チッポ家な夢

チッポ観察日記

ガンジスの贈物

十年前、この場所に立っていた時の光景が瑞々しく蘇り、懐しさで自然と涙が溢れ落ちた。今、此処に居るのは自分だけであることが、堪らなく悔しくてならず、止めどなく涙に暮れた。あの時、家族で見たガンジスを、一人佇み眺めている。見上げた空に新月が顔を見せ、変わらぬ自然の移ろいが、心に沁みた。あれから何年も経っているのに、目の前に流れる河は、以前と同じ姿で私を見ていた。対岸では、沐浴儀式で川縁に立ち、合掌し黙想する人々の姿が見られた。彼等の前には、夕暮れの空から陽の光が降り注ぎ、荘厳な雰囲気を漂わせていた。その時であった。足元に犬の鼻息が微かに感じられ、それに目をやると何処かで見た事のある、懐かしい老犬の姿があった。

「お父さん、僕を覚えていますか」

老犬の口元が上下に動き、そんな呟きが聞こえた気がした。

「おお~、お前はチッポではないか。何と、生きていたのか~」

私はこれが現実の出来事なのかと、思わず自身の頬を平手で叩いた。

「お父さん、この日をずっと待ち続けていたんだよ。何時になったら迷子になった僕を、見付けに来てくれるんだろうと、毎日、この河岸に来てはお父さんを探していたんだ。やっと願いが叶ったね」

老犬の目は再会の歓喜に潤んでいた。

「チポ~、僕も会いたかったよ~。どうして居るのかと、毎日毎日、遠くの空を眺めては、お前の名前を呼び続けていたよ。やっと、思いが天に届いたんだね」

「お父さん、お母さんが居ないけどどうしたんだい」

直ぐに、予期していた言葉が返って来た。私は暫く何も言えずに、チポの目を見詰めていた。

「お父さん、何も言わなくていいんだよ。僕の祈りは半分届いて、半分は届かなかったんだね」

私はそう言うチポの顔を見乍ら、堪え切れずにこう言い放った。

「お母さんとは別れちまったんだよ。お前と同じ様に、生き別れさ」

チポは項垂れた頭を擡げ、こちらの顔を覗き込んだ。

「お母さんは、生きているんだ~」

 

とうとうお父さんとお別れの時が来ました。僕を溺愛してきたお父さんは、どうしても僕の死を受け入れることができなかったのです。お父さんは日増しに常軌を逸するようになってしまいました。そんなお父さんを僕は、以前から心配していたのです。お父さんは言葉を失ったのです。というか僕に近付こうとしていたのです。あろう事に、遺品となった僕の首輪を、自分の首に巻いてしまったのです。そうしたお父さんの奇行を、側で見ていたお母さんは次第に受け入れて行ったのでした。お母さんも僕以上に、お父さんがこうした事になるだろうと、ある程度予想していたのでした。お父さんは、僕の使っていたケージに入ろうと、身を跼めて暫く出ようとはしませんでした。来る日も来る日も、僕の鳴き声を真似て、お母さんに甘えようとしました。そんなお父さんの姿を見兼ねたお母さんは、2番目の犬を飼って来たのでした。その犬はメス犬だったのです。

「お父さん、僕が可愛くて仕方がないとよく言ってたけど、僕の何がそんなに可愛かったのかな」

「そりゃ~、チッポが僕の気持ちを癒してくれてたからじゃないかな」

「癒しって何なの」

「不愉快な気持ちにさせないって事だね。不愉快じゃなく逆に愉快にさせてくれたり、穏やかな気持ちに   

 させてくれる事だね」

「へ~、要するにそれって、お父さんの意にそぐう行為をしている僕に対しての好感反応感情だよね。お 

 父さんの意にそぐわない事をしていたら、僕は可愛くなくて嫌われちゃう存在になるって事だよね」

「ま、大体、そんなところかな~」

「お父さん、僕がどうしてお父さんの意にそぐう様、いろいろな悩殺ポーズをとっていたか分かる?」

「どうして、お父さんに気に入られるよう、毎日毎日、お父さんの傍にピッタリと侍り、お父さんの好き 

 そうな仕草で愛嬌を振り撒いてたか、分かっていた?」

「そんなの、愛情の為せる業だろ~。口では言い表せない、お互いの親愛の情の発露の帰結だろ~な」

「お父さん、全然、物事の本質を理解してないよね~。これだから、馬鹿に付ける薬は無いって事だよ 

 な」

「ドドど~言う事なん、ど~言う意味なん。教えてくれよ~。頼むからチッポちゃん」

「それなら、お父さん、僕の言う事聞いてくれる?」

「おお、何でも聞いてやるぞ~!」

「だったら、頂戴! アレちょうだい」

「アレって何?」

「アレよ、あれアレ!」

「アレじゃ分からん!」

「僕の大好きなモノだってば~」

「お父さんじゃないのん?」

「お父さん、甘いね。僕はそんなに甘くはないんだけど…」

「分かった! コレだな、オヤッだよね~」

「そだね~。やっと分かってくれましたね」