チッポ家な夢

チッポ観察日記

お父さんの秘密③

    僕のお父さんは退職後、毎日、何やってんだろ~。またまた、お父さんの机の上で寝っ転がって観察してたら、あらま~、自分のストレスを、新聞投稿欄で発散しようとしてるみたいだね~。余程、暇を持て余してると観た。だけど、面白そうな内容もあるみたいだよ。以下にそれを紹介するので、読者の皆さん、宜しかったら僕にコッソリ感想聞かせてくれるかな~

【節操なきトランプ氏を甘やかせるな2018.11.10朝日】下院で敗北を喫したかと思いきや、ロス米商務長官の解任検討が報じられた。金銭疑惑浮上で中間選挙に不利と見做しての事だろうが、自分の気に食わない閣僚を、次から次へとクビにして行く。通常の国ではこれは、正しく独裁政治の極みで、権力の私物化以外の何物でも無い。トランプだから何でも許されて良いものでも無かろう。ロス長官は対日貿易で高関税を掛け、トランプ大統領保護貿易を実行して来た人物だ。後任と目されるリンダ・マクマホン氏はプロレスラーをしていた夫の関係で、米プロレス団体WWEのCEOになり、トランプとの旧知の仲である。ビジネスマントランプにとり、プロレス興行は自身の経済界に於ける地位を確立する上でも、無視出来ぬ存在だったのだろう。夫マクマホン氏の口癖は「お前はクビだ」であり、トランプ氏もその言葉をよく使い、実際に閣僚を解任し続けて来た。そして自分にとり都合の良い娘イバンカや、その夫でユダヤ教徒のクシュナー氏を側近にし、両者の意向がこれ迄のトランプ政治に、多大な影響を及ぼして来た事も否定出来まい。そうした公私混同のトランプ氏の言動は、国際政治のリーダーとして著しくその資質に欠けるものであり、国際社会は彼をこれ以上甘やかせてはならぬ。

戌年に因み思う事2018.11.6読売】秋田県内各地で秋田犬の展示施設がオープンする中、ストレスで体調を崩す犬が出た問題で、佐竹秋田県知事は犬にも人権と同様に、犬の権利「犬権」があるとの持論を展開したそうだ。愛犬家の私も佐竹氏と同感で、氏の考え方にエールを送りたい。尤も、佐竹氏は本来、猫派だと聞いているが、多分、猫権も推奨されているに違いない。特に今年は戌年という事もあり、お犬様に持ち上げられた犬も多かったのではないか。平昌五輪女子フィギアスケート女王に輝いた、ロシアのザギトワ選手に贈られた秋田犬「マサル」も、そうした存在だろう。私も徳川五代将軍綱吉に対する認識を、180度変えさせられる程、ここ数年間というもの、愛犬に癒されているのである。最早、主客転倒で、私が愛犬のポチ的存在と成り果てている。

【大盤振る舞いする安倍外交の成果か2018.11.6朝日】米国の有権者を対象に世界7か国の首脳について国際問題に対する手腕を意識調査した結果が、5日公表された。それによると、安倍首相がマクロン仏大統領に次ぎ「信頼できる」2位となり、自国大統領よりも安倍首相の方が信頼できると、米国民が「トランプ外交」に不安を感じている実態が浮き彫りとなった。因みに「信頼できない」では、ワースト2位のトランプ氏に対し、安倍首相は7人中最も低く、トランプ氏のお目付け役を期待されている意識調査結果となった。さて先般、大統領中間選挙を目前にして、トランプ大統領はメキシコとの国境に五千人以上の軍隊を派遣し、難民流入の拒絶姿勢を強く世界にアピールした。米国以上に極右勢力が台頭化するヨーロッパ各国では、移民や難民に対してこれ迄とは違う、厳しい政策転換を迫られているのが実情だ。欧米諸国に拒絶され行き場を失った紛争避難民達の受け入れ先を、トランプ大統領ら欧米首脳陣がそれを日本に見出しているのなら、国際問題解決の仲介役として安倍首相が大いに活用されようとしているのかも知れぬ。そしてそれが、今、外国人労働者に名を変えた移民受け入れの為の、入管法改正案への動きとなっているのであろうか。

【なぜ今、外国人労働者なのか2018.11.6朝日】外国人労働者受け入れに関しては、もうかれこれ30年前から論議されて来ている。プラザ合意後の1980年代後半以降における国際化の波に飲まれる形で、日本の労働鎖国方針を改めるべきだとする声が高まる中、外国人労働者に対する意識が急浮上する。我々の住む日本は同一民族、同一言語で社会が成り立つ、世界的に見ても数少ない国の一つと言える。ボーダーレス化する世界で、今だに移民受け入れを厳しく制限拒否し続ける。しかしそれは周囲から見れば、旧態依然な鎖国政策を国是とする時代錯誤的姿だと受け取られよう。少子化で生産年齢人口が減少の一途を辿る日本は、外国人労働者受け入れ問題を抜本的に見直さなければならない時期に差し掛かっている。だが、景気が長きに渡り低迷する労働市場に於いて、日本人労働者の雇用実態は思わしくない。水増し問題で障害者雇用は尚更、深刻な状況である事が露呈した。極右勢力が台頭化する欧米諸国では、移民や難民に対してこれ迄とは違う、厳しい政策転換を迫られているのが実情だ。欧米諸国に拒絶され行き場を失った紛争避難民達が、外国人労働者に紛れて日本を目指す事も考えられよう。こうした問題も念頭に、慎重なる入管法改正案審議が求められている。

【戌の気持ちになる2018.11.5朝日】愛犬と過ごして数半が経ち、自ずと犬に話し掛ける事が多くなった。何か返事をしてくれないものかと、犬に向かって詮無い問い掛けをしたりもする。だが、そうした言葉を持たぬペットも、様々なサインを送り自分達の思いを飼い主に伝えようとしているのではないか。そのサインの受け取り方を間違えてしまえば、ペットの気持ちを逆撫でしてしまう事になる。さて、我々は動物と違い言葉を駆使する事が出来る存在だが、その声はどれだけ世の中に伝えられているだろうか。私を含め言葉を持つ人間も無理解な為政者にとっては、ペット同様の存在なのかも知れぬ。自分達の発する様々なサインが横暴な為政者達に無視され、こちらの意図せぬ方向へミスリードされてしまう事ほど、不幸な事は無い。その前に、果たして我々はあらゆる手段で、為政者側に様々なサインを送っているのだろうか。戌年の今(平成30)年、新聞投稿などを通して、自分の意思が社会に出来るだけ反映されるよう、自分なりにサインを送り続けて来たつもりではある。しかし周囲から見れば、それは単なるボヤキと受け取られがちだ。それでも懲りずに新聞投稿を続けている。命懸けで世界の矛盾を訴えようとした安田純平氏ですら、世間から真面に扱われぬのであるのだから。

安倍晋三の二人の太鼓持ち2018.11.4】片山さつきには、危うさが付き纏う。それは、閣僚に任用した安倍氏が、今一番、感じているのではないか。一つ間違えば、自身の政権基盤が揺らぎ兼ねない悪しき存在として、片山氏の口利き問題に神経を尖らせているかも知れぬ。だが、加計孝太郎の口利きをして世間を騒がせている身の上では、彼女に偉そうな口を聞けない、もどかしさがあるのだろう。西日本豪雨災害時で、大顰蹙を買った赤坂自民亭首謀者の彼女が、もしもこの先、此の国の舵取り役にでもなったが最後、どうしようもない事態が、待ち構えているであろう事は、容易に想像が付く。国会答弁での彼女の立ち居振る舞いに、全くと言って良い程、品格のヒの字も感じられないのは、果たしてこの私だけの事であろうか。安倍晋三氏に太鼓持ちの如く巣喰い、点数稼ぎに腐心した論功行賞として、大臣ポストが用意される典型が彼女の場合であり、稲田朋美氏と双璧を成す存在だ。もう一人の太鼓持ち山本一太には何言ってるんだと、ほとほと呆れるばかりだ。さも、自分は正論を吐いているよと言わんばかりの、正義ずらした物言いに、何時も辟易させられる。特に、安倍晋三氏の完全なるスポークスマンに成り下がって以降は、何処まで安倍氏を持ち上げれば気が済むのかと思わせる程の、太鼓持ち振りだ。こうも、首相の御機嫌取りに腐心する山本氏に、中傷を通り越して、憐れみすら感じさせる。昔、テレビの前で彼の政治談義に耳を傾けていた国民は、大いに裏切られた思いでいる者も多くいるのではないか。冷静沈着で誠実さを売りにしていた彼だけに、権力に魂を売り渡し、忖度三昧の政治屋稼業に、現を抜かす姿を見せ付けられる国民も、堪ったものではないだろう。

【我が子に名付けする際の親心とは2018.11.2読売】ベネッセが、2018年に生まれた赤ちゃんの名前の人気ランキングを発表した。男の子では「健」と「律」が共に急上昇したそうだ。NHKの朝ドラ「半分、青い。」の影響だろう。自分の名前は生涯に渡り付き纏うものだ。名前を付けられる子供もだが、それを付ける親も簡単には済ませられぬ一大事だ。私の名前は村田治夫だが、我々世代の者なら、その名前を聞くと一瞬、違和感を感じる筈だ。それは二人の大物歌手が閃くからだろう。私はその事をずっと不愉快に思っていたが、親は兄弟との関係で私の名付けをした訳であり、ちゃんとした意味が込められているのだ。名付けをしてくれたその時の親心を思い乍ら、自分の子供への名付けをするものではないか。さて、朝ドラのイケメン俳優の名前を子に付けた親は、如何なる意図をお持ちか。

原発再稼働ドミノに断固抗議する2018.11.2毎日】10月27日未明に再稼働した伊方原発3号機が、2日、フル稼働状態に入った。28日には営業運転に移行するとされる。私は愛媛県民の一人として、これが全国の原発再稼働に向けての狼煙とは、決して受け止めたくはない。愛媛県知事選目前の中村知事には、再稼働してしまった伊方原発の事など、最早、眼中になく、三選後の県政締め括りの準備へと、既に目は向けられている筈だ。そうした意味では、中村氏も安倍首相と同じ貉の様相を呈している。伊方原発再稼働も含め、全国的に注視された加計問題など、兎角、愛媛を震源地とする諸問題が日本を揺さ振り続ける。愛媛県民が全国に胸を張って誇らしく在り続ける為にも、四国電力を始めとする電力会社や、原子力ムラに居座り利益を得ようとする輩に対し、抗い続けなければならない。静観する中村氏もその中の一人だ。政権忖度で再稼働のパンドラの箱を開けてしまった広島高裁及び同地裁に、改めて猛抗議したい。

【三島も草葉の陰で泣いている事よ2018.11.1読売】渋谷ハロウィンの乱痴気騒ぎに、48年前、国を憂いて割腹自殺を遂げた三島由紀夫は首を傾げている事だろう。何と言う此の国の遅滞振りかと、見紛うている筈だ。彼が命を賭して訴えた「文化防衛論」を基底とする護国の精神を、斯くも無残な形に打ち砕いてくれたものよと、半分、呆れ顔をしているのかも知れぬ。嫌われぬよう優しい大衆迎合的口調のDJポリスに取って代わり、「御前等、それで良いのか。同じ日本人として恥ずかしいぞ」と厳しく諫めたであろう。群衆に紛れた匿名的仮装パフォーマンスでしか、自分の存在意義を確認するしか術のない、平成最後の若者世代の無軌道な行状を眺め、三島のハラキリパフォーマンスが全く効を奏して来なかった今の日本の姿に、愕然としているに違いない。先般、突然の自殺で世間を驚かせた西部邁も、同様だろう。

【原爆投下を国際司法裁判所に提訴した事があるのか2018.11.1毎日】安倍首相は今国会で、韓国人元徴用工への賠償を命じた韓国最高裁判決について、国際司法裁判所への提訴も辞さない考えを示した。先日、河野外相も同件に関し戦後賠償は完結しているとして、韓国政府に強い遺憾の意を顕わにした。だが、あの戦争で多大の被害を受けた側にとり、実務的損害賠償が終了したとは言え、道義的には半永久的に終わりのない、簡単に割り切れる問題ではないのだ。それは、日本が受けた、米国の終戦間際に於ける2発もの原爆投下に関して考えれば、分かる筈だ。幾ら戦敗国だから致し方なしとは言え、素直に受け留められないのが、極、普通の国民感情であろう。安倍首相が昨日、韓国人元徴用工への賠償に関し国際司法裁判所へ提訴する等と言う啖呵を切ったと言われるが、同様の事を米国の広島・長崎への原爆投下に関して、今迄一度でも良いから裁判に訴える等と言った例があるのかと、逆に問いたい。

【トランプ人気に嘗てのタケシを見る2018.11.1朝日】米大統領中間選挙まで1週間を切った。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルによると、トランプ大統領支持率が政権誕生後最高だと言う。一体全体、米国はどうしてしまったのか。敵対する人物や陣営に対し、あそこ迄、明け透けに憎悪丸出しで口角泡を飛ばす程の罵声や、相手への誹謗中傷など、彼の人権感覚は皆無かと思わせる位の酷さである。もうこうした彼の無軌道に思える程の我儘にも全世界が慣れ、何も異常とは思われなくなっている状況の方が、異常だ。こう迄して彼を持ち上げようとする、米国の置かれた政治状況は、果たしてどうなのだろうと訝しく思わざるを得ない。だが、フィリピンドゥテルテ大統領やブラジルのトランプ登場など、歯に衣着せずダーティーハリー張りの問答無用の政治手法に、大衆は反って魅力を感じ歓喜するのかも知れぬ。日本の芸能界に今も君臨する北野タケシが、その人気絶頂の頃も、視聴者は、彼の建前を嫌い、本音の風刺を込めた芸風に好感を抱き、多くの支持を与えたのではなかったか。時には弱者をも槍玉に挙げ、攻撃的姿勢のキャラクターが大いに受けた。トランプや彼に支持を与える米国民に、嘗てのタケシや彼を称賛した当時の日本人を見出せないか。

三島由紀夫は渋谷ハロウィンに憂国を見たか2018.11.1朝日】嘗て三島も、満たされぬ自意識をハラキリで昇華した。だが、昨夜の渋谷集団仮装パーティーには、単独パフォーマーの先駆者として苦言を呈するであろう。余りにも情けない若者達の匿名パフォーマンスに、「文化防衛論」者として此の国の先行きを、嘆き悲しんでいるのかも知れぬ。匿名的仮装で群衆に紛れ、遣り場のない自分達の憂さを、オチャラケで晴らすしか能が無いのかと、DJポリスに成り代わり彼独特のアジテーションで一喝した筈だ。どうせ遣るなら、現在開かれている国会前で、安倍政権への抗議メッセージでも送れとか言ったのだろうか。だが、あの馬鹿者達の有り余る程のエネルギーを、然るべき方向へ向ければ、かなりの有意な世直しに一役買えそうだが、為政者はそれを喜ばしくは思えない。半世紀前の全国を震撼させた学生運動再来の悪夢が蘇る様な事等、決して許容出来ないからだ。毎年恒例化する荒れる成人式や、渋谷での暴徒化するハロウィン程度のお騒がせが、好都合だと見做されているのだろう。三島由紀夫がセンセーショナルな割腹自殺を計り、もう直ぐ47年目を迎える。学校や職場では、鬱屈し抑圧された自意識の捌け口を、怨念を秘めた自殺に見出そうとする者が後を絶たぬ。

【学校も過激主義的指導者を必要としているのか2018.11.1朝日】ブラジルのトランプの異名を持つ極右ボルソナロ氏が、ブラジル大統領選に勝利した。世界中、何処も彼処も過激な言辞で大衆をリードする、排外的アジテーターが待望されている。第一次大戦後のアノミー状態だったドイツで、強力なリーダーシップを発揮し得る時代ヒーローとして、ヒトラーが登場した。人はどうしようもない無力感に苛まれた時、そうした状況を克服してくれる全能者的存在を要望する。また、追い込まれた状況が、その存在の善し悪しを見極める判断力や余裕すら奪ってしまうのも、過去の歴史が教示している。だが如何せん、この様な時代風潮が蔓延しているのが現在であり、学校教育現場も例外ではないだろう。森友問題で渦中の人となった籠池氏も、教育勅語を幼稚園児に奉読させ、軍隊調の学園運営に経営打開策を図ろうとしたのも、頷けなくはない。さて、この様な中で、嘗て三島由紀夫が率いた「楯の会」の如く、確信犯的教育組織が学校の名を借りて形成されて行ったとしたら、これ又、厄介な事になるだろう。只、「女王の教室」の主人公の様に、現在の学校組織に抗い乍ら、分断化された単独者として過激主義を演じるしかないのが、今の学校現場の哀しい現実なのであるのだが。

【学校教育に於ける齟齬に危機感2018.10.31朝日】教育勅語軍人勅諭を大切だと公言して憚らぬ、文科相や防衛相の登場に危機感を抱く。安倍首相の予てからの復古主義的教育観が、第四次改造内閣の閣僚メンバーの意識にも色濃く反映された証左だ。自己責任論やボランティアのオンパレードの中、個人より全体を優先重視する社会的風潮も顕著で、文科相が就任当初の発言に於いて、教育勅語の良いところは今後の道徳教育に生かすべきだと述べ、物議を醸した。さて、幼少期から個性重視の私的志向に馴染んで来た子供達は、近年、強まる復古調の教育観とは、真逆の相容れぬ存在でもある。そうした中、宮城県の工業高校1年の男子生徒(15)が、担任教諭からの厳しい指導に耐え切れず、今年8月、自宅で自殺した。父親は、「入学当初から軍隊のようなクラスだと感じていた。」と言う。このケースも、生徒の生育環境文化と昨今の学校教育に求められている公的なるものへの恭順涵養が、齟齬を来している現れとも取れよう。安田純平氏の人質救出解放後、氏への自己責任論を背景としたバッシングが喧しい。政府も安田氏の執った行為などには、都合良く勝手に為した私的問題として解釈し、無碍に扱おうとしている。こうした政府の御都合主義が、ブレ捲る学校教育の混乱を惹起する背景にある。

【過激主義的指導者輩出に危機感2018.10.29毎日】トランプ登場で、世界も来るところまで来たかと、呆れたものだった。だが大統領就任後2年が経ち、見慣れて来ればそれも普通に感じられているのが不思議だ。そしてまた、銃所持を国民に訴え人種差別的発言を繰り返し、ブラジルのトランプの異名を持つ極右ボルソナロ氏が、ブラジル大統領選に勝利した。何処まで自国第一主義が幅を利かせ、排外的アジテーションを鼓舞する人物が待望されて行くのだろうか。第一次大戦後のアノミー状態だったドイツで、強力なリーダーシップを発揮し自分達の無力さを昇華してくれる存在が待望され、ヒトラーが登場した。現在、世界的にこうしたヒトラー的存在を、リーダーとして待望する時代風潮が蔓延している。そしてそれを何とも思わなくなっている感覚鈍麻が、却って恐ろしい。戦争仕掛け人の軍需産業の思惑に乗っかる様では、この動きに歯止めは掛けられず、最悪のシナリオが待ち構える。それだけは避けなければならぬ。

【インド旅での原発迷想2018.10.25朝日】先日、インドへ一週間の旅に出たが、インフラ未整備を目の当たりにした。道路から巻き起こる土埃で、空気がスモッグの様に燻り、大気汚染が深刻な状況だった。この国の道路を始めとするインフラ整備には、今後、多大な電力を要するであろう。しかしインドでは、電気が圧倒的に不足しており、まだ電気のない生活をしている人が3億人も居ると言う。だから、原発が欠かせないとして、日本などの原発先進国から高性能の大型原子炉(軽水炉)を輸入したい。そこで日印原子力協定の運びとなる。インドは現在21基ある原発を、2032年までに10倍以上に増やしたい意向で、日本の技術にも大いなる期待をかけている。日本では伊方原発3号機再稼働など、不穏な空気が漂い掛けているが、フクシマの大惨事以降、原発推進が頓挫している現状だ。日本で出来なければ、それを海外でやり補填すればいいとする考えは、原発先進国でよくあり実行されている。米国がその典型で、スリーマイル島原発事故後、急展開した。更に、タバコでも同様な事が言える。自国では禁煙が進み、タバコ産業は海外への輸出に生き残りを見出そうとする。自国の安全は、他国の危険と隣り合わせにある事を、旅から戻り痛感しているところだ。

【特殊詐欺国家2018.10.24朝日】年寄りを騙して金をふんだくる、新手の特殊詐欺が蔓延して久しい。狙われるのは年寄りだけだと、高を括ってはいまいか。全国民も、来年10月からの消費増税や、年金受給開始年齢の引き上げで、詐欺ターゲットの例外では無いのだ。社会保障費の充実に向けてとか、何時もの体のいい件を付けての物言いに、阿保抜かせと呟いてしまう。国民を70歳まで働かせ、掻き集められた保険料が、適正に年金受給者への支給にだけ使途されていくのかも疑わしい。今迄以上に負担を強いられ、挙句の果ては年金生活に入る前に、亡くなっていたりするなんて事も、十分考えられるのだ。この様に我々から毟り取った血税を、国会でのモリカケ疑獄糾弾逃れの無意味な外遊や、お友達のトランプから強要されている老朽化した米国製高額防衛装備品購入に、湯水の如く流用するに決まっているではないか。もういい加減にしろと言わざるを得まい。我々の血税が米国軍需産業の懐に入り、彼等の利益を目論む為の世界各地の戦争の具にされるのでは、堪ったものではない。こんな馬鹿げた政治を、何時迄、許容したら気が済むのだろう。私だけは特殊詐欺なんかに騙されないと思っていたら、大間違いだ。最早この国は、特殊詐欺国家だと言っても過言ではない。

紀州ドンファンの怪死に日本を重ねる2018.10.31朝日】国民の衆目を集めていた紀州ドンファン怪死事件も、今は昔の話となった。だが愛犬家の私は、この男性が、亡くなった犬をこよなく寵愛していたという点から、この事件を忘れる事が出来ないでいる。毒殺説が本当なら、もがき苦しみ死んで逝く犬の姿だけは見たくない。生前、大金持ちの男性には、金目当てで多くの人が蠅の如く群がり、金を無心されていたのだろう。金が無ければ見向きもしないだろう人の心の厭らしさを、永年見せ付けられて来た男性は、大金はあってもいつも孤独感に苛まれていたのだろうか。そうした中、唯一、損得なく自分に懐いてくれる無垢な愛犬の姿に、癒されていたのではないか。また、この男性の人生や死に様に、金だけで存在価値を見出される此の国の現実や、何事も金で解決しようとする安倍政権の日本とが重なり、遣る瀬無い思いになった。先般の北朝鮮を巡るアジア外交では、完全に蚊帳の外に置かれ、日本の切り札は金次第の様相を呈した。此の国の存在意義は、所詮、金だけで、無垢な心を持つ愛犬の如き隣人はいないのかと、哀しくなったものだ。否それどころか日本自体が、某国の愛犬ポチに成り下がっているではないか。この男性の死に様を通して、毒殺されでもする様な日本の将来が透けて見えた。

万引き家族ならぬ万引き国家2018/10/31朝日】先般、是枝監督の「万引き家族」が、カンヌ映画祭でパルムード賞を受賞した。この受賞を政府は喜ばず、音沙汰無しの構えだったが、世論に押されやっと前文科相祝意を示した。だが、是枝監督に拒否され、政府の面子は潰された。この映画は、風刺を込めて現在の日本経済を暗に批判した内容となっている。それをフランスカンヌという海外が認めた事で、安倍首相の立場は無くなった。安倍長期政権下、大多数の国民は経済回復の実感が得られず、諸種の保険料負担や介護・医療費の自己負担増加の押し付けなどに喘いでいる。その反面、アホノミクスで優遇措置を施された、ひと握りの者だけが豊かさを享受できる。こうした十年余りの間に3万人規模の自殺者が毎年出 て、孤独死や餓死が他人事ではない事態となっている。一方で、特別会計を打出の小槌として利用し、何百兆円もの血税がバラマキ外交で湯水の如く浪費され、国民に対し政府は、慢性的財政赤字なので節約をと嘯き、消費増税を課す。これは最早、税金を掠め取る「万引き国家」そのものではないか。その万引き国家日本を脅し、カツアゲするのが、恐喝国家の某国で、カツアゲされた日本人の血税は、その国が目論む世界支配の為の兵器に様変わりする。

【老境のスター歌手にエール2018/10/30朝日】日・英を代表する嘗てのポップスター歌手が、70代となってもその存在を誇示している。一人は世界的レジェンドグループビートルズポール・マッカートニーであり、もう一人はその影響を受け、日本のグループサウンドの草分け的存在となった、ジュリーこと沢田研二だ。私は後者の沢田研二に、最近、注目している。彼の現在の風体は、嘗ての女性ファンからすると裏切り行為に思える程の、変貌ぶりだ。中年太りのその姿に、多くのファンはこれ迄抱き続けて来た、スターとしての輝かしいイメージを打ち壊された感が強くするだろう。だが、そんな姿を隠そうともせず逆に曝け出し、老いの自然体を見せ付けてくれるジュリーに、イイね!とエールを送りたくなるのだ。 特に、近年における沢田の政治的メッセージを顕にしたステージスタイルに、共感を覚える。不埒な安倍独裁政治や9条壊憲などについて、音楽活動を通し自身の意思表示を歯に衣着せず物申している姿に、元気付けられている。彼もそうする事で、若き日の自分とは程遠い醜い姿の抗えぬ晩節を、昇華しているのではないだろうか。私も、還暦を過ぎ未だ間もない。勝手に老け込んではいられない。さて、晩節をどう汚そうか。

【先生と呼ばれる者達が巣食う集団に、明日はない2018/10/30朝日】過去5年間に教員と看護師が精神疾患となったケースを調べた、2018年版「過労死白書」が示された。保護者や患者など業務上の関係者とのトラブルが、それぞれ疾患の原因の半数近くを占め、教育・医療現場における労働環境の厳しさが改めて確認された。私は昨年、学校教師を退職したが、今も後遺症的な症状が残存し、家から出るのが億劫で、所謂、 引き籠り状態が続いている。本来、内気な性格の私は、何十年間も学校という上辺を装う仮面社会の中で、本音と建て前を使い分け二重人格的性向を余儀なくされ、かなりの精神的ダメージを受け続けて来た。どんな職場にも少なからず私の様な齟齬を感じ、現実と理想の狭間で様々な人間関係を構築しているのだろう。兎角、先生と呼ばれる者達が形成する組織集団は、事勿れ主義を前提とする隠蔽的体質が通常化している。だから陰湿な諸問題が後を絶たず、理想を抱いて職場に赴いた若い先生達は、理想とは掛け離れた現実世界に打ちひしがれ精神を病んでしまうのだ。それに追い打ちを掛けるのが、地域社会の現代教師への冷ややかな眼差しである。古き良き時代の教師は尊敬の眼差しで見守られ、それに胡 坐をかけていた。だが今は違う。最早、信頼を前提とする筈の学校教育では、有り得ぬのだ。

【社会から虐められる学校に、夢など語れようか2018.10.30朝日】「過労死白書」(2018年版)が示されたが、教育・医療現場の厳しい労働環境が改めて確認された。今年は、過去5年間に教員と看護師が精神疾患となったケースを調べ、保護者や患者など「業務上の関係者」とのトラブルが、それぞれ疾患の原因の半数近くを占めていることが明らとなった。私は2年前迄、学校現場に在職し、そうしたトラブルを何度も目の当たりにして来た者の一人だ。本来、内気な性格の私は、数十年間も生徒・保護者・地域からの冷ややかな視線に晒され続け、かなりの精神的ダメージを受けて来た。よく定年迄持ち堪えられたものだと、退職後、ふと思ったりする事もある。少なからず後遺症的な症状が今でも残存し、家から出るのが億劫で、所謂、引き籠り状態が続いている。そんな私を気遣い、周囲の親しい者達が外へ引っ張り出してくれたりしている。生徒の苛めやそれによる自殺者が後を絶たないが、教師への社会的苛めも深刻度を増しているように思われる。尊敬の眼差しで見守られ、それに胡坐をかけていた古き良き時代の教師は、遠い過去の遺物となってしまった。苦しい立場を話し合い分かち合える筈の教師同士が分断化され、孤独で物言えぬ存在と成り果てている。政治と同様、信なくば学校教育は成り立たぬ。

【米国内銃規制は等閑で、空港等はテロ対策厳しくの矛盾2018/10/29朝日】米ピッツバーグシナゴーグユダヤ教礼拝所)で、銃撃事件があり11人が死亡した。容疑者の男は礼拝中に押し入って「すべてのユダヤ人は死ね」と叫びながら、殺傷力の高い半自動小銃を乱射したという。トランプ大統領の度重なる排外主義的ヘイトスピーチが、ブーメランの如く随所で嵐を巻き起こさせている。9.11以降、空港等の厳しい手荷物検査やボディーチェックは最早、当たり前となった。金属探知機に引っ掛からない様にベルト迄外し、異様な程の自主規制に心掛ける。爆発物などの危険物持ち込みテロ対策に、これ程、神経質になっているのに、何と言う馬鹿げた矛盾の国なんだろう。米国の銃所持に至る歴史文化が背景にあるとか、全米ライフル協会の政治力が無視できないなどと、 御託を並べられる。米国民の数の何倍もの銃が国内至る所、合法的に散在しているのだから、銃犯罪は必然の帰結となる。この便法で核独占も合理化され、先般、INFからの脱退宣言もなされてしまった。人命がこれ程迄に軽んぜられ、虫けらの如く踏み潰されても平然としている国が、何処にあろうか。この国が世界をリードしている事が、狂気の現代世界を証左するものである。

【烏滸がましい安倍氏の中印橋渡し役2018/10/28朝日】安倍首相が最近怪しい動きをしている。先日、中国習近平と笑顔で会談し、これ迄悪化の一途を辿っていたかに見えた日中関係改善を猛アピールした。そして矢継ぎ早に今度は、インドのモディ首相を山梨県鳴沢村の自身の別荘に招き、自身が掲げる「自由で開かれたインド太平洋戦略」での連携強化について会談した。安倍首相が外国要人を別荘に招くのは初めての異例で、ここに来て、日本が中国・インド両国と接近しようとしている姿が気になる。中国とインドは仲違いしている関係だ。その両者に割って入り、関係改善に向け仲介役を担おうとしているのか。差乍ら、米朝間の親善キューピット役を買って出た韓国ノムヒョン大統領を彷彿とさせる。北朝鮮を巡るアジア外 交で、蚊帳の外に置かれていた安倍首相の、汚名挽回作戦が展開しているかの如く、昨今の安倍氏の立ち回りには、そんな思惑が見て取れる。それとインドモディ首相との膝詰め談議では、日本の原発軽水炉技術の輸出入について、しっかりと話し合われたのではないかと推察する。先日、旅したインドの平和な自然が、取り返しのつかない姿へと変貌するのも、そう遠くはないだろう。シバ神の怒りに触れなければ良いのだが。

【加藤厚労相に物申す2018/10/28朝日】厚労省は、60歳を超えても働き続ける人が増えている実情を踏まえ、掛け金を払い込める期間を延長し、老後の備えを手厚くするのが狙いだとして、公的年金に上乗せする確定拠出年金について、原則60歳までの加入期間を65歳まで延長すると言い出した。特殊詐欺紛いの年金詐取計画に、もういい加減にしろと言いたくもなる。私はそんな詐欺には騙されないぞとばかりに、退職後、無職を通している。更には、障害者雇用水増し問題で、42年間も水増しを放置し乍ら、厚労省所管の独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構」は、違反企業から徴収した1人当たり月5万円の罰則金を右から左に流すだけで、厚労省からの高級官僚天下り役員の高額報酬に充当して いたのだ。とんでもない特殊詐欺行為が、何十年もの間、悠然と行われていたとは、亡国の厚労省の最高責任者として、加藤厚労相はけじめを付けるべきであり、辞任するに値する問題である。因みに、障害者の法定雇用率が達成できないと、不足1人当たり月額5万円の納付金の徴収で、昨年度は4万5471社から計295億円が徴収されたという。これをボッタクリ詐欺と言わずして、何と言えば良いのだろう。

【今年の流行語は、カモンベイビー「U.S.A.」がイイね!? 2018/10/27朝日】流行語大賞が噂される時季となった。「そだね~」あたりが最右翼みたいだが、私は「U.S.A.」派だ。楽曲名が流行語とは、そんなのありかと思えるが、この曲のサビ「カモンベイビーアメリカン」のフレーズがやけに耳につく。カモンベイビーは普通、子供扱いする時に使われる俗語だ。今年は日本が、否、安倍晋三氏が、米国トランプ政権に何度も子供扱いされ、正しく「カモンベイビーシンゾー」とばかりに、米国の要求を呑まされ続けた。トランプ大統領初来日の際には、陸上イージス・アショアを始めとする老朽化した高額米国製防衛装備品購入を口約束され、オマケに娘イバンカ基金への賛助金迄か鴨られようとは、正しく「鴨ンニッポン」だった。更には、トランプ 氏の最大 政治献金者である、ユダヤ人カジノホテル経営者の日本進出の口利きを、大統領から引き受けさせられていた事も判明し、以前からその関連疑惑が指摘されていたIR法成立の背景が明らかになった。さて、流行語にもなっている「U.S.A.」のサビ部分「カモンベイビーアメリカ」と、安倍政権はこれ迄、言った例があるのだろうか。トランプから「ヘイ、シンゾー」と体良くあしらわれるだけで、日本国民の血税をトランプビジネスに流用されるのでは困る。

【安田氏自己責任論を、苛め自殺者に対し言えますか2018/10/27朝日】解放された安田氏へのバッシングが高まっている。死線を超えた強者は、そんな他愛もない戯言に動ずる訳は無いだろう。何も動こうとはしない政府外務省の度重なる制止も聞かず、敢えて自らの意思で危険な紛争地域に赴いたのは自殺行為だと非難する。だが、そう言う人達は、学校や職場で苛めやパワハラ等で自殺した者に、自己責任論を主張出来るのだろうか。両者とも無謀な行為には違いないのだ。前者は死の危険をも顧みず世界を糾さんと行動に走り、後者は自身の弱さに感け、現実世界からの逃避や個人的怨念のあてつけの遣り場としての選択肢とする。どうして、後者がバッシングを受ける事なく、それに対して前者は否定的見解を被らなければならぬのか。これこそが理不尽 で不条理な、世間の見做す道理と言うものではないか。安倍政権はこれ迄50兆円を越えるバラマキ外交を国民に承認も得ずして遣らかしておき乍ら、邦人救出の3億円は出し渋るとは、一体どういう了見なのか。故後藤健二氏や安田純平氏らは、世間からの非道な中傷や苛めを幾ら受けても、自殺する様な軟な者とは違い、決して無駄死になどせぬ覚悟で現場取材に全力を傾けており、政府の様に厄介者扱いする存在では無い。

【インド旅行での迷想2018/10/26朝日】先日、インドへ一週間の旅に出たが、インフラ未整備を目の当たりにした。道路から巻き起こる土埃で、空気がスモッグの様に燻り、大気汚染が深刻な状況だった。この国の道路を始めとするインフラ整備には、今後、多大な電力を要するであろう。しかしインドでは、電気が圧倒的に不足しており、まだ電気のない生活をしている人が3億人も居ると言う。だから、原発が欠かせないとして、日本などの原発先進国から高性能の大型原子炉(軽水炉)を輸入したい。そこで日印原子力協定の運びとなる。インドは現在21基ある原発を、2032年までに10倍以上に増やしたい意向で、日本の技術にも大いなる期待をかけている。日本では伊方原発3号機再稼働など、不穏な空気が漂い掛けているが、 フクシマの大惨事以降、原発推進が頓挫している現状だ。日本で出来なければ、それを海外でやり補填すればいいとする考えは、原発先進国でよくあり実行されている。米国がその典型で、スリーマイル島原発事故後、急展開した。更に、タバコでも同様な事が言える。自国では禁煙が進み、タバコ産業は海外への輸出に生き残りを見出そうとする。自国の安全は、他国の危険と隣り合わせにある事を、旅から戻り痛感しているところだ。

【バラマキ外交の決算報告を示せ】安倍首相はトランプ大統領に、何処迄、大盤振る舞いすれば気が済むのか。モリカケ問題などで地に落ちた政権の汚名挽回や、野党からの集中砲火を嫌って国会審議逃避の為の外遊を繰り返す。外交には自信の程を示し自慢気な素振で国民からの信頼回復を得ようとするが、どれ程の血税がこれまで流用されて来た事だろう。安倍首相には官房機密費を含め、不分明にされている公金支出を、国民に詳らかに公表する責務がある。どの組織に於いても、年度内の会計監査は公表し確認されるが、官邸外交に使途される公金に関しても、予備費などと言う曖昧なる括りで、好き勝手な使い方を許容するのではなく、詳細で厳密且つ公正な監査が必要不可欠ではないか。そうでなければ、外交の意味がなくなり、金でどんな失政も済ませられる無軌道政治に、益々、拍車が掛かるだけだ。

【負け続けてばかりでいいのかな2018.10.26読売】小中学校で不登校の児童生徒は過去最多の約14万人を超えた。子供や保護者に、無理に学校に行く必要はないという意識も、市民権を得つつある。いじめの数は分かっているだけで約41万人に上る。両者の数は相関関係になっている筈だ。だが、こんな学校になってしまったのは、個の弱さに目を背け、弱さに胡坐を組み居直る側からの糾弾を畏怖する社会や、そうした社会の風潮に異議を唱えようとせず体制に身を隠す世間に、その背景の一端があるのではないだろうか。難しい事には拘らず事勿れ主義でバッシングを避けて、見て見ぬ振りをするのが得策だと、殆どの者が変に悟りを開いてしまっていないか。そしてそれが、平和憲法を嘯き続け姑息な生き方を身に付けて来た、戦後日本の生き様に正しく収斂され、延いては個の弱さに反映し、綺麗事で済まそうとする学校社会で、反動的に露見されている様に思えてならない。

 

 

憲法と沖縄】 国家の精神を標榜する憲法が不健全であれば、社会は次第に内部から蝕まれていく。日本国憲法は、その成立過程に不透明性を宿していた。すなわち、第二次大戦直後における、米国による対ソ封じ込め戦略の一環を担わされたということである。第一条を反共の具とし、それに異議をはさもうとした陣営を第九条の第一項で懐柔した。第一条の副産物的条文となる第九条も、更にその第二項書き出しの但し書きにより武装化が可能となる解釈の絡繰が用意され、朝鮮戦争後における米国の対日政策転換すなわち、わが国への再軍備自衛隊創設)要求に利用されるものとなった。このような憲法にまつわる諸問題が、戦後の節操なき日本社会を現出させたと言っても過言ではない。様々な欺瞞を黙認あるいは利用しながら、ふしだらな状況が露呈されてきている。また、こうしたなかで保守・革新ともにその性格を自ずと歪曲せざるを得ないのである。 自民党を一とする保守陣営は、第一条及び第九条を中心とする改憲すなわち自主憲法制定を声高に叫びながら、その実、現憲法を押し付けたと見做す米国に対しこの半世紀の間日米安保体制下、自国の領土である沖縄に後方基地を設けさせ、しかもそればかりか思いやるような屈辱的従属姿勢をとり続けてきた。それで果たして、自主独立自尊を主張することができるのであろうか。また、共産党を一とする革新陣営は、日米安保体制(条約)を廃棄すべしと嫌米姿勢をとり続けながら、第二次大戦直後における米国の対ソ戦略の影響下に晒された憲法の擁護を標榜してきた。自らの主義主張と相容れないはずの第一条前段との矛盾から目をそらし、正義の味方を嘯くような護憲では、どのように講釈を垂れてもそれは子供騙しにしかすぎないのではないか。このように、両陣営はそれぞれアイデンティティーの矛盾に苛まれながらお互い鬩ぎあいをしてきたのである。 

 冷戦後におけるアメリカは、世界で唯一の超大国として君臨し一極支配するためのシナリオづくりに懸命である。そのシナリオにより軍産複合体を基盤とする儲かるシステムが実現されるからである。冷戦時代には悪の超大国ソ連が存在してくれたおかげで、儲かるシステムは左団扇でありえたが、ソ連邦崩壊により新たな仮想敵対象及び世界秩序を次々と打ち出していかなければならなくなった。湾岸戦争及びイラク戦争イラク、核疑惑の北朝鮮覇権主義の中国と、冷戦後における軍産複合体の巻き返し戦略に世界が振り回されているのであり、わが国もその渦中から逃れられずに巻き込まれてしまうのである。かつての日米安保再定義にしても、沖縄での米軍兵士少女暴行事件をきっかけに日米安保見直しの気運が高まりかけたにもかかわらず、日米安保強化という日米双方における軍産複合体の目論み通りの結末に至ってしまった。そもそもなぜ米国との軍事同盟が存在し、沖縄に米軍基地がかなりの割合で今も在り続け、挙げ句の果てに米軍駐留兵士による愚劣極まりない横暴を余儀なくされ続けるのか。それは要するに、米国による「覇権主義」を容認(黙認)しているからに他ならない。動物の世界では縄張りをめぐる争いは常であり、その縄張りを侵されないようマーキング行為に余念がない。人間世界も同様で、歴史のなかで唾の付けあいをし続けてきた。敗者は勝者の縄張りのなかで細々と余生を送りながら、勝者による様々ないじめを覚悟せねばならぬ。勝者はまたその敗者いじめを示威行為としても利用し、縄張り(覇権)を全体に誇示するのである。そうして勝者は自分に取って代わろうとするものがないように、絶えずマーキング行為に励まなければならないのである。日本は幕末明治以降、米欧列強のいじめに恐れおののきながら、生き残り策を模索してきた。そして、脱亜入欧論や大東亜共栄圏構想を展開するなかで、いじめの合理化をはかり、結局その呪縛から逃れられなくなり自滅への坂道を転がり落ちるしかなかった。今またいじめられる側にも問題があると言わんばかりに、いじめられない「普通の国」を目指そうという声が高まりつつある。弱小異質に徹し(成り)切れず曖昧なままいじめる側に取り込まれるのでは、正しく猪突猛進的な自殺行為でしかない。いじめの構造を見抜き、いじめる側に加担しないだけでなく、いじめられる側を擁護できるのが「普通の国」であるはずだ。ソ連邦亡き後、米国はマーキング行為に余念がない。縄張り争いに敗けたソ連が自暴自棄になっていた90年代初頭、米国は世界制覇に向けて歩み出した。イラクフセイン)いじめを手始めに制覇への地歩を固めつつある。そして今、制覇に異を唱えられる実力を有する存在は中国であろう。中国は経済面で資本主義化したが、政治面は依然と社会主義なのである。当然、米国は中国をいかに封じ込めていくかに今後精力を傾注するだろう。その際、日本は米国側の最前線に位置し楯とされるのである。そういう状況下において、沖縄の米軍基地は最重要拠点であり、構造が崩壊し戦後半世紀経ったのだから基地を縮小し、最終的には日米安保体制を見直し日米安保条約廃棄とはおいそれといかないのだ。 

 覇権主義とどう向き合うかは、根幹で核抑止論を問うことでもある。結局のところ覇権主義にしろ核抑止論にしろそれが罷り通る背景には、人類史における宿命的命題が隠されているのではないか。その命題から我々は抜け出せずに、不可避的神秘のベールに身を包まれながらそれを運命愛として受容してきた。それとは要するに「恐怖による脅迫」である。我々を含む全ての生命体は、大なり小なりこの恐怖をその活動の源泉にしていると言ってもいいだろう。恐怖のなかで組織体の安寧秩序が保たれ延命が可能となる。覇権や核もそれらが醸し出す恐怖が組織集団員の横暴を抑止し、その結果、安寧秩序が保たれ生命維持が図られる。そしてこの様は、現在の世界においても該当するのではないか。正義の象徴であるはずの国連が、正義を嘯くアメリカによって利用されて制覇が維持されている世界のなかで、覇権主義を容認(黙認)し、恐怖による脅迫が醸し出す「冷たい平和」を求め、その結果として覇者による恐喝に怯えながら生き残り策を模索し続けている世界のなかの日本。不正義が跋扈し罷り通る社会を容認(黙認)し、何らかの犠牲を代償としなければ成り立たない現実を運命愛とし 受け入れ、一体いつまで自己を偽り続けていけるのだろうか。沖縄問題もその延長線上にあるように思えてならない。 

 帝国主義のもと植民地争奪戦を展開していた18・19世紀の世界観が今の時代にも盤石な基層としてある。古代ローマ帝国から近代大英帝国そして現代米帝国と、支配統治権力者の姿こそ変われども、その基本的性向は不変的である。基本的性向を形成するべく以下の要素を遺伝子の如く継承してきた。それは、力(軍事力)による支配であり、白人至上主義に基づく搾取である。ヨーロッパはこの二要素を合目的的に発揮するため、近代国家なるものを踏み台にあるいは隠れ蓑にしてきたのではなかったか。個人が会社などの組織を通して、金銭欲・名誉欲など自己の欲求を満足させていくのと同様に、国家を利用して、己れの欲望を満たそうとする存在があり、その利権を保守するためのシステム造りに事欠かない歴史が展開してきた。絶対王政時代、朕は国家なりとも言われたように、国家は国王でありその主たる欲望は権力欲であった。国王以外のほとんどの者にとり国家(国王)とは正しく裸の王様的存在であって、虎の威を借る狐たちには国家は自分たちの利権を保障してくれるもの以外何物でもなかった。商業人がその金銭欲を満たすのに、国家(国王)の軍事(政治)力は強ければ強い程都合が良かった。国内においては営業活動がしやすいように安寧秩序の保持のため統治してもらい、国外においては国王に侵略戦争による世界帝国形成を実現させ、商業市場が世界的に拡大し利潤を高める必要があった。商業人が商業的利益を追求するためには、このように強い国家(国王)が要望されたのである。強い国家(国王)は力(軍事力)による支配により産み出されるものであり、それはひいては商業人らの財力に支えられるものでもあった。こうして、国王(政治)と商人(経済)は強く癒着していくのであり、この構図は古今東西、通底している。そして、より強い国家をつくるためより儲かるシステムが必要とされ、帝国主義軍産複合体はその典型となった。産業革命後の産業資本主義段階以降このシステムは本格化し、欧米列強による世界資本主義が世界分割のもと展開するなか、富を収奪して繁栄を謳歌する北の一部の地域と、それらに富を強奪され第一次産業を押し付けられた南の貧しい地域との南北問題が深刻化していく。そして人口問題・エネルギー問題・環境問題など抜き差しならぬ諸問題を派生させ現在に至っているのである。

 

【彷徨する諸相】  長年の日本政治に対する国民の失望感が、捨て鉢なキャラクターとシンクロして小泉人気は有り得た。それまでの政治家がとかく保守的なイメージだったのに対し、独特なヘアースタイルなどから自由闊達な雰囲気を感じさせ、人気は続いた。バブル崩壊後の不景気にともなう日本の沈滞ムードも、80%を超える異常な支持率につながった。そして、国民の政治への諦めが、ほのかな期待という錯覚へ変容した。55年体制下、自民党は様々な構造汚職問題を通して、国民の批判を受け続け、遂に93年には過半数割れをし、その後は、他党との連立でかろうじて政権を維持した。姑息な風見鶏的で扇動的パフォーマーに過ぎず政治哲学を持ち合わせていない政治家のもと、識見の乏しい有権者による似非民主主義が展開している状況と言っても過言ではない。 

 そもそもわが国の近代化は、幕末明治草創期、欧米諸国による侵略阻止のため、早急になされる必要に迫られた。従って下からの近代化を待つなどの余裕はなく、勢いお上による上からのものとなり、それが後々の中央集権化を決定付けた。切迫した危機的状況が、日本の上からの近代化を促した。そして中央と地方は主従関係のもとで、地方は中央依存体質を甘受しながら、中央からの補助金を主体とする地方財政の構造が規定され、それを維持することが中央の地方統制を容易なものとした。このように中央と地方は、地方自治が骨抜きになる体制を暗黙裏に看過しつつ、持ちつ持たれつの関係性を堅持してきた。本来、「地方の時代」というフレーズは、中央(鵜将)が、補助金という赤い糸を地方(鵜)の首に巻き付け、鮎を呑み込むという自治活動をさせない操作の絡繰りを払拭し、地方が鵜飼い状態を克服することを意味する。今や国家財政が破綻寸前というなかで、中央政府も地方丸抱えの体制を維持できなくなり、地方分権化を、政府自ら声高に叫び出しているのが現実である。要するに地方分権は、80年代以降の自由化・規制緩和に沿った路線、いわゆる「官」から「民」へのシフトである。EU統合や銀行・地方自治体などの統廃合と、これらの諸事象に共通する背景に財政難という危機的状況がある。 

 「政治は力、力は数、数は金」すなわち「政治は金」という政治信条を永田町に定着させたのは、田中角栄であった。元々、民主主義とは、デモス(民衆)のクラトス(支配)という原義からすれば、多数による決定方式を意味する。従って民衆の質を問わずにデモクラシーを金科玉条とすれば、単なる「量の支配」となるのは必定である。 

 国家の場合も個人と同じことが言えると、岸田秀氏は以下のように指摘する。個人の人格は自我とエス(無意識)の二重構造になっている。自我とはこれが自分だとする、いわゆるアイデンティティである。この自我とエスとは対立関係にあり、この関係は激化する。それを回避し精神的安定を図るためには、絶えず外部に敵を捏造しなければならない。実際、世界には常にどこかの国を敵にしなければ、その国のアイデンティティが保てない国家が多数、存在する。人工的理念を設定し、その理念を普遍的に正しいと見なして設立された国家ほど、仮想敵を煽り自身を合理化する必要に迫られる。自由・平等・民主の理念を掲げ、原住民を大量虐殺して成立した人工国家はどこであったか。その国には、この理念以外に国家としてのアイデンティティを支えるものが他にない。しかも強大な軍事力を持っているから、なおさらに恐ろしいと。また、原田剛氏は以下のようにも指摘している。支配者が全面的に物理力や暴力の行使に依存するのは、不安定性を補償する必要がある時で、主として政治権力を樹立した当初とその崩壊の直前においてである。支配者はその地位を強引に引き伸ばす最終手段として暴力を行使する。支配の維持のためにもっぱら暴力に依存することは、「強さ」の表れというよりもむしろ「弱さ」の表れであると。果たしてこうした国はわが国との関係上、非常に近い所に存在しているのではないか。 

 さて、北朝鮮問題だが、中国を後ろ盾に、上手に大国アメリカと五分に渡りあっている北朝鮮に対し、日本は米国にごねるカードは北鮮より多く持っているはずなのに、いつまで米国の腰巾着をし続けるつもりなのか。中国も米国への牽制として北鮮を利用してきたが、いつでも見限る用意はしている。そうなると、益々、北鮮は暴走する。現在の東アジア情勢は、関ヶ原前の状況と似て相手の動向を見渡しながら、決断を決めかねている。そんな危うさを伴いながら、最悪のシナリオが待ち構えているかもしれぬ。北朝鮮がいつでも日本へミサイルを撃ち込めるぞとデモンストレーションすることが、日本に駐留している米軍への牽制となるのだ。北朝鮮にとっての核保有は、米国に先制攻撃させないようにするための切り札である。米国はイラク戦後、フセインイラクとアルカイーダとの繋がりがなかったことを自ら認めた。大量破壊兵器の存在も自国調査委で否定し、これでイラク戦争大義が全くなくなった訳だ。ならば、あの戦争は完全なる侵略戦争だったということで、国連及び国際社会はアメリカ及びそれに加担した国々を裁かねばならないのと違うか。それを何もせず放任しているのは、この世の中が完全に狂っていることの証である。また、わが国に原爆を2発も落とした国を後ろ盾にして、姑息な生き長らえ方を選択し続ける日本。日本人拉致問題は埒があかぬが、日本は、その昔、朝鮮人を強制連行し集団的に拉致をしていた歴史を忘れてはならぬ。 

 寂寞とした時代に我々は漂流している。ルサンチマンのレジームから逸脱できずに。アジアの不統一及びそれによって引き起こされる緊張関係をほくそ笑んでいるのはどこか。その国の何らかの操作が浮かび上がってくるのではないだろうか。またその国を動かしている軍産複合体制に突き当たるのである。イラク戦争が様々な陰謀によってでっち上げられ開戦されたことが、最早、周知の事実となった現在、ブッシュ及びアメリカの仕掛けた戦争が、犯罪行為として裁かれなければならないのは当然である。また、彼等にのこのこと追従した小泉純一郎は、当然断罪されなければならない。イラク戦争後の泥沼状況のなかで、日々、多くの人命が亡くなっている現実を見るにつけ、ブッシュのあまりにも愚かで稚拙で軽率な言行がもたらしたものへの憤りを痛感するのは、この私だけのことであろうか。日本では、偽装建築・偽装教育・偽装経営など、偽装流行りのここ10年だが、これら偽装の頂点に、偽装国家を展開させる偽装政治があることを忘れてはならぬ。 

 かつてフランシス=フクヤマは冷戦の終焉を「歴史の終わり」であると論じ、「資本主義が勝利し、社会主義が敗北した」と宣告した。あれから資本主義体制はほぼ全世界を覆い尽くし、マルクス主義は完全に過去のものとなった観がある。シュムペータは、「資本主義は生き延びることができるか。否、できるとは思わない」と断言した。彼は「資本主義が成功すればするほど、資本主義はその存立基盤を失っていくのではないか」と懐疑していた。「資本主義は生き延びるか」という問いに対するチャーチルの「民主主義は最悪の政治制度だが、他の制度に比べれば最もまし」という言葉を拝借すると、「資本主義は最上の制度ではないかもしれないが、これまでの諸制度に比べればまし」ということになろう。 

 資本主義は、競争社会を前提とし飽くなき利潤追求を至上命題とする欲望の体系である。初期資本主義は、ヨーロッパ、イベリア半島のスペイン・ポルトガルにより展開された。両国は、中南米をはじめ世界中の富を独占すべく、帝国主義の礎を築いた。18・19世紀はアダム=スミスの古典派経済理論による自由放任主義が社会的基調となり、小さな政府(=夜警国家)のなかで自由主義経済が追求された。自由と平等という両価値理念は、フランス革命などを経て近代市民社会を構築していく上でシンボリックなものとなるが、この両者は並立することが困難なものでもある。自由を追求すれば不平等になり、逆に平等を厳守すれば不自由になる。景気変動が許容範囲のなかで展開すればいいが、勢い逸脱行為がなされるとパニックに陥る。それが独占資本主義段階が深化していく19世紀終盤から20世紀にかけて顕著となり、1929年の世界恐慌を迎えるに当たり、アダム=スミスの「国富論」は資本主義経済理論の主役から後退していく。そしてそれに取って代わる資本主義延命化のための理論がカンフル剤的に注入される。すなわち、ケインズ理論による有効需要の創出であるが、この公共投資を重視する政策は、当時躍進していた社会主義的手法を利用するという苦肉の策であった。しかしケインズ政策による公共部門への過大比重により、その後、財政赤字が慢性的となり、80年代以降、「大きな政府」から「小さな政府」への復古がなされ、資本主義の原点の見直しが図られる。18世紀のレッセ・フェールが、あたかも「神の見えざる手」により半世紀を経た後、蘇生したのである。 

 戦後日本のアイデンティティは、「経済」立国であった。高度経済成長を経て、日本社会は大変貌する。村落から都市へ人口が供給され、産業構造が高度化していくなか、経済成長維持が図られていく地域社会の相互関係は、世界的には南(発展途上地域)が北(先進地域)の経済的繁栄に必要な資材を絶えず供給し続け、生み出される南北問題の構造と重なる。産業構造が高度化し、人口が村落地域から都市地域へと流動し、両地域における問題が相互作用のなかで深刻化していった。「外圧利用による構造改革」が、日本の生活関連社会資本整備にプラスとなったことを否定できない。日米貿易収支の不均衡が顕著になりだしていた昭和60年、ニューヨークでのプラザ合意が、その後の円高傾向を決定付けた。円高により国内市場における供給過剰が問題となってくるが、いわゆる内需拡大策が唱えられ貯蓄性向の極めて高い日本人への消費がより一層喚起されていくことになる。同時に消費行動を促すための休日の設定が週休2日制の導入によって図られていく。この実施はかねてから急務であった労働時間の短縮に、ひいてはそれが対日貿易赤字で嫌日感情を募らせていた米国や欧州先進諸国のジャパンバッシングを軟らげることに貢献するものでもあった。 

 経済立国日本にとり、慢性的労働力不足は深刻な問題である。この背景として、近年における少子化があげられる。少子化はまた労働問題と相関するものでもある。女性の職場進出が男女平等の理念のもと実現化するなか、夫婦共働きが一般化しつつある。それによって少産傾向に拍車がかかり、近い将来にはDINKs形態も市民権を得ようとしている。こうして、女性労働力確保による女性の職場進出は、新たな問題を提起することともなる。すなわち、先述の共働き夫婦が増加するなかで、出産を手控えようとする傾向が強まり、結果的に少子社会を助長してしまうという悪循環である。女性が子供を産み安心して働ける労働環境が、それを支えるべきはずの社会保障の未整備によりなかなか確保されないことによって、悪循環をより深刻なものとしている。このように労働問題・社会保障問題・人口問題は三位一体関係にあると言っても過言ではない。 

 90年代に入りバブル崩壊後、長期的に日本経済が沈滞化するのに対し、日本国内がメイドインチャイナで溢れかえる今、かつて中国大陸を軍事的に荒らし回り、負の遺産を残してきたわが国が、食料品をはじめ中国製品により報復されているかのようである。 

 非価格競争時代のかで、同一価格商品からの選別入手が、商品差別化を生む。大衆化のなかで、現代人が差異の見出しにくい均質的傾向を強めていき、個性の発露に苦慮するのと同様、現代市場も製品の均等価傾向が僅かの差異を創出し、利益を確保するための商品差別化につながる。従って均質化し没個性化する現代人は、他者との差異を表層的個性に見出そうとして、消費生活において偽装的に差異化された品を獲得し満足させられていると言えよう。 

 ソ連邦の崩壊後、核弾頭の解体処理が急速に進められているが、核開発に関わる技術や頭脳がロシアから世界に流出拡散し、核管理体制の杜撰さが大きな問題になっている。そんな折、北朝鮮金日成死去及びNPTからの脱退宣言、IAEAの核査察拒否と極東での緊張が高まるなか、米国は日米原子力協定で譲歩したわが国のプルトニウム路線を見守るしかなかったようだ。北朝鮮が国際的孤立化を辿るなかで、最後の切り札として核保有をちらつかせる現在、極東における日本の位置付けが微妙に変化している。もし、対北朝鮮ないし中国を考慮した米国の戦略上、日本にいつでも核開発(保有)へ転用がきく原子力対策が暗黙裏に検討されているのだとすれば、これは日米双方にとり諸刃の剣でもある。日本に咬ませ犬としての役割を担わせようとするなかで、日本自体が脅威の的になりかねないからだ。特に日米安保の見直しあるいは不要論までが取り沙汰されるなか、いわゆる「普通の国」を目指しながら将来、核武装化を踏まえたうえでのプルトニウム政策があるのではないか厳重に監視していく必要がある。 

 米欧による反文化相対主義の主張がなされ、それが逆説的にはナショナリズムの高揚にも繋がっている。冷戦崩壊がイデオロギーの終焉を決定付け、相対主義的動向に拍車をかけている。民族主義ナショナリズム)が相対主義的動向を象徴するのに対し、絶対主義的な動向はコスモポリタニズム(インターナショナリズム)という言葉に置き換えられよう。双方は人類史を通し、景気循環のように錯綜しながら競合しつつ交代が繰り返されてきた。社会が安定化に向かうとコスモポリタニズム的な気運が高まり、それが形骸化するなかで不安定で危機的な状況になるとナショナリズムが強くなる。湾岸戦争を契機に、アメリカ(傀儡的国連)主導の新世界秩序創りによる絶対主義的動向が再生される一方で、民族主義を代表とする相対主義的動向が顕著になり、地域紛争が展開してきた。また、ヨーロッパでは、斜陽化するパックス=アメリカーナと対抗するべく欧州連合を形成し、絶対主義的動向を示すなかで、ネオナチなどの相対主義的動向が懸念された。こうして、世界全体が絶対主義的動向と相対主義的動向の相克のなかで鬩ぎあいをしながら、幾重にも錯綜しつつ展開した。そしてテロ時代の幕開けを迎え、S=ハンティントンの『文明の衝突』論が喧伝された。そのなかで、冷戦後の世界を「西欧と非西欧の対立」と捉え、斜陽化する西欧世界に対し、台頭する非西欧世界への警戒を暗に仄めかした。これは、それぞれの文化に固有の価値を認めようとするいわゆる文化相対主義を逆手にとった、欧米による反文化相対主義の擁護でもある。西洋近代の見直しの産物である文化相対主義を、今、西洋近代の擁護として引き合いに出しているのである。また、中国を中心とした東アジアの高度成長が西洋の危機意識を募らせ、それと並行して東洋の見直しが進んでいる。 

 マルタ会談により米ソ冷戦構造に終止符が打たれ、社会主義というイデオロギーに閉じ込められていたナショナリズムが次々と噴出した。そして世界的に民族主義をバックにした地域紛争が続発した。ソ連邦崩壊後、アメリカが唯一の超大国として「世界の警察官」となり一極支配を確固とした。「悪の帝国」ソ連に変わる新たな仮想敵国づくりが必要とされた。その第一段階が湾岸戦争を通してであった。アメリカがイラン封じ込めのためモンスターに育て上げたフセインイラクがターゲットとされた。そして、それまで軽視されていた国連が、様々なかたちで利用された。わが国の国際貢献が声高に叫ばれ、封印されてきた自衛隊の海外派遣が通例となった。また、政治大国へ変身するための政界再編が次々と仕組まれ実行されていくなかで、諸種の「構造改革」がキーワードとなった。この間世界は、「軍産複合体」制の再構築をするべく、軍需産業の生き残りを命懸けでサポートしていたのである。 

 ナショナリズムという相対主義的動向と、アメリカニズムという絶対主義的動向が鬩ぎ合いながら世紀が変わった。テロも日常化しつつある。「軍産複合体」制の再構築が企てられ、我々は否応なしに、軍需産業の生き残りのため仕組まれる「永遠の戦争」や、アメリカの偽善的正義(普遍主義)を世界に押し付けることに利用される。イラン・イラクベネズエラ北朝鮮・中国・ロシアが連帯しているかの如くアメリカ一極支配に抵抗勢力として立ち塞がろうとしている。こうしたなか、日米同盟を後生大事に堅持し、いつまでも国民に対し偽り続ける政権党と、似非政権を後生大事に保守し、自分に嘘をつき続けようとする日本人の姿があった。日本はかつて福沢諭吉等の「脱亜入欧」論に乗じ、欧米列強(西洋近代)に伍し、白人支配の帝国主義路線の末端に参画しながら、近代日本を構築してきた。その結果、西洋近代を西洋にかわり大東亜に広げていったと評価され、不名誉にも日本(人)に対して「名誉白人」というレッテルが下賜されたのではなかったか。そして今、日本では「脱欧入亜」論が叫ばれ、日米安保体制との鬩ぎあいが高じつつある。アメリカはアジアシフトを念頭に置きだした日本を警戒しながらアジア外交を展開している。米国の一極支配にとり気懸かりなのは中国の台頭であり、その中国をいかに封じ込めていくかが今後における米国の外交主題の第一となる。また近代(米欧)とポスト近代(アジア)の間で、両者を曖昧な(アムビギュアス)姿で共有する日本は両者の「文明の衝突」による終末を回避させる鍵を握っている。あるいは、両者の摩擦による軋み回避のため、両者が連合してJバッシングという防衛規制を働かせ、日本はいつか来た道を辿らされるのかも知れぬ。日本の外交三原則のうち、「日米基軸」「アジアの一員」という二原則を満たすために、片足は米国もう一方の足はアジアと、異なる二本の足で倒れずに前に進むのは容易ではない。 

 “山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。”かつて漱石が山路を登りながら、智=近代西洋と情=前近代東洋の板挟みに苦悶した時と同様に、日本は西洋(米欧)と非西洋(アジア)の狭間で、今後益々葛藤を余儀なくされるであろう。

 

【関係性について  】 自分に直接、関わりのないことに対して、人はとかく鈍感になるものだ。しかしひとたび、わが身に害が及んで来たとき、安穏としていた自分が豹変してしまう場合がある。私は嘗て山奥にある職場に赴こうと、絶壁の連なる渓谷を何年も通勤ルートとしていた事がある。そして、その絶壁が大雨により崩れて、私の眼前で道路を塞ぐ程、土砂が降り積もった事があった。もし、その崖崩れに丁度、遭遇していれば、車ごと土石の山に埋もれて命の危険に曝されていた事だろう。それを寸でのところで免れたのだ。それ迄、何も感じたり思わなかった事が、それを機に、心の底から湧き上がってきた事を、今も忘れない。崖の安全を確保していない行政姿勢を怠慢だと、かなりの怒りを込めて誰彼となく語り告げていた事を振り返る。自分自身に命の危険が迫る程の、所謂、人権侵害が身に迫ったレベルにならない限り、そうした思考や行動には至れないのだという事を、思い知らされたものでもあった。 

 踏まれた痛みは踏まれた者でないと本当のことがわからないとよく言われる。広島・長崎、あるいは沖縄の人々に関しても同様のことが言えるのではないだろうか。原爆を投下され犠牲となった広島・長崎の人々にとり、加害者への恨みは一個人に対してだけでは済まず、加害国及び戦争に関わった全てに向けられてもいくのである。大変な人権侵害を受けた側にとり、その痛手や心の傷あるいは加害者に対する恨みは、永久的に続く。従軍慰安婦問題や北朝鮮拉致問題が簡単に解決されないのも、日本と朝鮮半島との過去の関係史がそうさせているのである。日本の一時期において諸外国に対し甚大な被害を与え、その責任を我々も含め今も問われ続けているのである。 

    森田療法では、囚われからの解放を最重要視する。囚われは、仏教の開祖釈迦も煩悩の原因として「執着心」が関わるとし、その克服を修行の第一義とした。また、釈迦は当初、悟りを開くための苦行を必要不可欠と考えていたが、最終的には極端な苦行を避け、「中道」を旨とすることが悟りへ到達する近道であると説いた。これは、ギリシア哲学の集大成をしたアリストテレスの思想にも共鳴する。彼は、先達のプラトンソクラテスの哲学を基に、両極端を避けた「中庸」の徳を唱えた。

 

【映画サバイバル術】 私が嘗て名作と認めたものは、チャップリンの『モダンタイムス』だった。

 マネをするのはその対象への劣等感の裏返しである。真似をしたい相手と自分とを見比べ、見すぼらしい自分を嫌悪すると同時に、格上の相手を憧れそれに少しでも近付きたいという思いが惹起する。そして、モノマネ対象の相手をよく観察し、物真似をしようとするのだ。従って、「変身」するということは、自分への自信の無さの現れであり、そうした自分を何とか変えて、モノマネ対象と一体化を図り安心したいという心理なのではないか。変身願望はコンプレックスの反動であり、ある意味、脆弱な自分を強化したいとする向上心なのである。

 日本もこうした変身願望を何度も抱きながら、歴史過程の中で進化を遂げてきた。古代史においては、到底歯が立たない相手だった隣国中国へのモノマネからスタートする。近代以降は、マネをする対象が欧米列強へと変わった。その際、それぞれの真似対象への強烈な劣等意識と、近付きたいとする変身願望が同時に募って行ったのではないか。

 私自身もそうしたコンプレックスと変身願望を抱き続け、高校2年時に遭遇したブルース・リーへの憧れと彼へのモノマネを、学生時代の少林寺拳法との出会いを通して具現化しようともがいていた様に振り返る。  我々の欲望の代表格として、「変身願望」は付き物である。然りとて、なかなか変われない現実の自分から、暫しの脱出を図るべく、映画の世界に逃避行する。私が映画好きなのは、こうした表れなのかもしれぬ。 

 死ぬことすら選択できない生。その昔、映画「ジョニーは戦場へ行った」で考えさせられたものであったが、意思表示が全く閉ざされた状況下で、人はどうすればいいのか。 ALS患者は、正しくジョニーと似た存在だ。現在の日本においては、人工呼吸器を尊厳死だとか安楽死だとかの理由で取り外すことは違法行為となり処罰の対象となる。それ以上に世間からバッシングされ、爪弾きにされてしまう。オランダでは尊厳死が既に合法化されている。 「死に逃げ場を求めながら、それができない状況下で、如何に生きるべきか」を示唆してくれたジョニー。毎日ボヤキながら「精神的に死に体状態で存在する」自分が情けない。  「人間は合理化する動物である」。合理化とは精神的ストレスから身を守る防衛機制の代表格。私もよくこれをやりながら今まで何とか生き延びてきた。これからもこれをやり続けるだろう。やっていることに「意味付け」する、これをしないとやってられなくなる。果たして、ジョニーの生きる意味付けは如何に。  ジョニーは、完全に閉鎖された身体世界の戦場で、狂わんばかりの精神を武器にして闘い続けていた。それが彼にとっての唯一の生存証明だったのだろうか。  設定は違えども、誰も頼れない閉塞空間で、己の精神的葛藤と対峙して、最後に自身の腕を切り落として解脱するストーリーが「127時間」。ケイブに落ち、右手を岩間に挟まれ身動きの取れなくなった冒険家が、四苦八苦した挙げ句、右腕を自らの手で切断し、脱出生還するという、実話に基づくサバイバルものだった。「死の恐怖」に直面した主人公が、何とか精一杯の力を振り絞り、窮地から抜けようと足掻き藻掻く様は、臨場感を刺激され見ている者を釘付けにする。自分なら、いざこんな時、どうするだろうと、考えさせられる。閉塞された空間でサバイバルを図るのだが、人間追い詰められると、最後は「やけくそ」となり、普段、想像も付かないとんでもない行為をしてしまうのだなと、見ていて思わされた。死に直面し、それまでの何気ない日常の有り難さを痛感し、半ば諦めながら、尚も生きたいと思い続ける主人公。有らん限りの体力と知力を駆使して、生き延びようとする。その過程で、途中、死への恐怖と疲労が錯綜する。その恐怖を睨めながら、感覚麻痺が漂い、追い詰められて自棄糞(やけくそ)になる。  我慢し続けることから惹起する耐えられない疲労感。これから解放されたい一心で、「最後の審判」を迎えるのだろうか。戦争が正しくそれだ。
 我々は理想と現実の狭間で矛盾を睨めながら生き続ける。そうした根本的課題を提示してくれた作品が「プラトーン」であった。ベトナム戦争で主人公の若者が対照的な二人の人物に大いに翻弄される。戦場においては柔な人道主義を捨て、現実的に身を処していかなければならないとするA、それに対していかなる場合であろうと人間性をなくしてはならぬと主張するB、二人は事あるごとに真っ向から対立する。次第にBに感化され同時にAに対する敵愾心を強めていく主人公であるが、BがAに殺されたことを知り、とうとうAを撃ち殺してしまう。我々も「人生プラトーン」なのだ。人生という戦場で、映画プラトーンの主人公の如くA(現実)とB(理想)の狭間で煩悶しているのかもしれぬ。人間性がどうのとBに洗脳されたくもないし、Aに撃ち殺されたくもない。  「小熊物語」や「薔薇の名前」で有名な映画監督ジャンジャックアノー。小熊物語は息子に生まれて初めて見せた映画。その次は、息子と初めて映画館で観た「フック」。薔薇の名前はウンベルトエーコ原作の話題作だった。この作品では中世社会が崩壊していく前夜が描かれている。正しく人間中心主義への復古"ルネサンス"目前。そこでは「笑い」が一大テーマとなる。まだキリスト教という彼岸志向に影響されていない古典古代を代表するアリストテレスの書籍などが禁書となり、笑いなど人間性の封殺にする教会の内情悪戦苦闘が描かれる。大笑いに変化する近代以降、文明化が促進され環境破壊が繰り広げられてしまった。抑えきれない人間の「欲望」が、パンドラの箱だった。因みにエーコは哲学者だが、私の机上に積ん読されてる「永遠のファシズム」で彼の思想が垣間見られる。  キリスト教エスを描いた作品で僕の好きな永遠ものは、「プラトーン」でお馴染みのウィレムデフォーが演じた「最後の誘惑」。イエスを一人の「人」と捉え、彼も俗世間の僕達と同様、エロい存在なんだと安心させてくれるのだが、果たして彼は人間なのか「イエスおあーノー」、やはりイエスだろう。  「ライフイズビューティフル」の主人公グイドはそんな金とは無縁の存在で、彼にとって大切なことは別の次元のものであった。何の変哲もない日常のなかで、彼は夢のような非日常を創り出していく。別に金がなくても、ちょっとしたユーモアのセンス、ちょっとした相手に対する思いやり、機転があればライフいずビューティフルになるはずだよと、基本的なことを教えてくれたような気がする。自分の置かれている環境がなんて幸せで甘いものかを見せ付けられる。夢のない自分が嫌になったりもする。どんな環境に置かれても、その人の考え方ひとつで全然違った世界が展開するという、基本的なことを教えてもくれる。主人公のような本当の強さを持てるよう、自分をなんとか少しでも変えようと努力したい。  幾つものハードルを乗り越え、自分の求める自由世界へ歩み続ける。ふと、その昔見た映画「蜘蛛巣女のキス」にも、こんなモチーフが隠されていたように振り返る。
 感動する映画の基本パターンは、始め年老いた主人公の現在シーンからスタートし、回想して過去に遡っていき、そしてまた現在に辿り着くというやつ。「タイタニック」、「イングリッシュ・ペイシェント」も然り。「嵐が丘」、「ダウンタウン・ヒーローズ」、そして「野菊の墓」も。ダウンタウンヒーローズは、母校を舞台に中村橋之助演ずる主人公と、薬師丸ひろ子が扮するマドンナとの、淡く切ない恋心を描いている。山田洋次監督が、先般、亡くなった早坂暁の脚本を映画化した秀作。オンケル役の柳葉が好演していた。旧き善き時代の旧制高校や松山の風情が、人情味あふれる情景として描かれていた。薬師丸の歌う「時代」を、なぜエンディングで使わないのかと、とても残念に思った記憶がある。これは挿入歌というより、たぶん映画のコマーシャル用としてあったのだろう。
 こうしたパターンではなく、圧倒的感動を与えたものもあった。高校生の時見た「燃えよドラゴン」。圧巻であった。今まで見たこともない超(鳥)人「ブルース・リー」。圧倒的迫力とは正しく彼のために用意された言葉だった。彼に多大な影響を受けた。ブルース・リーの生誕70周年が過ぎた。存命中なら、今、彼もいい歳だろう。よぼついた彼の姿など、想像したくない。超人的な身のこなしに、目を疑った。彼は私の憧れの的となり、学生時代のヒーローだった。彼に近付きたいと、よく物真似に没頭し、武道系サークルにも所属して、飛び跳ねた。彼の魅力に吸い込まれ、影響される人物の最右翼となった。  それにしても男を二つ書いて、その間に女が書かれてる字が「嬲る」なんて知らなかった。よく考えたもんだ。僕は男一人だけのナブりの方が絶対いい。男2人だったら、女を奪うために殺し合うかも。これは「嵐が丘」の本質的テーマに通じる。ローレンス・オリピエ演ずるヒースクリフは僕自身かもしれない。最愛の存在(マール・オベロン演ずるキャシー)を独占せんがために、その存在を嬲り続ける。
ニーチェは、魔性の女「ルー=ザロメ」の魅力に嫉妬した。彼を無力化(=骨抜き)するほどの得体の知れぬ魔力。その所有者である彼女にメロメロになってしまった。非凡さに更に研きをかけたものが、彼女に対する嫉妬心であった。それが創造力の源泉となった。彼女を独占することが可能であったなら、「ツァラトゥストラ」の誕生はなかっただろう。彼女に翻弄されたニーチェだったが、「欲望」の獲得挫折が、人の潜在能力を呼び覚まし、芸術なるものが創造される。ルー=ザロメの魅力は、ニーチェの非凡な能力を開花させる触媒であったのだ。彼の狂気にも似た才能は、彼の性的嫉妬によりアウフヘーベンされたのだ。ニーチェを袖にしたルー=ザロメは、ショパンが恋した永遠のジョルジュ=サンドと比肩され得る。両者の共通点は、関係する男性の能力を高めたことである。男性能力とは、性機能というより文化的創作能力である。ザロメに失恋したニーチェは、その絶望により彼の代表作「ツァラトゥストラ」の創作に着手する切っ掛けを掴んだ。これは、性交渉の途絶による反動が、芸術創造に関わった象徴的事例である。ショパンも、自分にはないジョルジュ=サンドの自由奔放な生き方に触発され、彼の文化的創造力を大いに掻き立てられることになる。ショパンのサンドに対する求愛行為を逆撫でするような彼女の男性遍歴が、ショパンの嫉妬心を燃えたぎらせ、それにより彼の偉大な作曲活動が増幅されたのであった。エミリー=ブロンテの傑作『嵐が丘』で描かれた人間の根源的テーマも、ニーチェショパンが翻弄された、異性に対する「嫉妬心」が引き起こす「エネルギー」であった。
 ローランド・エメリッヒもだが、スケールの大きい作品を手掛ける点で、ジェームズ・キャメロンの右に出る監督は少ない。彼の代表作は、何といっても「タイタニック」。感動したのを今でも覚えている。セリーヌ・ディオンの切ない歌声が、この映画にはピッタリだった。また、主人公を演じたデカプリオが初々しかった。   その昔、映画館でよく話題作を見たものだ。次から次へと、飽きさせないよう、だれないよう仕掛け満載で、これでもかこれでもかとジェットコースター方式の展開は、スピルバーグ作品から始まったと振り返る。しかし、何十年もそうしたパターン映画を見せ付けられてくると、さすがに慣れてきて、逆に辟易とした感じとなる。感覚が麻痺してしまうというか、感動が拡散されるというか、正しくピンボケしてしまうのだ。  最近、見た後、内容が思い出せないくらい、何を見ていたのだろうとピンと来なくなって来た。刺激はあるのだが、感動せず、印象に残っていないのである。一体なぜなのだろう。自分の健康状態や体型に対する認識も、現状に慣れてしまうと、感じなくなってしまうというのが実際だろう。ネット配信の動画を視聴するのが普通となり、映画館に全く足を運ばなくなってしまった。

 

【一娯一画】

絶世の美女とよく言われるが、絶世の美男を一人だけ挙げよと言われたら、私にとりそれは「アラン・ドロン」だ。未だに、彼を超える美男は出て来ていない。彼の出世作は何と言っても「太陽がいっぱい」。映画だけでなく、コマーシャルにも出ていた。ダーバンのCМで、彼のフランス語がカッコ良過ぎた。よく真似をしたものだが、「ダーバン・セセレガン?(こう聞こえたのだが)…」鼻から抜かすフランス語の真骨頂だったように思う。          最初、彼の名前を耳にした時の違和感を思い出す。 「アラン・ドロン」って、人の名前? 忍者の忍法みたいな 何かの呪文の様な 兎に角、変な感じだった。
ゾロが最後にフェンシングで「Z」ってやるのを小さい頃、よく真似してたな~。懐かしい!。風呂敷包みをマント代わりにして、紙で作ったサングラス掛けてゾロの格好して成りきってたね。僕が馴染んだのはアラン・ドロンのゾロ。スペインのバンデラスがやったリメークものも良かったね~。今、ゾロなんて言うと「ゴキブリ」の代名詞になってるけど、ゾロゾロと複数形の意味合いなんだろうが、濁点無くてもいいんじゃないかな。ソロソロの方が静音で、気付かれない感じだけど、何か迫力無くて、スピード感も無し    アラン・ドロンも尊敬していた日本のアクターは、「三船敏郎」だ 彼は「世界のミフネ」とも言われ、世界的に名を馳せた 私にとり日本の男の代表格は三船だ。未だに、彼を超える「ザ男」は、いない 彼の名を世界に知ら占めたのは黒澤作品だろう 三船在っての黒澤、黒沢在っての三船とも言える 出世作は何と言っても「七人の侍ジョージ・ルーカスがスター・ウーズで、「ダース・ペイダー」役を三船に考えていたそうだ 仲代達矢も、三船から大いに感化されたと思われる  この両者が時代劇の真骨頂「用心棒」で共演し、迫真の殺陣演技を披露した 彼等の様な迫力ある男らしい役者は、もう出て来ないのではないか 三船も戦争で軍隊経験があり、野性味溢れるキャラクターは そうした時代性を反映したものとも言えよう その時代が、その時代を代表する俳優を生み出すのだ

ジョージ・ルーカスのスター・ウーズを初めて観たのは、18か19だったと思う 多分、兄嫁の妹と映画館で観た 座席は前の方だったように記憶するのだが ルークがダース・ペイダーの息子であるというエンディング この第1作がその後、40有余年も続く幕開けになろうとは 正しく、「宇宙的」映画だ 途中、ストーリー展開が理解できず混乱し掛けた事もあった 主人公がルークではなく、父親のダースベイダーにシフトして その生い立ちなどに様々な広がりを見せて行った 後付け映画の代表作であり、続編に次ぐ続編で長寿映画の草分け的なものとなった 興行収益は如何程だろう
仲代達矢も三船同様、黒沢監督に感化された名優だ  その時代が、その時代を代表する俳優や監督を生み出す 仲代は三船に次ぐ時代劇の名優 三船が野性味溢れる演技をするのに対し 仲代はクールで品格のある重厚な演技力が冴えわたる 体がぶれずに刀を持つ立ち姿や、歩き方など 今の役者では熟せない所作が、彼なら出来る そして、声の張りと腹の座った低音が痺れさせる 私を痺れさせたものは、「雲霧仁左衛門」だった 彼が立ち上げた「無名塾」から役所広司等が出ているが 仲代を超えるまでには至っていない
そして名優は、現代劇でもその名演振りは変わらず 「人間の条件」などは、彼の名を銀幕史に深く刻み込んだ
私が今見たいものは、仲代助演の「ハチ」だ

篠田三郎は最初、丸坊主の野球選手役(サードだったか)で見掛けたのが最初だった。その時の印象は、クールで面白味の何も感じさせない役者だった。それが変わり出したのは、大河ドラマの「花神」で、吉田松陰役を演じてからだったと記憶する。松陰イコール篠田と思わせんばかりの、嵌り役だった。そしてそれが更に磨き上がったものになったのは、「大日本帝国」で彼が演じた京大生の役だった。戦争反対を主張していた江波が、徴兵された後、戦争の現実の中で変わらざるを得なくなる。そして、最後に軍法会議で、戦争犯罪を問われ、フィリピンで処刑されるのだが、その直前に夏目雅子演ずる彼の学生時代の恋人京子との別れのシーン。そして、刑場での彼が最後に口にして叫んだ意味深な言葉。圧巻だった。その言葉の持つ意味を、教室で生徒にきちんと説明しようとしたのだが、子供たちにどれだけ理解されていたか、大いに疑問の残るものでもあった。