る所に教会があり、キリスト教文化だらけのヨーロッパに、イエスの目に見えない不思議な力を実感したりもする。私は未だイエスを神と見なすことに納得できないでいる。地獄行きかそうでないかは、この点に拠るらしい。イエスを神と見なさない限り、この私に天国は有り得ないということだ。この先、意固地な自分の考え方が変容するのは不可能に近いことであろう。しかし、将来において、イエスの不思議な力がこの私を劇的に変えるようなことが1%でもあるのなら、それは一体、何を意味するのだろうか。

私は、そこに納得がいかないのである。そんなにイエスが凄い存在なのであろうか。ローマ帝国という絶大なる権力に抗し、己の信念を貫いた意志力にはこの私も惜しみない賛辞を贈りたい。ある面では精神界における革命家(寵児)であっただろう。しかし、その程度のものなら歴史上、イエスに比肩するあるいはそれを越える善行を施した者も多数いたはずだ。何故、我々はそれを感じつつも彼を持ち上げ、後生大事に神にまで担ぎ上げつつこれまできたのだろうか。私はそこに人間の人の良さを見出しながら、それ以上に人間の遅滞性を痛感するのである。

ソウルへは1時間半弱で行き帰りができるなんて、隣町に行く感覚だ。地理的に韓国朝鮮半島は日本と世界で一番近い場所。生まれて半世紀が過ぎやっと来れた。苦手なキムチがやたらと出てきて、発汗作用が促進される。韓国が日本を凌駕し始めたのは、88年のソウル五輪頃からであった。「韓国なんかに負けヘンで」っていう意識が、「韓国はなかなか手強い」っていう危惧に変化していった。日韓バレーボールなんて、韓国をいつもカモにしてたのが全く形勢が逆転していった。お家芸の野球も今では韓国には苦戦を強いられ日韓戦はいつも苛つく。韓国に抜かれたなと思い知らされたのは、バルセロナ五輪男子マラソンでの激闘だった。森下と黄との一騎討ちは、今も記憶する。そして完全に置いて行かれたなと痛感したのは、日韓共催サッカーワールド杯だった。そして「韓国には歯が立たんワイ」ってシャッポを脱いだのが、冬のバンクーバーでのキムヨナと浅田真央との対決。そこで、キム・ヨナが面白いことを言っていた。浅田は「もう1人の自分」だと。対照的なペルソナを持つ2人は、実は一体的存在なのだ。「ヤヌスの鏡」なのである。それは、今の日本と韓国の関係性に繋がる。今のヤワな日本は逞しい韓国には勝てない。日本男子が韓流には及ばないのもうなずける。その昔、日本は韓国を支配下に置いていた。そうした中で、日本人の朝鮮人に対する差別意識が増幅されてもきた。今でも我々日本人の心の奥底には、そうした朝鮮人に対する優越感が巣くっている。その韓国(人)に日本(人)が敗北しているという現実を受け容れがたいのも事実なのだ。韓国の旗は太極をシンボルにしている。太極は「陰陽」五行説をベースにしている。此の世は、男と女、善と悪など二つの対称をなすもので成り立ち、それらがバランスを取り合っている。男が陽で女が陰となり、陽は陰によりその輝きを増す。陽が陰により止揚?されるのだ。

中国や韓国へは、よくマッサージに行く。日本よりかなり安く、長時間みっちりやってくれる。一生懸命にしてくれる。特に中国人は生活のため、マッサージする手に必死さが伝わってくる。韓国人は日本人とほとんど変わらない。韓国人に日本で希薄になった優しさや親近感を抱く。ソウルの街並みは日本の地方都市に非常に似ている。車窓からの眺めは、ハングル文字を目にしなければ日本と見間違えるほどだ。どっちが真似をしたのか分からないが、韓国と日本は血の繋がりを強く感じさせられる。歴史的には朝鮮渡来で日本が形成されたというのが客観的だろう。ホテルのバスに設置されたシャワーなど細かな諸施設に関しては、やはり日本が世界トップクラス。ウォシュレットトイレなどは、ソウルのどこにも見出せなかった。日本のセブンイレブンなどのコンビニがソウルにもあったが、全然日本の方が清潔感があり、店内が都会的だった。ソウルのコンビニは日本の片田舎にある駄菓子屋の雰囲気だった。明洞中心部は東京・大阪の繁華街とさほど変わらない様相だった。それにしても、海外旅行で毎回実感するのは、日本の素晴らしさが見直される事だ。衣食住、どれをとっても日本が一番だ。

3年前、台湾へ行った。中国や韓国とどう違っているだろうと、興味があった。沖縄が目の前に見えるくらい、日本に近い、日本に似たようなところの多い国だった。今では、日本の高校で一番多く行く、修学旅行先となっているのも頷ける。人気があるのかどうかは別として、安心感を与えてくれるのが台湾だ。何故なら、台湾人の好きな国は、ダントツで日本らしい。従って、抗日・反日嫌日感情のまだまだ多く残る中韓などと違い、雰囲気がフレンドリーなのである。だが、忘れてはならないのは、過去の日台関係に纏わる厳然とした歴史である。台湾すなわち中華民国は、日本がかつていの一番に支配しようとした国。この国を抑えて「砂糖」が簡単に手に入るようになった。「すき焼き」は台湾を支配するまでは味が甘くなかった。支配後、砂糖が安く供給可能となり、すき焼きの味が現在のような甘いものとなったのは御存知だろうか。日清戦争で勝利し下関条約で中国から譲り受けたのが台湾だった。

従って、台湾人の日本人に対する怨念は、腹の奥底に潜んでいるのだ。この事を呑気な日本人は、特に若い世代の日本人は、クレグレモ忘れてはならないのである。

 今から四半世紀前、初めてヨーロッパ旅行をした際、石の文化に圧倒された。古代ローマの遺跡の数々は、数千年の時を越えていにしえの名残を黙って伝えてくれる。石は永きに渡り残り続ける。広島原爆ドームも然りである。ピカドンの凄まじい灼熱と爆風に耐え、残存しているのは、ほとんどが石である。正しく「石力(いしりょく)」である。しかし、石には命や温もりが感じられない。それに対し、木には息吹を感じる。日本の建造物は木製が主体である。欧米のそれに比べ、何か見劣りすることもあるが、石造りの建造物には感じられない「温もりや暖かみ」が、木の文化にはある。また、石は堅固であるが、柔軟性に乏しい。木は水分が若干なりとも含有され、柔らかみを保有する。漱石が文壇にデビューしたのが、「吾輩は猫である」であった。漱石40歳のことで、当時としては遅咲きと言ってもいいだろう。主人公の「猫」の眼を通してそれらの心理分析がなされ、ストーリーが縦横無尽に展開する。漱石の文壇デビューはこの作品により始まったわけだが、やはり、漱石の自己及び近代日本に対する痛切な思いが、「猫」の眼を通して随所に滲み出されてもいる。「吾輩は猫である」が発表されたのは、1904(明治 )年のことであった。この年、わが国は大国ロシアと日露戦争の火蓋を切り、帝国主義路線に邁進していく。国内では富国強兵と並行して殖産興業が「上からの改革」により展開されていった。それをリードしたのは、薩長雄藩出身者で固めた藩閥政府であった。夏目漱石は、「坊ちゃん」などの各作品を世に出しながら、こうした欧米列強に翻弄される「世界のなかの日本」の歩むべき方向性を見出そうとしていたのではないだろうか。同時に、欧米諸国や薩長雄藩の権力者におもねる世人の「こころ」を、自身のそれに投影させながら鋭くえぐり出す試みもなされていたように思われる。このような彼の試行錯誤は、ロンドン留学の際に感得されたであろう西洋人(及びキリスト教文化)に対するコンプレックスと、秘かに芽生えだした東洋社会(日本文化)への自信という、相矛盾する心情に根ざしていたようにも思われる。私もこの数年での洋行の体験通して、近代日本の歩むべき道標を模索し続けていた漱石に、ほんの少しではあるが近付けたような錯覚をしている。欧米諸国に追いつけ追い越せを国是に、近代化に突っ走っていく日本という国のなかで、市井のほとんどの人々は日常生活に追われながら、一日一日を精一杯生きていこうとしている。主人(猫)公も同様、夏目漱石の社会(自己)批判(風刺)をよそに、案外自由世界を闊歩していたのかもしれにゃん。 

 92年のバルセロナオリンピックの夏以降、2001年の今夏にかけて通算8回の海外旅行を通し、感じたことや考えたことを書き記しておく。初めての異国の地は、ロンドンであった。飛行機の窓越しに見下ろしたヒースロー空港近辺は、朱色の屋根が広がり何か違う星のような強烈な印象を与えた。時差ぼけもあり、初日は頭痛に悩まされたが、訳のわからぬまま翌朝を迎えそれも徐々に治まる。早朝のロンドンは、落ち着いた大人を思わせる雰囲気であった。早速、妻とともに散歩に出かけるが、いつの間にかハイドパークのピーターパンの銅像の前に立っていた。息子と初めて一緒に映画館で観た「フック」のワンシーンを感慨深く思い返す。ロンドンタクシーに初めて乗り、片言の英語を使い何とかやれそうだと思いながらも、ドアーの違う車内に暫し当惑する。ロンドンバスの渋滞する大通りを闊歩し、ハロッズなどのデパートなどでショッピングをしながら、何時しか外国人であるという違和感が消え、ロンドンっ子と同化している自分がそこにいた。アリタリア航空でローマに移動。ロンドンとはうって変わり何か独特の雰囲気を感じる。それは太陽輝く「オーソレミオ」の明というより、暗の印象であった。今回で家族三人の海外旅行も五度目になる。その内、三回がヨーロッパで、息子は小学4年時、昨年と国際化時代の申し子と言えるだろう。私と妻も、92年を皮切りに93年、96年、00年、そして今年と5度の訪欧となる。旅先で一番気掛かりなのはトイレ。とにかく日本のようにどこにもここにもあって、自由に使えるわけではない。イタリアでは1回につき500リラ(35円程)が必要。旅の途中、膀胱が弛みがちの自分にとり、トイレが頭にこびり付いて悩みの種にもなる。 また、水の確保も大変である。特に夏場はミネラル・ウォーターが必需品で、日本ではトイレ同様ただ同然のものが、こちら文明国と言われるヨーロッパ諸国ではスイス以外、買って入手するのが当たり前。ガス入りのものもあり、「平和と水はただ」の日本の素晴らしさが実感される。風呂の善し悪しは旅のポイントの一つ。日本風呂と違い、バスタブはゆっくりのんびりと体を休ませてはくれぬ。日本の風呂場はその点、合理的にできている。合理精神を尊ぶヨーロッパの産物とは思えない代物で、いちいち水を抜かないと体が洗えないとは難儀。飛行機がないと海外旅行はまず無理だが、乗らないで済むものなら絶対、乗りたくはない。自分達の旅行の前に、飛行機事故が起こると変に安心する。あるいはそれを待望するような気にさえなる。こういう自分は何時か地獄に墜ちるだろうが、やはり地に足がついてないのは、何にしても落ち着かぬ。何時まで経っても覚悟のできぬ自分から抜けられぬ。ミラノで妻の礼拝の姿を横目で見ながら、イエスの目に見えない不思議な力を実感したりもする。考えてみれば妻との出会いも教会絡みであった。私は未だイエスを神と見なすことに納得できないでいる。地獄行きかそうでないかは、この点に拠るらしい。イエスを神と見なさない限り、この私に天国は有り得ないということだ。妻との人生行路を通して、この先、意固地な自分の考え方が変容するのは不可能に近いことであろう。 しかし、将来において、イエスの不思議な力がこの私を劇的に変えるようなことが1%でもあるのなら、それは一体、何を意味するのだろうか。私は、そこに納得がいかないのである。そんなにイエスが凄い存在なのであろうか。ローマ帝国という絶大なる権力に抗し、己の信念を貫いた意志力にはこの私も惜しみない賛辞を贈りたい。ある面では精神界における革命家(寵児)であっただろう。しかし、その程度のものなら歴史上、イエスに比肩するあるいはそれを越える善行を施した者も多数いたはずだ。何故、我々はそれを感じつつも彼を持ち上げ、後生大事に神にまで担ぎ上げつつこれまできたのだろうか。私はそこに人間の人の良さを見出しながら、それ以上に人間の遅滞性を痛感するのである。 

 ヨーロッパの名所旧跡のほとんどは、キリスト教絡みの宗教色を帯びたものだ。従って、嫌が上にも教会をはじめイエス・キリストの絵画等を見せ付けられた。ローマ・バチカンの聖ピエトロ寺院内の荘厳さを増す数々のイエス像を眺めながら、クリスチャンでない自分も何時しかキリストの足元に吸い寄せられる気になるのが不思議だった。システィナ礼拝堂内の「最後の審判」を見上げ、ついつい写真やビデオに収めようとした際、警備員の鋭いチェックで規制を受けてしまった。我々はミケランジェロの芸術作品を鑑賞しようとするわけだが、ローマ・カトリック教会は著名な芸術家の作品群を利用し、人々を知らず知らずの内にキリスト教へと誘うのだろう。その際、撮影規制は、作品に対する配慮だけではなく、イエス及び教会の権威を高めるための手段とも言えようか。ところてん方式での鑑賞のなか、売店でレオナルドやミケランジェロの作品コピーの土産を買いながら、我々はキリスト教会へ喜捨しているのだ。彼らの天才ぶり・偉大さを、痛感すると同時に、それらの芸術作品をも教会の宗教的素材にさせてしまうキリスト教文明圏に一抹の嫌悪感を抱かざるをえなかった。 

 ルーブル美術館やベルサイユ宮殿に代表されるヨーロッパ芸術には、度肝を抜かれる。これでもか、これでもかと迫り来る迫力は圧巻だ。だが、そうしたものを見せ付けられると、終いには疲れてくるのだ。コッテリ感の洋食に胃がもたれるように、精神的にむつこさを抱くのだ。それに対して、日本文化のサッパリ感。日本の芸術には西洋にはない癒しがある。そうした背景に、山水画を代表とする墨絵と、洋画に一般的な油絵の違いがあるように思える。洋行すると、濃い脂味ではなく、やたらとあっさりした和食が食べたくなるものだ。やはり、肉食文化と草食文化の相違だろう。

 

【映画と私】 

 然りとて、なかなか変われない現実の自分から、暫しの脱出を図るべく、映画の世界に逃避行する。私が映画好きなのは、こうした表れなのかもしれぬ。死ぬことすら選択できない生。その昔、映画「ジョニーは戦場へ行った」で考えさせられたものであったが、意思表示が全く閉ざされた状況下で、人はどうすればいいのか。かつて、柳田邦夫氏とALSを煩い尊厳死(安楽死)を希望する患者さんとの対話があった。柳田氏は自身の身内の死を通して、どんなかたちであっても「あなたを思う」人のためにも「生き続けて」と、ベッドに横たわる患者へ語った。あなたを思う人とは、家族であり、患者を看護する配偶者やその子供達である。しかし、その家族もが、本人の「死に体」状態を見かね、本人が「死にたい」のなら「死なせて」あげてと望んでいた。「生命の尊さ」が一般常識となり、それに乗っかっていれば安全地帯におれる立場の者からすれば、そうした死を要望することには賛同できなくなる。また、現在の日本においては、人工呼吸器を尊厳死だとか安楽死だとかの理由で取り外すことは違法行為となり処罰の対象となる。それ以上に世間からバッシングされ、爪弾きにされてしまう。オランダでは尊厳死が既に合法化されている。「簡単に死ぬことより真剣に生きることの難しさ」を示唆してくれた。毎日ボヤキながら「精神的に死に体状態で存在する」自分が情けない。「人間は合理化する動物である」。合理化とは精神的ストレスから身を守る防衛機制の代表格。私もよくこれをやりながら今まで何とか生き延びてきた。これからもこれをやり続けるだろう。やっていることに「意味付け」する、これをしないとやってられなくなる。自分だけでなく他人も大体、同じような思いで暮らしていることをついつい忘れがちになる。しんどいのは、辛いのは、苦しいのは、自分だけではないということを、思い出して生き続けていこう。ジョニーは、完全に閉鎖された身体世界の戦場で、狂わんばかりの精神を武器にして闘い続けているのだ。 

 

 我々は理想と現実の狭間で矛盾を睨めながら生き続ける。そうした根本的課題を提示してくれた作品が「プラトーン」であった。ベトナム戦争で主人公の若者が対照的な二人の人物に大いに翻弄される。戦場においては柔な人道主義を捨て、現実的に身を処していかなければならないとするA、それに対していかなる場合であろうと人間性をなくしてはならぬと主張するB、二人は事あるごとに真っ向から対立する。次第にBに感化され同時にAに対する敵愾心を強めていく主人公であるが、BがAに殺されたことを知り、とうとうAを撃ち殺してしまう。我々も「就職プラトーン」なのだ。戦場ならぬ職場へ赴きながら、映画プラトーンの主人公の如くA(現実)とB(理想)の狭間で煩悶しているのかもわからない。人間性がどうのとBに洗脳されたくもないし、Aに撃ち殺されたくもない。

 

 「小熊物」や「薔薇の名前」で有名な映画監督ジャンジャックアノー。小熊物語は息子に生まれて初めて見せた映画。その次は、息子と初めて映画館で観た「フック」。薔薇の名前はウンベルトエーコ原作の話題作だった。この作品では中世社会が崩壊していく前夜が描かれている。正しく人間中心主義への復古"ルネサンス"目前。そこでは「笑い」が一大テーマとなる。まだキリスト教という彼岸志向に影響されていない古典古代を代表するアリストテレスの書籍などが禁書となり、笑いなど人間性の封殺にする教会の内情悪戦苦闘が描かれる。大笑いに変化する近代以降、文明化が促進され環境破壊が繰り広げられてしまった。抑えきれない人間の「欲望」が、パンドラの箱だった。因みにエーコは哲学者だが、私の机上に積ん読されてる「永遠のファシズム」で彼の思想が垣間見られる。キリスト教エスを描いた作品で僕の好きな永遠ものは、「プラトーン」でお馴染みのウィレムデフォーが演じた「最後の誘惑」。イエスを一人の「人」と捉え、彼も俗世間の僕達と同様、エロい存在なんだと安心させてくれるのだが、果たして彼は人間なのか「イエスおあーノー」、やはりイエスだろう。 

 

「ライフイズビューティフル」の主人公グイドはそんな金とは無縁の存在で、彼にとって大切なことは別の次元のものであった。何の変哲もない日常のなかで、彼は夢のような非日常を創り出していく。別に金がなくても、ちょっとしたユーモアのセンス、ちょっとした相手に対する思いやり、機転があればライフいずビューティフルになるはずだよと、基本的なことを教えてくれたような気がする。自分の置かれている環境がなんて幸せで甘いものかを見せ付けられる。夢のない自分が嫌になったりもする。どんな環境に置かれても、その人の考え方ひとつで全然違った世界が展開するという、基本的なことを教えてもくれる。主人公のような本当の強さを持てるよう、自分をなんとか少しでも変えようと努力したい。幾つものハードルを乗り越え、自分の求める自由世界へ歩み続ける。ふと、その昔見た映画「蜘蛛巣女のキス」にも、こんなモチーフが隠されていたように振り返る。感動する映画の基本パターンは、始め年老いた主人公の現在シーンからスタートし、回想して過去に遡っていき、そしてまた現在に辿り着くというやつ。「タイタニック」、「イングリッシュ・ペイシェント」も然り。「嵐が丘」、「ダウンタウン・ヒーローズ」、そして「野菊の墓」も。こうしたパターンではなく、圧倒的感動を与えたものもあった。高校生の時見た「燃えよドラゴン」。圧巻であった。今まで見たこともない超(鳥)人「ブルース・リー」。圧倒的迫力とは正しく彼のために用意された言葉だった。彼に多大な影響を受けた。ブルース・リーの生誕70周年が過ぎた。存命中なら、今、彼もいい歳だろう。よぼついた彼の姿など、想像したくない。超人的な身のこなしに、目を疑った。彼は私の憧れの的となり、学生時代のヒーローだった。彼に近付きたいと、よく物真似に没頭し、武道系サークルにも所属して、飛び跳ねた。彼の魅力に吸い込まれ、影響される人物の最右翼となった。それにしても男を二つ書いて、その間に女が書かれてる字が「嬲る」なんて知らなかった。よく考えたもんだ。僕は男一人だけのナブりの方が絶対いい。男2人だったら、女を奪うために殺し合うかも。これは「嵐が丘」の本質的テーマに通じる。ローレンス・オリピエ演ずるヒースクリフは僕自身かもしれない。最愛の存在{マール・オベロン演ずるキャシー)を独占せんがために、その存在を嬲り続ける。アバターでは中国が侵略者の汚名を被ったと、抗議が起こったというが、最近の映画作品には、躍進する中国が皮肉られてよく作中に描かれる。「2012」の中にも、人類を救う現代版「ノアの方舟」建造を手掛ける大国中国の姿があった。この作品の監督は、「インディペンデンス・デイ」や「紀元前一万年」のローランド・エメリッヒだが、スケールの大きい作品を手掛ける点で、ジェームズ・キャメロンとよく似ている。本来、アバターとは、チャットなどのコミュニケーションツールで、自分の分身として画面上に登場するキャラクターのことだ。マンガ風のキャラクターが使われることが多く、オリジナルのキャラクターを作成できるようになっている場合もある。アニメーションや3次元グラフィックスを応用したシステムも登場している。そこでは3D仮想空間社会が体験できる。あくまでも実体験ではなく仮想体験だが。とにかくバーチャルリアリティー(仮想現実)に拍車をかけるグッズである。ジェームズ・キャメロンと言えば、「タイタニック」。感動したのを今でも覚えている。セリーヌ・ディオンの切ない歌声が、この映画にはピッタリだった。また、主人公を演じたデカプリオが初々しかった。「ディープ・インパクト」は、スピルバーグ作品でモーガン・フリーマンが大統領役。「2012」もそうだったが、「津波」がポイントになる。チリ大地震津波でも大騒ぎしたが、2・3メートルくらいならサーフィン気分でいられよう。その何十倍、何百倍ともなると、もうお手上げ。恐竜を絶滅させたとされる小惑星の衝突について、先日、12カ国の共同研究チームが各地の地層を調査して「間違いなし」との結論。6550万年前、直径10キロ以上の小惑星がメキシコ東部に超高速で衝突。直径200キロほどの衝突跡が確認された。衝突でマグニチュード11の大地震、高さ300メートルの津波が起きたという。大気中に飛び散った粉じんが太陽光を遮り、寒さと食料不足で多くの動植物が絶えた。巨体恐竜の全盛に終止符を打ったのは、ただ一つの小惑星だった。「不毛地帯」の原作者、山崎豊子はただ者ではない。かれこれもう80代半ばを過ぎた年だろう。僕のオヤジと同世代だと思う。彼女の作品は芸術だ。その中でも「白い巨塔」などは正しく金字塔。僕もその昔、田宮二郎白い巨塔に憧れたものだが、僕の「痴態」は、不毛に続く。 

 先日、久し振りに映画館で話題作を見た。次から次へと、飽きさせないよう、だれないよう仕掛け満載なのだが、見た後、内容が思い出せないくらい、何を見ていたのだろうとピンと来ないのだ。刺激はあるのだが、感動せず、印象に残っていないのである。一体なぜなのだろう。これでもかこれでもかとジェットコースター方式の展開は、スピルバーグ作品から始まったと振り返る。しかし、何十年もそうしたパターン映画を見せ付けられてくると、さすがに慣れてきて、逆に辟易とした感じとなる。感覚が麻痺してしまうというか、感動が拡散されるというか、正しくピンボケしてしまうのだ。自分の健康状態や体型に対する認識も、現状に慣れてしまうと、感じなくなってしまうというのが実際だろう。最近は、映画館に足を運ばなくても、ホームシアターで楽しめる時代になった。ケイブに落ち、右手を岩間に挟まれ身動きの取れなくなった冒険家が、四苦八苦した挙げ句、右腕を自らの手で切断し、脱出生還するという、サバイバルものをレンタルしてみた。「死の恐怖」に直面した主人公が、何とか精一杯の力を振り絞り、窮地から抜けようと足掻き藻掻く様は、臨場感を刺激され見ている者を釘付けにする。自分なら、いざこんな時、どうするだろうと、考えさせられる。閉塞された空間でサバイバルを図るのだが、人間追い詰められると、最後は「やけくそ」となり、普段、想像も付かないとんでもない行為をしてしまうのだなと、見ていて思わされた。死に直面し、それまでの何気ない日常の有り難さを痛感し、半ば諦めながら、尚も生きたいと思い続ける主人公。有らん限りの体力と知力を駆使して、生き延びようとする。その過程で、途中、死への恐怖と疲労が錯綜する。その恐怖を睨めながら、感覚麻痺が漂い、追い詰められて自棄糞(やけくそ)になる。戦争が正しくそれだ。我慢し続けることから惹起する耐えられない疲労感。これから解放されたい一心で、「最後の審判」を迎えるのだ。 

 

【日本人と私】 

 日本人のルーツはダッタン人(=タタール人)だったんなんて、ヘンなシャレを言ったりする。タタール(ダッタン)人とはモンゴル高原東北のバイカル湖方面で遊牧していたモンゴル系遊牧民の諸部族を総称して呼んでいた。また、南ロシア一帯に住むトルコ人も、もと蒙古の治下にあった関係から、ダッタン人の中に含まれる。「他の人々」を意味するTatar(タタル)で、中国語では韃靼(だったん)などと呼ばれてきた。日本人のルーツはどうもこのダッタン人あたりになるのではないかという説がある。バイカル湖周辺地域が日本人の源流のようだ。そして、中華圏の人々との混血がなされ、極東の日本列島へと流れ着いたのだろうか。 

 ソウルへは1時間半弱で行き帰りができるなんて、隣町に行く感覚だ。地理的に韓国朝鮮半島は日本と世界で一番近い場所。生まれて半世紀が過ぎやっと来れた。苦手なキムチがやたらと出てきて、発汗作用が促進される。韓国が日本を凌駕し始めたのは、88年のソウル五輪頃からであった。「韓国なんかに負けヘンで」っていう意識が、「韓国はなかなか手強い」っていう危惧に変化していった。日韓バレーボールなんて、韓国をいつもカモにしてたのが全く形勢が逆転していった。お家芸の野球も今では韓国には苦戦を強いられ日韓戦はいつも苛つく。韓国に抜かれたなと思い知らされたのは、バルセロナ五輪男子マラソンでの激闘だった。森下と黄との一騎討ちは、今も記憶する。そして完全に置いて行かれたなと痛感したのは、日韓共催サッカーワールド杯だった。そして「韓国には歯が立たんワイ」ってシャッポを脱いだのが、冬のバンクーバーでのキムヨナと浅田真央との対決。そこで、キム・ヨナが面白いことを言っていた。浅田は「もう1人の自分」だと。対照的なペルソナを持つ2人は、実は一体的存在なのだ。「ヤヌスの鏡」なのである。それは、今の日本と韓国の関係性に繋がる。今のヤワな日本は逞しい韓国には勝てない。日本男子が韓流には及ばないのもうなずける。その昔、日本は韓国を支配下に置いていた。そうした中で、日本人の朝鮮人に対する差別意識が増幅されてもきた。今でも我々日本人の心の奥底には、そうした朝鮮人に対する優越感が巣くっている。その韓国(人)に日本(人)が敗北しているという現実を受け容れがたいのも事実なのだ。韓国の旗は太極をシンボルにしている。太極は「陰陽」五行説をベースにしている。此の世は、男と女、善と悪など二つの対称をなすもので成り立ち、それらがバランスを取り合っている。男が陽で女が陰となり、陽は陰によりその輝きを増す。陽が陰により止揚?されるのだ。 

 中国や韓国へは、よくマッサージに行く。日本よりかなり安く、長時間みっちりやってくれる。一生懸命にしてくれる。特に中国人は生活のため、マッサージする手に必死さが伝わってくる。韓国人は日本人とほとんど変わらない。韓国人に日本で希薄になった優しさや親近感を抱く。ソウルの街並みは日本の地方都市に非常に似ている。車窓からの眺めは、ハングル文字を目にしなければ日本と見間違えるほどだ。どっちが真似をしたのか分からないが、韓国と日本は血の繋がりを強く感じさせられる。歴史的には朝鮮渡来で日本が形成されたというのが客観的だろう。ホテルのバスに設置されたシャワーなど細かな諸施設に関しては、やはり日本が世界トップクラス。ウォシュレットトイレなどは、ソウルのどこにも見出せなかった。日本のセブンイレブンなどのコンビニがソウルにもあったが、全然日本の方が清潔感があり、店内が都会的だった。ソウルのコンビニは日本の片田舎にある駄菓子屋の雰囲気だった。明洞中心部は東京・大阪の繁華街とさほど変わらない様相だった。それにしても、海外旅行で毎回実感するのは、日本の素晴らしさが見直される事だ。衣食住、どれをとっても日本が一番だ。 

 3年前、台湾へ行った。中国や韓国とは少し違ったフレンドリーな雰囲気を感じた。台湾人の好きな国は、ダントツで日本らしい。台湾すなわち中華民国は、日本がかつていの一番に支配しようとした国。この国を抑えて「砂糖」が簡単に手に入るようになった。「すき焼き」は台湾を支配するまでは味が甘くなかった。支配後、砂糖が安く供給可能となり、すき焼きの味が現在のような甘いものとなったのは御存知だろうか。日清戦争で勝利し下関条約で中国から譲り受けたのが台湾だった。

 

【「書く」ということ】
 20年程前から「書く」ことを意識しだした。それまで、文章を書くなんてことは、あまり得意じゃなかった。今も大した文章を書けるわけではないが、多少、上手くなりつつあるように思える。初めて読み手を意識して書いたものは、仕事場で発行されていた紙面への寄稿であった。意外と自画自賛の作品となり、それ以来、書くことに興味を抱き続けてきた。十数年前頃からは、ワープロ、そしてパソコンを前に、執筆家を気取りながら駄文に勤しんでいる。今は「読む」ことより、書くことの方が好きになっている。人の書いた本を読むことより、自分の書いた本を作ることに傾倒している。最近では、書くことが、自分を高めてくれるように思えてきた。何か、ライフワークになりつつある。もう一つ、書くことを趣味にしている。それは、「書道」である。両者ともに共通するのは、書くという営みを通し、ゆっくり落ち着いたなかで、自分と向き合えることだ。そして、何より、「受動」的志向から「能動」的志向へ、思考の転換がなされるということである。「習字」は、手本を書写するものだ。基本を習熟する上で欠かせないステージではある。が、此処に甘んじていればそれまでである。単なる物真似にしか過ぎぬ。それを抜ける場が、書道なのだ。「守・破・離」の三態に当てはめるならば、基本である守の段階から、それを踏まえ自分色を創造する破や離の段階が書道と考える。それと同様に、人の書いたものを読むことは、思考過程における守であり、知識を収受し習得する段階と言える。読書という、受動的思考を積み重ねながら、能動的思考へと高めていくのが、書くという作業を通してなのである。そして、そうした営みの集積が、「思想」となって結実される。
 其の昔、書道教室の新年会で言及したこと。それは、「手本」とは一体何なのか。手本を忠実に書写することに汲々としてきた。手本を完全にコピーすることが、作品の出来を決めると思い込んできた。手本と寸分狂わず物真似をすることに、余り疑問を感じなかった。しかし、黄昏時を迎えてきた現在、手本を気にせず、自分の字を書くことが多くなった。そして手本から外れたその字に、味を感じるようになってきた。物事には守・破・離という三段階があるという。私は二段階目の破にさしかかっているのだろうか。破れかぶれの破も考え物だが、守に拘りすぎるのもどうかと思う。守に拘泥することは、結局、権威主義となることではないか。手本とは、「基準」であり、基準はそれを創る権力者の存在を抜きにしては語れまい。そして更に考究すれば、絶対主義的真理を掲げる価値観の遵守に繋がる。それから逸脱したり、反発したりすることは、権力構造を崩すことになっていく。手本には、衆目を魅了する「美」が漂うものである。しかし、その美なるものも、見る者により怪しい臭いを漂わせることもあろう。ピカソのデフォルメした絵を、私はまだ理解するに至れない。彼の絵は、最初からあのような抽象画であったのではない。初期の絵は、写実的な万人受けのするものであった。いわゆる、「青の時代」の絵画群である。ピカソの守の時代の産物であろうか。私はそれらが好きである。まだ、ピカソの絵画世界における、破や離のレベルには理解が及ばず仕舞いなのだ。こうした自分は、美の価値観に関して、保守的で権威主義的な立場にいるのかもしれない。ピカソは絵画世界において、それまでの美の価値観を覆そうとした革命家だったのか。書道にも前衛的な書風が数多くある。これは果たして字なのかと思われる書も、絵画で言えば、ピカソのフォービズム的な書ということになる。このように、私の日常に関して、書を始め、それまでの認識とは違う、何かが蠢き始め、変わりかけているのだ。
 
【「隠す」ということ】
 この家に潜む私にとって、暗がりの中が、意外と安心し落ち着くのだ。幼い頃、忍者ブームが続いた。忍者ごっこが我々の遊びの主流だった。私のヒーローは、「伊賀の影丸」だった。市川雷蔵扮する「忍びの者」であった。彼等は黒装束を身に纏い、ひたすら死と向き合い、夜に生きた。私はそんな彼等に、幼き頃、随分憧れたものだった。そして、彼等に近付きたいと、よく物真似をした。
 隠すということは、「秘密」にするということだ。神秘とか秘宝というように、隠されたものには、それなりの付加価値がある。犬も大好物のホネなどの餌を「独り占め」にしようと、誰にも見付からないよう、掘った穴の中に入れて隠したりする。昔、飼っていた犬を散歩に連れ出すと、野原でよくこの仕草をしていた覚えがある。「独占」するという欲望は、我々の最たる意志の表れだ。誰とも「共有」したくない。自分だけの所有物にする。私などは、秘湯に「魅力」を感じている。隠されたもの、秘められたものに対しては、自ずとパワーを感じる。マックス・ウェーバーの「支配の正当性」で、その三類型が示されたが、「カリスマ」的支配は、正しく秘儀によるものだ。支配者のカリスマ性、すなわち神秘が、支配力となる。我々は根源的に「わからない」ものに恐れおののき、ひれ伏すものだ。「宗教」も秘め事を扱う。従って、そうした宗教に関わる者は、パワースポットに立ち得る者となる。人類史は、長きに渡る宗教の時代を経て、「ルネサンス」を迎えた。ルネサンスは隠されたものを次々と露わにする時代だったとも言えるだろう。独占されていたパワーが暴露され、その力が拡散され大衆化していく段階であった。「パワーの共有化」がなされる時代を迎えた。ルターの「万人司祭主義」はその象徴である。司祭に宗教的パワーが独占されていたのを、誰もがパワーを所持できるように改革したのだ。
 隠したい最たるものは何だろうか。生まれてこの方、どの位、排泄してきただろう。毎日、大小便を放出し続けてきた。排泄する際の感覚は、やはり気持ちいい。この年まで、何とか大したトラブルもなく排泄機能が順調に働いてくれた。感謝である。これが一度、崩れたら、難儀なことになるだろう。普段、何気なく営めている行為が、快感でなく苦痛となってしまえば、これは大変だ。まがりなりにも、排泄コントロールが可能である現在だが、近い将来、これが出来なくなるだろう。老いは、排泄との対峙である。排泄物は異物として忌み嫌われるが、大切なものなのだ。排泄された大小便でその時の健康状態がほとんど分かるのである。いつも我々の腹の中に、大切な「宝物」として、埋蔵、否「腹蔵」している。人間は臭いモノを腹に隠し持っているのだ。臭い話だが、これを忘れてはならない。電気エネルギーを享受し、文明社会を謳歌する現代も、原発というクサイ物を腹蔵し、そのどうしようもない危うさを覆い隠しながら成立している。
 数年前、フクシマ原発事故で放射能汚染を気にしていたつもりだったが、それも束の間、もう語ることもしなくなった。民主党政権に淡い期待を抱いたのも、今は昔、後の祭り。こんなふうに、ほとんどの事は、直ぐに飽きてしまい、顧みなくなってしまうのが常。そして、「忘却の彼方」へとなる。「戦争」の記憶も同様だ。もう、あの戦争から70年が経ったのだから。忘れたくないから、備忘録など「書く」という行為となるのだろう。従って「忘れる」と書くということは不可分の関係となる。また、歳をとるにつれ、手帳によくメモをする。そうした手帳を片手に、記憶がどんどん消滅していくことの、何とも言えぬ怖さと、対峙していく。
 
【アウトプットとインプット】
 怒りをぶちまけたらスカッとする。これもはき出す行為の一つ。しかし怒りをぶつけられた者は、たまったものじゃない。怒りが怒りを呼び、根に持つ。ぶつけられた側は、怨念をインプットする。腹蔵された怒りは、内部で次第に醸成され肥大化する。それが報復となって爆発し、アウトプットされるのだ。前世紀末から今世紀初頭にかけてのイスラム原理主義勢力の動向には、アメリカニズムに対する怒りの発散(アウトプット)が見受けられる。また、我々人類史においてはどうだろう。人類は、その歴史過程で、文明をインプットし、産業化のなかで二酸化炭素を大量にアウトプットしてきた。そして、それが今、環境問題というかたちで、地球が人類に対し報復しているではないか。我々は、文明生活で乱開発や炭酸ガスをはき出してきた。が、それによる自然破壊に耐え続けてきた地球は、腹蔵した怒りを、様々な姿ではき出しアウトプットしているのだ。
 生命維持のため、食べる行為はインプットで最も重要なことである。職歴より食歴の方が命に直結する。さて、私はどうなのだろう。健康に留意した食べ方をしているだろうか。否、程遠い感がする。健康に全く自信なし。年から年中、何かしらぼやいてる。減塩しなければと思いつつ、塩味大好き人間で、塩には滅法弱い。お茶漬けがあれば生きていける。救急処置の「点滴」は限りなく「食塩水=ナトリウム」なのだ。体液はほとんどが塩水だと言ってもいいだろう。我々人類は、進化の歴史を辿ると、魚類から爬虫類、両生類というプロセスを経て、陸上生活をする哺乳類に至った。すなわち、生命の原点は海水から生まれたということ。塩(Na)抜きには有り得ない。「食って出す」、出すこと、すなわち排泄することも大事だ。内に溜め込んだものをはき出す。その後の爽快感。だが、はき出されたものは残存する。その処理が問題となる。普通、我々はそれに無頓着だ。はき出したらそれで終わり。後は、野となれ山となれ。こうした日常の積み重ねが、先述における世界大の問題となるのだが。
 インプットでありアウトプットなのが、呼吸と睡眠だ。呼吸が停止することの苦しみから来る恐怖は、計り知れぬ。他の苦痛は何とか耐え忍べそうだが、呼吸困難での息苦しさは、何とも言えず怖いものだ。結局のところ、死の恐怖とは、呼吸困難からくる苦痛ではないかとさえ思えるのだ。人間誰しも、最後は呼吸が停止し、死に至る。人生、生まれて息をすることから始まり、年老いて息が止まることで終わる。呼吸は「ミッション・インポータント」なのだ。誰かが、吸うことよりはくことの方が大事だと言っていた。呼吸の字も、吸うより呼が先にきている。腹式呼吸法も、呼気に重点が置かれている。アウトプットが大事ということなのか。

【睡眠と死】
 睡眠により、大体の病気は回復される。特に精神的なものには、睡眠が一番だ。悩みを一時的に消してくれる。覚醒するとまた思い出されてしまうが、寝て起きての繰り返しにより、悩みも徐々に弱くなっていく。というか、忘却の彼方となっていく。私の場合は、この繰り返しで、今日まで何とかやり過ごせてきた。眠りは、困難からの逃避術とでも言えようか。一時的にでも、何らかの方法で逃げることは大事だ。眠りは、精神的困難からの一時的脱出なのである。永続的な脱出を試みたい場合は、「永眠」が必要となる。それは、すなわち「死ぬ」と言うことである。「疑う」と「考える」は、同じ意味だ。我々はこれまで、そしてこれからも、死についてずっと考え続けることだろう。それは何故か。私は次のように考える。それは、「死」の「意味」が「分からない」からだ。通常、我々は、意味が分からないと、「分かる」まで考えあぐねる。思案し「答え」が「見付かる」と、「安心」して「落ち着く」。すると、次の瞬間から、そのことについては、もう考えようとしなくなる。すなわち、「意味が分かる」ということは、「安心し落ち着く」ことであり、その後、「考えない」ということに繋がる。考えないとは「疑う」ことをしなくなるということだ。そうした状態が「怖い」からか。堂々巡りとなってしまいそうだ。が、案外、こうしたことなのかもしれぬ。しかし、私なりに死(ぬこと)について既に答えは出している。それは、「眠り(る)」ということ。いたってシンプルなことなのだ。葬儀の場で、よく亡くなることを「永眠」と言うだろう。そう、死は「永遠に眠る」ことなのだ。私達は毎日、寝て、睡眠を取る。それは人間にとり、必要不可欠の行為であり、実は、その行為を通して、日々、何気なく「死」を体験し、体感している訳である。死を身近に実感しているのだ。しかし、よく分からない。それは、あまりにも身近過ぎるからだろう。また、「眠り」にも熟睡かそうでないかで違いが出る。「死」は深い眠りの状態で、すなわち、「無意識」だということである。この「無意識」状態を体験している我々なのだが、その状態をその時に「意識」することは不可能なのだ。でも、他人の様を観ながら、その状態を体感できる。「寝ている様」を観ることで、ある程度、理解可能なのである。そして、今はビデオで自分の寝ている様子を録画撮りし、無呼吸症候群も確認できる。さて、「死ぬことは眠る」という当たり前のことが再認識された。日々、寝る前に、それでは「死んで来ます」と言うように心掛けたい。「死にます」では、覚醒できないから、死んで、来る、また、生き返って来る、という意味で「死んで来ます」が適当な言い方だろう。私は、寝(眠)ることが好きだ。それは、私は死ぬことが好きだということなのか。また、私の「趣味は寝ること」だと言う場合は、私の趣味は死ぬことだと言ってる訳なのか。いやはや、うかつに寝たり死んだり出来なくなりそうである。
 
【真似と変身】 

 マネをするのはその対象への劣等感の裏返しである。真似をしたい相手と自分とを見比べ、見すぼらしい自分を嫌悪すると同時に、格上の相手を憧れそれに少しでも近付きたいという思いが惹起する。そして、モノマネ対象の相手をよく観察し、物真似をしようとするのだ。従って、「変身」するということは、自分への自信の無さの現れであり、そうした自分を何とか変えて、モノマネ対象と一体化を図り安心したいという心理なのではないか。変身願望はコンプレックスの反動であり、ある意味、脆弱な自分を強化したいとする向上心なのである。 日本もこうした変身願望を何度も抱きながら、歴史過程の中で進化を遂げてきた。古代史においては、到底歯が立たない相手だった隣国中国へのモノマネからスタートする。近代以降は、マネをする対象が欧米列強へと変わった。その際、それぞれの真似対象への強烈な劣等意識と、近付きたいとする変身願望が同時に募って行ったのではないか。

 私自身もそうしたコンプレックスと変身願望を抱き続け、高校2年時に遭遇したブルース・リーへの憧れと彼へのモノマネを、学生時代の少林寺拳法との出会いを通して具現化しようともがいていた様に振り返る。
 我々の欲望の代表格として、「変身願望」は付き物である。然りとて、なかなか変われない現実の自分から、暫しの脱出を図るべく、映画の世界に逃避行する。私が映画好きなのは、こうした表れなのかもしれぬ。

 我々は絶えず変化している。人体から始まり人類及び世界の進化や宇宙まで。生命も細胞分裂からスタートする。分裂は変化の核をなす。核分裂反応もその典型か。分裂は対立を引き起こす。2者間の分裂がスタンダードだが、ヘーゲル弁証法によれば、対立により高次レベルへ止揚できる。変わるためには、基の自分がなければならない。これも、「守・破・離」パターンで言うと、守に該当する。その守を核としながらも、破のレベルへと、すなわちエゴに当たる「もう一人の自分」が誕生する。青年期における「自我の目覚め」、ルソーの言う「第二の誕生」となる。以前、安易に変わることより、「変わらない」愚直さを大切にしたいと考えた時期もあった。全てがアメリカナイズされてしまうことに対しての憤りだった。日本的なるものを保守すべきだと、多分にナショナリスト的志向に傾きかけた。しかし、アメリカニズムに抗しつつも、「変われない」愚直さに甘んずるのではなく、自己を鍛えて変えようと努力することは放棄してはならないと考える。「いじ(弄)る」、「いじ(苛)める」、「いじ(虐)める」、これらは、人間の本能的行為だろう。これらの行為には、能動側と受動側の二側面があり、能動側は弄る立場、受動側は弄られる立場となる。学校化社会で問題となっているのは、「苛め」である。ここでよく見受けられる現象は、苛めという「恐怖」に遭遇し、その対処の際、苛められる立場から逃避するため、苛める立場の「物真似」をするということだ。それは、生物界における食物連鎖の最中、捕食されたくない側が、保身する際によくとる「擬態」行為に酷似する。擬態は「マネ」ること。マネは「変身」すること。我々の欲望の代表格として、「変身願望」は付き物である。
 ソウルへは1時間半弱で行き帰りができるなんて、隣町に行く感覚だ。地理的に韓国朝鮮半島は日本と世界で一番近い場所。十年程前やっと訪韓した。3月末頃だったがソウルは未だ寒く、日本の冬に近かったと記憶する。苦手なキムチがやたら出てきて、発汗作用が促進された。  韓国が日本を凌駕し始めたのは、88年のソウル五輪頃からであった。「韓国なんかに負けヘンで」っていう意識が、「韓国はなかなか手強い」っていう危惧に変化していった。日韓バレーボールなんて、韓国をいつもカモにしてたのが全く形勢が逆転していった。お家芸の野球も今では韓国には苦戦を強いられ、日韓戦はいつも苛つく。韓国に抜かれたなと思い知らされたのは、バルセロナ五輪男子マラソンでの激闘だった。森下と黄との一騎討ちは、今も覚えている。その貴は平昌五輪開会式で太っちょ姿で登場していた。完全に置いて行かれたなと痛感したのは、日韓共催サッカーワールド杯だった。そして「韓国には歯が立たんワイ」ってシャッポを脱いだのが、冬のバンクーバーでのキムヨナと浅田真央との対決だった。そこで、キム・ヨナが面白いことを言っていた。浅田は「もう1人の自分」だと。対照的なペルソナを持つ2人は、実は一体的存在なのだ。「ヤヌスの鏡」なのである。それは、今の日本と韓国の関係性に繋がる。  今のヤワな日本は逞しい韓国には勝てない。日本男子が韓流には及ばないのもうなずける。その昔、日本は韓国を支配下に置いていた。そうした中で、日本人の朝鮮人に対する差別意識が増幅されてもきた。今でも我々日本人の心の奥底には、そうした朝鮮人に対する優越感が巣くっている。その韓国(人)に日本(人)  が敗北しているという現実を受け容れがたいのも事実なのだ。韓国の旗は太極をシンボルにしている。太極は「陰陽」五行説をベースにしている。此の世は、男と女、善と悪など二つの対称をなすもので成り立ち、それらがバランスを取り合っている。男が陽で女が陰となり、陽は陰によりその輝きを増す。陽が陰により止揚?されるのだ。奇しくも、羽生がフリーで演じた「(安倍)清明」は、陰陽道を司るマスター(師)だった。

 中国や韓国へは、よくマッサージに行く。日本よりかなり安く、長時間みっちりやってくれる。一生懸命にしてくれる。特に中国人は生活のため、マッサージする手に必死さが伝わってくる。韓国人は日本人とほとんど変わらない。韓国人に日本で希薄になった優しさや親近感を抱く。ソウルの街並みは日本の地方都市に非常に似ている。車窓からの眺めは、ハングル文字を目にしなければ日本と見間違えるほどだ。どっちが真似をしたのか分からないが、韓国と日本は血の繋がりを強く感じさせられる。先述のキム・ヨナ浅田真央を評して言った、正しく「ヤヌスの鏡」が日韓関係なのだ。  歴史的には朝鮮渡来で日本が形成されたというのが正論だろう。所謂、縄文系が原日本人で、それを周縁(南北)地域に追い遣り、政権を担っていったのが、朝鮮からの渡来人を主体とする弥生系日本人だ。我々本土の日本人は、その弥生系の末裔であり、多分に朝鮮半島の血脈の流れを受けているとも考えられる。それに対して、周辺に駆逐されて差別対象とされる熊襲蝦夷は、縄文系の人々であり、元々、日本列島に大昔から定住していた純日本人なのだ。今では北海道の蝦夷地に住むアイヌや、南洋の沖縄・奄美の島人(シマンチュ)は、内地日本本土の者達の容姿とは違い、顔立ちが彫り深く、体毛の濃いタイプが多い。我々弥生系の日本人のルーツは、朝鮮系なのだ。そうした者達が、純日本人の血を受け継ぐ縄文系の周縁に位置付けられた人々に対し、差別意識を持ち優位なポジションに在り続けようとする。そして更には、大昔、自分達の祖先に繋がる朝鮮半島の韓国人(北朝鮮も含む)を蔑(さげす)んだり、嫌韓反韓意識を暴力団的右翼に煽られ、喧伝させられているのではないだろうか。  ホテルのバスに設置されたシャワーなど細かな諸施設に関しては、やはり日本が世界トップクラス。ウォシュレットトイレなどは、ソウルのどこにも見出せなかった。日本のセブンイレブンなどのコンビニがソウルにもあったが、全然日本の方が清潔感があり、店内が都会的で洗練されている。ソウルのコンビニは日本の片田舎にある駄菓子屋の雰囲気だ。明洞中心部は東京・大阪の繁華街とさほど変わらない様相だった。それにしても、海外旅行で毎回実感するのは、日本の素晴らしさが見直される事だ。衣食住、どれをとっても日本が一番だ。  

 旅行する時、観光するなんて、よく言うよね この観光の意味が、「光を観る」と言う事 光と言うのは、自分のいい点 自分のいい点を観る、見付けると言うのが 観光の本来の意味する事なんだって そんなの知ってた?
 
 ポピュリストが輩出し事大主義に煽られ、我々は一体何処ヘ突き進もうとしているのか。核の平和利用の美名の下で「原子力ムラ」は着実に「増殖」する。6年前、世界中にあれだけの大惨事を曝け出し、痛い目に遭ったはずなのだが。この国の「センセイ」達は、「寄らば大樹の陰」で、「米国第一主義」なのだ。誰もが「日米同盟ファースト」とよく口ずさむ。当然、同盟によるハイリスクを覚悟せねばならぬ。ジョーカー・トランプが米国の覇権生き残りのため、日本を「切り札」として「捨て駒」にする日が近付いて来ているように感じる。都合の悪い事は直ぐ忘れようとするものだが、日本は現同盟国に、過去、核爆弾を2発も落とされた。これ以上ない理不尽を味わわされたにもかかわらず、奇襲攻撃という負い目を引きずり相手の顔色を窺い続ける。米国に砲艦外交で開国を余儀なくされて160年以上が経つ。ある意味、日本は、凌辱された女(日本)が、その意識を押し殺し凌辱した男(米国)への復讐を遂げる日を夢想しているなかで、米国との関係を成立させているようだ。正しく日本(人)は、「汚れちまった悲しみ」をバネに、それを生き甲斐としている。近代以降の日本人が、忠臣蔵の「仇討ち」に惹かれる背景には、こうした米国に対するどうしようもない怨念感情(ルサンチマン)があるからかも知れぬ。戦争を知らない平和ボケ世代がほとんどになり、過去の「悲しみ」の歴史を「忘れていく」事により、近い将来、「トランプ戦争」に巻き込まれ「忘れちまった悲しみ」に直面するのではないかと危惧する。
 
 性の営みなしに、人はこの世には存在できない。性行動の帰結が種の保存だ。性あっての此の世なのだ。祭り事は政事、コレ即ち「性事」なのだ。祭りの本質は何だろう。それはケガレに対するハレの営みだ。ケガレとは「穢れ」と言うより、日常である。それに対し、ハレは「晴れ」の儀式のそれではなく、日常の対語である「非日常」である。これが祭りの本質になる。非日常は、日常の継続による「惰性の払拭」でもある。惰性の払拭をしなければ、我々は人生を全うし辛い。定期的にリフレッシュしなければ、先に進めないのだ。一週間のサイクルにおいても、ハケとケのパターンが仕込まれている。月から金までのウィークデイは日常のケであり、週末土日はハレのガス抜き日となる。日常は、生産・勤勉・禁欲・貞節などの日々。非日常は、消費・怠惰・発散・放埓などの日々。両者のバランスで人生や歴史は成り立つ。どちらかだけでは、ダメになのだ。両者の程好いバランスで上手くいくのだ。祭り事はハレ。これをやらないと、次に向かって前進できない。再生リバイバルできない。祭り事のリーダーは、お調子者じゃないと務まらぬ。政事に携わる者は、その他大勢の者達の憂さを、上手くガス抜きさせる役目を負う事にもなる。その役の見返りとして、多くの権限がその者に委譲される。祭りには酒は付き物。酒を酌み交わし、日頃日常の生産活動で鬱積した内憂を、一気に吐き散らかす。そして、大どんでん返しがなされる。酒を帯びると、男女の交わりも、より活発になる。従って、このカオス状態を臨界点を超えないところで治めさせるのも、政事家の役割となる。斯くして、政治が性治となるのであり、性治が出来る者が、真の政治家と成り得る。政治家は性治家でもなければならない。そうでない者は、政治屋であり性治屋なのだ。山尾は後者になってしまった。 空も飛べそう
 
 
 2003年の経済協力開発機構OECD)の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど、低迷する日本教育の実態が浮き彫りとなった。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされた。昭和50年代半ばにゆとり教育が導入されて以来、授業時間と授業内容が一貫して削減されてきた。ゆとり教育は、子供の中にある怠惰を黙認・許容し、知識偏重の偏差値教育を揶揄する「勉強否定論」にまで至り、学習意欲のない生徒を甘やかせる結果となった。ゆとり教育総合学習も、日教組が昭和40年代後半から唱えてきたもので、文部省(現文科省)がその後30年間にわたって日教組の主張を結果的には実現してきたわけである。ゆとり教育学力低下した世代が、今、子の親となり、家庭における教育力低下に拍車を掛けている。校内暴力やいじめ、不登校などが激増した時期は、ゆとり教育を開始した時期に概ね符合している。小学校低学年にまで及ぶ学級崩壊は、幼児期の育てられ方に関係し、学力不足で大人に成り切れていない親たちの問題でもある。核家族化の進行のなかで、老人を疎外する社会が、結果的にはしっぺ返しを受けていると言ってもいい。生活の知恵や生きる術に長けた老人を家族から切り離し、臭いものには蓋をせよとばかりに隔離していくことが、未熟な夫婦による家庭における教育力の低下を促し、躾などで問題を有する近年の青少年を輩出する社会的な土壌となっているのではないか。また、そうしたバカ親に限って、昨今のモンスター=ペアレントになり得るのである。『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦氏は、「日本の子どもはバカだ」と指摘する。なぜこうなったのか。藤原氏は、個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという、子ども中心主義が信奉されてきたことを第一の理由に挙げる。インターネットの普及などの文明化と逆行する人々が増えている。大国の読み書き算術能力が退化すると何が起こるか。一部のエリートが、単純な言葉で大衆の人気取りに専念し、権力に居座る。ワンフレーズ首相と言われたパフォーマーが、劇場国家の中で一世を風靡したのはどの国のことであったろう。

 

  1.  
     昨今の安易で早計な改革論に押し流され、国家百年の大計を過つようなことがあっては、取り返しのつかないことにもなり得る。欧米近代合理主義を根幹とする戦後民主主義教育が至る所でその綻びを露呈している中、学校化する現代社会の病巣を修復するための処方箋として、学校教育の分析検証は必要不可欠である。日本の教育力は戦後の発展と成長を支えた柱の一つと言われ、若者の知の水準も主要国のトップを維持してきた。ゆとり教育の指導要領は有馬朗人文相(当時)が告示し、小中学校では2002年度から、高校では03年度から実施された。しかし文科省ゆとり教育の失敗を重く受け止め、総合学習により減少した授業時間数を一転、増やすことになった。が、こうしたブレまくる文科省の方針転換が、教育現場を大混乱させたことは想像に難くない。学力低下批判や公立学校不信の高まりをよそに、ゆとり教育をひたすら推し進めてきた行政の責任は大きい。失敗が明らかになった以上、自らの誤りを認めず場当たり的施策を打ち出すだけで詰め込み競争と揶揄し、基礎学力を軽視したことを深く反省する必要がある。2007年に希望者全員が定員枠に収まる全入時代となり、大学倒産も現実のものとなった。そして定員確保のための入試の安易化と受験生の負担軽減が大学生の学力低下に拍車を掛けた。小学校から大学に至る日本の若者の知的レベルの地盤沈下は、バブル崩壊以降のこの国の社会が抱える構造的なひずみと重なる部分も多い。ニートと呼ばれる無職層の若者の急増もこれと無関係ではなかろう。国の教育政策の失敗を十分検証するとともに、社会構造の変化も踏まえて新たな知を創造する仕組みが必要である。
     
     高校世界史未履修問題など偽装教育へのバッシングは、政治的背景があることを忘れてはならない。当時の安倍晋三政権が教育基本法改定に、そうした世間の風潮を利用したのは見え透いたことだった。学習指導要領を印籠の如く振り翳す様は、教育への権力介入を牽制する教基法第十条を改定し、教育を国家権力の統制下に置きたいという意志を窺わせた。また、高校世界史未履修問題など、ほぼ全国的詐欺紛い行為が大昔からなされていたのなら、指導要領逸脱行為を黙認してきた文科省担当者が責任をとるべきで、それを現場の校長や平教員に責任転嫁するだけでは済まされぬ問題であった。結局、これらの問題を通して浮き彫りにされたのは、文科省の下部組織である教育委員会が全く機能不全に陥っていることが再確認されたことだった。教師にとり生徒指導は教科指導と同様、教師の資質を図る上で重要な要素である。生徒指導がきちんとできる教師は、学校社会の中で一目置かれる存在となりうる。それができない場合は、生徒からも軽視されてしまうのが常である。しかし、そうした教師像を信仰することが、学校社会を歪める一因ともなる。生徒と教師の関係は水平的関係性と垂直的関係性の織り成す微妙な彩で成り立つものである。前者の関係がほとんどの場合、秩序維持が図りにくくなったり、最悪の場合は学級崩壊の憂き目にあうかもしれぬ。しかし、後者のなかで表層的に整然と秩序が保たれている場合は、より気を付けなければならない。それは生徒の本音や意見を吐き出すことができないからだ。北朝鮮大日本帝国下の人心を想起すればわかるだろう。明治以降、近代日本の国家目標は欧米列強に追い付き追い越すことを只管、模索してきた。そのために、富国強兵・殖産興業を国是とし、その達成に向けた社会的基盤づくりのための教育が要請されてきたのである。強力な中央集権国家を形成するうえで必要不可欠のエリートを、国家的威信を背負い設立された東京大学にスポイルし、福沢諭吉の「学問のススメ」をうまく利用しながら学歴信仰社会を構築してきた。強力な国家は、精強なる軍隊と暴利を貪る産業界の存立に支えられ、更に企業は優秀で従順な産業人により成立する。近代化路線を強力かつ性急に展開したわが国は、それに必要な教育制度の確立が必要不可欠であった。よりよい産業人を養成するための教育指針が、日本文化の骨子である集団主義をもとに設定され、それがわが国の学校教育全般を今日まで規定し、様々な諸問題を派生し続けてきた。組織力を上げるためのトレーニングが集団主義教育のあらゆる局面で展開され、効率的な学校運営が文教行政のもと指導徹底化されてきた。国家の教育指針を司る文科省は各地方自治体の教育委員会を、教育委員会は各学校を統括し、上意下達システムが強固に形成され、そのシステムのなかで日本資本主義を担う従順な産業社会人が大量生産されてきた。特に経済立国の基盤を確立する高度経済成長期、東大を頂点とした教育界におけるヒエラルキーが磐石となり、日本では東大出身の学歴が最高の名誉であり価値であるとする見方が社会通念となった。そして現在、冗費問題などその組織の著しい腐敗が指摘されて久しい官僚社会のエリートに東大出身者が多数占め、日本の閉塞社会の病巣とまで言われているのである。そうした官僚を輩出してきた日本の教育も、その元凶の一つとして批判対象とされてきた。高度経済成長を遂げた70年代後半以降、校内暴力、いじめ、不登校、そして学級崩壊が起こる。さらに神戸連続児童殺傷事件やバスジャック、「人を殺す経験をしようと思った」という主婦殺害事件などの少年による凶悪犯罪が相次いだ。こうしたなかで教育改革が急務とされ、そのスローガンも「人間性豊かな児童・生徒の育成」、「自己教育力」、「新しい学力観」そして「生きる力の育成」と変わってきた。1980年代には、中曽根内閣の臨時教育審議会が「学歴社会の弊害の是正」などを答申し、これを受けて文科省はその後、「ゆとり教育」への転換を図った。「生きる力」を掲げた総合学習の創設により、授業時間の削減など日教組が長年追求してきた「ゆとり教育」が、文部科学省の推奨のもと実行された。これは、プラザ合意後の日本経済における内需拡大策の一環として導入された週5日制との連動であった。しかし学力低下への批判から一転して「授業時間を増やし、総合学習を減らす」という方針転換が迫られることになった。それにしても、あまりにも揺れが大きすぎないか。子どもも教師も戸惑い現場は混迷するばかりだ。教育が様々な問題の源泉に位置付けられ、教育論が百家争鳴の如く展開されているにもかかわらず、なかなか日本の教育に明るい展望が見出せない。その国の教育の目指すべきものが、その国の行く末を暗示するものであり、逆に国家の掲げる目標が必然的に教育に投影される。
     
     近代以降の父性原理が現代社会における環境問題等の背景として指摘され、母性原理の見直しが叫ばれる一方、モラルなき社会の立て直しのため父性の復権を求める声も上がっている。林道義氏による同名の著書『父性の復権』のなかで、節操なき現代社会を招来させた一因に、戦中派の敗戦体験による精神的葛藤が関係しているとし、そのコンプレックスが権威を無下に否定する団塊世代に影響し、さらには宇宙人的な団塊ジュニアを輩出したと述べられている。そして、このような父性をもって育てられなかった世代、すなわちマンガ的「無脊椎人間」が大勢を占めるなか、社会の退廃化が進んでいるのであって、それを押し止めるには「ものわかりのいい父親」への逃避癖を改めなければならず、健全な権威を備えた父親が必要であると強調する。
     
     林氏の指摘はある意味で戦後民主主義が日本の教育に与えた功罪を問うものであり、戦後日本の教育問題を考察していく上で示唆を与えている。戦後教育の精神的支柱の一には子供主体の自主性を尊重し押しつけを排す欧米型自由主義的教育論があり、それに対し、それまでの儒教的教育は非民主的・非合理的なものであると見做され、軽視されてきた。そして忠孝礼節などの徳目は、戦後半世紀の間、過去の戦争を想起させる負のイメージとして、絶えず我々の脳裏にすり込まれてきたのではないだろうか。戦後ヒューマニズムは、自主性なるものを尊重するあまり子どもの逃げまで「自主性」だと信じ込まされ、無理矢理やらせることはアナクロニズムとなった。そうしたことにより、こちらからの働き掛けは否定的に捉えられるようになり、自主性の名の下に子どもへの真正面からの関わりを極力避けるようになった。これは同時に指導困難な子どもを相手にしなくてはならない側からすれば、都合のいい格好の逃げ口上となっていった。そして子どもに対するおもねりが一般化する。プレイセラピーやカウンセリングにおいては、常にセラピストは受容的な態度でいることが常識とされる。すなわち、子どもの自発的行為を待つといった態度をとり、出現した情緒をできるだけ受容しようとする。しかし待っているだけではだめな場合もあり、そうした際には強烈な情緒を伝えてやる必要がある。説諭したりするのではなく、大いに怒りを露わにするということである。欲求は与えられすぎると充足してしまい希薄化してしまう傾向がある。従って逆療法的に欲求充足ではない状態をつくることも、一つの解決方法になる場合もある。自分の好きな食べ物だけを偏食しているとたちまち健康を害し病気になる。嫌いな食べ物には得てして栄養価の高い病気を防ぐものが多い。そうした嫌な食べ物を摂取していくことが健康維持につながるのである。そうすると子どもたちにおもねる良好な教育環境を提示し続けることが、果たして善であるのかということである。果たして、それは悪なのだ。
     
     「永く残り続けるものにはそれなりの価値があるのではないか」ということを、県立美術館の建つ前の県民館跡地を発掘調査しながら、残り続けるものに対して畏敬の念を強めたものだ。文化や伝統もしかりで、残り続けるものにはそれなりの輝きがあるように思われる。未来はわからない、不透明なものだ。それに比べ今ははっきりとした現実。現実的な今に対して、わかりにくい未来は、ある意味で理想とも言い換えることができる。まずは理想を掲げ、現実を充実させていこうという意味合いにも受け取れる。しかし、理想と現実は往々にして対立的でもあり、矛盾を引き起こすものでもある。理想が高ければ高いほど、それから遠退く現実に嫌気がさし、同時に理想がどんどん色褪せたりするものだ。また、どうしようもない現実に、アグラを組んでしまい、理想を棚上げし現実にどっぷり浸かり込んでどんどん努力不足のなかで蔓延するどうしようもない現実を更に合理化してしまう。現実に打ち負かされ片隅に追いやられてしまわないようにするためにはどうすればいいのか。そのカギはやはり、「明日に向かい今を生きる。」まず、明日に向かい、絶えず今の初心を忘れることないよう日々を規則正しく過ごすことが大切だと思う。
     
     人は健康を害してみて始めてその有難味を本当に実感できるように、人権もそれを侵害されて始めてその本当の意味を知るのかもしれない。それまでは、なかなか自分のこととして受けとめられないのが実際である。自分に直接、関わりのないことに対して、人はとかく鈍感になるものだ。しかしひとたび、わが身に害が及んで来たとき、安穏としていた自分が豹変してしまう場合もある。数年前、さかきばら事件で殺害された土師淳君のお父さんもその内の一人であったのかもしれない。殺人は新たな殺意を引き起こすものであるということを噛み締め、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対する答えを見いだしてほしいものである。
     
     言葉が全てではないこともあるように思える。言葉による注意がかえってお互いの距離を隔てさせ、どうにもならない様相を呈し、放縦的関係をとり続けるなかでモラルの低下を余儀なくしてしまう場合がある。そして、その放縦(任)的関係性の継続が質の悪い苛め(暴力)に展開することも有り得る。体罰をしなければ正しくお互いを殺してしまうことと同然になってしまうわけである。言い換えれば、体罰がお互いの立場をまがりなりにも秩序だったものにするのである。体罰を振るう側に対し、それはしょうもない面子だと言う者もいるだろうが、どう言葉を駆使してもどうしようもないことが在りうるのだ。「暴力だけはどうしても許せない」と言う者の言葉自体、どうしようもないことがあることを表明しているではないか。教育荒廃に拍車が掛かるのは、慇懃無頼な輩を野放しにする偽善的人権擁護論が後を絶たないことだ。死刑廃止論を追い風に、犯罪者が跋扈し、悪事に抑止力が全く機能しなくなりつつある現在と同じ様相が学校でも展開中だ。
     
    学校の歪談 ◆生徒指導室にて~たかがピアス、されど  教師「お前、その耳は何や。オカマじゃあるまいしピア    スなんかして、それでも男か。もっと男らしゅう    せんかい。お前みたいな奴はほんまに超ムカツク    わ。今の時代は男が女の、女が男の真似をしたり    して、どんどん男らしさ、女らしさがのうなって、    なんや訳がわからんようになってきてしもたわ。    ほんまに性奇纏や。」  生徒「それなら、先生の言われる「らしさ」とはどうい     うことなのか、きちんと説明して下さい。そうで     ないと納得できません。」  教師「男のくせに、ああ言やこう言う、お前みたいに女     の腐ったような奴がやたら多くなって今の日本を     駄目にしとるんと違うか。日本人は日本語を話す    から日本人であり、全世界が英語だけの統一語に     なれば、自ずとそれぞれの国の差異は希薄になっ     てしまう。そういう傾向が最近、強くなってきて     いるやろ。シチュエーションに応じた格好は当然     必要になってくるわけで、その約束事というか暗     黙の了解がないと、いわゆる公序良俗は守れなく     なってしまう。ここは学校や。従って学校という     場に応じた格好をしろと言うてるんや。」  生徒「公序良俗とか公共の福祉とか、そんなもん一体、     誰が決めたのですか。私の良心に反しないことが     ポリシーだと思うのですが。」  教師「公共性は歴史によって培われてきたものやないん     か。そういうものに、我々は否でも応でも従わな     ければならない場合がある。例えば憲法はその代     表格やろ。現憲法は、我々の生まれる前からあり     その成立には立ち合えないわけやが、それがどう     であれ、我々の生活をずっと規定し拘束し続けて     きているんやろ。本校の校則にしても同じや。」  生徒「私の良心に反する公共性なんて、やはりどこかお     かしいし認められません。それに矛盾あるものに     目を向けようとしないことが問題じゃないですか     むしろ、それから目を逸らし、現実を矛盾なきも     のに変えようと努力してこなかった歴史を軽蔑す     ることはあっても、決して尊重することなどでき     やしない。そんなの自分を偽って生き長らえるの     と同じです。」  教師「現憲法の成立過程には戦勝国など様々な思惑が絡     んどるけど、紆余曲折を経ながらも、戦後半世紀     にわたり一度も改定されず今日に至ったという重     い歴史もそれなりに尊重されるべきものやろ。」  生徒「だけど、条文に合わない矛盾のある現実を変える     努力は棚上げして、結局、おかしな現実に合う憲     法第9条に解釈上歪曲してきたんでしょう。それ     って洒落じゃないけど、ほんと窮条じゃん。もっ     と素直になればいいのに。」  教師「素直になるってどういうことや。9条を変えろと     でも言うんか。」  生徒「だって、公共の福祉に反しないことも大事でしょ     う。国内だけじゃなく、国際的な公共の福祉って     ものも考えないと駄目じゃないですか。湾岸戦争     の時、日本の一国平和主義が問われたんでしょう     世界が戦時の際、自国だけ平時を装うってもろ公     共の福祉に反するのと違いませんか。大体、アメ     リカができない非武装中立の平和主義なんてもの     を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、そ     れをじっと我慢してきたんだからストレスたまっ     ちゃうよ。日本ももうそろそろ発散してもいい時     期だし、ちょうどいいチャンスじゃないのかな。     アメリカだって自分を偽らなくて済むんだし。第     9条を変えることがひいては戦後半世紀、正義を     嘯いてきたアメリカの息苦しさを少しでも楽にし     てやれることになるでしょう。それを変えないの     は、逆に苛められたアメリカに対する当て付けで     それこそ陰湿です。」  教師「軽率に変えることの方が、取り返しのつかないこ     とだってあるやろ。変われない臆病さに愛想が尽     きたと軽率な変身の合理化をする方が、変わらな     い愚直さに甘んじる以上に質が悪いように思えて     ならんわ。とにかくお前のそのだらしない格好は     何や。そんなアメリカナイズされたルーズな格好     するんじゃないよ。どう見ても教育上、好ましく     あらへん。」  生徒「それこそ苦し紛れの合理化と違いますか。大体、     靴下は白色が好ましいなんて、それこそ色に対す     る偏見を学校教育で植え付けているようなものじ     ゃないですか。小さい頃から、色に関するマイン     ドコントロールが潜在意識のなかにすり込まれる     それって、某カルト集団のやってたことと変わら     ない犯罪ですよ。その合法的マインドコントロー     ルが、学校というサティアンで日々イニシエーシ     ョンされている。先生、自分の心の色まで白一色     に染めて、一体どうするんですか。」  教師「別に、白のどこが悪いんや。純白の鳩が平和を象     徴するように、白色は世界に好ましい色と認知さ     れているんやろ。国際的公共の福祉に合致した、     すなわち教育上、好ましい色やないか。」  生徒「どんな色をしていても大切な命には変わりないは     ずです。要するに、白って白人の黒人をはじめと     した有色人種に対する優越感を誇示する色なんで     しょう。学校も暗に差別を前提にしているところ     なんですよね。そう考えると、理不尽な学校での     日常生活もそれなりに理解できます。それが、管     理上、都合のいい色を押し付けるなかで、その色     に染まるようなカメレオン的生き方在り方が是と     されそれ以外の色は疎外の対象になっちゃう。」  教師「お前も、もっとオリジナリティーに根ざした自己     主張をしたらどうや。茶髪にしてまで欧米人の真     似をすることはないやろ。そこまでして、アメリ     カニズムに迎合する今のお前らの精神の痴態は、     棄民化思想とも通呈するんじゃないか。」  生徒「先生のそういう拘りこそ、精神の遅滞を来す悪し     き日本の病根ではないですか。先生も何かに縛ら     れたいんじゃないですか。家では家族に縛られ、     学校では教師としての倫理観に縛られ、一生、縛     られっぱなしじゃないですか。」  教師「今の世の中、殺人や自殺が後を絶たないやろ。こ     のままだったら、いずれ近い内に日本列島は軽く     なり過ぎて宙に浮いて、最後は空中分解するよう     な気がしてならんわい。利己主義者が蔓延してい     るからこそ、教育基本法を改定してまでも道徳教     育を重視し、公共心の育成を図らなければならな     くなったわけで、日本社会はそのレベルにまで落     ち込んでしまった。なぜ人を殺してはいけないの     かとぬかす輩も出て来る始末。モラルがどんどん     崩壊している現代だから、ガイドラインが必要な     んだろ。在り方・生き方っていうのも、現代の利     己主義的風潮を諫めるためのキーワードじゃない     か。昔の古き良き時代を再考しようという切り札     的言葉だろ。」  生徒「生き方・在り方って何ですか。道徳の押し付けの     腐臭がしてなりません。生き方より今は死に方の     方が問われる時代ですよ。だって超高齢社会だし     やっぱり生き方より死に方が大切でしょう。ソク     ラテスは悪法も法なりって堕落した衆愚政治への     警鐘を自身の死でもって示そうとしたし、生き方     はやはり死に方と深く関わっているでしょ。イエ     スだって脳死臓器移植だの遺伝子治療だの、やた     ら自然に反逆するかの如き生命への畏敬の念をか     なぐり捨てる延命操作には、頭を傾げることでし     ょうね。生き方って言われると何か胡散臭い気が     しますよね。誰かが言った美しい何チャラのよう     に。生き方・在り方って、先生達にまず見本を見     せてもらいたいですよね。生徒にこうあるべきだ     と言う前に、ちゃんと襟元をただして欲しいです     よ。世界史未履修問題で見苦しい真似したのは何     処の誰でしたかね。もう大丈夫なんですか。また     政治家のモラルが一番問われますよね。何処かの     国の大統領なんて、言い掛かりを付け不正義の戦     争を仕掛けてふんぞり返っていますよね。我々高     校生の在り方・生き方っていうよりも、世界の在     り方がどうしようもない状態ではありませんか。     ま、しかし、大丈夫ですよ。だって日本列島は浮     沈空母だって、その昔、誰かが言ってたし。切っ     ても切れない何処かの国との固くて強い鎖に縛ら     れ漂流することもないし。結構、縛られるって悪     いものでもないんでしょう。」  教師「それとこれとは話が違うだろ。わしはアメリカニ     ズムの呪縛を問題だと言いたいんや。自分に正直     にありたいと思うからこそ、アメリカニズムに席     巻された世界のなかで、日本人として正直たれと     言ってるつもりや。」  生徒「先生も教師らしくきちんとした言葉使いをして下     さい。ひょっとして、先生のような言葉の乱れが     学校をはじめとする乱れた現代社会の背景にある     のかも知れませんよ。気付いておられないようで     すね。先生も御自身の言動にもっと責任を取って     頂きたい。先生が命懸けで守るべきものは、決し     て得体の知れない学校文化ではない。あなた方が     死守しなくちゃならないのは、あなた方が直面し     ている生身の生徒の心であるはずです。さきほど     から先生が燻らす煙草の煙で僕の命を縮めること     が先生の命懸けの指導ですか。先生、少しは教師     らしくして下さい。」  教師「“服装の乱れは心の乱れ”につながるんや。人の     心は服装に表れるんと違うか。お前以外のもんは     ちゃんとしとるやないか。お前のその姿はお前の     態度そのものを示しとるんと違うか。」  生徒「先生は人をぱっと見て判断するんですか。人を見     掛けだけで判断してはいけないといつか言ってた     じゃないですか。先生は、嘘を僕達に教えていた     んですか。」  教師「だがな、人は見掛け、すなわち外観で判断しがち     なのも事実なんやないか。とかく、人の目に見え     るものが、目に見えないものに影響を与えるもん     や。実際、お前がここにおるのも、ピアスをしと     るという、明らかにわしの目に見える事実が、お     前のどこかがおかしいという目に見えないわしの     心に影響して、お前を呼び止めるという行為につ     ながったんや。」  生徒「先生、そういう唯物論的なものの見方が僕に対す     る誤解、いや大いなる偏見を生んでいるんです。     見掛け倒しというように、外観は立派だが内容が     伴わないこともよくあることで、逆に背広でない     先生のそのラフなジャージ姿が、駄目教師に直結     しないことと同様であるはずです。僕がピアスを     しているのは、そういう現実に対する細やかなレ     ジスタンスであり、そういう目に見えない生徒の     心の襞を、先生の心の目で汲み取って頂きたいと     いうせめてもの表明なのです。」  教師「ほな何だかんだと時代に合わせて機能的に変えて     いきさえすればええんか。日本人やったらシャツ     をだらっと出したりして締まりのない格好するん     やない。社会が余りにもだらしなくなってきてる     ぶん、わしらは今まで以上にしっかりせなあかん     のが本当やないんか。学校文化はそういう意味で     は保守すべきや。」  生徒「先生の考え方は、多分に復古的というか大日本帝     国の精神に通じるところがあり、それって超保守     的で危なくないですか。先生一人がそんなに意気     がって今の流れを押し止めようとしても、それこ     そ逆に溺れ死んでしまうのが落ちじゃないですか     そんな自分を犠牲にしてまで守らなければならな     いような文化なんて嘘っぱちですよ。」  教師「そのような考え方を持つ利己主義者が蔓延してい     るからこそ、教育基本法を改定してまでも道徳教     育を重視し、公共心の育成を図らなければならな     くなったわけで、日本社会はそのレベルにまで落     ち込んでしまった。なぜ人を殺してはいけないの     かとぬかす輩も少なくはないんやろ。」  生徒「じゃ、先生は宇和島徳州会病院での臓器移植問題     に関してどうお考えなんですか。臓器提供者は自     己犠牲のなかで他者を生かすと言いながら、臓器     売買をめぐり金銭的問題の胡散臭さが付き纏いま     すが。」  教師「最愛の人が臓器移植をしなければ生きられないと     なった場合、そんなこと言ってられるか。そう言     う奴に限って金銭に物を言わせ助けようとするん     じゃないか。」  生徒「やはり、生命すなわち生死を科学文明で操作しよ     うとするのは、神への冒涜であり自然の法則に反     することです。脳死を人の死とする考え方は、プ     ラトンやデカルトのように二元論を基にする西洋     的な発想であり、先生の尊重されているアニミズ     ムなど日本の古来からの考え方を否定することに     なり矛盾してると思うのですが。」  教師「やっぱり生き方より死に方が大切やろ。イエスだ     って脳死臓器移植だの遺伝子治療だの、やたら自     然に反逆するかの如き生命への畏敬の念をかなぐ     り捨てる延命操作には頭を傾げるやろ。」  生徒「しかし、犠牲の精神を旨とするイエスならば、自     分の腎臓を一つだけでなく両方とも切除させて与     えるでしょうね。しかも無償で。正しく右の腎臓     を取られたら、左の腎臓も取らせなさいって。」 ◆入試選考会議で~会議は踊る、されど  教師A「A生徒は総合得点でB生徒より1点下回ります      が、面接時の態度は非常に良く、また野球部の      エースとして活躍もしており、将来性を考える      とB生徒よりも上位になり逆転します。」  教師B「A先生のように入試以外の点に目を向けたら、      どうしても選考者の恣意が払拭しきれなくなり      客観性を欠いた情実的選考にもなりかねない恐      れがでてきます。あくまでも入試の成績結果に      ウェイトを置いた選考に心掛けるべきです。」  教師A「勿論、その点に関しましては異議はございませ      んが、試験の得点結果だけでは合否が判別でき      ないからこそ、今やっている我々の選考会議の      意義があるわけで、しかもこの場合、AB各生      徒の入試得点の違いは、たった1点だけなので      すよ。だったら余計に入試の成績結果以外にも      よく目を向けるべきです。」  教師B「それだったら、B生徒も水泳部のキャプテンと      してよく部活動をまとめ、三年間、根気よく続      けて頑張ったと内申書には記載してあります よ。」  教師A「それこそ、内申書の記載者の恣意がないとは言     い切れませんよ。記載者の文章表現でどのよう      にも解釈できることです。」  教師B「A先生もそう言われるんだったら、尚更1点差      というAB各生徒の入試成績結果の厳然たる事      実に拘らなければならなくなるはずでしょう。」  教師A「B先生、ちょっと待って下さい。A生徒は地区      大会で準優勝しているピッチャーですよ。これ      こそ、厳然たる事実以外の何物でもないはずで      す。あなたとここで評価論を展開するつもりは      ないですが、私の持論は評価は絶対的に絶対で      はないということです。評価というのは結局は      相対的なもので、土地の評価と同様に時と所に      よって絶えず変化するものです。その時には見      向きもされなかったものが、ある時には素晴ら      しいものになったりすることもあるわけで、我      々教師は生徒をただ一面的に捉えるのではなく      あらゆる角度から観察し分析検証しながら評価      することに心掛けねばなりません。」  教師B「そんなことはA先生に指摘されるまでもないこ      とで、私も絶えず評価に関しては慎重であるべ      きことは当然だと思います。ただ、あなたのよ      うな多分に相対主義的価値観のもとで、果たし      て教育が成り立っていくのか疑わしいというこ      とです。それなりの自信と覚悟がなくて、人が      人を評価することなどできないはずです。その      ためにそれなりの入試問題が検討作成されてい      るんじゃないですか。」  教師A「そうでしょうか。私にはB先生のように断言が      できない実状があるように思えてならないので      すが。例えば、文科系の試験では思い切った論      述式問題を作成しようとしても、採点基準など      の様々な問題点があり、結局、従来型の短答形      式にならざるを得ず、限界があるのではないで      すか。そして、より多くの事項をいかに覚える     かが優劣の分かれ目となり、そうした入試問題      に即応できる授業や教育活動となってしまい、      東大はいわゆる超勉強法のテクニックに長けた      エリートをスポイルする機関として機能してき      たんじゃないですか。」  教師B「それが一体どうしたと言うのですか。あなたは      東大を引き合いに出して、日本の教育システム      をどうのこうのとおっしゃりたいようですが、      ここでそれを言ってみても時間の無駄というも      のです。そりゃね、私だって日本の教育問題の      根っこの部分に、東大を頂点とする知のヒエラ      ルキーとでもいうべきピラミッド構造があり、      結局そこから抜けられない学歴偏重主義の呪縛      があるということぐらいわかりますよ。そして      旧態依然の東大解体論などの大学改革論が叫ば      れたりするんでしょうが、大体、行政改革が口      先だけの大号令に終始するのと同様、既得権益      を死守したい輩の大勢いる大学内をそう簡単に      は変えられないでしょう。また、大学改革だけ      で済むような問題でもなく、あなたの言うよう      に元を辿っていけばそれこそ、日本人の学歴信      仰のルーツを探るべく、福沢諭吉などが関わる      近代史をみなければならなくなってしまいます      よ。」  教師A「その通りですよ。更に、福沢の思想に影響を与      えた欧米の近代合理主義までをも検証しなくて      はならないわけです。近代合理主義は理性的で      あるものに価値を見出し、反理性的なるものに      は価値がないとする見方です。実利的・機能的      でないものは非合理的なものとなるわけです。      結果オーライという言葉も合理主義的用語の典      型で、結果に至るまでの過程は手段化され、結      果がよければ手段化された過程も合理化されて      しまう。結果よければすべてよしで、それは目      的のためには手段を選ばずという考え方につな     がるものです。」  教師B「A先生は、1点差という結果に至るまでの過程      が問題だと言われるんですか。そんなのわかる      わけないでしょう。一体どうすればいいって言      うんですか。」  教師A「先程、文化系の問題について言及しましたが、      AB各生徒の国語の答案を検証してみてくださ      い。必ずどこかに解決の糸口があるはずで      す。」   AB各生徒の国語の答案が検証される。  教師A「やはり、問題点が見つかりました。7番の問題      で絶体絶命をAは「絶対絶命」と書いて全く得      点がなく、Bは「ぜったいぜつめい」と書いて      2点の内1点得点されています。この問題では      漢字で答えよというような条件付きではござい      ませんが、国語の試験問題において積極的に漢      字で書こうと臨んだA生徒と、最初から問題が      条件付きでない場合は全部ひらがなで書こうと      安全策をとったB生徒とで1点差が点けられた      しかも、難易度の高い漢字に挑戦したA生徒で      はなくて、安易なひらがなで表記したB生徒に      優位な採点がなされたわけです。」  教師B「しかし、絶体を絶対と明らかに誤記したA生徒      と、それを誤りのないぜったいと表記したB生      徒とでは、明らかに優劣がつくのではないです      か。その優劣の差が1点差になって表れたので      しょう。」  教師A「B先生、絶対にそう言い切れるでしょうか。ひ      らがなで表記したB生徒も1点は減点されてい      るのですよ。ということは、出題者並びに採点      者は、問題が条件付きでなくても、試験で漢字      を使用するのは、しかも国語の試験においては      当然だ、という常識を持っているのではないで      すか。」  教師B「そんなことは当然でしょう。議論するほどのこ     とではないですよ。ひらがなで書くより漢字で      書くことに付加価値があるのですよ。従ってA      生徒のほうがB生徒より優位に立つが、誤ると      いう行為によって立場が逆転しただけのことじ      ゃないですか。そもそも、漢字で書けという条      件付きでない問題において、ひらがなで書いた      ことを減点すること自体、問題になりますよ。」  教師A「漢字で書くことに付加価値があるんでしょう。      我々は小さい頃から数えきれない漢字テストの      試練を受け漢字を覚えさせられてきた。画数の      多いいわゆる難しい漢字を覚えることに、付加      価値が与えられてきたのです。」  教師B「それはどうしてだと思われますか。」  教師A「難しいことに挑戦することが美徳であり、それ      を実行することが努力につながるからでしょ う。」  教師B「要するに、暗記することに努力を要したという      評価がなされたということですよね。A先生は      暗記することに懸念を示されていたんじゃなか      ったですか。」  教師A「暗記することに対してではなくて、どうして記      憶するのかということを問わずに盲目的に暗記      することを警戒しているのです。」  教師B「それでは、どうして漢字を覚えるのか、A先生      の見解をお示し下さい。」  教師A「日中友好のためです。」  教師B「そんなの子供騙しにもなりませんよ。社会に出      て通用するためでしょう。あなたの見解は社会      に通用しません。」  教師A「そんなことはありません。漢字は日本起源では      なく、中国文化の典型です。従軍慰安婦などの      問題で日本に対する警戒心が高まっているなか      漢字を多用することはアジアの一員であるとい      う証明につながるのです。」 教師B「A先生の見解は、難しい漢字以上に難解ですね      しかし、あなたの言われた従軍慰安婦問題は主      として韓国との間でこじれているもので、更に      アジアのなかで漢字を使用している国はごくわ      ずかですよ。」  教師A「それはそうですが、過去、わが国がアジアに対      して行ってきたことを鑑みると、中国との友好      はアジア各国との友好につながっていくのでは      ないですか。」  教師B「しかし、日本が漢字を使用しだしたのは大昔の      ことで、A先生のおっしゃってることはかなり      のこじつけです。中国のほうが日本より文化的      に上で、日本は中国の漢字使用を歴史的に日常      化してきたが、それは日本の中国に対する劣等      感の表れではないですか。」  教師A「厳密に言えばそういうことですが、実際、日本      文化に純粋性を求めること自体に無理があるわ      けです。結局、日本文化あるいは日本的と言え      るものは何かと問われたら、外来文化を受容し      折衷加工するシステムとなるのではないですか      だから、何事も程々のところで折り合いをつけ      なければならないわけです。」  教頭 「ここで、あなたがたに文化論を議論してもらっ      ても困ります。話しを本題に戻して下さい。そ      れでは面接の際の詳細を、担当のC先生に報告      してもらいましょうか。」  教師C「面接に関して、AB各生徒とも別段、変わった      様子はございませんでした。」  教師A「大体、面接も問題ではないですか。マニュアル      通りの形式的な面接など、やってもしょうがな      いんじゃないですか。」  教師B「しょうがないとは何ですか。面接は重要な選考      資料の一つになりますよ。」  教師A「だって、最近は、面接官の質問自体が、大幅に      規定化されてきているではないですか。例えば     尊敬する人物は誰かというような質問は、本人      の思想信条に関わる問題であり好ましくないな      ど、質問事項が次第に固定化されてしまってい      る。それを受けて受験者側も面接の想定問答練      習がし易くなり、質問に対する応答がほとんど      大同小異で、あらゆる点でマニュアル化してき      ており、そういう面接を儀礼的・形式的だと言      われても仕方ないんじゃないですか。また、面      接において面接官はこういう質問は控えるべき      だ、被面接者はこういう質問に対して答えるべ      きでないとか、それは限りなく抑圧的にならざ      るを得ず、結果的には自己規制をしてしまう傾      向になり全てが形骸化してしまう。それこそ言      論統制的色彩を帯びるものです。」  教頭 「堂堂巡りで決着が付きませんので、それでは校      長先生の御決裁を仰ぎたいと思いますが、よろ      しいですか。」  全教師「異議なし!」  校長 「少子化のなかで生徒数が急減し、学校経営が困      難になろうとしている現在、‘落とす’入試で      はなく、“入れる”入試が一般化しております      しかし、それに伴う質の低下も懸念されるとこ      ろで、益々、私ども教職に就く者は厳しい教育      環境に直面せざるを得なくなるでしょう。そう      いうなかで我々教師は、生徒や保護者、そして      それを取り巻く社会に対して、今後、迎合的姿      勢を余儀なくされるでしょう。さて皆さん、籤      引きで決めてはどうでしょう。」  全教師「異議なし!」拍手おこる ◆グランドにて~より高く、より速く  顧問「何言ってんだ。他人に向けられた最大の暴力が殺     人なら、自殺は自分に向ける最大の暴力じゃない か。そんなの許されることじゃない。簡単に死ぬ     なんて言うんじゃない。大切なお前の命は自分だ     けのものでないってことを忘れちゃ駄目だろ。苛     め自殺が後を断たないが、自殺する勇気があるな     ら、苛めの構造を見抜きそれを然るべきところに     ぶつけないか。我々を操りほくそ笑む者達をのさ     ばらせて、一体、何をしているのか。苛められた     経験のある者は苛める者になる。日本も欧米に苛     められ、そのトラウマから逃れるために、同朋の     亜細亜人を苛めたんだろ。」  生徒「でも、もうこれ以上、耐えられないんです。だっ     て、皆、集団で僕を殴る蹴るんです。」  顧問「いじめって何か自分達とは何か違ったものを発す     る存在を異質なものと見做し、それをターゲット     にして疎外することによって仲間意識を確認し合    うんだよね。また、均質でお互いの力関係が拮抗     していると、絶えず緊張感によるストレスに苛ま    れなければならない。それに耐えられなくて、拮     抗した力関係を自発的に壊そうとするなかで犠牲     者(スケープゴート)がつくられる。それを疎外     することによって同質同士関係の息苦しさから一     時的にでも解放されたいとする。特に日本は集団     主義で和を以て尊しとすを旨とする文化的土壌や     横並び志向の社会的背景が絡って、余計、均質的     風土におけるストレス社会を醸成しているように     思うわ。それと、昔より今のほうが均質的集団組     織になってる分、いじめが深刻化すると考えられ     るわ。昔は学校のなかで必ずガキ大将っていたよ     な。絶対的リーダーが同質集団のなかにおいて、     ある意味で異質的存在として君臨することにより     拮抗関係によるストレスが、うまくガス抜きされ     ていたともみれる。」  生徒「やっぱりリーダーって必要なんですかね。だけど    リーダーが独善的存在になってしまうと返ってい     じめを誘発してしまうこともありますね。」  顧問「リーダー的存在というのは、要するに責任者とい     うことやな。集団内にそいう責任をとる者がいな     いと、その集団はいつも落ち着かなく不安に駆ら     れてしまい、お互いぎすぎすしてストレスが高じ     てしまう。責任をとることはリーダーの必要条件     であり、その見返りとしてまわりの者はそういう     リーダーに権力を委譲するわけで、独裁者の出現     が問題になるな。田中角栄は‘政治は力、力は数     数はカネ’従って、政治はカネっていうイメージ     を払拭しきずに、結局、マスコミにいじめられた     かも知れないね。」  生徒「マスコミの問題もありますよね。学校も今や社会     的にいじめの対象として、マスコミの餌食になっ     てるんじゃないかな。やっぱ、マインドコントロ     ールには弱いんじゃないかな。特に男の子に人気     のあるバイオレンスもののゲームには問題が多い     と、この私でさえ思いますよ。ゲーセンなんかで     画面に釘付けになりただ操作レバーを長時間にわ     たり、黙々とカチカチャやっている姿はどう見て     も異常としか言えないです。」  顧問「同質集団内におけるストレスがいじめにつながっ     ているのではないかと指摘したけど、学校での集     団活動では皆と足並を揃えて行動することが何よ     りも重視されるよね。勝手な言動は厳しく諌めら     れ、常に集団全体を優優先する規律のなかで、自     ずと全体の調和を乱す者は集団内で疎外の対象と     してレッテルを貼られ煙たがられる存在になって     しまう。だから集団生活のなかでできるだけ目立    たないようにしようとしていく意思が働いて、皆     能面を被ったような個性のない傾向がつくられて     しまうよね。そういう世界で目立つことは同質集     団にとって、ウィルスのような異質物として扱わ れ、除菌される羽目になるということかな。最近     癒し(ヒーリング)という言葉をよく耳にするけど     複雑多岐になっている現代社会の人間関係のなか     で、屈折した心をいじめという歪曲化されたシャ     ーマニズムを取り入れることによって、“悪魔払     い”しているのかも知れない。」  生徒「だけど最近、個性重視の教育が何処もかしこも決     まり文句になったけどそれって一つ間違えればい     じめのターゲットにされかねないじゃないですか     とにかくそんな厄介な集団生活なんか、やっぱつ     いていけない。私は性悪説的人間観です。だから     できるだけ下らない人間関係は避けたいな。いじ     めが悪魔払いの儀式だなんて、とんでもないです     よ。私は犠牲者ですか。」  顧問「いじめの問題にしても言えることだけど、いろい     ろな意味で私達の病原菌に対する抵抗力というか     免疫力が落ちてきてるよね。生きる力と言っても     いいかな。」  生徒「先生の今、言われたことはいじめに対して耐える     力をつけよという意味ですか。そのような見方は     いじめを容認してしまう考え方にもなりかねませ     んよ。」  顧問「決して、そのようなことを言っているのではない     よ。発想の転換も必要な場合もあるよと言いたか     っただけさ。いじめをはじめ荒廃の一途を辿る最     近の学校を、学校の怪談とかいうオカルトの場に     設定し、どうしようもない学校教育の問題を暗に     揶揄しているのかな。ひょっとして、学校が社会     的にいじめられていると見れないこともないよ     な。」  生徒「先生には僕のことより、勝負のことしか頭にない     んでしょう。僕前々から勝利至上主義に疑問があ     るんです。」  顧問「生意気なこと言うんじゃないよ。そんなこと、お     前なんかに言われなくったって、百も承知だよ。   だったらお前は一体、何のために厳しい練習をや     ってるつもりなんだ。ただ、自分の健康増進のた     めとかなんぞの目的では、向上はありえないんじ     ゃないか。何をするにしても高い理想や目標があ     るからこそ、頑張ろうという気持ちにつながるん     だろう。苦しい練習がありそれを乗り越えた者に     勝利の女神が微笑むわけだろ。じゃあ聞くが、オ     リンピックは何のためにあるんだ。世界平和のた     めとかいうのはあくまで表向きの建前であって、     参加することだけに意義があるんじゃないだろ。     出場した限りは、頂点を目指して頑張ることが大     切なんじゃないか。やはり、金メダルを獲得する     ためにお互い鎬を削っていくんだろ。」  生徒「より高く、より速くと他を押し退け頂点を目指し     泣き笑い、一喜一憂しながらメダル獲得に火花を     散らすことに、どれ程の意義があるんですか。む     しろ僕はそのなかで、見失われていくものが多い     ように思われます。」  顧問「そんなことをほざくのは、負け犬の言い訳であっ     て、努力不足を棚上げする練習嫌いのお前のよう     な奴が言いそうなことさ。」  生徒「だけど最近のオリンピックでドーピング問題が深     刻になっているのは、僕の指摘している勝利至上     主義の弊害の表れではないですか。」  顧問「当然ドーピングは認められないことだが、より高     く、より速くという情動は、人間の押さえがたい     自然の発露で、むしろ人間の向上心の表れであり     健全な精神だろ」  生徒「それが歪められているのが、現在のオリンピック     の姿ではないですか。より高く、より速くという     言葉は、それこそ資本主義のキャッチフレーズに     利用されているだけじゃないですか。今、僕や先     生のやっている野球にしても、結局は都合のいい     資本主義の道具じゃないですか。甲子園を目指し     てとか言ってるけど、その先には、プロ野球への    道があって、甲子園に出るということは、プロへ     の登龍門ということでしょう。‘巨人軍は永久に     不滅です’なんて言ったりする野球選手を、ずっ     とヒーローに祭り上げるよう煽られている自分達     は、一体全体何なのか考えたことがありますか。」  顧問「資本主義の日本、いや資本主義が勝利したとまで     言われている世界のなかの日本、野球のどこがい     けないのか、はっきり言ってみろ。」  生徒「学校教育の一環という言葉をよく耳にしますが、     野球用語には併殺プレーとか盗塁とかいうように     殺す盗むなどという言葉が至る所で使用され、そ     れには何も触れず、逆に高校野球を崇高なものと     持て映やす。しかも、夏の甲子園は日本の代表的     年中行事の一つで先生方もその甲子園に振り回さ     れてきた犠牲者の一人じゃないですか。」  顧問「野球用語のなかには、犠打とかいうように、自分     を殺して相手を生かすというような、犠牲の精神     を含むものもあるじゃないか。その言葉には、現     代の日本が忘れかけてる自分達のアイデンティテ     ィーが隠されているんじゃないか。お前みたいな     自分優先の考え方が大勢を占めるようになってき     ている今だからこそ、チームワーク宜しく滅私奉     公的精神を強調する高校野球は全国的に支持され     ているんじゃないか。私も野球部顧問として、本     校のために自分の家庭を犠牲にして、今日までや     ってきたつもりだ。そのぐらいの覚悟がなくて、     どうするんだ。何かを犠牲にしないと実際得るも     のは少ないのと違うか。例え試合に勝ったとして     も、生半可な練習での勝利では心の底からの満足     感は味わえないのは当然の事だろ。」  選手「そういう覚悟とかいうのが、僕には迷惑なんです     そんな大袈裟なことを言われるから、練習が楽し     くなくなるんですよ。そもそも相手を負かし、負     かされた相手を見ながら自分は優越感に浸り、満    足する。負けて惨めな思いをしている敗者の存在     があるから、勝利の感激が沸き起こるんでしょう     「頂点に立つ」すなわち、その他大勢のなかで、     独り勝をする覇者が優位に立てるって、まさしく     独占資本主義的ですね。」  顧問「我々、人間社会における勝負システムは、お前が     言うような最初から強いものが弱いものを餌食と     して成り立つ動物界の食物連鎖とは違うものだろ     最初、弱かったものも、切磋琢磨して力を付け、     努力もせずして胡をかいてるものに取って代ると     いう、よりよい競争のなかで緊張が維持され、お     互いが活性化できる仕組みさ。言い方は悪いが、     要するに下剋上的仕組みということにもなるな。     固定化された身分差別的仕組ではなく、努力の有     無により上下関係が決まるってことさ。最終的に     は、努力をするかしないかを価値判断の基準にす     るということで、それは学問の世界と同じことじ     ゃないか。知の世界におけるオリンピック、ノー     ベル賞が。」  選手「だけどノーベル賞は国家間で金メダルの数を競い     合う程のものではないですね。やはり、肉体のオ     リンピックに比べ、ノーベル賞は競争を曖昧なか     たちにしている。それが返って偽善的じゃないか     と思えるんです。だけど結局、肉体上の世界競争     の方が、精神上の競争に比べより鮮明に優劣が付     けられる分、差別性が伴うんじゃないかな。」  顧問「で、お前は一体何が言いたいんだ。」  選手「ですから、練習も程々でもっと楽しくやりましょ     うと言いたいわけです。より高くより速くなんて     そんなの機械に任せてたらいいじゃないですか。     人間、所詮いくら頑張ってもロケットのようには     高く跳べないし、速く走れもしない。それを無理     に頑張って、機械に近付こうとしているのが現代     じゃないですか。機械化のなかで人間自体がどん     どん機械化していくのが恐いんですよ。」 顧問「お前な、SF小説の読み過ぎじゃないか。」  選手「いや、僕は三島由紀夫の小説は読みますが、彼に     も肉体と精神の一致を求めながら、結局その齟齬     に悩み苦しんだ形跡が見受けられます。彼がボデ     ィービルで肉体を鍛え上げその肉体に見合う精神     を模索し、挙句の果てに自らを腹切りへと追い込     んでいったのと同様、現代は己れの肉体をマシー     ンの如くヘンシーンさせ、限り無く無機質なもの     にしようとしている。しかし、文化防衛論を展開     し割腹で大和魂を実践化したかにみえた三島も、     その理想とした肉体は古代ギリシアの彫像群であ     り、その精神もプラトニズムの範疇から逸脱する     ものではなかったように思えるのです。」  顧問「だから、どうしたって言うんだよ。お前みたいな     頭でっかちな人間を創造したのも、要するにプラ     トニズムの結末だろ。ほとんどが猫背で腰が引け     た姿勢になって塾通いする最近の子供達の姿を見     るにつけ、心体のアンバランスというか不一致の     兆候を強く感じるよ。」  生徒「ですから、もうそろそろ、学校体育に携わる先生     方の認識も、変えたらどうかと思うんです。今の     自分の姿を尊重した体育ということです。肉体を     表象する体操の世界において、その歪みが顕著で     はないでしょうか。肉体をその個人の精神性とは     無関係なものとし、単なる技術的要素を競い合う     様相をより強くしている。その結果、アクロバテ     ィックでメカニカルな演技を志向する傾向になっ     ているように思われます。特に女子は中国雑技団     の二番煎じのように思えてなりません。」  顧問「技術を磨くことがなぜ悪い。特に、わが国は技術     大国と言われるように、米国人の力に対抗するた     めの技術を工夫してきたわけだろ。柔道など柔よ     く剛を制すと言うように、どうしようもない肉体     的ハンディを技術で克服しようとしていく。その     際に磨かれた技術には大いに精神性が込められて    いるんじゃないか。今、俺やお前の取り組んでい     る野球だって、本場アメリカのパワー野球に対し     て日本の集団主義を前提にした技術野球で勝負し     てきたのと違うか。その過程で、賛否両論あるな     かでも高校野球が多くの支持を得ながら、その歴     史が形づくられて来たんだろ。」 ◆職員室にて~自由化は荊棘の道  教頭「遅刻するとは何事ですか。弛んでます。」  教師「申し訳りません。」  教頭「あなたみたいなことをしているから、教師の質が     低下していると世間で噂されるんじゃないですか     社会人としての当たり前のマナーからなっていな     い。」  教師「教頭先生は教師の質が低下していると言われまし     たが、私達は逆に、あなた方の世代のデモシカ先     生ではなく、厳しい教員採用試験をくぐり抜けて     きたという密かな自負があります。」  教頭「一体何ですか、その口の利き方は。全く最近の教     師は話しにならん。我々の世代の教師観とは雲泥     の差がある。教師としての自覚が微塵も感じられ     ない。私は、教師の倫理観を強調して言っている     つもりです。あなた方はペーパーテストにおいて     は一応、教師の端くれとして及第点が得られたの     でしょうが、人格的に今曲がり角に来ているよう     に思われます。そういうなかで、様々な学校問題     が噴出してきているのではないですか。」  教師「そういう偏狭な教師観だから、教職員間の融和が     図れなくなり返ってぎすぎすしてしまうんじゃな     いですか。そういう雰囲気が、学校の閉塞状況を     より悪化させているようにも思えるんですが。だ     から、私は教師の質が低下しているから、教育の     自由化が必要だなんていう口車に乗って、教職員     間の競争を変に煽ったりしない方が賢明だと思う    のです。若い世代の教師ばかりに自由化論を強要     するのはおかしいんじゃないですか。大体、セク     ハラ問題などを起こしているのは、教頭先生達の     世代も例外ではないでしょう。私は、むしろ古い     世代にこそ、自由化の風が必要と思いますが。」  教頭「しかし、君みたいな年長者を年長者とも思わない     ような、モラルの欠落した若い連中を黙って見て     ろとでも言うのかね。それこそ、とんでもないこ     とになるんじゃないのかね。」  教師「だからこそ、教職などの職域では民間企業並の市     場原理を取り入れることに慎重であらねばならな     いと言いたいのですよ。教育職は完全自由化をす     べき性質のものではないのです。なぜなら、近年     一般企業が踏み切ろうとしている年功序列などの     日本的労働慣行を自由化の波に晒すことは、教頭     先生の言われた年配者に対する敬意などを軽視す     る傾向を助長することはあれ、それを回復するよ     うにはならないと考えるからです。特に我々の教     職において、そういう年功序列などは長幼の序と     いう徳目につながるもので、教育上必要不可欠な     ものでさえあると思います。さらに賃金体系を市     場原理に晒し能力給にしていくことは、その査定     に評価基準など困難な問題が起こってきて、生徒     の成績判定より面倒な作業が伴うからです。なぜ     なら仕事による労働成果は、生徒の成績結果のよ     うに短時日如実に表れるような性格ではないか     らです。特に教育職においてはその労働内容に精     神性を含む場合が多くそれを実績として評価し査     定することは非常に難しく、もしそれを実際にし     ようとするならば、生徒が卒業後、どれだけ社会     に有為な存在となっているかを追跡調査しなけれ     ばならなくなったりするわけです。また、その際     生徒が在学中には全く見られなかった様相を呈し     ている場合、果たしてそれが学校教育によるもの     か、社会教育によるものなのか、将又個人的問題    によるのか、判断できるのですか。学校教育の目     標が、試験結果などの単なる個人的成績を向上さ     せるというものではなく、あくまでも国家社会に     有為な存在の育成という理想にあるならば、教育     職における労働実績の評価査定も、その理想に見     合うものでなければならないはずです。そうする     と、教頭先生のように、毎日机の前に座ってペチ     ャクチャつまらないお小言を吐いてる暇はありま     せんよ。そんなくだらぬあなたのような教頭職こ     そ、能力給の前では話にならない最低の査定と評     価されても仕方なくなってしまうんじゃないです     か。」  教頭「話をすり替えてはいけないね。」  教師「すり替えているのは、教頭先生の方じゃないです     か。中国の社会主義市場経済じゃないですが、教     育には社会主義と資本主義の両手法がバランス良     く共存しなければならないのではないでしょうか     それが今や政治の世界と並行して、社会主義的要     素が軽視され、資本主義的観点が幅を利かせてい     るんじゃないですか。競争至上主義が跋扈するな     かで、いじめが生徒だけでなく教職員間でも切実     な問題になってきているとも言えます。例えば、     習熟度能力別クラス編成などを採用している学校     などでは、選抜クラスの担任に遣手の先生を充て     たりして、教員間の競争を煽り対立の原因にもな     りそこに自ずといじめの構造が出来上がってしま     ったりする。」  教頭「教職員間のいじめ問題とは聞き捨てならないね。     そういう見方が狭隘じゃないのかね。さっき今の     教育界には社会主義的観点が希薄になりつつある     という指摘があったけど、果たしてそうかな。義     務教育などでの評価記述が絶対評価を重視したも     のになっているのは、君の指摘とは逆のように思     えるんだが。」  教師「それは、過熱する偏差値至上原理が引き起こす資    本主義的悪弊を緩和しようとする文科省の姑息な     苦肉の策でしょう。それが、相対評価に慣らされ     曖昧な絶対評価に飽き足らない保護者の困惑に拍     車をかけ、序列が明確になる塾へわが子を戦士と     して通わせる結果になっているんじゃないです     か。」  教頭「君は案外、保守的なんだね。校則の見直しや指導     要録の開示に、君は反対だと言うのかね。」  教師「反対だと言うのではなく、全面的に賛成だとは言     えないということです。なぜなら、規制緩和など     の改革が外からの圧力で実行されているからで     す。」  教頭「はてさてどういうことかな。もっとわかりやすく     話してくれないとよくわからないな。どうも君は     よくわかる授業の実践がなされていないようだ     ね。」  教師「今、教頭先生の言われた‘よくわかる授業’の     “よくわかる”というのが、案外、曲者なんで     すよ。80年代後半、独り勝する日本経済に苛     立つ欧米が、わが国に対して不公正な貿易慣行     を改めるよう再三にわたり迫ってきましたが、     その際、日本はよくわからない国であると文化     的要素にまで苦言が及んだりしたわけです。そ     うした中、日本文化まで見直そうという傾向が     つくられてしまったのです。」  教頭「世界のなかの日本、すなわち世界あっての日本     じゃないのかね。一体、何が問題なのかね。」  教師「私は寧ろ、規制緩和や情報公開を無闇に受け入     れる方が、危なっかしく思えるんですが。教頭     先生によくわかる私にもなりたくない。なぜな     ら、教頭先生の管理上、よくわかる私になるの     は余りにも情けなく、本当の私ではなくなるか     らです。またアメリカが世界を管理する上で、     よくわかる日本になるための規制緩和や情報公     開には決して賛同するわけにはいきません。」  教頭「君の言ってることは、ナショナリストに近いよ     うな気がするんだが、君という人間こそ危なっ     かしくて、よくわからないよ。結局、校則の見     直しや指導要録の開示には賛成できないと言う     んだね。」  教師「校則の見直しに関しては、逆に厳しくしていく     必要があるのではないかとすら思えます。なぜ     なら、今の子供達は指示待ち指向が強くなるな     かで、マニュアル人間が一般的になっているわ     けです。そういう自律のできにくい他律的な彼     等に対して、規制緩和策は返って裏目に出る可     能性が高いということです。次に指導要録の開     示に賛同できない理由ですが、よくわかる授業     の実践が、生徒に合わせようと迎合するなかで     結果的に授業の質の低下を来してしまうのと同     様、開示をすることにより見せるための記述に     終始してしまい、限りなく当たり障りのない虚     構記録になる恐れがあるからです。研究授業な     どの、他人に見せる公開授業が、フィクション     を通り越して、最早“やらせ”的領域に達して     いるのを見れば推察がつくことでしょう。教頭     先生達の世代は、戦後民主主義がどうのこうの     と反体制的な考え方を主張してきたいわゆる団     塊の世代じゃないですか。そういう人達が管理     職になり、今の若い連中はなってないとか言わ     れても、無責任過ぎると思うわけです。自分達     が現在の混乱を引き起こした張本人かも知れな     いのに、ここに至っても総括すらできないなん     て、私には納得がいきません。」  教頭「かといって、君のように反動的になるのも民主     主義に反することになるんじゃないのか。時勢     に逆行して駄々をこねても仕方ないじゃない     か。」  教師「仕方ないとは何事ですか。黄門様の印篭のよう     に、民主主義って言えば皆が平伏し何でも済ま     されるわけじゃないでしょう。」  教頭「またまた問題発言だね。君は教育基本法を何と     心得ているのか。」  教師「またそういう言い方をする。その言い方がまさ     しく印篭じゃないですか。私だって教育者の端     くれ、第一条の教育の目的ぐらいは知ってます     よ。“教育は、人格の完成をめざし、…”けど     人格の完成って言うけど、“人格”とはどうい     うものなのかは知りません。」  教頭「君はそれでよく教育者の端くれなどと言えたも     のだね。」  教師「じゃあ、教頭先生の人格とは何ですか。」  教頭「そりゃあ、民主主義を尊重する人物だろ。」  教師「教頭先生は余程、民主主義がお好きなようです     が、あなただってソクラテスやイエスのように     その犠牲者になる可能性だってあるのです。」  教頭「一体どういうことかね。」  教師「衆愚による民主主義もあるからですよ。」  教頭「それは、私が身をもって、規制緩和、自由化の     教育実践をしている証拠じゃないのか。」  教師「教頭先生、履き違えないで下さい。それは、あ     なたの好きな、あなた個人に対する自己教育力     を高めるための規制緩和、自由化であるべきで     す。教頭先生も校長になりたいのなら、我々に     よくわかる管理をする方が得策で、それがあな     たの生きる道じゃないですか。」  教頭「そうすると、さっきのよくわかる授業の実践じ     ゃないが、この私に君達教職員に迎合するよう     な管理をせよと言うのかね。」  教師「そうです。今の子供達と同様に、我々教職員も     マニュアル化しているのですから、そういう今     の教職員の質に合わせた管理となると徹底した     規制であって、その逆ではないわけですよ。」  教頭「それは、結局、私に対する教職員の嫌悪感を煽     るだけじゃないか。」  教師「だけど、規制緩和策では益々混乱しかねない。     とにかく、自由化は荊棘の道ってことです     よ。」  教頭「今、校長先生が言われた‘勿体ぶる’のが、と     かく教師などの学校教育に見られるイメージで     そのイメージが教師や学校の権威を支えている     ものではないでしょうか。そして教師や学校が     ‘勿体ぶる’のは知という専門的情報を占有し、     それを自在に操作することにより可能となるわ     けです。従って、我々の存在価値もその知の有     無になってくるということで、知を求めて人は     教師のいる学校へ足を運びながら、知をめぐる     権力関係もつくられていくのではないでしょう     か。パソコンの導入は、その知をめぐる諸関係     を変えざるを得なくしていく。もはや教師は知     の占有者ではなくそれは教師の権威をも失墜さ     せるばかりではなく、皆が学校に足を運ぶ必要     がなくなるわけです。ネット社会が様々な境界     を無化させようとしている時代に突入している     今、学校の存続もその範疇からは逃れられなく     なるでしょうね。」  教師「学校も国家と同様の憂き目に遭う可能性がある     ということです。今、ボーダーレス化のなかで     国家の必要性が問われているわけで、国民も権     威の失墜した国家に対して、かつてのようにも     う拠り所を求めようとしなくなりつつあるよう     に思われます。インターネットにより国家が機     密情報を最早、占有できないことにより存立価     値を喪失しつつあるように、学校も知の独占的     所有を電脳機器の登場により切り崩されその権     威をどんどん低下させてるように見受けられる     からです。」  校長「でも、ボーダーレス化による国家的威信の減退     現象と並行して、その流れを押し止めようとす     る動きもあり、拠り所をなくし右往左往してい     る国民は、過去の国家の栄光に縋ろうとしてい     るのも事実で、学校も浮遊化する生徒にとって     は、それなりの存立価値があるんじゃないか     な。」  教頭「ただその際に、国家も学校も変容する国民や生     徒の実態に応じてその姿を変えていくのか、そ     れとも変わらない国家や学校の実態に国民や生     徒を合わさせていくのかが、今後メルクマール     となるのではないでしょうか。」  校長「私は、君の言った後者の遣り方はもう時代おく     れの観がするね。」

お父さんの秘密③

    僕のお父さんは退職後、毎日、何やってんだろ~。またまた、お父さんの机の上で寝っ転がって観察してたら、あらま~、自分のストレスを、新聞投稿欄で発散しようとしてるみたいだね~。余程、暇を持て余してると観た。だけど、面白そうな内容もあるみたいだよ。以下にそれを紹介するので、読者の皆さん、宜しかったら僕にコッソリ感想聞かせてくれるかな~

【節操なきトランプ氏を甘やかせるな2018.11.10朝日】下院で敗北を喫したかと思いきや、ロス米商務長官の解任検討が報じられた。金銭疑惑浮上で中間選挙に不利と見做しての事だろうが、自分の気に食わない閣僚を、次から次へとクビにして行く。通常の国ではこれは、正しく独裁政治の極みで、権力の私物化以外の何物でも無い。トランプだから何でも許されて良いものでも無かろう。ロス長官は対日貿易で高関税を掛け、トランプ大統領保護貿易を実行して来た人物だ。後任と目されるリンダ・マクマホン氏はプロレスラーをしていた夫の関係で、米プロレス団体WWEのCEOになり、トランプとの旧知の仲である。ビジネスマントランプにとり、プロレス興行は自身の経済界に於ける地位を確立する上でも、無視出来ぬ存在だったのだろう。夫マクマホン氏の口癖は「お前はクビだ」であり、トランプ氏もその言葉をよく使い、実際に閣僚を解任し続けて来た。そして自分にとり都合の良い娘イバンカや、その夫でユダヤ教徒のクシュナー氏を側近にし、両者の意向がこれ迄のトランプ政治に、多大な影響を及ぼして来た事も否定出来まい。そうした公私混同のトランプ氏の言動は、国際政治のリーダーとして著しくその資質に欠けるものであり、国際社会は彼をこれ以上甘やかせてはならぬ。

戌年に因み思う事2018.11.6読売】秋田県内各地で秋田犬の展示施設がオープンする中、ストレスで体調を崩す犬が出た問題で、佐竹秋田県知事は犬にも人権と同様に、犬の権利「犬権」があるとの持論を展開したそうだ。愛犬家の私も佐竹氏と同感で、氏の考え方にエールを送りたい。尤も、佐竹氏は本来、猫派だと聞いているが、多分、猫権も推奨されているに違いない。特に今年は戌年という事もあり、お犬様に持ち上げられた犬も多かったのではないか。平昌五輪女子フィギアスケート女王に輝いた、ロシアのザギトワ選手に贈られた秋田犬「マサル」も、そうした存在だろう。私も徳川五代将軍綱吉に対する認識を、180度変えさせられる程、ここ数年間というもの、愛犬に癒されているのである。最早、主客転倒で、私が愛犬のポチ的存在と成り果てている。

【大盤振る舞いする安倍外交の成果か2018.11.6朝日】米国の有権者を対象に世界7か国の首脳について国際問題に対する手腕を意識調査した結果が、5日公表された。それによると、安倍首相がマクロン仏大統領に次ぎ「信頼できる」2位となり、自国大統領よりも安倍首相の方が信頼できると、米国民が「トランプ外交」に不安を感じている実態が浮き彫りとなった。因みに「信頼できない」では、ワースト2位のトランプ氏に対し、安倍首相は7人中最も低く、トランプ氏のお目付け役を期待されている意識調査結果となった。さて先般、大統領中間選挙を目前にして、トランプ大統領はメキシコとの国境に五千人以上の軍隊を派遣し、難民流入の拒絶姿勢を強く世界にアピールした。米国以上に極右勢力が台頭化するヨーロッパ各国では、移民や難民に対してこれ迄とは違う、厳しい政策転換を迫られているのが実情だ。欧米諸国に拒絶され行き場を失った紛争避難民達の受け入れ先を、トランプ大統領ら欧米首脳陣がそれを日本に見出しているのなら、国際問題解決の仲介役として安倍首相が大いに活用されようとしているのかも知れぬ。そしてそれが、今、外国人労働者に名を変えた移民受け入れの為の、入管法改正案への動きとなっているのであろうか。

【なぜ今、外国人労働者なのか2018.11.6朝日】外国人労働者受け入れに関しては、もうかれこれ30年前から論議されて来ている。プラザ合意後の1980年代後半以降における国際化の波に飲まれる形で、日本の労働鎖国方針を改めるべきだとする声が高まる中、外国人労働者に対する意識が急浮上する。我々の住む日本は同一民族、同一言語で社会が成り立つ、世界的に見ても数少ない国の一つと言える。ボーダーレス化する世界で、今だに移民受け入れを厳しく制限拒否し続ける。しかしそれは周囲から見れば、旧態依然な鎖国政策を国是とする時代錯誤的姿だと受け取られよう。少子化で生産年齢人口が減少の一途を辿る日本は、外国人労働者受け入れ問題を抜本的に見直さなければならない時期に差し掛かっている。だが、景気が長きに渡り低迷する労働市場に於いて、日本人労働者の雇用実態は思わしくない。水増し問題で障害者雇用は尚更、深刻な状況である事が露呈した。極右勢力が台頭化する欧米諸国では、移民や難民に対してこれ迄とは違う、厳しい政策転換を迫られているのが実情だ。欧米諸国に拒絶され行き場を失った紛争避難民達が、外国人労働者に紛れて日本を目指す事も考えられよう。こうした問題も念頭に、慎重なる入管法改正案審議が求められている。

【戌の気持ちになる2018.11.5朝日】愛犬と過ごして数半が経ち、自ずと犬に話し掛ける事が多くなった。何か返事をしてくれないものかと、犬に向かって詮無い問い掛けをしたりもする。だが、そうした言葉を持たぬペットも、様々なサインを送り自分達の思いを飼い主に伝えようとしているのではないか。そのサインの受け取り方を間違えてしまえば、ペットの気持ちを逆撫でしてしまう事になる。さて、我々は動物と違い言葉を駆使する事が出来る存在だが、その声はどれだけ世の中に伝えられているだろうか。私を含め言葉を持つ人間も無理解な為政者にとっては、ペット同様の存在なのかも知れぬ。自分達の発する様々なサインが横暴な為政者達に無視され、こちらの意図せぬ方向へミスリードされてしまう事ほど、不幸な事は無い。その前に、果たして我々はあらゆる手段で、為政者側に様々なサインを送っているのだろうか。戌年の今(平成30)年、新聞投稿などを通して、自分の意思が社会に出来るだけ反映されるよう、自分なりにサインを送り続けて来たつもりではある。しかし周囲から見れば、それは単なるボヤキと受け取られがちだ。それでも懲りずに新聞投稿を続けている。命懸けで世界の矛盾を訴えようとした安田純平氏ですら、世間から真面に扱われぬのであるのだから。

安倍晋三の二人の太鼓持ち2018.11.4】片山さつきには、危うさが付き纏う。それは、閣僚に任用した安倍氏が、今一番、感じているのではないか。一つ間違えば、自身の政権基盤が揺らぎ兼ねない悪しき存在として、片山氏の口利き問題に神経を尖らせているかも知れぬ。だが、加計孝太郎の口利きをして世間を騒がせている身の上では、彼女に偉そうな口を聞けない、もどかしさがあるのだろう。西日本豪雨災害時で、大顰蹙を買った赤坂自民亭首謀者の彼女が、もしもこの先、此の国の舵取り役にでもなったが最後、どうしようもない事態が、待ち構えているであろう事は、容易に想像が付く。国会答弁での彼女の立ち居振る舞いに、全くと言って良い程、品格のヒの字も感じられないのは、果たしてこの私だけの事であろうか。安倍晋三氏に太鼓持ちの如く巣喰い、点数稼ぎに腐心した論功行賞として、大臣ポストが用意される典型が彼女の場合であり、稲田朋美氏と双璧を成す存在だ。もう一人の太鼓持ち山本一太には何言ってるんだと、ほとほと呆れるばかりだ。さも、自分は正論を吐いているよと言わんばかりの、正義ずらした物言いに、何時も辟易させられる。特に、安倍晋三氏の完全なるスポークスマンに成り下がって以降は、何処まで安倍氏を持ち上げれば気が済むのかと思わせる程の、太鼓持ち振りだ。こうも、首相の御機嫌取りに腐心する山本氏に、中傷を通り越して、憐れみすら感じさせる。昔、テレビの前で彼の政治談義に耳を傾けていた国民は、大いに裏切られた思いでいる者も多くいるのではないか。冷静沈着で誠実さを売りにしていた彼だけに、権力に魂を売り渡し、忖度三昧の政治屋稼業に、現を抜かす姿を見せ付けられる国民も、堪ったものではないだろう。

【我が子に名付けする際の親心とは2018.11.2読売】ベネッセが、2018年に生まれた赤ちゃんの名前の人気ランキングを発表した。男の子では「健」と「律」が共に急上昇したそうだ。NHKの朝ドラ「半分、青い。」の影響だろう。自分の名前は生涯に渡り付き纏うものだ。名前を付けられる子供もだが、それを付ける親も簡単には済ませられぬ一大事だ。私の名前は村田治夫だが、我々世代の者なら、その名前を聞くと一瞬、違和感を感じる筈だ。それは二人の大物歌手が閃くからだろう。私はその事をずっと不愉快に思っていたが、親は兄弟との関係で私の名付けをした訳であり、ちゃんとした意味が込められているのだ。名付けをしてくれたその時の親心を思い乍ら、自分の子供への名付けをするものではないか。さて、朝ドラのイケメン俳優の名前を子に付けた親は、如何なる意図をお持ちか。

原発再稼働ドミノに断固抗議する2018.11.2毎日】10月27日未明に再稼働した伊方原発3号機が、2日、フル稼働状態に入った。28日には営業運転に移行するとされる。私は愛媛県民の一人として、これが全国の原発再稼働に向けての狼煙とは、決して受け止めたくはない。愛媛県知事選目前の中村知事には、再稼働してしまった伊方原発の事など、最早、眼中になく、三選後の県政締め括りの準備へと、既に目は向けられている筈だ。そうした意味では、中村氏も安倍首相と同じ貉の様相を呈している。伊方原発再稼働も含め、全国的に注視された加計問題など、兎角、愛媛を震源地とする諸問題が日本を揺さ振り続ける。愛媛県民が全国に胸を張って誇らしく在り続ける為にも、四国電力を始めとする電力会社や、原子力ムラに居座り利益を得ようとする輩に対し、抗い続けなければならない。静観する中村氏もその中の一人だ。政権忖度で再稼働のパンドラの箱を開けてしまった広島高裁及び同地裁に、改めて猛抗議したい。

【三島も草葉の陰で泣いている事よ2018.11.1読売】渋谷ハロウィンの乱痴気騒ぎに、48年前、国を憂いて割腹自殺を遂げた三島由紀夫は首を傾げている事だろう。何と言う此の国の遅滞振りかと、見紛うている筈だ。彼が命を賭して訴えた「文化防衛論」を基底とする護国の精神を、斯くも無残な形に打ち砕いてくれたものよと、半分、呆れ顔をしているのかも知れぬ。嫌われぬよう優しい大衆迎合的口調のDJポリスに取って代わり、「御前等、それで良いのか。同じ日本人として恥ずかしいぞ」と厳しく諫めたであろう。群衆に紛れた匿名的仮装パフォーマンスでしか、自分の存在意義を確認するしか術のない、平成最後の若者世代の無軌道な行状を眺め、三島のハラキリパフォーマンスが全く効を奏して来なかった今の日本の姿に、愕然としているに違いない。先般、突然の自殺で世間を驚かせた西部邁も、同様だろう。

【原爆投下を国際司法裁判所に提訴した事があるのか2018.11.1毎日】安倍首相は今国会で、韓国人元徴用工への賠償を命じた韓国最高裁判決について、国際司法裁判所への提訴も辞さない考えを示した。先日、河野外相も同件に関し戦後賠償は完結しているとして、韓国政府に強い遺憾の意を顕わにした。だが、あの戦争で多大の被害を受けた側にとり、実務的損害賠償が終了したとは言え、道義的には半永久的に終わりのない、簡単に割り切れる問題ではないのだ。それは、日本が受けた、米国の終戦間際に於ける2発もの原爆投下に関して考えれば、分かる筈だ。幾ら戦敗国だから致し方なしとは言え、素直に受け留められないのが、極、普通の国民感情であろう。安倍首相が昨日、韓国人元徴用工への賠償に関し国際司法裁判所へ提訴する等と言う啖呵を切ったと言われるが、同様の事を米国の広島・長崎への原爆投下に関して、今迄一度でも良いから裁判に訴える等と言った例があるのかと、逆に問いたい。

【トランプ人気に嘗てのタケシを見る2018.11.1朝日】米大統領中間選挙まで1週間を切った。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルによると、トランプ大統領支持率が政権誕生後最高だと言う。一体全体、米国はどうしてしまったのか。敵対する人物や陣営に対し、あそこ迄、明け透けに憎悪丸出しで口角泡を飛ばす程の罵声や、相手への誹謗中傷など、彼の人権感覚は皆無かと思わせる位の酷さである。もうこうした彼の無軌道に思える程の我儘にも全世界が慣れ、何も異常とは思われなくなっている状況の方が、異常だ。こう迄して彼を持ち上げようとする、米国の置かれた政治状況は、果たしてどうなのだろうと訝しく思わざるを得ない。だが、フィリピンドゥテルテ大統領やブラジルのトランプ登場など、歯に衣着せずダーティーハリー張りの問答無用の政治手法に、大衆は反って魅力を感じ歓喜するのかも知れぬ。日本の芸能界に今も君臨する北野タケシが、その人気絶頂の頃も、視聴者は、彼の建前を嫌い、本音の風刺を込めた芸風に好感を抱き、多くの支持を与えたのではなかったか。時には弱者をも槍玉に挙げ、攻撃的姿勢のキャラクターが大いに受けた。トランプや彼に支持を与える米国民に、嘗てのタケシや彼を称賛した当時の日本人を見出せないか。

三島由紀夫は渋谷ハロウィンに憂国を見たか2018.11.1朝日】嘗て三島も、満たされぬ自意識をハラキリで昇華した。だが、昨夜の渋谷集団仮装パーティーには、単独パフォーマーの先駆者として苦言を呈するであろう。余りにも情けない若者達の匿名パフォーマンスに、「文化防衛論」者として此の国の先行きを、嘆き悲しんでいるのかも知れぬ。匿名的仮装で群衆に紛れ、遣り場のない自分達の憂さを、オチャラケで晴らすしか能が無いのかと、DJポリスに成り代わり彼独特のアジテーションで一喝した筈だ。どうせ遣るなら、現在開かれている国会前で、安倍政権への抗議メッセージでも送れとか言ったのだろうか。だが、あの馬鹿者達の有り余る程のエネルギーを、然るべき方向へ向ければ、かなりの有意な世直しに一役買えそうだが、為政者はそれを喜ばしくは思えない。半世紀前の全国を震撼させた学生運動再来の悪夢が蘇る様な事等、決して許容出来ないからだ。毎年恒例化する荒れる成人式や、渋谷での暴徒化するハロウィン程度のお騒がせが、好都合だと見做されているのだろう。三島由紀夫がセンセーショナルな割腹自殺を計り、もう直ぐ47年目を迎える。学校や職場では、鬱屈し抑圧された自意識の捌け口を、怨念を秘めた自殺に見出そうとする者が後を絶たぬ。

【学校も過激主義的指導者を必要としているのか2018.11.1朝日】ブラジルのトランプの異名を持つ極右ボルソナロ氏が、ブラジル大統領選に勝利した。世界中、何処も彼処も過激な言辞で大衆をリードする、排外的アジテーターが待望されている。第一次大戦後のアノミー状態だったドイツで、強力なリーダーシップを発揮し得る時代ヒーローとして、ヒトラーが登場した。人はどうしようもない無力感に苛まれた時、そうした状況を克服してくれる全能者的存在を要望する。また、追い込まれた状況が、その存在の善し悪しを見極める判断力や余裕すら奪ってしまうのも、過去の歴史が教示している。だが如何せん、この様な時代風潮が蔓延しているのが現在であり、学校教育現場も例外ではないだろう。森友問題で渦中の人となった籠池氏も、教育勅語を幼稚園児に奉読させ、軍隊調の学園運営に経営打開策を図ろうとしたのも、頷けなくはない。さて、この様な中で、嘗て三島由紀夫が率いた「楯の会」の如く、確信犯的教育組織が学校の名を借りて形成されて行ったとしたら、これ又、厄介な事になるだろう。只、「女王の教室」の主人公の様に、現在の学校組織に抗い乍ら、分断化された単独者として過激主義を演じるしかないのが、今の学校現場の哀しい現実なのであるのだが。

【学校教育に於ける齟齬に危機感2018.10.31朝日】教育勅語軍人勅諭を大切だと公言して憚らぬ、文科相や防衛相の登場に危機感を抱く。安倍首相の予てからの復古主義的教育観が、第四次改造内閣の閣僚メンバーの意識にも色濃く反映された証左だ。自己責任論やボランティアのオンパレードの中、個人より全体を優先重視する社会的風潮も顕著で、文科相が就任当初の発言に於いて、教育勅語の良いところは今後の道徳教育に生かすべきだと述べ、物議を醸した。さて、幼少期から個性重視の私的志向に馴染んで来た子供達は、近年、強まる復古調の教育観とは、真逆の相容れぬ存在でもある。そうした中、宮城県の工業高校1年の男子生徒(15)が、担任教諭からの厳しい指導に耐え切れず、今年8月、自宅で自殺した。父親は、「入学当初から軍隊のようなクラスだと感じていた。」と言う。このケースも、生徒の生育環境文化と昨今の学校教育に求められている公的なるものへの恭順涵養が、齟齬を来している現れとも取れよう。安田純平氏の人質救出解放後、氏への自己責任論を背景としたバッシングが喧しい。政府も安田氏の執った行為などには、都合良く勝手に為した私的問題として解釈し、無碍に扱おうとしている。こうした政府の御都合主義が、ブレ捲る学校教育の混乱を惹起する背景にある。

【過激主義的指導者輩出に危機感2018.10.29毎日】トランプ登場で、世界も来るところまで来たかと、呆れたものだった。だが大統領就任後2年が経ち、見慣れて来ればそれも普通に感じられているのが不思議だ。そしてまた、銃所持を国民に訴え人種差別的発言を繰り返し、ブラジルのトランプの異名を持つ極右ボルソナロ氏が、ブラジル大統領選に勝利した。何処まで自国第一主義が幅を利かせ、排外的アジテーションを鼓舞する人物が待望されて行くのだろうか。第一次大戦後のアノミー状態だったドイツで、強力なリーダーシップを発揮し自分達の無力さを昇華してくれる存在が待望され、ヒトラーが登場した。現在、世界的にこうしたヒトラー的存在を、リーダーとして待望する時代風潮が蔓延している。そしてそれを何とも思わなくなっている感覚鈍麻が、却って恐ろしい。戦争仕掛け人の軍需産業の思惑に乗っかる様では、この動きに歯止めは掛けられず、最悪のシナリオが待ち構える。それだけは避けなければならぬ。

【インド旅での原発迷想2018.10.25朝日】先日、インドへ一週間の旅に出たが、インフラ未整備を目の当たりにした。道路から巻き起こる土埃で、空気がスモッグの様に燻り、大気汚染が深刻な状況だった。この国の道路を始めとするインフラ整備には、今後、多大な電力を要するであろう。しかしインドでは、電気が圧倒的に不足しており、まだ電気のない生活をしている人が3億人も居ると言う。だから、原発が欠かせないとして、日本などの原発先進国から高性能の大型原子炉(軽水炉)を輸入したい。そこで日印原子力協定の運びとなる。インドは現在21基ある原発を、2032年までに10倍以上に増やしたい意向で、日本の技術にも大いなる期待をかけている。日本では伊方原発3号機再稼働など、不穏な空気が漂い掛けているが、フクシマの大惨事以降、原発推進が頓挫している現状だ。日本で出来なければ、それを海外でやり補填すればいいとする考えは、原発先進国でよくあり実行されている。米国がその典型で、スリーマイル島原発事故後、急展開した。更に、タバコでも同様な事が言える。自国では禁煙が進み、タバコ産業は海外への輸出に生き残りを見出そうとする。自国の安全は、他国の危険と隣り合わせにある事を、旅から戻り痛感しているところだ。

【特殊詐欺国家2018.10.24朝日】年寄りを騙して金をふんだくる、新手の特殊詐欺が蔓延して久しい。狙われるのは年寄りだけだと、高を括ってはいまいか。全国民も、来年10月からの消費増税や、年金受給開始年齢の引き上げで、詐欺ターゲットの例外では無いのだ。社会保障費の充実に向けてとか、何時もの体のいい件を付けての物言いに、阿保抜かせと呟いてしまう。国民を70歳まで働かせ、掻き集められた保険料が、適正に年金受給者への支給にだけ使途されていくのかも疑わしい。今迄以上に負担を強いられ、挙句の果ては年金生活に入る前に、亡くなっていたりするなんて事も、十分考えられるのだ。この様に我々から毟り取った血税を、国会でのモリカケ疑獄糾弾逃れの無意味な外遊や、お友達のトランプから強要されている老朽化した米国製高額防衛装備品購入に、湯水の如く流用するに決まっているではないか。もういい加減にしろと言わざるを得まい。我々の血税が米国軍需産業の懐に入り、彼等の利益を目論む為の世界各地の戦争の具にされるのでは、堪ったものではない。こんな馬鹿げた政治を、何時迄、許容したら気が済むのだろう。私だけは特殊詐欺なんかに騙されないと思っていたら、大間違いだ。最早この国は、特殊詐欺国家だと言っても過言ではない。

紀州ドンファンの怪死に日本を重ねる2018.10.31朝日】国民の衆目を集めていた紀州ドンファン怪死事件も、今は昔の話となった。だが愛犬家の私は、この男性が、亡くなった犬をこよなく寵愛していたという点から、この事件を忘れる事が出来ないでいる。毒殺説が本当なら、もがき苦しみ死んで逝く犬の姿だけは見たくない。生前、大金持ちの男性には、金目当てで多くの人が蠅の如く群がり、金を無心されていたのだろう。金が無ければ見向きもしないだろう人の心の厭らしさを、永年見せ付けられて来た男性は、大金はあってもいつも孤独感に苛まれていたのだろうか。そうした中、唯一、損得なく自分に懐いてくれる無垢な愛犬の姿に、癒されていたのではないか。また、この男性の人生や死に様に、金だけで存在価値を見出される此の国の現実や、何事も金で解決しようとする安倍政権の日本とが重なり、遣る瀬無い思いになった。先般の北朝鮮を巡るアジア外交では、完全に蚊帳の外に置かれ、日本の切り札は金次第の様相を呈した。此の国の存在意義は、所詮、金だけで、無垢な心を持つ愛犬の如き隣人はいないのかと、哀しくなったものだ。否それどころか日本自体が、某国の愛犬ポチに成り下がっているではないか。この男性の死に様を通して、毒殺されでもする様な日本の将来が透けて見えた。

万引き家族ならぬ万引き国家2018/10/31朝日】先般、是枝監督の「万引き家族」が、カンヌ映画祭でパルムード賞を受賞した。この受賞を政府は喜ばず、音沙汰無しの構えだったが、世論に押されやっと前文科相祝意を示した。だが、是枝監督に拒否され、政府の面子は潰された。この映画は、風刺を込めて現在の日本経済を暗に批判した内容となっている。それをフランスカンヌという海外が認めた事で、安倍首相の立場は無くなった。安倍長期政権下、大多数の国民は経済回復の実感が得られず、諸種の保険料負担や介護・医療費の自己負担増加の押し付けなどに喘いでいる。その反面、アホノミクスで優遇措置を施された、ひと握りの者だけが豊かさを享受できる。こうした十年余りの間に3万人規模の自殺者が毎年出 て、孤独死や餓死が他人事ではない事態となっている。一方で、特別会計を打出の小槌として利用し、何百兆円もの血税がバラマキ外交で湯水の如く浪費され、国民に対し政府は、慢性的財政赤字なので節約をと嘯き、消費増税を課す。これは最早、税金を掠め取る「万引き国家」そのものではないか。その万引き国家日本を脅し、カツアゲするのが、恐喝国家の某国で、カツアゲされた日本人の血税は、その国が目論む世界支配の為の兵器に様変わりする。

【老境のスター歌手にエール2018/10/30朝日】日・英を代表する嘗てのポップスター歌手が、70代となってもその存在を誇示している。一人は世界的レジェンドグループビートルズポール・マッカートニーであり、もう一人はその影響を受け、日本のグループサウンドの草分け的存在となった、ジュリーこと沢田研二だ。私は後者の沢田研二に、最近、注目している。彼の現在の風体は、嘗ての女性ファンからすると裏切り行為に思える程の、変貌ぶりだ。中年太りのその姿に、多くのファンはこれ迄抱き続けて来た、スターとしての輝かしいイメージを打ち壊された感が強くするだろう。だが、そんな姿を隠そうともせず逆に曝け出し、老いの自然体を見せ付けてくれるジュリーに、イイね!とエールを送りたくなるのだ。 特に、近年における沢田の政治的メッセージを顕にしたステージスタイルに、共感を覚える。不埒な安倍独裁政治や9条壊憲などについて、音楽活動を通し自身の意思表示を歯に衣着せず物申している姿に、元気付けられている。彼もそうする事で、若き日の自分とは程遠い醜い姿の抗えぬ晩節を、昇華しているのではないだろうか。私も、還暦を過ぎ未だ間もない。勝手に老け込んではいられない。さて、晩節をどう汚そうか。

【先生と呼ばれる者達が巣食う集団に、明日はない2018/10/30朝日】過去5年間に教員と看護師が精神疾患となったケースを調べた、2018年版「過労死白書」が示された。保護者や患者など業務上の関係者とのトラブルが、それぞれ疾患の原因の半数近くを占め、教育・医療現場における労働環境の厳しさが改めて確認された。私は昨年、学校教師を退職したが、今も後遺症的な症状が残存し、家から出るのが億劫で、所謂、 引き籠り状態が続いている。本来、内気な性格の私は、何十年間も学校という上辺を装う仮面社会の中で、本音と建て前を使い分け二重人格的性向を余儀なくされ、かなりの精神的ダメージを受け続けて来た。どんな職場にも少なからず私の様な齟齬を感じ、現実と理想の狭間で様々な人間関係を構築しているのだろう。兎角、先生と呼ばれる者達が形成する組織集団は、事勿れ主義を前提とする隠蔽的体質が通常化している。だから陰湿な諸問題が後を絶たず、理想を抱いて職場に赴いた若い先生達は、理想とは掛け離れた現実世界に打ちひしがれ精神を病んでしまうのだ。それに追い打ちを掛けるのが、地域社会の現代教師への冷ややかな眼差しである。古き良き時代の教師は尊敬の眼差しで見守られ、それに胡 坐をかけていた。だが今は違う。最早、信頼を前提とする筈の学校教育では、有り得ぬのだ。

【社会から虐められる学校に、夢など語れようか2018.10.30朝日】「過労死白書」(2018年版)が示されたが、教育・医療現場の厳しい労働環境が改めて確認された。今年は、過去5年間に教員と看護師が精神疾患となったケースを調べ、保護者や患者など「業務上の関係者」とのトラブルが、それぞれ疾患の原因の半数近くを占めていることが明らとなった。私は2年前迄、学校現場に在職し、そうしたトラブルを何度も目の当たりにして来た者の一人だ。本来、内気な性格の私は、数十年間も生徒・保護者・地域からの冷ややかな視線に晒され続け、かなりの精神的ダメージを受けて来た。よく定年迄持ち堪えられたものだと、退職後、ふと思ったりする事もある。少なからず後遺症的な症状が今でも残存し、家から出るのが億劫で、所謂、引き籠り状態が続いている。そんな私を気遣い、周囲の親しい者達が外へ引っ張り出してくれたりしている。生徒の苛めやそれによる自殺者が後を絶たないが、教師への社会的苛めも深刻度を増しているように思われる。尊敬の眼差しで見守られ、それに胡坐をかけていた古き良き時代の教師は、遠い過去の遺物となってしまった。苦しい立場を話し合い分かち合える筈の教師同士が分断化され、孤独で物言えぬ存在と成り果てている。政治と同様、信なくば学校教育は成り立たぬ。

【米国内銃規制は等閑で、空港等はテロ対策厳しくの矛盾2018/10/29朝日】米ピッツバーグシナゴーグユダヤ教礼拝所)で、銃撃事件があり11人が死亡した。容疑者の男は礼拝中に押し入って「すべてのユダヤ人は死ね」と叫びながら、殺傷力の高い半自動小銃を乱射したという。トランプ大統領の度重なる排外主義的ヘイトスピーチが、ブーメランの如く随所で嵐を巻き起こさせている。9.11以降、空港等の厳しい手荷物検査やボディーチェックは最早、当たり前となった。金属探知機に引っ掛からない様にベルト迄外し、異様な程の自主規制に心掛ける。爆発物などの危険物持ち込みテロ対策に、これ程、神経質になっているのに、何と言う馬鹿げた矛盾の国なんだろう。米国の銃所持に至る歴史文化が背景にあるとか、全米ライフル協会の政治力が無視できないなどと、 御託を並べられる。米国民の数の何倍もの銃が国内至る所、合法的に散在しているのだから、銃犯罪は必然の帰結となる。この便法で核独占も合理化され、先般、INFからの脱退宣言もなされてしまった。人命がこれ程迄に軽んぜられ、虫けらの如く踏み潰されても平然としている国が、何処にあろうか。この国が世界をリードしている事が、狂気の現代世界を証左するものである。

【烏滸がましい安倍氏の中印橋渡し役2018/10/28朝日】安倍首相が最近怪しい動きをしている。先日、中国習近平と笑顔で会談し、これ迄悪化の一途を辿っていたかに見えた日中関係改善を猛アピールした。そして矢継ぎ早に今度は、インドのモディ首相を山梨県鳴沢村の自身の別荘に招き、自身が掲げる「自由で開かれたインド太平洋戦略」での連携強化について会談した。安倍首相が外国要人を別荘に招くのは初めての異例で、ここに来て、日本が中国・インド両国と接近しようとしている姿が気になる。中国とインドは仲違いしている関係だ。その両者に割って入り、関係改善に向け仲介役を担おうとしているのか。差乍ら、米朝間の親善キューピット役を買って出た韓国ノムヒョン大統領を彷彿とさせる。北朝鮮を巡るアジア外 交で、蚊帳の外に置かれていた安倍首相の、汚名挽回作戦が展開しているかの如く、昨今の安倍氏の立ち回りには、そんな思惑が見て取れる。それとインドモディ首相との膝詰め談議では、日本の原発軽水炉技術の輸出入について、しっかりと話し合われたのではないかと推察する。先日、旅したインドの平和な自然が、取り返しのつかない姿へと変貌するのも、そう遠くはないだろう。シバ神の怒りに触れなければ良いのだが。

【加藤厚労相に物申す2018/10/28朝日】厚労省は、60歳を超えても働き続ける人が増えている実情を踏まえ、掛け金を払い込める期間を延長し、老後の備えを手厚くするのが狙いだとして、公的年金に上乗せする確定拠出年金について、原則60歳までの加入期間を65歳まで延長すると言い出した。特殊詐欺紛いの年金詐取計画に、もういい加減にしろと言いたくもなる。私はそんな詐欺には騙されないぞとばかりに、退職後、無職を通している。更には、障害者雇用水増し問題で、42年間も水増しを放置し乍ら、厚労省所管の独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構」は、違反企業から徴収した1人当たり月5万円の罰則金を右から左に流すだけで、厚労省からの高級官僚天下り役員の高額報酬に充当して いたのだ。とんでもない特殊詐欺行為が、何十年もの間、悠然と行われていたとは、亡国の厚労省の最高責任者として、加藤厚労相はけじめを付けるべきであり、辞任するに値する問題である。因みに、障害者の法定雇用率が達成できないと、不足1人当たり月額5万円の納付金の徴収で、昨年度は4万5471社から計295億円が徴収されたという。これをボッタクリ詐欺と言わずして、何と言えば良いのだろう。

【今年の流行語は、カモンベイビー「U.S.A.」がイイね!? 2018/10/27朝日】流行語大賞が噂される時季となった。「そだね~」あたりが最右翼みたいだが、私は「U.S.A.」派だ。楽曲名が流行語とは、そんなのありかと思えるが、この曲のサビ「カモンベイビーアメリカン」のフレーズがやけに耳につく。カモンベイビーは普通、子供扱いする時に使われる俗語だ。今年は日本が、否、安倍晋三氏が、米国トランプ政権に何度も子供扱いされ、正しく「カモンベイビーシンゾー」とばかりに、米国の要求を呑まされ続けた。トランプ大統領初来日の際には、陸上イージス・アショアを始めとする老朽化した高額米国製防衛装備品購入を口約束され、オマケに娘イバンカ基金への賛助金迄か鴨られようとは、正しく「鴨ンニッポン」だった。更には、トランプ 氏の最大 政治献金者である、ユダヤ人カジノホテル経営者の日本進出の口利きを、大統領から引き受けさせられていた事も判明し、以前からその関連疑惑が指摘されていたIR法成立の背景が明らかになった。さて、流行語にもなっている「U.S.A.」のサビ部分「カモンベイビーアメリカ」と、安倍政権はこれ迄、言った例があるのだろうか。トランプから「ヘイ、シンゾー」と体良くあしらわれるだけで、日本国民の血税をトランプビジネスに流用されるのでは困る。

【安田氏自己責任論を、苛め自殺者に対し言えますか2018/10/27朝日】解放された安田氏へのバッシングが高まっている。死線を超えた強者は、そんな他愛もない戯言に動ずる訳は無いだろう。何も動こうとはしない政府外務省の度重なる制止も聞かず、敢えて自らの意思で危険な紛争地域に赴いたのは自殺行為だと非難する。だが、そう言う人達は、学校や職場で苛めやパワハラ等で自殺した者に、自己責任論を主張出来るのだろうか。両者とも無謀な行為には違いないのだ。前者は死の危険をも顧みず世界を糾さんと行動に走り、後者は自身の弱さに感け、現実世界からの逃避や個人的怨念のあてつけの遣り場としての選択肢とする。どうして、後者がバッシングを受ける事なく、それに対して前者は否定的見解を被らなければならぬのか。これこそが理不尽 で不条理な、世間の見做す道理と言うものではないか。安倍政権はこれ迄50兆円を越えるバラマキ外交を国民に承認も得ずして遣らかしておき乍ら、邦人救出の3億円は出し渋るとは、一体どういう了見なのか。故後藤健二氏や安田純平氏らは、世間からの非道な中傷や苛めを幾ら受けても、自殺する様な軟な者とは違い、決して無駄死になどせぬ覚悟で現場取材に全力を傾けており、政府の様に厄介者扱いする存在では無い。

【インド旅行での迷想2018/10/26朝日】先日、インドへ一週間の旅に出たが、インフラ未整備を目の当たりにした。道路から巻き起こる土埃で、空気がスモッグの様に燻り、大気汚染が深刻な状況だった。この国の道路を始めとするインフラ整備には、今後、多大な電力を要するであろう。しかしインドでは、電気が圧倒的に不足しており、まだ電気のない生活をしている人が3億人も居ると言う。だから、原発が欠かせないとして、日本などの原発先進国から高性能の大型原子炉(軽水炉)を輸入したい。そこで日印原子力協定の運びとなる。インドは現在21基ある原発を、2032年までに10倍以上に増やしたい意向で、日本の技術にも大いなる期待をかけている。日本では伊方原発3号機再稼働など、不穏な空気が漂い掛けているが、 フクシマの大惨事以降、原発推進が頓挫している現状だ。日本で出来なければ、それを海外でやり補填すればいいとする考えは、原発先進国でよくあり実行されている。米国がその典型で、スリーマイル島原発事故後、急展開した。更に、タバコでも同様な事が言える。自国では禁煙が進み、タバコ産業は海外への輸出に生き残りを見出そうとする。自国の安全は、他国の危険と隣り合わせにある事を、旅から戻り痛感しているところだ。

【バラマキ外交の決算報告を示せ】安倍首相はトランプ大統領に、何処迄、大盤振る舞いすれば気が済むのか。モリカケ問題などで地に落ちた政権の汚名挽回や、野党からの集中砲火を嫌って国会審議逃避の為の外遊を繰り返す。外交には自信の程を示し自慢気な素振で国民からの信頼回復を得ようとするが、どれ程の血税がこれまで流用されて来た事だろう。安倍首相には官房機密費を含め、不分明にされている公金支出を、国民に詳らかに公表する責務がある。どの組織に於いても、年度内の会計監査は公表し確認されるが、官邸外交に使途される公金に関しても、予備費などと言う曖昧なる括りで、好き勝手な使い方を許容するのではなく、詳細で厳密且つ公正な監査が必要不可欠ではないか。そうでなければ、外交の意味がなくなり、金でどんな失政も済ませられる無軌道政治に、益々、拍車が掛かるだけだ。

【負け続けてばかりでいいのかな2018.10.26読売】小中学校で不登校の児童生徒は過去最多の約14万人を超えた。子供や保護者に、無理に学校に行く必要はないという意識も、市民権を得つつある。いじめの数は分かっているだけで約41万人に上る。両者の数は相関関係になっている筈だ。だが、こんな学校になってしまったのは、個の弱さに目を背け、弱さに胡坐を組み居直る側からの糾弾を畏怖する社会や、そうした社会の風潮に異議を唱えようとせず体制に身を隠す世間に、その背景の一端があるのではないだろうか。難しい事には拘らず事勿れ主義でバッシングを避けて、見て見ぬ振りをするのが得策だと、殆どの者が変に悟りを開いてしまっていないか。そしてそれが、平和憲法を嘯き続け姑息な生き方を身に付けて来た、戦後日本の生き様に正しく収斂され、延いては個の弱さに反映し、綺麗事で済まそうとする学校社会で、反動的に露見されている様に思えてならない。

 

 

憲法と沖縄】 国家の精神を標榜する憲法が不健全であれば、社会は次第に内部から蝕まれていく。日本国憲法は、その成立過程に不透明性を宿していた。すなわち、第二次大戦直後における、米国による対ソ封じ込め戦略の一環を担わされたということである。第一条を反共の具とし、それに異議をはさもうとした陣営を第九条の第一項で懐柔した。第一条の副産物的条文となる第九条も、更にその第二項書き出しの但し書きにより武装化が可能となる解釈の絡繰が用意され、朝鮮戦争後における米国の対日政策転換すなわち、わが国への再軍備自衛隊創設)要求に利用されるものとなった。このような憲法にまつわる諸問題が、戦後の節操なき日本社会を現出させたと言っても過言ではない。様々な欺瞞を黙認あるいは利用しながら、ふしだらな状況が露呈されてきている。また、こうしたなかで保守・革新ともにその性格を自ずと歪曲せざるを得ないのである。 自民党を一とする保守陣営は、第一条及び第九条を中心とする改憲すなわち自主憲法制定を声高に叫びながら、その実、現憲法を押し付けたと見做す米国に対しこの半世紀の間日米安保体制下、自国の領土である沖縄に後方基地を設けさせ、しかもそればかりか思いやるような屈辱的従属姿勢をとり続けてきた。それで果たして、自主独立自尊を主張することができるのであろうか。また、共産党を一とする革新陣営は、日米安保体制(条約)を廃棄すべしと嫌米姿勢をとり続けながら、第二次大戦直後における米国の対ソ戦略の影響下に晒された憲法の擁護を標榜してきた。自らの主義主張と相容れないはずの第一条前段との矛盾から目をそらし、正義の味方を嘯くような護憲では、どのように講釈を垂れてもそれは子供騙しにしかすぎないのではないか。このように、両陣営はそれぞれアイデンティティーの矛盾に苛まれながらお互い鬩ぎあいをしてきたのである。 

 冷戦後におけるアメリカは、世界で唯一の超大国として君臨し一極支配するためのシナリオづくりに懸命である。そのシナリオにより軍産複合体を基盤とする儲かるシステムが実現されるからである。冷戦時代には悪の超大国ソ連が存在してくれたおかげで、儲かるシステムは左団扇でありえたが、ソ連邦崩壊により新たな仮想敵対象及び世界秩序を次々と打ち出していかなければならなくなった。湾岸戦争及びイラク戦争イラク、核疑惑の北朝鮮覇権主義の中国と、冷戦後における軍産複合体の巻き返し戦略に世界が振り回されているのであり、わが国もその渦中から逃れられずに巻き込まれてしまうのである。かつての日米安保再定義にしても、沖縄での米軍兵士少女暴行事件をきっかけに日米安保見直しの気運が高まりかけたにもかかわらず、日米安保強化という日米双方における軍産複合体の目論み通りの結末に至ってしまった。そもそもなぜ米国との軍事同盟が存在し、沖縄に米軍基地がかなりの割合で今も在り続け、挙げ句の果てに米軍駐留兵士による愚劣極まりない横暴を余儀なくされ続けるのか。それは要するに、米国による「覇権主義」を容認(黙認)しているからに他ならない。動物の世界では縄張りをめぐる争いは常であり、その縄張りを侵されないようマーキング行為に余念がない。人間世界も同様で、歴史のなかで唾の付けあいをし続けてきた。敗者は勝者の縄張りのなかで細々と余生を送りながら、勝者による様々ないじめを覚悟せねばならぬ。勝者はまたその敗者いじめを示威行為としても利用し、縄張り(覇権)を全体に誇示するのである。そうして勝者は自分に取って代わろうとするものがないように、絶えずマーキング行為に励まなければならないのである。日本は幕末明治以降、米欧列強のいじめに恐れおののきながら、生き残り策を模索してきた。そして、脱亜入欧論や大東亜共栄圏構想を展開するなかで、いじめの合理化をはかり、結局その呪縛から逃れられなくなり自滅への坂道を転がり落ちるしかなかった。今またいじめられる側にも問題があると言わんばかりに、いじめられない「普通の国」を目指そうという声が高まりつつある。弱小異質に徹し(成り)切れず曖昧なままいじめる側に取り込まれるのでは、正しく猪突猛進的な自殺行為でしかない。いじめの構造を見抜き、いじめる側に加担しないだけでなく、いじめられる側を擁護できるのが「普通の国」であるはずだ。ソ連邦亡き後、米国はマーキング行為に余念がない。縄張り争いに敗けたソ連が自暴自棄になっていた90年代初頭、米国は世界制覇に向けて歩み出した。イラクフセイン)いじめを手始めに制覇への地歩を固めつつある。そして今、制覇に異を唱えられる実力を有する存在は中国であろう。中国は経済面で資本主義化したが、政治面は依然と