チッポ家な夢

チッポ観察日記

お父さんの秘密②


映画『沈黙-サイレンス-』本編映像”神と仏陀”

 また、お父さんの変な書き物見付けちゃったよ。何か、独り言を呟てるみたいで不気味だけど、何処か郷愁を誘うところもあるのかな。読者の皆さんには、特別に一部、紹介するね。何か感じた事があれば、最後のコメント欄に書いて下さいね。それでは、どうぞ御覧あれ。         

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【はてさて、是からどうしたものか】
 人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句をろう弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己のすべ凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる書家となった者が幾らでもいるのだ。己は書によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて書友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共wに、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。人は菩薩と羅刹この両方の顔を持ち合わせてる。 
 

分からない事】

 分からないことは、分からない者から聞いても、結局、分からない 。そうしたことが、此の世には、本に多いことか。「宇宙の果てはあるのかないのか」から、「なぜ、生きているのか」などなど、話したって、「どうしようもない」だろうが、となる話が、何ともごまんとある。それらに対しては、自分なりに自分で答えを見出していくしかないのだ。そして、絶対に、解決などできやしないということは、悲しいかな、それだけは分かっている。「イエスは人間ではなく神だ」なんて言われても、こんな私には分かりようがない。「聖母マリアが、男性との関係を持たず、受胎した」なんて、一体、どういうこと。そんなの作り話だろ。だが、その作り話が、世界を支配し続けてきた。分からないことだらけだ。キリスト教だけの話じゃない。「日本の天皇」だって。有り得ないことが、此の世には、実際にたくさん在るのだ。不思議がることもないのだろうが、摩訶不思議な世の中だ。分からないことばかりの世の中で、分からない自分が在る。「有り難い」というこの言葉が、最近、身に染みる齢になりかけてきた。この身は確実に物理的法則に従わざるを得ない老朽に晒されかけ出した。後、何年だろう。分からず仕舞いに人生の幕が開いたのだから、終末も然りだろう。これで由とするか。この記跡を、見る者は、家族か。それとも。誰にしろ、私の思いは、大なり小なり、誰にでも付きまとうことであるものかもしれぬ。そうした思いを、何らかのかたちで表出したいという、止むに止まれぬ慟哭とでも言えようか、人間のやるせないパトスか情動かを、お互い汲み取ってもらいたいのだ。「共感する」ことに、人は飢えているのだ。 

 
【宇宙と私】
    宇宙から地球を見たら、私の存在は無に等しい 地球の存在は確認できるが、その地球上での営みは全くと言っていい程に見えない 宇宙から眺めた地球は、無音で存在している 地球上での人間の存在は、遠くからは全く確認すらできない 北朝鮮の核ミサイルが発射され、それが切っ掛けで第三次世界大戦が勃発しても 宇宙からは何も確認すら出来ない 私が生まれ四苦八苦しながら人生を終わろうとしても 宇宙はそんなの関係ないと言わんばかりの様相だ 私がどんなに喚(わめ)こうが、そんな事はお構いなしで宇宙はあり続ける こんな感じで私が生まれるずっとずっと前から、宇宙は地球に何のお構いなしだったろう そして、私がこの世から居なくなっても、ずっとずっとこの宇宙は地球に目もくれないだろう だが私にしても、宇宙について何のお構い無しでいるのだ 私がこの世に生まれる前の宇宙なんて、全く知らないし 私がこの世から消えて亡くなった後の宇宙なんて、知る由もない だからお互い様なのだ
 
【私が死んで泣いてくれる人は】
    私が死んで泣いてくれる人は、妻と息子の二人だけ この二人を泣かせたくはないが、この二人だけには泣いて貰いたい 私の墓の前でこの二人は、涙するだろう 私はこの二人だけには、絶対に先立たれたくない 私はこの二人に先立たれ、絶対に泣くのは嫌だ 妻と息子の墓参りだけは、絶対したくない 私のために涙を流してくれるのは、この二人だけ 私のために泣くのは、この二人だけでいい
 
【変わる時、変わらない時】
   変わると驚き、.心が動く 変わらないと退屈で、心が沈む 変わると不安になり、心が乱れる 変わらないと安心し、心が落ち着く 変わると目を引き、心が躍る 変わらないと見向きもされず、心が折れる 変わると焦りが出て、心が疲れる 変わらないと安穏とでき、心が休まる 変わると何かが見え、心が開ける 変わらないと留まり、心が籠(こも)る 変わるのも変わらないのも、努力がいる。
 
【チポと私】
 私の今の生活に欠かせない存在は、5歳になるトイプードルである。私はビーグル好みで、あまり毛むくじゃらじゃないワンコが良かったんだが、5年前のゴールデンウィークの最中、ペットショップからこの家に引き取り、その後、溺愛関係が続く。体重はちょうど5㎏程で、この家に来た当初から比べると、3倍以上になっちゃった。手足も長くなり、スマートボディーでみんなを悩殺している。何時も私の傍に居てくれて、私を見守り続けてくれている。愛犬の名前は、「チポ 」。正式な呼び名は「チッポ」だが、チポと呼ぶ事の方が多い。ポチの反対のチポ。私の妻が名付け親だ。その昔、本当の息子に子供の頃、時々呼んでいた愛称だった。黒猫を飼っていた幼年時代を、ふと思い出す。名前は「ミーコ」だったかな、何時も抱っこして遊んでいた。可愛過ぎて、最後はいびり倒すパターンだった。愛猫に時々イタズラしてたように思う。中高時代は、ポインター猟犬とビーグル犬のあいの子ような「ジョン」を飼っていた。その犬は、何処かからフラッと我が家に舞い込んで来て、何時の間にか家族となっていた。私はそのジョンに対しても、可愛がり過ぎて、苛めてしまったりする事もあった。最後は、ジステンパーか何かの病気に罹ったのか、体が硬直して惨めな姿になって死んで逝ったのを忘れない。チポとの別れは…、考えただけでも涙ぐんでしまいそうになる。
 チポは何かをガジガジ齧っていないと落ち着かないタイプだ。ストレスが溜まって来ると、よく齧り出す。昔、私の帽子の金具を囓っていたら、いつの間にか穴が開いてたり、こんな感じで、いろいろなものを囓りまくってボコボコにされて来たが、ファスナーの金具の噛み心地が最高だったみたいだ。でも、今では、チポはこの家には無くてはならない主人公だ。私達夫婦はチポが可愛くて仕方がない。チポも我々夫婦が大好きで甘えてばかりいる。甘えん坊が過ぎてオモラシしたりして時折、困らせられたりもしている。
 チポは当然、喋れない。チポに私のメッセージを送り、私の「言葉」を汲み取ってもらう。大体、私の気持ちは伝わっている。だけど、やはり人間の言葉が理解されず、よく誤解されるもととなる。例えば、こんな事がしょっちゅうある。チポは喉が渇いて水が飲みたくなると、私の口元をペロペロ嘗め回し、一生懸命、その要求を伝えようとする。最近は何とか理解出来るようになったが、それまでは違う捉え方の連続だった。チポの私に対する親愛の情として愛情表現メッセージの全てだと理解し、なかなか水場へ行かせてやれなかった。おまけに、誤解した私は、あろうことにチポの気持ちを逆なでする行為をした事もあった。チポのメッセージツールとして、吠える・オシッコする・クンクン鳴く・グーグーを銜える・爪でガリガリ引っ掻く・ウーウー鳴いて威嚇する・尻尾を振る・体をスイングする・仰向けに寝転がる・ピョンピョンジャンプするなどなど、様々なバリエーションに相応してこれらの仕草を使い分け、人間との関係を良好に構築しようと日々努力している様だ。あ、それと忘れてはならないものがまだあった。「目」。目は口ほどにモノを言うって、人間世界には諺にもなってる。チポ達、動物にとっても、目は大切な意思表示ツールみたいだ。人間も動物も共にアイコンタクトは重要だ。
 私は退職後、一日中、チポとベッタリしている。でも飽きない。相思相愛。勝手に思い込んでいるのかな。もう今では犬(動物)とは思えない。ちょっとウザイ程で、この私を相手しているとホントに疲れるだろう。「お母さん、助けてー」と、チポの声が聞こえてきそうだ。溺愛関係が続き濃厚なスキンシップがエスカレートして、怪しい関係になったりもしている。これからも末永く、チッポ様に忠義を尽くすのでどうぞヨロシクね。
 可愛くて可愛くてどうしようもない。この感情が人生において最大のテーマ。最愛の対象へ「可愛い」と何度も呟いた。更にその対象を何度も抱き締める。そしてこんな様に食べてしまいたくなる。目玉親父はこの私自身でもあるのだが。
 
 この歌は「みんなの歌」で
八神純子の体験をもとに作られたものだ
最初、聴いた時は、涙が流れて仕方なかった
愛犬を失くす迄のプロセスが、上手く曲になって
感情移入できる歌になり、追体験出来るものだ
私とチポも何時かはこうした別れを迎えなければならない
愛情が深まれば深まる程、別れの哀しみもその深まりは底無しとなる 
 退職後、日がな愛犬と共に一日を過ごす中、今迄、何気なく見過ごしてきた事に気付かされている。当然ながら愛犬は言葉を持たず、その要求を飼い主は様々なサインで汲み取る。そのサインを読み間違う事も度々だが、概ね以心伝心で関係構築を図る事ができる。より良好な関係を作るには、物言えぬ存在の心を察していかねばならない。寡黙な愛犬も、自分の要求を相手に伝えたい場合は、目を見開き大きな甲高い声を発し、何度も吠える。我々国民も、そのほとんどの者が、愛犬の如く飼い主に身を任せ、物言えぬ存在に成り果てているのではないか。政治指導者は、我々の要求をどれだけ受け留めているだろう。
 
【「痛い」こと、これが僕にとって一番嫌な事】
 要するに、苦痛が不幸の原点だと思う。私は「快楽主義」かな。苦痛が幸福だなんて、そりゃぁマゾヒストの何者でもない。普通はね。痛いのは嫌だし、そんなことに関わりたくない。もし愛犬が脚折ったりして、「キャイーンキャイーン」と 泣き叫び続けるシーンを想像してみろ。絶対、見るに忍びない。痛がる仕草を見るに堪えないし、だからドウシヨウモナイ場合に、苦痛を味わわさないで済むよう、薬殺とかの殺処分が考えられるんだし、しかもその際、出来るだけ苦しまなくて死なす方法を考えちゃう。更に、自分の最愛の人間が事故に遭ったりした場合、そして最悪の状況になった場合、「最後は苦しまなくて亡くなったかどうか」という事が、一番気になる点だと思うんだよね。苦しみを味わわずに逝ったなら、少しでも救いとなる。納得がいく。結局は、これなんだと思う。ジェレミーベンサムの考え方になるのかな。すると私は「功利主義者」か。

 功利主義の先駆者ベンサムは、幸福とは快楽であり、不幸は苦痛であると捉え、苦痛を避けることが人間にとり善的行為であると解釈している。すると、善的医療行為とは、まずは苦痛の除去であることになり、刺激に対する反応が弱まるように仕向けることを旨とするようになる。麻酔をかけたりする行為はその典型で、末期ガン患者の激痛を和らげる際に使用されるモルヒネ投与はその代表となる。患者が痛みのどん底に突き落とされ、その状態から解放されず終いであること程の苦しみはない。その苦痛が幾らかでも和らげられれば、患者にとってそれは地獄での責め苦からの解放とまで感じられるかも知れぬ。苦痛という責め苦が永遠に続くことほど、失意に苛まれることはない。それはすなわち人間にとっての最大の不幸事になる。死刑(閲覧注意)という極刑を犯罪行為を防ぐための抑止力とするのは、一般的にそれが人間にとり耐え難く苦痛をともなうものであり、そして最大の恐怖になるからである。そう、苦痛は恐怖であり、肉体的苦痛・精神的苦痛は人間をはじめとする高等動物にとり、避けるべき一番の対象ともなる。苦痛からの逃避は、人間に安らぎを与え安定化をもたらすということになる。精神的苦痛は精神病患者にとり忍びがたいものであるが、抗うつ剤などの薬剤はそれを緩和し精神的苦痛からの解放を導き出す。それがさらに高揚感などを誘引するに至れば、麻薬的効果を与えることにもなりかねない。苦痛は患者本人だけのものとは限らず、患者を取り巻く家族や関係者らのものでもある。患者の肉体的・精神的苦痛を直視させられる親族の精神的苦痛も、患者程ではないにしろ結構なものである。その苦しみからお互い解放されたいという衝動が、安楽死への衝動へと駆り立てる。苦痛に苛まれる患者を看るに忍びないという患者の親族や担当医らは、その精神的苦痛からの解放を待望し、そうした思いは多分に彼らのエゴに立脚するものでもあり、患者からすると迷惑千万な場合もある。また、苦痛を感じる動物ほど、高等動物の証明となり、人間並に扱おうとする心理が働くのではないか。アリや蚊を造作なく殺生できるのも、我々が彼らに苦痛を感じる能力を見出せないからであろう。

 

【納得がいくかいかないかなのだ】 

 平昌冬季五輪も佳境を迎えようとしているが、最期の勝負で金と銀の分かれ目に立たされた者達。彼等の胸の内に去来するもの。それは、納得できたかどうかだ。金メダルを逃しても、自分なりに精一杯力を出し尽くして負けたのなら、それなりに敗北を受け入れられる。だが、納得いかぬ結果なら、なかなか受け入れられぬものとなる。こうした追い込まれた際の「納得」が、人生における全ての場面で見受けられるものなのだ。例えば、究極の断末魔に際して、死を受け入れられるかどうか。それも、理不尽で不条理な理由で死を余儀なくされたりした場合はどうだろう。こうした事も、それまでの生が納得いくものであるならば、ある程度の諦めがつくのではないか。それができなくなるのは、何らかの理由で納得がいかないからである。それでも折り合いをつけて遣り過ごさなければならない。要するに「気休め」を図るのだ。カッコよく言うと、「合理化」するという事である。

 

【ヤケクソ】

 米国の高校で、銃乱射事件が頻繁に起こる。発砲する連中は、自身の遣る瀬無さを他に当て付けて発散していくのだろう。当て付けられて、銃殺を余儀なくされる者達の無念さを、当て付ける側はサディスティックに受け留め、ほくそ笑みながら自己満足するのだろう。取り返しのつかぬことを遣らかす場合の、概ねの心理状態は、ヤケクソという事だ。最後のところで、このヤケクソがパワーとなり、普段、出来ない想像もつかぬトンデモナイ事を仕出かす元凶ともなるのだ。  さて、学校での「いじめ」問題は、それを遺書を残しての自殺となると厄介な事になる。自爆テロならぬ自殺テロなのだ。自殺は他殺とは違えども、本質的には「暴力」による「命の与奪」という点で共通の「悪」である。現実には、いじめによる自殺者は被害者(=善人)と看做され、全ては自殺を誘発させたいわゆるいじめた側を絶対悪と断定し、その後の論理が展開する。人は大なり小なり「恨み辛み」を抱きながら生きているものだ。それを自分なりに折り合いを付けながら、遣り過ごしていく。そうした術の駆使が可能でない者は、ストレスを鬱積させ、他者への当て付け行為に逃げ込もうとする。それを正当化するため、大義名分を持ち出す。単なる自死では余りにも情けなく且つ自身の魂が浮かばれないからだ。遺書を残しての自殺や聖戦に名を借りた自爆テロなどがそれである。しかし、そうした行為を当て付けられた側は、たまったものではない。  以前、殺人事件での裁判で、何とも言えないコメントが発せられた。殺害動機を問われ「人を殺してみたかった」とは。一昔前、「何故、人を殺してはいけないのか」という一見、馬鹿げた若者達の発言が、世間の注目を浴びた。また、その質問に対し大人達が返答に窮するという事の方がより物議を醸した。他者に向けられた殺害行為は連鎖的殺害行為を誘発する。被害者側親族らの「怨恨」感情が、その者達による報復行為を発現させる。「殺し、殺される」という殺害事件が最悪の場合、エンドレスで止め処なく続く。こうした事の延長線上に、「戦争」がある。だから、殺してはいけない。そして更に、いじめによる「自殺」も否定されなければならない。なぜなら、自殺被害者側親族らの怨恨が、加害者側への新たな報復感情を少なからず誘発させるからだ。『「人を殺して」みたかった』を「自爆テロをして」や「戦争をして」や「核兵器を使って」に置き換えて考えると、どうだろう。「人を殺してみたかった」は、宗教や国家の名のもと、過去、何度も繰り返し試行されて来たではないか。  そうした殺人への処罰を下す場が、司法である。戦争における民間人などの殺害行為ならば、国際司法裁判所への訴追がなされるべきだ。戦時国際法に則り裁判がなされ、然るべき裁断が下されよう。国内における人権侵害に対しては、司直が各種法律に則り刑罰を下していく。だが、その司直がトンデモナイ存在なのだ。  まず、日本の司法は一体何処に顔を向けているのかだ。最高裁による下級裁統制が指摘され続けて久しい。司法人事権を内閣が一手に握っている中、こうした状況は必然的となるのだが、人権を司るべきはずの裁判所の真価が問われている。司法権の独立が、外部からの独立のみならず、内部におけるそれも儘ならぬ今、我々の人権(=命)は風前の灯火と化す。最後は国民審査権の行使が命綱となるが、未だかつて一人の最高裁判事も辞めさせられていない現実が、何とも虚しい。丸印を付けさせずほとんどが信任票となるように、権力側の簡単な絡繰りを、唯々、甘受せざるを得ないだけなのか  

 
【此の世に生を受けた際の事を知る由がない】
  分からないままにスタートしたのだ ワカラナイという事が、行動の源泉である 分からない事は、意味なく不安定で頼りない この状態から抜けたいと思う事が、行動の端緒となる 行動は「分かりたい」という「意味付け」なのでもある 意味がない事に対し、普通は興味関心を持とうとはしない 意味あることが、行動へと誘う だが、分かってしまうと、行動へのエネルギーは急速に失せてしまうのも事実だ 例えば、小説を読むのは、結末が知りたいが未だ分からないから読み続けようとする 結末が分かってしまえばその魅力は立ち所に失せ、二度と読み返そうとはしなくなる。 
 「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。老後に生き甲斐を無くした者は、老いを加速させるものである。目的喪失は「死に至る病」であり、逆に目的保持は生きようとする欲望を喚起し、それが強ければ強い程、生命に活力が注入される。プラトニズムにしても理想を高く掲げ、それを追求し続けるなかで生命力を輝かせようとするのであり、我々はその虜になり、文明史を形成してきた。そして、死に伴う精神的・肉体的苦痛から解放してくれる文明という名の快楽を追求してもきた。その最先端にアメリカニズムがあり、核抑止も付随する。「毒を毒で以て制す」ならぬ「恐怖を恐怖で以て制す」という構図が、ハンムラビの「目には目を」の応報主義法典から抜け出せず、相も変わらずDNAの如く受け継がれてきた。
  生き甲斐の完全に喪失した状況のなかでも生き続けるということの何という虚無感。昨今の此処彼処で嘯かれる「生きる力」なる造語は、平和惚けで空中浮遊する日本社会の風潮を象徴するものである。軽薄で脆弱な実感の得られない時代のなかで、空念仏「生きる力」の大合唱に繋がっているようでもある。特攻を余儀なくされ散り逝った「海神の声」に耳を傾け、死ぬこと以上に苦しい生の連続が待ち構える神経難病ALS患者の余りにも重厚なその一瞬をイメージすることから始めなければならない。さて、死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、「宮本武蔵」であるが、彼の真骨頂は、その「強さ」というより、恐怖心との対決を終生の課題としたことではないだろうか。「葉隠れ」に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあるが、彼もいつか自分が敗者となり、死ぬ時が来るであろうことを、絶えず予期していただろう。だが、その覚悟ができない場合、死にきれなくなることも起こり得る。そうすると、とにかく勝ち続けなければならない。ひょっとして、無敗の武蔵は、「負ける(=死ぬ)こと」に対する異常な恐怖心につきまとわれていたのかも知れぬ。我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。「恐怖」を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界という「お化け屋敷」のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も「武士道」における「刀」の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。それは、自衛隊の存在価値を考える場合である。自衛隊は刀という「暴力」装置であるが、戦後、その刀を決して抜かぬよう「武士道」を心掛けてきた。しかし、暴力世界という現実に翻弄され、「武士道」に押し潰されることから逃避しようと抜刀することで自身の弱さを誤魔化した。アメリカが仕掛ける「大義なき戦争」への逡巡は、我々が果たして「ラストサムライ」になり得るかどうかの踏み絵であった。見て見ぬふりのなあなあ関係がかえってお互いの距離を隔てさせ、モラル低下に歯止めが効かなくなる場合がある。また放縦的関係性の継続が、質の悪い苛めに繋がったりする。感情的爆発でお互いの馴れ合い関係を瞬間的に壊した方が、言葉を駆使してその場凌ぎをするより後腐れがなくて良いこともある。慇懃無頼な輩を野放しにする偽善的人権擁護論が後を絶たず、荒廃に拍車を掛ける。死刑廃止論を追い風に犯罪者が跋扈し、悪事に抑止力が全く機能しなくなる。そうした中、慇懃無頼な輩を野放しにしたモラル・ハザードの現代において、死刑廃止論は未だ大勢を占めない。ホッブズが人間の本質を「恐怖」から見詰め、近代的国家観を提唱したのも頷ける。
 

【「愛する」ことと「死ぬ」ということ】

 愛なんて柄でもないと、今迄、何となく避けて来たきらいがある。イメージとしては、情緒的で単発な思慕が「恋」に対し、深遠で恒久的な「いとおしさ」が「愛」だと、勝手に見做して来た。そして、何か余所余所(よそよそ)しさを感じる愛という表現を忌避し、恋の方に好感を抱いてきた。だから、相手を好きならば、恋してると極力、表現したいように意識してはいたが、言いたい対象は今迄に配偶者のみだった。
 愛について、キリスト教では「アガペー」を始め、様々な良い様で、愛を説いている。愛に関して、キリスト教が専売特許と言っても過言ではない程だ。「神の愛」をアガペーとして、プラトンの理想を思慕する「エロス」と対照的に解釈されたりする。前者が天上界の高所から地上の俗界に下される下降的愛に対し、後者は逆に地上界の不完全な人間が完全なるイデア(理想)界を見上げて追慕するものとして位置付けられる。キリスト教はその他にも、水平的位置関係の人類相互間における「隣人愛」を説いたり、アガペーとは真逆の「神への愛」を強調したしてもいる。隣人愛はニーチェにより、受動型近代人の疎外状況を作り出した元凶であったと、こっ酷(ぴど)く批判の的に晒された。神への愛はアガペーへの見返りとしてある、イエス・キリストへの「信仰」心だ。
 この程度ならば、高校生レベルの知識になるが、キリスト教徒ではない私としては、一般教養としてのものにしか過ぎぬ。東洋世界も、古代史上、愛について言及して来た。中国の孔孟思想の中で、それは「仁」として位置付けられている。他者を慈しみ思い遣る心であり、「惻隠の情」である。それを仏教では、「慈悲」という言葉に置き換える。仏教では、愛も「執着心」の一つと捉え、「煩悩」の元凶とも解される。
 私は、この仏教の解釈が、自分の理解する愛の定義に非常に近似している。私は、愛は「独占欲」となり、最終的にはその反動を、身を持って体現し苦悩しなければならなくなると考える。仏教の中で説かれる「八苦」の「愛別離苦」がそれを言い当てている。愛すれば愛する程、その対象との別れが底無しの苦悩となる。最愛の配偶者やそれに類する存在との死別に伴う苦しみは、究極の愛の証ともなるのだ。

 私の愛しているかどうの基準は、対象を「抱擁」出来るかどうかだ。この上なく愛おしい存在に対しては、自然と「抱き締め」たいという気持ちになり、それを行動に移す。愛おしければ愛おしい程、自分の懐にしっかりと抱き締めるものだ。現在の私にとり、その存在は愛犬だ。ドウシヨウモナイくらい「可愛い」。可愛くて仕方がない。そうした存在は、そうザラには見当たらない。そんな対象に対しての自然の発露は、抱き締めるという行為なのである。 

 
【残された時間をどう過ごす】
 退職して1年3ヶ月が過ぎた。バラ色とまでは思っていなかったが、灰色がかった状況からは多少抜けられるのではと、楽観していた。だが、現実は違った。何もせずただ生ける屍の如く、漫然と時間が過ぎる日々を繰り返す事の、何と怠惰な生活。非日常が日常化する事の、何とも言えぬ悍ましさ。日々の生活に追われ、本当に金に困っている者からすれば、こんな事をほざける身分は、何とも羨ましがられる事だろう。何かをしようとは思うのだが、仕事に就いて金を貰う過程で、不愉快な思いをしたくはない。この儘の状態を維持して行くのが、今の自分に出来るベストな選択なのではあるが、堕落の一途を辿りたくはない。では、どんな道が残されていると言うのか。著述家が一番の願いなのだが、金を頂ける程の物書きには到底成れそうにない。地元紙の投稿欄に、世間への不平不満をぶつける拙い文章をチョビチョビ書いて、月一程度で掲載されるのが関の山だ。果たして、此れから先、どうしたものか。如何にしてそれなりに格好の付いた暇潰しを、見付け出していけると言うのか。残された時間はありそうで余り無い。

  死ぬというのは、眠る事である。即ち、意識が無くなるという事だ。従って我々は毎日、死んでいるのである。そして、覚醒し蘇る。だから、日々、死んでは生まれの繰り返しをしているのだが、それをきちんと認識できずに、齢(よわい)を重ねる。だから、死への恐怖や躊躇(ためら)いが、何時まで経っても付き纏い続ける。

 ただ、眠った後、ずっと目が覚めないとなると、話が別になる。簡単に眠るだけだと言っても、翌朝、ほぼ間違いなく覚醒し生まれ変われるという前提であるので、安らかなる眠りに就けるのだが、そうでないとなると寝れなくなる。即ち、死寝なくなる。死を永眠とはよく言ったものだ。永遠に此の世とオサラバするとなると、かなりの覚悟がいる。かなりの準備がいる。それなりに気持ちの整理を付けてでないと、死に切れない。いきなり突然の死は、納得がいく間もなく、タイムアップの宣告を受ける事になり、釈然としない。

 納得づくなら、如何ともし難い死の運命にも、それなりに対処出来、それなりに受け入れる事も出来よう。こうした事も踏まえて、自分は日常を送っているのかと自問するが、まだまだ先があるのだからという、これまた不確かな甘い考えのもと、死を他人事として捉えてしまうのである。

 還暦も過ぎ、徐々に体力の衰えも実感し出した昨今、死への準備を着実にしなければならないとは思い掛けている。自分の存在は一体、どういう意味があったのか。自分は納得のいく人生を送って来れたのか。自分は他人の為に少しでも有意なる行動を成して来たのか。此の世に善行を通して働き掛け、何かを遺す事が果たして出来たのであろうか。否、否、否。これでは、死を逍遥として受け入れるなんて、出来ようがない。だが、もう残されている時間はそう長くはないのだ。

 兎に角、気休めでもいいから、何かを残そう。善行を残せれば良いのだが、そんな出来そうもない事ではなく、こんな卑小な自分でも成し得る事を。何だろう。金も名誉もない。ネガティブでシニカルな生き方、弱弱しくて内向き志向のセコイ性分、何だ何だ、ロクなもんしか自分には無いではないか。はてさて、残したところでどうなるものか。こんな事が頭を過(よ)ぎる。やはり、こうした下らぬものでも「書き残す」事くらいしか出来ない自分を見詰めている。

 

【「変わる」ということ】 

 我々は絶えず変化している。人体から始まり人類及び世界の進化や宇宙まで。生命も細胞分裂からスタートする。分裂は変化の核をなす。核分裂反応もその典型か。分裂は対立を引き起こす。2者間の分裂がスタンダードだが、ヘーゲル弁証法によれば、対立により高次レベルへ止揚できる。変わるためには、基の自分がなければならない。これも、「守・破・離」パターンで言うと、守に該当する。その守を核としながらも、破のレベルへと、すなわちエゴに当たる「もう一人の自分」が誕生する。青年期における「自我の目覚め」、ルソーの言う「第二の誕生」となる。以前、安易に変わることより、「変わらない」愚直さを大切にしたいと考えた時期もあった。全てがアメリカナイズされてしまうことに対しての憤りだった。日本的なるものを保守すべきだと、多分にナショナリスト的志向に傾きかけた。しかし、アメリカニズムに抗しつつも、「変われない」愚直さに甘んずるのではなく、自己を鍛えて変えようと努力することは放棄してはならないと考える。「いじ(弄)る」、「いじ(苛)める」、「いじ(虐)める」、これらは、人間の本能的行為だろう。これらの行為には、能動側と受動側の二側面があり、能動側は弄る立場、受動側は弄られる立場となる。学校化社会で問題となっているのは、「苛め」である。ここでよく見受けられる現象は、苛めという「恐怖」に遭遇し、その対処の際、苛められる立場から逃避するため、苛める立場の「物真似」をするということだ。それは、生物界における食物連鎖の最中、捕食されたくない側が、保身する際によくとる「擬態」行為に酷似する。擬態は「マネ」ること。マネは「変身」すること。我々の欲望の代表格として、「変身願望」は付き物である。 

 ヨーロッパの名所旧跡のほとんどは、キリスト教絡みの宗教色を帯びたものだ。従って、嫌が上にも教会をはじめイエス・キリストの絵画等を見せ付けられた。ローマ・バチカンの聖ピエトロ寺院内の荘厳さを増す数々のイエス像を眺めながら、クリスチャンでない自分も何時しかキリストの足元に吸い寄せられる気になるのが不思議だった。システィナ礼拝堂内の「最後の審判」を見上げ、ついつい写真やビデオに収めようとした際、警備員の鋭いチェックで規制を受けてしまった。我々はミケランジェロの芸術作品を鑑賞しようとするわけだが、ローマ・カトリック教会は著名な芸術家の作品群を利用し、人々を知らず知らずの内にキリスト教へと誘うのだろう。その際、撮影規制は、作品に対する配慮だけではなく、イエス及び教会の権威を高めるための手段とも言えようか。ところてん方式での鑑賞のなか、売店でレオナルドやミケランジェロの作品コピーの土産を買いながら、我々はキリスト教会へ喜捨しているのだ。彼らの天才ぶり・偉大さを、痛感すると同時に、それらの芸術作品をも教会の宗教的素材にさせてしまうキリスト教文明圏に一抹の嫌悪感を抱かざるをえなかった。

 ルーブル美術館やベルサイユ宮殿に代表されるヨーロッパ芸術には、度肝を抜かれる。これでもか、これでもかと迫り来る迫力は圧巻だ。だが、そうしたものを見せ付けられると、終いには疲れてくるのだ。コッテリ感の洋食に胃がもたれるように、精神的にむつこさを抱くのだ。それに対して、日本文化のサッパリ感。日本の芸術には西洋にはない癒しがある。そうした背景に、山水画を代表とする墨絵と、洋画に一般的な油絵の違いがあるように思える。洋行すると、濃い脂味ではなく、やたらとあっさりした和食が食べたくなるものだ。やはり、肉食文化と草食文化の相違だろう。

 ヨーロッパで最初に覇権主義を成そうとした国、スペイン。ポルトガルと世界史の一時期において、世界分割を計ろうとした。今でこそ、ドン・キホーテに甘んじているが、嘗ての栄華を忘れてはいない筈だ。テロターゲットになった主要国の一つでもある。長きにわたるレコンキスタは、イスラム世界との文明交流を急速に促す一方、攻防戦で軍事的に鍛え上げられ培われたパワーとなって、大航海時代の寵児と押し上げて行った。その後のルネッサンス及び宗教改革運動の誘因を、このイベリア半島の2国が先行的に牽引したと言えよう。

 日本史の上にも、この2国は多大な影響を与えた。スペインの反宗教改革の一環のもと、シャビエル他、イエズス会の宣教師が来日し、カソリックを我が国に伝えていった。これは、イザベラ女王以下のスペイン王国が世界に覇を求めていく過程で、宗教が政治に利用された結果でもあった。信長もキリスト教布教活動への寛容姿勢を通し、フロイスなどからこうしたヨーロッパの政治・軍事的思惑を、他の者より幾らかでも多く情報入手し、国内統一に向けた方策を講じていたと思われる。

 私がバルセロナで見た「闘牛」の現実は、それ迄の想像を完全に覆すものであった。我々がテレビ等で見せられて来た闘牛は、最後のホンの一瞬であったのだ。それまでの長きに渡るシーンを、全く知らない中で、闘牛の嘘イメージが創られて来たのだと言う事を、現地に来て見て、初めて知り得た。

 それは、本来の成牛の力には人間の力では、到底、太刀打ちできないと言う事である。従って、我々がテレビ等で見せられて来た闘牛なるものは、力の失せた、力を失せさせられたヘタレ牛に対しての似非闘牛だったのである。どのように力を失せさせるかと言うと、何度も牛を刺し捲るという汚い手段を使うと云う事だ。一番最初に出て来た無傷の牛は、見るからに人力では敵わない、メチャクチャパワーテンコ盛り盛りの猛牛なのである。走りも全然違い、ジャンプ力も半端ではない。こうした状態を、まず鎧で防護された馬上からヤリで何度も突き刺し、半殺し状態にする。半殺しにされても尚、パワーは漲っているところへ、周囲から多くの者に細い剣で刺され、嬲り続けられる。これは正しく「苛め」である。動物愛護団体からクレーム付けられるのは当然で、最後の瞬間ではなく、それ迄の凄まじい嬲り過程に対してのクレームが、本当のものだろう。

 今から25年程前、初めてヨーロッパ旅行をした際、石の文化に圧倒された。古代ローマの遺跡の数々は、数千年の時を越えていにしえの名残を黙って伝えてくれる。石は永きに渡り残り続ける。正しく石力(いしりょく)の賜である。しかし、石には命や温もりが感じられない。それに対し、木には息吹を感じる。日本の建造物は木製が主体である。欧米のそれに比べ、何か見劣りすることもあるが、石造りの堅固な建造物には感じられない暖かみや柔軟性が、木の文化にはある。

 92年のバルセロナオリンピックの夏以降、海外旅行が特別のものでもなくなった。家族三人の海外旅行は五回。その内、三回がヨーロッパで、息子は小学4年時のシンガポール旅行を皮切りに国際化時代の申し子と言えるだろう。私と妻も、92年、93年、96年、00年、?年、?年と6?度の訪欧となる。初めての異国の地は、ロンドンだった。飛行機の窓越しに見下ろしたヒースロー空港近辺は、朱色の屋根が広がり何か違う星のような強烈な印象を与えた。時差ぼけもあり、初日は頭痛に悩まされたが、訳のわからぬまま翌朝を迎えそれも徐々に治まる。

 早朝のロンドンは、落ち着いた大人を思わせる雰囲気であった。ホテル近くを散歩するが、いつの間にかハイドパークのピーターパンの銅像の前に立っていた。息子と初めて一緒に映画館で観た「フック」のワンシーンを感慨深く思い返す。ロンドンタクシーに初めて乗り、片言の英語を使い何とかやれそうだと思いながらも、ドアーの違う車内に暫し当惑する。ロンドンバスの渋滞する大通りを闊歩し、ハロッズなどのデパートなどでショッピングをしながら、何時しか外国人であるという違和感が消え、ロンドンっ子と同化している自分がそこにいた。

 アリタリア航空でローマに移動。ロンドンとはうって変わり、何か独特の雰囲気を感じる。それは太陽輝く「オーソレミオ」の明というより、暗の印象であった。

旅先で一番気掛かりなのはトイレ。とにかく日本のようにどこにもここにもあって、自由に使えるわけではない。イタリアでは1回につき500リラ(35円程)が必要。旅の途中、膀胱が弛みがちの自分にとり、トイレが頭にこびり付いて悩みの種にもなる。

また、水の確保も大変である。特に夏場はミネラル・ウォーターが必需品で、日本ではトイレ同様ただ同然のものが、こちら文明国と言われるヨーロッパ諸国ではスイス以外、買って入手するのが当たり前。ガス入りのものもあり、「平和と水はただ」の日本の素晴らしさが実感される。

風呂の善し悪しは旅のポイントの一つ。日本風呂と違い、バスタブはゆっくりのんびりと体を休ませてはくれぬ。日本の風呂場はその点、合理的にできている。合理精神を尊ぶヨーロッパの産物とは思えない代物で、いちいち水を抜かないと体が洗えないとは難儀。

飛行機がないと海外旅行はまず無理だが、乗らないで済むものなら絶対、乗りたくはない。自分達の旅行の前に、飛行機事故が起こると変に安心する。あるいはそれを待望するような気にさえなる。こういう自分は何時か地獄に墜ちるだろうが、やはり地に足がついてないのは、何にしても落ち着かぬ。何時まで経っても覚悟のできぬ自分から抜けられぬ。

ヨーロッパとなると、名所旧跡のほとんどがキリスト教絡みの宗教色を帯びたものとなり、従って、嫌が上にも教会をはじめイエス・キリストの絵画等を見せ付けられることになる。ローマ・バチカンの聖ピエトロ寺院内の荘厳さを増す数々のイエス像を眺めながら、クリスチャンでない自分も何時しかキリストの足元に吸い寄せられる気になるのが不思議である。システィナ礼拝堂内の「最後の審判」を見上げ、ついつい写真やビデオに収めようとするが、警備員の鋭いチェックで規制を受ける。我々はミケランジェロの芸術作品を鑑賞しようとするわけだが、ローマ・カトリック教会は著名な芸術家の作品群を利用し、人々を知らず知らずの内にキリスト教へと誘うのだろう。その際、撮影規制は、作品に対する配慮だけではなく、イエス及び教会の権威を高めるための手段とも言えようか。あらかじめレオナルドの「最後の晩餐」を予約してまで鑑賞に行くが、僅か15分の時間制限で場外へ追い遣られた。厳重な監視システムの下、正しく「ところてん方式」での鑑賞であった。場外の売店でレオナルドやミケランジェロの作品コピーの土産を買いながら、我々はキリスト教会へ喜捨しているのだ。彼らの天才ぶり・偉大さを毎回、痛感すると同時に、それらの芸術作品をも教会の宗教的素材にさせてしまうキリスト教・イエスという存在に行き着いてしまうのは事実である。漱石の文壇デビューは1904(明治)年のことであった。この年、わが国は大国ロシアと日露戦争の火蓋を切り、帝国主義路線に邁進していく。 彼は、各作品を通して自己及び近代日本を鋭くえぐり出しながら、欧米列強に翻弄される「世界のなかの日本」の歩むべき方向性を見出そうとしていたのではないだろうか。このような彼の試行錯誤は、ロンドン留学の際に感得されたであろう西洋人(及びキリスト教文化)に対するコンプレックスと、秘かに芽生え出した東洋(日本文化)への自信という、相矛盾する心情に根ざしていたようにも思われる。私もこの数年での洋行の体験を通して、近代日本の歩むべき道標を模索し続けていた漱石に、ほんの少しではあるが近付けたような錯覚をしている。

8月15日は、日本と同様、ミラノも特別の日であった。街の至る所に教会があり、キリスト教文化だらけのヨーロッパに、イエスの目に見えない不思議な力を実感したりもする。私は未だイエスを神と見なすことに納得できないでいる。地獄行きかそうでないかは、この点に拠るらしい。イエスを神と見なさない限り、この私に天国は有り得ないということだ。この先、意固地な自分の考え方が変容するのは不可能に近いことであろう。しかし、将来において、イエスの不思議な力がこの私を劇的に変えるようなことが1%でもあるのなら、それは一体、何を意味するのだろうか。

私は、そこに納得がいかないのである。そんなにイエスが凄い存在なのであろうか。ローマ帝国という絶大なる権力に抗し、己の信念を貫いた意志力にはこの私も惜しみない賛辞を贈りたい。ある面では精神界における革命家(寵児)であっただろう。しかし、その程度のものなら歴史上、イエスに比肩するあるいはそれを越える善行を施した者も多数いたはずだ。何故、我々はそれを感じつつも彼を持ち上げ、後生大事に神にまで担ぎ上げつつこれまできたのだろうか。私はそこに人間の人の良さを見出しながら、それ以上に人間の遅滞性を痛感するのである。

ソウルへは1時間半弱で行き帰りができるなんて、隣町に行く感覚だ。地理的に韓国朝鮮半島は日本と世界で一番近い場所。生まれて半世紀が過ぎやっと来れた。苦手なキムチがやたらと出てきて、発汗作用が促進される。韓国が日本を凌駕し始めたのは、88年のソウル五輪頃からであった。「韓国なんかに負けヘンで」っていう意識が、「韓国はなかなか手強い」っていう危惧に変化していった。日韓バレーボールなんて、韓国をいつもカモにしてたのが全く形勢が逆転していった。お家芸の野球も今では韓国には苦戦を強いられ日韓戦はいつも苛つく。韓国に抜かれたなと思い知らされたのは、バルセロナ五輪男子マラソンでの激闘だった。森下と黄との一騎討ちは、今も記憶する。そして完全に置いて行かれたなと痛感したのは、日韓共催サッカーワールド杯だった。そして「韓国には歯が立たんワイ」ってシャッポを脱いだのが、冬のバンクーバーでのキムヨナと浅田真央との対決。そこで、キム・ヨナが面白いことを言っていた。浅田は「もう1人の自分」だと。対照的なペルソナを持つ2人は、実は一体的存在なのだ。「ヤヌスの鏡」なのである。それは、今の日本と韓国の関係性に繋がる。今のヤワな日本は逞しい韓国には勝てない。日本男子が韓流には及ばないのもうなずける。その昔、日本は韓国を支配下に置いていた。そうした中で、日本人の朝鮮人に対する差別意識が増幅されてもきた。今でも我々日本人の心の奥底には、そうした朝鮮人に対する優越感が巣くっている。その韓国(人)に日本(人)が敗北しているという現実を受け容れがたいのも事実なのだ。韓国の旗は太極をシンボルにしている。太極は「陰陽」五行説をベースにしている。此の世は、男と女、善と悪など二つの対称をなすもので成り立ち、それらがバランスを取り合っている。男が陽で女が陰となり、陽は陰によりその輝きを増す。陽が陰により止揚?されるのだ。

中国や韓国へは、よくマッサージに行く。日本よりかなり安く、長時間みっちりやってくれる。一生懸命にしてくれる。特に中国人は生活のため、マッサージする手に必死さが伝わってくる。韓国人は日本人とほとんど変わらない。韓国人に日本で希薄になった優しさや親近感を抱く。ソウルの街並みは日本の地方都市に非常に似ている。車窓からの眺めは、ハングル文字を目にしなければ日本と見間違えるほどだ。どっちが真似をしたのか分からないが、韓国と日本は血の繋がりを強く感じさせられる。歴史的には朝鮮渡来で日本が形成されたというのが客観的だろう。ホテルのバスに設置されたシャワーなど細かな諸施設に関しては、やはり日本が世界トップクラス。ウォシュレットトイレなどは、ソウルのどこにも見出せなかった。日本のセブンイレブンなどのコンビニがソウルにもあったが、全然日本の方が清潔感があり、店内が都会的だった。ソウルのコンビニは日本の片田舎にある駄菓子屋の雰囲気だった。明洞中心部は東京・大阪の繁華街とさほど変わらない様相だった。それにしても、海外旅行で毎回実感するのは、日本の素晴らしさが見直される事だ。衣食住、どれをとっても日本が一番だ。

3年前、台湾へ行った。中国や韓国とどう違っているだろうと、興味があった。沖縄が目の前に見えるくらい、日本に近い、日本に似たようなところの多い国だった。今では、日本の高校で一番多く行く、修学旅行先となっているのも頷ける。人気があるのかどうかは別として、安心感を与えてくれるのが台湾だ。何故なら、台湾人の好きな国は、ダントツで日本らしい。従って、抗日・反日嫌日感情のまだまだ多く残る中韓などと違い、雰囲気がフレンドリーなのである。だが、忘れてはならないのは、過去の日台関係に纏わる厳然とした歴史である。台湾すなわち中華民国は、日本がかつていの一番に支配しようとした国。この国を抑えて「砂糖」が簡単に手に入るようになった。「すき焼き」は台湾を支配するまでは味が甘くなかった。支配後、砂糖が安く供給可能となり、すき焼きの味が現在のような甘いものとなったのは御存知だろうか。日清戦争で勝利し下関条約で中国から譲り受けたのが台湾だった。

従って、台湾人の日本人に対する怨念は、腹の奥底に潜んでいるのだ。この事を呑気な日本人は、特に若い世代の日本人は、クレグレモ忘れてはならないのである。

 今から四半世紀前、初めてヨーロッパ旅行をした際、石の文化に圧倒された。古代ローマの遺跡の数々は、数千年の時を越えていにしえの名残を黙って伝えてくれる。石は永きに渡り残り続ける。広島原爆ドームも然りである。ピカドンの凄まじい灼熱と爆風に耐え、残存しているのは、ほとんどが石である。正しく「石力(いしりょく)」である。しかし、石には命や温もりが感じられない。それに対し、木には息吹を感じる。日本の建造物は木製が主体である。欧米のそれに比べ、何か見劣りすることもあるが、石造りの建造物には感じられない「温もりや暖かみ」が、木の文化にはある。また、石は堅固であるが、柔軟性に乏しい。木は水分が若干なりとも含有され、柔らかみを保有する。漱石が文壇にデビューしたのが、「吾輩は猫である」であった。漱石40歳のことで、当時としては遅咲きと言ってもいいだろう。主人公の「猫」の眼を通してそれらの心理分析がなされ、ストーリーが縦横無尽に展開する。漱石の文壇デビューはこの作品により始まったわけだが、やはり、漱石の自己及び近代日本に対する痛切な思いが、「猫」の眼を通して随所に滲み出されてもいる。「吾輩は猫である」が発表されたのは、1904(明治 )年のことであった。この年、わが国は大国ロシアと日露戦争の火蓋を切り、帝国主義路線に邁進していく。国内では富国強兵と並行して殖産興業が「上からの改革」により展開されていった。それをリードしたのは、薩長雄藩出身者で固めた藩閥政府であった。夏目漱石は、「坊ちゃん」などの各作品を世に出しながら、こうした欧米列強に翻弄される「世界のなかの日本」の歩むべき方向性を見出そうとしていたのではないだろうか。同時に、欧米諸国や薩長雄藩の権力者におもねる世人の「こころ」を、自身のそれに投影させながら鋭くえぐり出す試みもなされていたように思われる。このような彼の試行錯誤は、ロンドン留学の際に感得されたであろう西洋人(及びキリスト教文化)に対するコンプレックスと、秘かに芽生えだした東洋社会(日本文化)への自信という、相矛盾する心情に根ざしていたようにも思われる。私もこの数年での洋行の体験通して、近代日本の歩むべき道標を模索し続けていた漱石に、ほんの少しではあるが近付けたような錯覚をしている。欧米諸国に追いつけ追い越せを国是に、近代化に突っ走っていく日本という国のなかで、市井のほとんどの人々は日常生活に追われながら、一日一日を精一杯生きていこうとしている。主人(猫)公も同様、夏目漱石の社会(自己)批判(風刺)をよそに、案外自由世界を闊歩していたのかもしれにゃん。 

 92年のバルセロナオリンピックの夏以降、2001年の今夏にかけて通算8回の海外旅行を通し、感じたことや考えたことを書き記しておく。初めての異国の地は、ロンドンであった。飛行機の窓越しに見下ろしたヒースロー空港近辺は、朱色の屋根が広がり何か違う星のような強烈な印象を与えた。時差ぼけもあり、初日は頭痛に悩まされたが、訳のわからぬまま翌朝を迎えそれも徐々に治まる。早朝のロンドンは、落ち着いた大人を思わせる雰囲気であった。早速、妻とともに散歩に出かけるが、いつの間にかハイドパークのピーターパンの銅像の前に立っていた。息子と初めて一緒に映画館で観た「フック」のワンシーンを感慨深く思い返す。ロンドンタクシーに初めて乗り、片言の英語を使い何とかやれそうだと思いながらも、ドアーの違う車内に暫し当惑する。ロンドンバスの渋滞する大通りを闊歩し、ハロッズなどのデパートなどでショッピングをしながら、何時しか外国人であるという違和感が消え、ロンドンっ子と同化している自分がそこにいた。アリタリア航空でローマに移動。ロンドンとはうって変わり何か独特の雰囲気を感じる。それは太陽輝く「オーソレミオ」の明というより、暗の印象であった。今回で家族三人の海外旅行も五度目になる。その内、三回がヨーロッパで、息子は小学4年時、昨年と国際化時代の申し子と言えるだろう。私と妻も、92年を皮切りに93年、96年、00年、そして今年と5度の訪欧となる。旅先で一番気掛かりなのはトイレ。とにかく日本のようにどこにもここにもあって、自由に使えるわけではない。イタリアでは1回につき500リラ(35円程)が必要。旅の途中、膀胱が弛みがちの自分にとり、トイレが頭にこびり付いて悩みの種にもなる。 また、水の確保も大変である。特に夏場はミネラル・ウォーターが必需品で、日本ではトイレ同様ただ同然のものが、こちら文明国と言われるヨーロッパ諸国ではスイス以外、買って入手するのが当たり前。ガス入りのものもあり、「平和と水はただ」の日本の素晴らしさが実感される。風呂の善し悪しは旅のポイントの一つ。日本風呂と違い、バスタブはゆっくりのんびりと体を休ませてはくれぬ。日本の風呂場はその点、合理的にできている。合理精神を尊ぶヨーロッパの産物とは思えない代物で、いちいち水を抜かないと体が洗えないとは難儀。飛行機がないと海外旅行はまず無理だが、乗らないで済むものなら絶対、乗りたくはない。自分達の旅行の前に、飛行機事故が起こると変に安心する。あるいはそれを待望するような気にさえなる。こういう自分は何時か地獄に墜ちるだろうが、やはり地に足がついてないのは、何にしても落ち着かぬ。何時まで経っても覚悟のできぬ自分から抜けられぬ。ミラノで妻の礼拝の姿を横目で見ながら、イエスの目に見えない不思議な力を実感したりもする。考えてみれば妻との出会いも教会絡みであった。私は未だイエスを神と見なすことに納得できないでいる。地獄行きかそうでないかは、この点に拠るらしい。イエスを神と見なさない限り、この私に天国は有り得ないということだ。妻との人生行路を通して、この先、意固地な自分の考え方が変容するのは不可能に近いことであろう。 しかし、将来において、イエスの不思議な力がこの私を劇的に変えるようなことが1%でもあるのなら、それは一体、何を意味するのだろうか。私は、そこに納得がいかないのである。そんなにイエスが凄い存在なのであろうか。ローマ帝国という絶大なる権力に抗し、己の信念を貫いた意志力にはこの私も惜しみない賛辞を贈りたい。ある面では精神界における革命家(寵児)であっただろう。しかし、その程度のものなら歴史上、イエスに比肩するあるいはそれを越える善行を施した者も多数いたはずだ。何故、我々はそれを感じつつも彼を持ち上げ、後生大事に神にまで担ぎ上げつつこれまできたのだろうか。私はそこに人間の人の良さを見出しながら、それ以上に人間の遅滞性を痛感するのである。 

 ヨーロッパの名所旧跡のほとんどは、キリスト教絡みの宗教色を帯びたものだ。従って、嫌が上にも教会をはじめイエス・キリストの絵画等を見せ付けられた。ローマ・バチカンの聖ピエトロ寺院内の荘厳さを増す数々のイエス像を眺めながら、クリスチャンでない自分も何時しかキリストの足元に吸い寄せられる気になるのが不思議だった。システィナ礼拝堂内の「最後の審判」を見上げ、ついつい写真やビデオに収めようとした際、警備員の鋭いチェックで規制を受けてしまった。我々はミケランジェロの芸術作品を鑑賞しようとするわけだが、ローマ・カトリック教会は著名な芸術家の作品群を利用し、人々を知らず知らずの内にキリスト教へと誘うのだろう。その際、撮影規制は、作品に対する配慮だけではなく、イエス及び教会の権威を高めるための手段とも言えようか。ところてん方式での鑑賞のなか、売店でレオナルドやミケランジェロの作品コピーの土産を買いながら、我々はキリスト教会へ喜捨しているのだ。彼らの天才ぶり・偉大さを、痛感すると同時に、それらの芸術作品をも教会の宗教的素材にさせてしまうキリスト教文明圏に一抹の嫌悪感を抱かざるをえなかった。 

 ルーブル美術館やベルサイユ宮殿に代表されるヨーロッパ芸術には、度肝を抜かれる。これでもか、これでもかと迫り来る迫力は圧巻だ。だが、そうしたものを見せ付けられると、終いには疲れてくるのだ。コッテリ感の洋食に胃がもたれるように、精神的にむつこさを抱くのだ。それに対して、日本文化のサッパリ感。日本の芸術には西洋にはない癒しがある。そうした背景に、山水画を代表とする墨絵と、洋画に一般的な油絵の違いがあるように思える。洋行すると、濃い脂味ではなく、やたらとあっさりした和食が食べたくなるものだ。やはり、肉食文化と草食文化の相違だろう。

 

【映画と私】 

 然りとて、なかなか変われない現実の自分から、暫しの脱出を図るべく、映画の世界に逃避行する。私が映画好きなのは、こうした表れなのかもしれぬ。死ぬことすら選択できない生。その昔、映画「ジョニーは戦場へ行った」で考えさせられたものであったが、意思表示が全く閉ざされた状況下で、人はどうすればいいのか。かつて、柳田邦夫氏とALSを煩い尊厳死(安楽死)を希望する患者さんとの対話があった。柳田氏は自身の身内の死を通して、どんなかたちであっても「あなたを思う」人のためにも「生き続けて」と、ベッドに横たわる患者へ語った。あなたを思う人とは、家族であり、患者を看護する配偶者やその子供達である。しかし、その家族もが、本人の「死に体」状態を見かね、本人が「死にたい」のなら「死なせて」あげてと望んでいた。「生命の尊さ」が一般常識となり、それに乗っかっていれば安全地帯におれる立場の者からすれば、そうした死を要望することには賛同できなくなる。また、現在の日本においては、人工呼吸器を尊厳死だとか安楽死だとかの理由で取り外すことは違法行為となり処罰の対象となる。それ以上に世間からバッシングされ、爪弾きにされてしまう。オランダでは尊厳死が既に合法化されている。「簡単に死ぬことより真剣に生きることの難しさ」を示唆してくれた。毎日ボヤキながら「精神的に死に体状態で存在する」自分が情けない。「人間は合理化する動物である」。合理化とは精神的ストレスから身を守る防衛機制の代表格。私もよくこれをやりながら今まで何とか生き延びてきた。これからもこれをやり続けるだろう。やっていることに「意味付け」する、これをしないとやってられなくなる。自分だけでなく他人も大体、同じような思いで暮らしていることをついつい忘れがちになる。しんどいのは、辛いのは、苦しいのは、自分だけではないということを、思い出して生き続けていこう。ジョニーは、完全に閉鎖された身体世界の戦場で、狂わんばかりの精神を武器にして闘い続けているのだ。 

 

 我々は理想と現実の狭間で矛盾を睨めながら生き続ける。そうした根本的課題を提示してくれた作品が「プラトーン」であった。ベトナム戦争で主人公の若者が対照的な二人の人物に大いに翻弄される。戦場においては柔な人道主義を捨て、現実的に身を処していかなければならないとするA、それに対していかなる場合であろうと人間性をなくしてはならぬと主張するB、二人は事あるごとに真っ向から対立する。次第にBに感化され同時にAに対する敵愾心を強めていく主人公であるが、BがAに殺されたことを知り、とうとうAを撃ち殺してしまう。我々も「就職プラトーン」なのだ。戦場ならぬ職場へ赴きながら、映画プラトーンの主人公の如くA(現実)とB(理想)の狭間で煩悶しているのかもわからない。人間性がどうのとBに洗脳されたくもないし、Aに撃ち殺されたくもない。

 

 「小熊物」や「薔薇の名前」で有名な映画監督ジャンジャックアノー。小熊物語は息子に生まれて初めて見せた映画。その次は、息子と初めて映画館で観た「フック」。薔薇の名前はウンベルトエーコ原作の話題作だった。この作品では中世社会が崩壊していく前夜が描かれている。正しく人間中心主義への復古"ルネサンス"目前。そこでは「笑い」が一大テーマとなる。まだキリスト教という彼岸志向に影響されていない古典古代を代表するアリストテレスの書籍などが禁書となり、笑いなど人間性の封殺にする教会の内情悪戦苦闘が描かれる。大笑いに変化する近代以降、文明化が促進され環境破壊が繰り広げられてしまった。抑えきれない人間の「欲望」が、パンドラの箱だった。因みにエーコは哲学者だが、私の机上に積ん読されてる「永遠のファシズム」で彼の思想が垣間見られる。キリスト教エスを描いた作品で僕の好きな永遠ものは、「プラトーン」でお馴染みのウィレムデフォーが演じた「最後の誘惑」。イエスを一人の「人」と捉え、彼も俗世間の僕達と同様、エロい存在なんだと安心させてくれるのだが、果たして彼は人間なのか「イエスおあーノー」、やはりイエスだろう。 

 

「ライフイズビューティフル」の主人公グイドはそんな金とは無縁の存在で、彼にとって大切なことは別の次元のものであった。何の変哲もない日常のなかで、彼は夢のような非日常を創り出していく。別に金がなくても、ちょっとしたユーモアのセンス、ちょっとした相手に対する思いやり、機転があればライフいずビューティフルになるはずだよと、基本的なことを教えてくれたような気がする。自分の置かれている環境がなんて幸せで甘いものかを見せ付けられる。夢のない自分が嫌になったりもする。どんな環境に置かれても、その人の考え方ひとつで全然違った世界が展開するという、基本的なことを教えてもくれる。主人公のような本当の強さを持てるよう、自分をなんとか少しでも変えようと努力したい。幾つものハードルを乗り越え、自分の求める自由世界へ歩み続ける。ふと、その昔見た映画「蜘蛛巣女のキス」にも、こんなモチーフが隠されていたように振り返る。感動する映画の基本パターンは、始め年老いた主人公の現在シーンからスタートし、回想して過去に遡っていき、そしてまた現在に辿り着くというやつ。「タイタニック」、「イングリッシュ・ペイシェント」も然り。「嵐が丘」、「ダウンタウン・ヒーローズ」、そして「野菊の墓」も。こうしたパターンではなく、圧倒的感動を与えたものもあった。高校生の時見た「燃えよドラゴン」。圧巻であった。今まで見たこともない超(鳥)人「ブルース・リー」。圧倒的迫力とは正しく彼のために用意された言葉だった。彼に多大な影響を受けた。ブルース・リーの生誕70周年が過ぎた。存命中なら、今、彼もいい歳だろう。よぼついた彼の姿など、想像したくない。超人的な身のこなしに、目を疑った。彼は私の憧れの的となり、学生時代のヒーローだった。彼に近付きたいと、よく物真似に没頭し、武道系サークルにも所属して、飛び跳ねた。彼の魅力に吸い込まれ、影響される人物の最右翼となった。それにしても男を二つ書いて、その間に女が書かれてる字が「嬲る」なんて知らなかった。よく考えたもんだ。僕は男一人だけのナブりの方が絶対いい。男2人だったら、女を奪うために殺し合うかも。これは「嵐が丘」の本質的テーマに通じる。ローレンス・オリピエ演ずるヒースクリフは僕自身かもしれない。最愛の存在{マール・オベロン演ずるキャシー)を独占せんがために、その存在を嬲り続ける。アバターでは中国が侵略者の汚名を被ったと、抗議が起こったというが、最近の映画作品には、躍進する中国が皮肉られてよく作中に描かれる。「2012」の中にも、人類を救う現代版「ノアの方舟」建造を手掛ける大国中国の姿があった。この作品の監督は、「インディペンデンス・デイ」や「紀元前一万年」のローランド・エメリッヒだが、スケールの大きい作品を手掛ける点で、ジェームズ・キャメロンとよく似ている。本来、アバターとは、チャットなどのコミュニケーションツールで、自分の分身として画面上に登場するキャラクターのことだ。マンガ風のキャラクターが使われることが多く、オリジナルのキャラクターを作成できるようになっている場合もある。アニメーションや3次元グラフィックスを応用したシステムも登場している。そこでは3D仮想空間社会が体験できる。あくまでも実体験ではなく仮想体験だが。とにかくバーチャルリアリティー(仮想現実)に拍車をかけるグッズである。ジェームズ・キャメロンと言えば、「タイタニック」。感動したのを今でも覚えている。セリーヌ・ディオンの切ない歌声が、この映画にはピッタリだった。また、主人公を演じたデカプリオが初々しかった。「ディープ・インパクト」は、スピルバーグ作品でモーガン・フリーマンが大統領役。「2012」もそうだったが、「津波」がポイントになる。チリ大地震津波でも大騒ぎしたが、2・3メートルくらいならサーフィン気分でいられよう。その何十倍、何百倍ともなると、もうお手上げ。恐竜を絶滅させたとされる小惑星の衝突について、先日、12カ国の共同研究チームが各地の地層を調査して「間違いなし」との結論。6550万年前、直径10キロ以上の小惑星がメキシコ東部に超高速で衝突。直径200キロほどの衝突跡が確認された。衝突でマグニチュード11の大地震、高さ300メートルの津波が起きたという。大気中に飛び散った粉じんが太陽光を遮り、寒さと食料不足で多くの動植物が絶えた。巨体恐竜の全盛に終止符を打ったのは、ただ一つの小惑星だった。「不毛地帯」の原作者、山崎豊子はただ者ではない。かれこれもう80代半ばを過ぎた年だろう。僕のオヤジと同世代だと思う。彼女の作品は芸術だ。その中でも「白い巨塔」などは正しく金字塔。僕もその昔、田宮二郎白い巨塔に憧れたものだが、僕の「痴態」は、不毛に続く。 

 先日、久し振りに映画館で話題作を見た。次から次へと、飽きさせないよう、だれないよう仕掛け満載なのだが、見た後、内容が思い出せないくらい、何を見ていたのだろうとピンと来ないのだ。刺激はあるのだが、感動せず、印象に残っていないのである。一体なぜなのだろう。これでもかこれでもかとジェットコースター方式の展開は、スピルバーグ作品から始まったと振り返る。しかし、何十年もそうしたパターン映画を見せ付けられてくると、さすがに慣れてきて、逆に辟易とした感じとなる。感覚が麻痺してしまうというか、感動が拡散されるというか、正しくピンボケしてしまうのだ。自分の健康状態や体型に対する認識も、現状に慣れてしまうと、感じなくなってしまうというのが実際だろう。最近は、映画館に足を運ばなくても、ホームシアターで楽しめる時代になった。ケイブに落ち、右手を岩間に挟まれ身動きの取れなくなった冒険家が、四苦八苦した挙げ句、右腕を自らの手で切断し、脱出生還するという、サバイバルものをレンタルしてみた。「死の恐怖」に直面した主人公が、何とか精一杯の力を振り絞り、窮地から抜けようと足掻き藻掻く様は、臨場感を刺激され見ている者を釘付けにする。自分なら、いざこんな時、どうするだろうと、考えさせられる。閉塞された空間でサバイバルを図るのだが、人間追い詰められると、最後は「やけくそ」となり、普段、想像も付かないとんでもない行為をしてしまうのだなと、見ていて思わされた。死に直面し、それまでの何気ない日常の有り難さを痛感し、半ば諦めながら、尚も生きたいと思い続ける主人公。有らん限りの体力と知力を駆使して、生き延びようとする。その過程で、途中、死への恐怖と疲労が錯綜する。その恐怖を睨めながら、感覚麻痺が漂い、追い詰められて自棄糞(やけくそ)になる。戦争が正しくそれだ。我慢し続けることから惹起する耐えられない疲労感。これから解放されたい一心で、「最後の審判」を迎えるのだ。 

 

【日本人と私】 

 日本人のルーツはダッタン人(=タタール人)だったんなんて、ヘンなシャレを言ったりする。タタール(ダッタン)人とはモンゴル高原東北のバイカル湖方面で遊牧していたモンゴル系遊牧民の諸部族を総称して呼んでいた。また、南ロシア一帯に住むトルコ人も、もと蒙古の治下にあった関係から、ダッタン人の中に含まれる。「他の人々」を意味するTatar(タタル)で、中国語では韃靼(だったん)などと呼ばれてきた。日本人のルーツはどうもこのダッタン人あたりになるのではないかという説がある。バイカル湖周辺地域が日本人の源流のようだ。そして、中華圏の人々との混血がなされ、極東の日本列島へと流れ着いたのだろうか。 

 ソウルへは1時間半弱で行き帰りができるなんて、隣町に行く感覚だ。地理的に韓国朝鮮半島は日本と世界で一番近い場所。生まれて半世紀が過ぎやっと来れた。苦手なキムチがやたらと出てきて、発汗作用が促進される。韓国が日本を凌駕し始めたのは、88年のソウル五輪頃からであった。「韓国なんかに負けヘンで」っていう意識が、「韓国はなかなか手強い」っていう危惧に変化していった。日韓バレーボールなんて、韓国をいつもカモにしてたのが全く形勢が逆転していった。お家芸の野球も今では韓国には苦戦を強いられ日韓戦はいつも苛つく。韓国に抜かれたなと思い知らされたのは、バルセロナ五輪男子マラソンでの激闘だった。森下と黄との一騎討ちは、今も記憶する。そして完全に置いて行かれたなと痛感したのは、日韓共催サッカーワールド杯だった。そして「韓国には歯が立たんワイ」ってシャッポを脱いだのが、冬のバンクーバーでのキムヨナと浅田真央との対決。そこで、キム・ヨナが面白いことを言っていた。浅田は「もう1人の自分」だと。対照的なペルソナを持つ2人は、実は一体的存在なのだ。「ヤヌスの鏡」なのである。それは、今の日本と韓国の関係性に繋がる。今のヤワな日本は逞しい韓国には勝てない。日本男子が韓流には及ばないのもうなずける。その昔、日本は韓国を支配下に置いていた。そうした中で、日本人の朝鮮人に対する差別意識が増幅されてもきた。今でも我々日本人の心の奥底には、そうした朝鮮人に対する優越感が巣くっている。その韓国(人)に日本(人)が敗北しているという現実を受け容れがたいのも事実なのだ。韓国の旗は太極をシンボルにしている。太極は「陰陽」五行説をベースにしている。此の世は、男と女、善と悪など二つの対称をなすもので成り立ち、それらがバランスを取り合っている。男が陽で女が陰となり、陽は陰によりその輝きを増す。陽が陰により止揚?されるのだ。 

 中国や韓国へは、よくマッサージに行く。日本よりかなり安く、長時間みっちりやってくれる。一生懸命にしてくれる。特に中国人は生活のため、マッサージする手に必死さが伝わってくる。韓国人は日本人とほとんど変わらない。韓国人に日本で希薄になった優しさや親近感を抱く。ソウルの街並みは日本の地方都市に非常に似ている。車窓からの眺めは、ハングル文字を目にしなければ日本と見間違えるほどだ。どっちが真似をしたのか分からないが、韓国と日本は血の繋がりを強く感じさせられる。歴史的には朝鮮渡来で日本が形成されたというのが客観的だろう。ホテルのバスに設置されたシャワーなど細かな諸施設に関しては、やはり日本が世界トップクラス。ウォシュレットトイレなどは、ソウルのどこにも見出せなかった。日本のセブンイレブンなどのコンビニがソウルにもあったが、全然日本の方が清潔感があり、店内が都会的だった。ソウルのコンビニは日本の片田舎にある駄菓子屋の雰囲気だった。明洞中心部は東京・大阪の繁華街とさほど変わらない様相だった。それにしても、海外旅行で毎回実感するのは、日本の素晴らしさが見直される事だ。衣食住、どれをとっても日本が一番だ。 

 3年前、台湾へ行った。中国や韓国とは少し違ったフレンドリーな雰囲気を感じた。台湾人の好きな国は、ダントツで日本らしい。台湾すなわち中華民国は、日本がかつていの一番に支配しようとした国。この国を抑えて「砂糖」が簡単に手に入るようになった。「すき焼き」は台湾を支配するまでは味が甘くなかった。支配後、砂糖が安く供給可能となり、すき焼きの味が現在のような甘いものとなったのは御存知だろうか。日清戦争で勝利し下関条約で中国から譲り受けたのが台湾だった。

 

【「書く」ということ】
 20年程前から「書く」ことを意識しだした。それまで、文章を書くなんてことは、あまり得意じゃなかった。今も大した文章を書けるわけではないが、多少、上手くなりつつあるように思える。初めて読み手を意識して書いたものは、仕事場で発行されていた紙面への寄稿であった。意外と自画自賛の作品となり、それ以来、書くことに興味を抱き続けてきた。十数年前頃からは、ワープロ、そしてパソコンを前に、執筆家を気取りながら駄文に勤しんでいる。今は「読む」ことより、書くことの方が好きになっている。人の書いた本を読むことより、自分の書いた本を作ることに傾倒している。最近では、書くことが、自分を高めてくれるように思えてきた。何か、ライフワークになりつつある。もう一つ、書くことを趣味にしている。それは、「書道」である。両者ともに共通するのは、書くという営みを通し、ゆっくり落ち着いたなかで、自分と向き合えることだ。そして、何より、「受動」的志向から「能動」的志向へ、思考の転換がなされるということである。「習字」は、手本を書写するものだ。基本を習熟する上で欠かせないステージではある。が、此処に甘んじていればそれまでである。単なる物真似にしか過ぎぬ。それを抜ける場が、書道なのだ。「守・破・離」の三態に当てはめるならば、基本である守の段階から、それを踏まえ自分色を創造する破や離の段階が書道と考える。それと同様に、人の書いたものを読むことは、思考過程における守であり、知識を収受し習得する段階と言える。読書という、受動的思考を積み重ねながら、能動的思考へと高めていくのが、書くという作業を通してなのである。そして、そうした営みの集積が、「思想」となって結実される。
 其の昔、書道教室の新年会で言及したこと。それは、「手本」とは一体何なのか。手本を忠実に書写することに汲々としてきた。手本を完全にコピーすることが、作品の出来を決めると思い込んできた。手本と寸分狂わず物真似をすることに、余り疑問を感じなかった。しかし、黄昏時を迎えてきた現在、手本を気にせず、自分の字を書くことが多くなった。そして手本から外れたその字に、味を感じるようになってきた。物事には守・破・離という三段階があるという。私は二段階目の破にさしかかっているのだろうか。破れかぶれの破も考え物だが、守に拘りすぎるのもどうかと思う。守に拘泥することは、結局、権威主義となることではないか。手本とは、「基準」であり、基準はそれを創る権力者の存在を抜きにしては語れまい。そして更に考究すれば、絶対主義的真理を掲げる価値観の遵守に繋がる。それから逸脱したり、反発したりすることは、権力構造を崩すことになっていく。手本には、衆目を魅了する「美」が漂うものである。しかし、その美なるものも、見る者により怪しい臭いを漂わせることもあろう。ピカソのデフォルメした絵を、私はまだ理解するに至れない。彼の絵は、最初からあのような抽象画であったのではない。初期の絵は、写実的な万人受けのするものであった。いわゆる、「青の時代」の絵画群である。ピカソの守の時代の産物であろうか。私はそれらが好きである。まだ、ピカソの絵画世界における、破や離のレベルには理解が及ばず仕舞いなのだ。こうした自分は、美の価値観に関して、保守的で権威主義的な立場にいるのかもしれない。ピカソは絵画世界において、それまでの美の価値観を覆そうとした革命家だったのか。書道にも前衛的な書風が数多くある。これは果たして字なのかと思われる書も、絵画で言えば、ピカソのフォービズム的な書ということになる。このように、私の日常に関して、書を始め、それまでの認識とは違う、何かが蠢き始め、変わりかけているのだ。
 
【「隠す」ということ】
 この家に潜む私にとって、暗がりの中が、意外と安心し落ち着くのだ。幼い頃、忍者ブームが続いた。忍者ごっこが我々の遊びの主流だった。私のヒーローは、「伊賀の影丸」だった。市川雷蔵扮する「忍びの者」であった。彼等は黒装束を身に纏い、ひたすら死と向き合い、夜に生きた。私はそんな彼等に、幼き頃、随分憧れたものだった。そして、彼等に近付きたいと、よく物真似をした。
 隠すということは、「秘密」にするということだ。神秘とか秘宝というように、隠されたものには、それなりの付加価値がある。犬も大好物のホネなどの餌を「独り占め」にしようと、誰にも見付からないよう、掘った穴の中に入れて隠したりする。昔、飼っていた犬を散歩に連れ出すと、野原でよくこの仕草をしていた覚えがある。「独占」するという欲望は、我々の最たる意志の表れだ。誰とも「共有」したくない。自分だけの所有物にする。私などは、秘湯に「魅力」を感じている。隠されたもの、秘められたものに対しては、自ずとパワーを感じる。マックス・ウェーバーの「支配の正当性」で、その三類型が示されたが、「カリスマ」的支配は、正しく秘儀によるものだ。支配者のカリスマ性、すなわち神秘が、支配力となる。我々は根源的に「わからない」ものに恐れおののき、ひれ伏すものだ。「宗教」も秘め事を扱う。従って、そうした宗教に関わる者は、パワースポットに立ち得る者となる。人類史は、長きに渡る宗教の時代を経て、「ルネサンス」を迎えた。ルネサンスは隠されたものを次々と露わにする時代だったとも言えるだろう。独占されていたパワーが暴露され、その力が拡散され大衆化していく段階であった。「パワーの共有化」がなされる時代を迎えた。ルターの「万人司祭主義」はその象徴である。司祭に宗教的パワーが独占されていたのを、誰もがパワーを所持できるように改革したのだ。
 隠したい最たるものは何だろうか。生まれてこの方、どの位、排泄してきただろう。毎日、大小便を放出し続けてきた。排泄する際の感覚は、やはり気持ちいい。この年まで、何とか大したトラブルもなく排泄機能が順調に働いてくれた。感謝である。これが一度、崩れたら、難儀なことになるだろう。普段、何気なく営めている行為が、快感でなく苦痛となってしまえば、これは大変だ。まがりなりにも、排泄コントロールが可能である現在だが、近い将来、これが出来なくなるだろう。老いは、排泄との対峙である。排泄物は異物として忌み嫌われるが、大切なものなのだ。排泄された大小便でその時の健康状態がほとんど分かるのである。いつも我々の腹の中に、大切な「宝物」として、埋蔵、否「腹蔵」している。人間は臭いモノを腹に隠し持っているのだ。臭い話だが、これを忘れてはならない。電気エネルギーを享受し、文明社会を謳歌する現代も、原発というクサイ物を腹蔵し、そのどうしようもない危うさを覆い隠しながら成立している。
 数年前、フクシマ原発事故で放射能汚染を気にしていたつもりだったが、それも束の間、もう語ることもしなくなった。民主党政権に淡い期待を抱いたのも、今は昔、後の祭り。こんなふうに、ほとんどの事は、直ぐに飽きてしまい、顧みなくなってしまうのが常。そして、「忘却の彼方」へとなる。「戦争」の記憶も同様だ。もう、あの戦争から70年が経ったのだから。忘れたくないから、備忘録など「書く」という行為となるのだろう。従って「忘れる」と書くということは不可分の関係となる。また、歳をとるにつれ、手帳によくメモをする。そうした手帳を片手に、記憶がどんどん消滅していくことの、何とも言えぬ怖さと、対峙していく。
 
【アウトプットとインプット】
 怒りをぶちまけたらスカッとする。これもはき出す行為の一つ。しかし怒りをぶつけられた者は、たまったものじゃない。怒りが怒りを呼び、根に持つ。ぶつけられた側は、怨念をインプットする。腹蔵された怒りは、内部で次第に醸成され肥大化する。それが報復となって爆発し、アウトプットされるのだ。前世紀末から今世紀初頭にかけてのイスラム原理主義勢力の動向には、アメリカニズムに対する怒りの発散(アウトプット)が見受けられる。また、我々人類史においてはどうだろう。人類は、その歴史過程で、文明をインプットし、産業化のなかで二酸化炭素を大量にアウトプットしてきた。そして、それが今、環境問題というかたちで、地球が人類に対し報復しているではないか。我々は、文明生活で乱開発や炭酸ガスをはき出してきた。が、それによる自然破壊に耐え続けてきた地球は、腹蔵した怒りを、様々な姿ではき出しアウトプットしているのだ。
 生命維持のため、食べる行為はインプットで最も重要なことである。職歴より食歴の方が命に直結する。さて、私はどうなのだろう。健康に留意した食べ方をしているだろうか。否、程遠い感がする。健康に全く自信なし。年から年中、何かしらぼやいてる。減塩しなければと思いつつ、塩味大好き人間で、塩には滅法弱い。お茶漬けがあれば生きていける。救急処置の「点滴」は限りなく「食塩水=ナトリウム」なのだ。体液はほとんどが塩水だと言ってもいいだろう。我々人類は、進化の歴史を辿ると、魚類から爬虫類、両生類というプロセスを経て、陸上生活をする哺乳類に至った。すなわち、生命の原点は海水から生まれたということ。塩(Na)抜きには有り得ない。「食って出す」、出すこと、すなわち排泄することも大事だ。内に溜め込んだものをはき出す。その後の爽快感。だが、はき出されたものは残存する。その処理が問題となる。普通、我々はそれに無頓着だ。はき出したらそれで終わり。後は、野となれ山となれ。こうした日常の積み重ねが、先述における世界大の問題となるのだが。
 インプットでありアウトプットなのが、呼吸と睡眠だ。呼吸が停止することの苦しみから来る恐怖は、計り知れぬ。他の苦痛は何とか耐え忍べそうだが、呼吸困難での息苦しさは、何とも言えず怖いものだ。結局のところ、死の恐怖とは、呼吸困難からくる苦痛ではないかとさえ思えるのだ。人間誰しも、最後は呼吸が停止し、死に至る。人生、生まれて息をすることから始まり、年老いて息が止まることで終わる。呼吸は「ミッション・インポータント」なのだ。誰かが、吸うことよりはくことの方が大事だと言っていた。呼吸の字も、吸うより呼が先にきている。腹式呼吸法も、呼気に重点が置かれている。アウトプットが大事ということなのか。

【睡眠と死】
 睡眠により、大体の病気は回復される。特に精神的なものには、睡眠が一番だ。悩みを一時的に消してくれる。覚醒するとまた思い出されてしまうが、寝て起きての繰り返しにより、悩みも徐々に弱くなっていく。というか、忘却の彼方となっていく。私の場合は、この繰り返しで、今日まで何とかやり過ごせてきた。眠りは、困難からの逃避術とでも言えようか。一時的にでも、何らかの方法で逃げることは大事だ。眠りは、精神的困難からの一時的脱出なのである。永続的な脱出を試みたい場合は、「永眠」が必要となる。それは、すなわち「死ぬ」と言うことである。「疑う」と「考える」は、同じ意味だ。我々はこれまで、そしてこれからも、死についてずっと考え続けることだろう。それは何故か。私は次のように考える。それは、「死」の「意味」が「分からない」からだ。通常、我々は、意味が分からないと、「分かる」まで考えあぐねる。思案し「答え」が「見付かる」と、「安心」して「落ち着く」。すると、次の瞬間から、そのことについては、もう考えようとしなくなる。すなわち、「意味が分かる」ということは、「安心し落ち着く」ことであり、その後、「考えない」ということに繋がる。考えないとは「疑う」ことをしなくなるということだ。そうした状態が「怖い」からか。堂々巡りとなってしまいそうだ。が、案外、こうしたことなのかもしれぬ。しかし、私なりに死(ぬこと)について既に答えは出している。それは、「眠り(る)」ということ。いたってシンプルなことなのだ。葬儀の場で、よく亡くなることを「永眠」と言うだろう。そう、死は「永遠に眠る」ことなのだ。私達は毎日、寝て、睡眠を取る。それは人間にとり、必要不可欠の行為であり、実は、その行為を通して、日々、何気なく「死」を体験し、体感している訳である。死を身近に実感しているのだ。しかし、よく分からない。それは、あまりにも身近過ぎるからだろう。また、「眠り」にも熟睡かそうでないかで違いが出る。「死」は深い眠りの状態で、すなわち、「無意識」だということである。この「無意識」状態を体験している我々なのだが、その状態をその時に「意識」することは不可能なのだ。でも、他人の様を観ながら、その状態を体感できる。「寝ている様」を観ることで、ある程度、理解可能なのである。そして、今はビデオで自分の寝ている様子を録画撮りし、無呼吸症候群も確認できる。さて、「死ぬことは眠る」という当たり前のことが再認識された。日々、寝る前に、それでは「死んで来ます」と言うように心掛けたい。「死にます」では、覚醒できないから、死んで、来る、また、生き返って来る、という意味で「死んで来ます」が適当な言い方だろう。私は、寝(眠)ることが好きだ。それは、私は死ぬことが好きだということなのか。また、私の「趣味は寝ること」だと言う場合は、私の趣味は死ぬことだと言ってる訳なのか。いやはや、うかつに寝たり死んだり出来なくなりそうである。
 
【真似と変身】 

 マネをするのはその対象への劣等感の裏返しである。真似をしたい相手と自分とを見比べ、見すぼらしい自分を嫌悪すると同時に、格上の相手を憧れそれに少しでも近付きたいという思いが惹起する。そして、モノマネ対象の相手をよく観察し、物真似をしようとするのだ。従って、「変身」するということは、自分への自信の無さの現れであり、そうした自分を何とか変えて、モノマネ対象と一体化を図り安心したいという心理なのではないか。変身願望はコンプレックスの反動であり、ある意味、脆弱な自分を強化したいとする向上心なのである。 日本もこうした変身願望を何度も抱きながら、歴史過程の中で進化を遂げてきた。古代史においては、到底歯が立たない相手だった隣国中国へのモノマネからスタートする。近代以降は、マネをする対象が欧米列強へと変わった。その際、それぞれの真似対象への強烈な劣等意識と、近付きたいとする変身願望が同時に募って行ったのではないか。

 私自身もそうしたコンプレックスと変身願望を抱き続け、高校2年時に遭遇したブルース・リーへの憧れと彼へのモノマネを、学生時代の少林寺拳法との出会いを通して具現化しようともがいていた様に振り返る。
 我々の欲望の代表格として、「変身願望」は付き物である。然りとて、なかなか変われない現実の自分から、暫しの脱出を図るべく、映画の世界に逃避行する。私が映画好きなのは、こうした表れなのかもしれぬ。

 我々は絶えず変化している。人体から始まり人類及び世界の進化や宇宙まで。生命も細胞分裂からスタートする。分裂は変化の核をなす。核分裂反応もその典型か。分裂は対立を引き起こす。2者間の分裂がスタンダードだが、ヘーゲル弁証法によれば、対立により高次レベルへ止揚できる。変わるためには、基の自分がなければならない。これも、「守・破・離」パターンで言うと、守に該当する。その守を核としながらも、破のレベルへと、すなわちエゴに当たる「もう一人の自分」が誕生する。青年期における「自我の目覚め」、ルソーの言う「第二の誕生」となる。以前、安易に変わることより、「変わらない」愚直さを大切にしたいと考えた時期もあった。全てがアメリカナイズされてしまうことに対しての憤りだった。日本的なるものを保守すべきだと、多分にナショナリスト的志向に傾きかけた。しかし、アメリカニズムに抗しつつも、「変われない」愚直さに甘んずるのではなく、自己を鍛えて変えようと努力することは放棄してはならないと考える。「いじ(弄)る」、「いじ(苛)める」、「いじ(虐)める」、これらは、人間の本能的行為だろう。これらの行為には、能動側と受動側の二側面があり、能動側は弄る立場、受動側は弄られる立場となる。学校化社会で問題となっているのは、「苛め」である。ここでよく見受けられる現象は、苛めという「恐怖」に遭遇し、その対処の際、苛められる立場から逃避するため、苛める立場の「物真似」をするということだ。それは、生物界における食物連鎖の最中、捕食されたくない側が、保身する際によくとる「擬態」行為に酷似する。擬態は「マネ」ること。マネは「変身」すること。我々の欲望の代表格として、「変身願望」は付き物である。
 ソウルへは1時間半弱で行き帰りができるなんて、隣町に行く感覚だ。地理的に韓国朝鮮半島は日本と世界で一番近い場所。十年程前やっと訪韓した。3月末頃だったがソウルは未だ寒く、日本の冬に近かったと記憶する。苦手なキムチがやたら出てきて、発汗作用が促進された。  韓国が日本を凌駕し始めたのは、88年のソウル五輪頃からであった。「韓国なんかに負けヘンで」っていう意識が、「韓国はなかなか手強い」っていう危惧に変化していった。日韓バレーボールなんて、韓国をいつもカモにしてたのが全く形勢が逆転していった。お家芸の野球も今では韓国には苦戦を強いられ、日韓戦はいつも苛つく。韓国に抜かれたなと思い知らされたのは、バルセロナ五輪男子マラソンでの激闘だった。森下と黄との一騎討ちは、今も覚えている。その貴は平昌五輪開会式で太っちょ姿で登場していた。完全に置いて行かれたなと痛感したのは、日韓共催サッカーワールド杯だった。そして「韓国には歯が立たんワイ」ってシャッポを脱いだのが、冬のバンクーバーでのキムヨナと浅田真央との対決だった。そこで、キム・ヨナが面白いことを言っていた。浅田は「もう1人の自分」だと。対照的なペルソナを持つ2人は、実は一体的存在なのだ。「ヤヌスの鏡」なのである。それは、今の日本と韓国の関係性に繋がる。  今のヤワな日本は逞しい韓国には勝てない。日本男子が韓流には及ばないのもうなずける。その昔、日本は韓国を支配下に置いていた。そうした中で、日本人の朝鮮人に対する差別意識が増幅されてもきた。今でも我々日本人の心の奥底には、そうした朝鮮人に対する優越感が巣くっている。その韓国(人)に日本(人)  が敗北しているという現実を受け容れがたいのも事実なのだ。韓国の旗は太極をシンボルにしている。太極は「陰陽」五行説をベースにしている。此の世は、男と女、善と悪など二つの対称をなすもので成り立ち、それらがバランスを取り合っている。男が陽で女が陰となり、陽は陰によりその輝きを増す。陽が陰により止揚?されるのだ。奇しくも、羽生がフリーで演じた「(安倍)清明」は、陰陽道を司るマスター(師)だった。

 中国や韓国へは、よくマッサージに行く。日本よりかなり安く、長時間みっちりやってくれる。一生懸命にしてくれる。特に中国人は生活のため、マッサージする手に必死さが伝わってくる。韓国人は日本人とほとんど変わらない。韓国人に日本で希薄になった優しさや親近感を抱く。ソウルの街並みは日本の地方都市に非常に似ている。車窓からの眺めは、ハングル文字を目にしなければ日本と見間違えるほどだ。どっちが真似をしたのか分からないが、韓国と日本は血の繋がりを強く感じさせられる。先述のキム・ヨナ浅田真央を評して言った、正しく「ヤヌスの鏡」が日韓関係なのだ。  歴史的には朝鮮渡来で日本が形成されたというのが正論だろう。所謂、縄文系が原日本人で、それを周縁(南北)地域に追い遣り、政権を担っていったのが、朝鮮からの渡来人を主体とする弥生系日本人だ。我々本土の日本人は、その弥生系の末裔であり、多分に朝鮮半島の血脈の流れを受けているとも考えられる。それに対して、周辺に駆逐されて差別対象とされる熊襲蝦夷は、縄文系の人々であり、元々、日本列島に大昔から定住していた純日本人なのだ。今では北海道の蝦夷地に住むアイヌや、南洋の沖縄・奄美の島人(シマンチュ)は、内地日本本土の者達の容姿とは違い、顔立ちが彫り深く、体毛の濃いタイプが多い。我々弥生系の日本人のルーツは、朝鮮系なのだ。そうした者達が、純日本人の血を受け継ぐ縄文系の周縁に位置付けられた人々に対し、差別意識を持ち優位なポジションに在り続けようとする。そして更には、大昔、自分達の祖先に繋がる朝鮮半島の韓国人(北朝鮮も含む)を蔑(さげす)んだり、嫌韓反韓意識を暴力団的右翼に煽られ、喧伝させられているのではないだろうか。  ホテルのバスに設置されたシャワーなど細かな諸施設に関しては、やはり日本が世界トップクラス。ウォシュレットトイレなどは、ソウルのどこにも見出せなかった。日本のセブンイレブンなどのコンビニがソウルにもあったが、全然日本の方が清潔感があり、店内が都会的で洗練されている。ソウルのコンビニは日本の片田舎にある駄菓子屋の雰囲気だ。明洞中心部は東京・大阪の繁華街とさほど変わらない様相だった。それにしても、海外旅行で毎回実感するのは、日本の素晴らしさが見直される事だ。衣食住、どれをとっても日本が一番だ。  

 旅行する時、観光するなんて、よく言うよね この観光の意味が、「光を観る」と言う事 光と言うのは、自分のいい点 自分のいい点を観る、見付けると言うのが 観光の本来の意味する事なんだって そんなの知ってた?
 
 ポピュリストが輩出し事大主義に煽られ、我々は一体何処ヘ突き進もうとしているのか。核の平和利用の美名の下で「原子力ムラ」は着実に「増殖」する。6年前、世界中にあれだけの大惨事を曝け出し、痛い目に遭ったはずなのだが。この国の「センセイ」達は、「寄らば大樹の陰」で、「米国第一主義」なのだ。誰もが「日米同盟ファースト」とよく口ずさむ。当然、同盟によるハイリスクを覚悟せねばならぬ。ジョーカー・トランプが米国の覇権生き残りのため、日本を「切り札」として「捨て駒」にする日が近付いて来ているように感じる。都合の悪い事は直ぐ忘れようとするものだが、日本は現同盟国に、過去、核爆弾を2発も落とされた。これ以上ない理不尽を味わわされたにもかかわらず、奇襲攻撃という負い目を引きずり相手の顔色を窺い続ける。米国に砲艦外交で開国を余儀なくされて160年以上が経つ。ある意味、日本は、凌辱された女(日本)が、その意識を押し殺し凌辱した男(米国)への復讐を遂げる日を夢想しているなかで、米国との関係を成立させているようだ。正しく日本(人)は、「汚れちまった悲しみ」をバネに、それを生き甲斐としている。近代以降の日本人が、忠臣蔵の「仇討ち」に惹かれる背景には、こうした米国に対するどうしようもない怨念感情(ルサンチマン)があるからかも知れぬ。戦争を知らない平和ボケ世代がほとんどになり、過去の「悲しみ」の歴史を「忘れていく」事により、近い将来、「トランプ戦争」に巻き込まれ「忘れちまった悲しみ」に直面するのではないかと危惧する。
 
 性の営みなしに、人はこの世には存在できない。性行動の帰結が種の保存だ。性あっての此の世なのだ。祭り事は政事、コレ即ち「性事」なのだ。祭りの本質は何だろう。それはケガレに対するハレの営みだ。ケガレとは「穢れ」と言うより、日常である。それに対し、ハレは「晴れ」の儀式のそれではなく、日常の対語である「非日常」である。これが祭りの本質になる。非日常は、日常の継続による「惰性の払拭」でもある。惰性の払拭をしなければ、我々は人生を全うし辛い。定期的にリフレッシュしなければ、先に進めないのだ。一週間のサイクルにおいても、ハケとケのパターンが仕込まれている。月から金までのウィークデイは日常のケであり、週末土日はハレのガス抜き日となる。日常は、生産・勤勉・禁欲・貞節などの日々。非日常は、消費・怠惰・発散・放埓などの日々。両者のバランスで人生や歴史は成り立つ。どちらかだけでは、ダメになのだ。両者の程好いバランスで上手くいくのだ。祭り事はハレ。これをやらないと、次に向かって前進できない。再生リバイバルできない。祭り事のリーダーは、お調子者じゃないと務まらぬ。政事に携わる者は、その他大勢の者達の憂さを、上手くガス抜きさせる役目を負う事にもなる。その役の見返りとして、多くの権限がその者に委譲される。祭りには酒は付き物。酒を酌み交わし、日頃日常の生産活動で鬱積した内憂を、一気に吐き散らかす。そして、大どんでん返しがなされる。酒を帯びると、男女の交わりも、より活発になる。従って、このカオス状態を臨界点を超えないところで治めさせるのも、政事家の役割となる。斯くして、政治が性治となるのであり、性治が出来る者が、真の政治家と成り得る。政治家は性治家でもなければならない。そうでない者は、政治屋であり性治屋なのだ。山尾は後者になってしまった。 空も飛べそう
 
 
 2003年の経済協力開発機構OECD)の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど、低迷する日本教育の実態が浮き彫りとなった。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされた。昭和50年代半ばにゆとり教育が導入されて以来、授業時間と授業内容が一貫して削減されてきた。ゆとり教育は、子供の中にある怠惰を黙認・許容し、知識偏重の偏差値教育を揶揄する「勉強否定論」にまで至り、学習意欲のない生徒を甘やかせる結果となった。ゆとり教育総合学習も、日教組が昭和40年代後半から唱えてきたもので、文部省(現文科省)がその後30年間にわたって日教組の主張を結果的には実現してきたわけである。ゆとり教育学力低下した世代が、今、子の親となり、家庭における教育力低下に拍車を掛けている。校内暴力やいじめ、不登校などが激増した時期は、ゆとり教育を開始した時期に概ね符合している。小学校低学年にまで及ぶ学級崩壊は、幼児期の育てられ方に関係し、学力不足で大人に成り切れていない親たちの問題でもある。核家族化の進行のなかで、老人を疎外する社会が、結果的にはしっぺ返しを受けていると言ってもいい。生活の知恵や生きる術に長けた老人を家族から切り離し、臭いものには蓋をせよとばかりに隔離していくことが、未熟な夫婦による家庭における教育力の低下を促し、躾などで問題を有する近年の青少年を輩出する社会的な土壌となっているのではないか。また、そうしたバカ親に限って、昨今のモンスター=ペアレントになり得るのである。『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦氏は、「日本の子どもはバカだ」と指摘する。なぜこうなったのか。藤原氏は、個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという、子ども中心主義が信奉されてきたことを第一の理由に挙げる。インターネットの普及などの文明化と逆行する人々が増えている。大国の読み書き算術能力が退化すると何が起こるか。一部のエリートが、単純な言葉で大衆の人気取りに専念し、権力に居座る。ワンフレーズ首相と言われたパフォーマーが、劇場国家の中で一世を風靡したのはどの国のことであったろう。

 

  1.  
     昨今の安易で早計な改革論に押し流され、国家百年の大計を過つようなことがあっては、取り返しのつかないことにもなり得る。欧米近代合理主義を根幹とする戦後民主主義教育が至る所でその綻びを露呈している中、学校化する現代社会の病巣を修復するための処方箋として、学校教育の分析検証は必要不可欠である。日本の教育力は戦後の発展と成長を支えた柱の一つと言われ、若者の知の水準も主要国のトップを維持してきた。ゆとり教育の指導要領は有馬朗人文相(当時)が告示し、小中学校では2002年度から、高校では03年度から実施された。しかし文科省ゆとり教育の失敗を重く受け止め、総合学習により減少した授業時間数を一転、増やすことになった。が、こうしたブレまくる文科省の方針転換が、教育現場を大混乱させたことは想像に難くない。学力低下批判や公立学校不信の高まりをよそに、ゆとり教育をひたすら推し進めてきた行政の責任は大きい。失敗が明らかになった以上、自らの誤りを認めず場当たり的施策を打ち出すだけで詰め込み競争と揶揄し、基礎学力を軽視したことを深く反省する必要がある。2007年に希望者全員が定員枠に収まる全入時代となり、大学倒産も現実のものとなった。そして定員確保のための入試の安易化と受験生の負担軽減が大学生の学力低下に拍車を掛けた。小学校から大学に至る日本の若者の知的レベルの地盤沈下は、バブル崩壊以降のこの国の社会が抱える構造的なひずみと重なる部分も多い。ニートと呼ばれる無職層の若者の急増もこれと無関係ではなかろう。国の教育政策の失敗を十分検証するとともに、社会構造の変化も踏まえて新たな知を創造する仕組みが必要である。
     
     高校世界史未履修問題など偽装教育へのバッシングは、政治的背景があることを忘れてはならない。当時の安倍晋三政権が教育基本法改定に、そうした世間の風潮を利用したのは見え透いたことだった。学習指導要領を印籠の如く振り翳す様は、教育への権力介入を牽制する教基法第十条を改定し、教育を国家権力の統制下に置きたいという意志を窺わせた。また、高校世界史未履修問題など、ほぼ全国的詐欺紛い行為が大昔からなされていたのなら、指導要領逸脱行為を黙認してきた文科省担当者が責任をとるべきで、それを現場の校長や平教員に責任転嫁するだけでは済まされぬ問題であった。結局、これらの問題を通して浮き彫りにされたのは、文科省の下部組織である教育委員会が全く機能不全に陥っていることが再確認されたことだった。教師にとり生徒指導は教科指導と同様、教師の資質を図る上で重要な要素である。生徒指導がきちんとできる教師は、学校社会の中で一目置かれる存在となりうる。それができない場合は、生徒からも軽視されてしまうのが常である。しかし、そうした教師像を信仰することが、学校社会を歪める一因ともなる。生徒と教師の関係は水平的関係性と垂直的関係性の織り成す微妙な彩で成り立つものである。前者の関係がほとんどの場合、秩序維持が図りにくくなったり、最悪の場合は学級崩壊の憂き目にあうかもしれぬ。しかし、後者のなかで表層的に整然と秩序が保たれている場合は、より気を付けなければならない。それは生徒の本音や意見を吐き出すことができないからだ。北朝鮮大日本帝国下の人心を想起すればわかるだろう。明治以降、近代日本の国家目標は欧米列強に追い付き追い越すことを只管、模索してきた。そのために、富国強兵・殖産興業を国是とし、その達成に向けた社会的基盤づくりのための教育が要請されてきたのである。強力な中央集権国家を形成するうえで必要不可欠のエリートを、国家的威信を背負い設立された東京大学にスポイルし、福沢諭吉の「学問のススメ」をうまく利用しながら学歴信仰社会を構築してきた。強力な国家は、精強なる軍隊と暴利を貪る産業界の存立に支えられ、更に企業は優秀で従順な産業人により成立する。近代化路線を強力かつ性急に展開したわが国は、それに必要な教育制度の確立が必要不可欠であった。よりよい産業人を養成するための教育指針が、日本文化の骨子である集団主義をもとに設定され、それがわが国の学校教育全般を今日まで規定し、様々な諸問題を派生し続けてきた。組織力を上げるためのトレーニングが集団主義教育のあらゆる局面で展開され、効率的な学校運営が文教行政のもと指導徹底化されてきた。国家の教育指針を司る文科省は各地方自治体の教育委員会を、教育委員会は各学校を統括し、上意下達システムが強固に形成され、そのシステムのなかで日本資本主義を担う従順な産業社会人が大量生産されてきた。特に経済立国の基盤を確立する高度経済成長期、東大を頂点とした教育界におけるヒエラルキーが磐石となり、日本では東大出身の学歴が最高の名誉であり価値であるとする見方が社会通念となった。そして現在、冗費問題などその組織の著しい腐敗が指摘されて久しい官僚社会のエリートに東大出身者が多数占め、日本の閉塞社会の病巣とまで言われているのである。そうした官僚を輩出してきた日本の教育も、その元凶の一つとして批判対象とされてきた。高度経済成長を遂げた70年代後半以降、校内暴力、いじめ、不登校、そして学級崩壊が起こる。さらに神戸連続児童殺傷事件やバスジャック、「人を殺す経験をしようと思った」という主婦殺害事件などの少年による凶悪犯罪が相次いだ。こうしたなかで教育改革が急務とされ、そのスローガンも「人間性豊かな児童・生徒の育成」、「自己教育力」、「新しい学力観」そして「生きる力の育成」と変わってきた。1980年代には、中曽根内閣の臨時教育審議会が「学歴社会の弊害の是正」などを答申し、これを受けて文科省はその後、「ゆとり教育」への転換を図った。「生きる力」を掲げた総合学習の創設により、授業時間の削減など日教組が長年追求してきた「ゆとり教育」が、文部科学省の推奨のもと実行された。これは、プラザ合意後の日本経済における内需拡大策の一環として導入された週5日制との連動であった。しかし学力低下への批判から一転して「授業時間を増やし、総合学習を減らす」という方針転換が迫られることになった。それにしても、あまりにも揺れが大きすぎないか。子どもも教師も戸惑い現場は混迷するばかりだ。教育が様々な問題の源泉に位置付けられ、教育論が百家争鳴の如く展開されているにもかかわらず、なかなか日本の教育に明るい展望が見出せない。その国の教育の目指すべきものが、その国の行く末を暗示するものであり、逆に国家の掲げる目標が必然的に教育に投影される。
     
     近代以降の父性原理が現代社会における環境問題等の背景として指摘され、母性原理の見直しが叫ばれる一方、モラルなき社会の立て直しのため父性の復権を求める声も上がっている。林道義氏による同名の著書『父性の復権』のなかで、節操なき現代社会を招来させた一因に、戦中派の敗戦体験による精神的葛藤が関係しているとし、そのコンプレックスが権威を無下に否定する団塊世代に影響し、さらには宇宙人的な団塊ジュニアを輩出したと述べられている。そして、このような父性をもって育てられなかった世代、すなわちマンガ的「無脊椎人間」が大勢を占めるなか、社会の退廃化が進んでいるのであって、それを押し止めるには「ものわかりのいい父親」への逃避癖を改めなければならず、健全な権威を備えた父親が必要であると強調する。
     
     林氏の指摘はある意味で戦後民主主義が日本の教育に与えた功罪を問うものであり、戦後日本の教育問題を考察していく上で示唆を与えている。戦後教育の精神的支柱の一には子供主体の自主性を尊重し押しつけを排す欧米型自由主義的教育論があり、それに対し、それまでの儒教的教育は非民主的・非合理的なものであると見做され、軽視されてきた。そして忠孝礼節などの徳目は、戦後半世紀の間、過去の戦争を想起させる負のイメージとして、絶えず我々の脳裏にすり込まれてきたのではないだろうか。戦後ヒューマニズムは、自主性なるものを尊重するあまり子どもの逃げまで「自主性」だと信じ込まされ、無理矢理やらせることはアナクロニズムとなった。そうしたことにより、こちらからの働き掛けは否定的に捉えられるようになり、自主性の名の下に子どもへの真正面からの関わりを極力避けるようになった。これは同時に指導困難な子どもを相手にしなくてはならない側からすれば、都合のいい格好の逃げ口上となっていった。そして子どもに対するおもねりが一般化する。プレイセラピーやカウンセリングにおいては、常にセラピストは受容的な態度でいることが常識とされる。すなわち、子どもの自発的行為を待つといった態度をとり、出現した情緒をできるだけ受容しようとする。しかし待っているだけではだめな場合もあり、そうした際には強烈な情緒を伝えてやる必要がある。説諭したりするのではなく、大いに怒りを露わにするということである。欲求は与えられすぎると充足してしまい希薄化してしまう傾向がある。従って逆療法的に欲求充足ではない状態をつくることも、一つの解決方法になる場合もある。自分の好きな食べ物だけを偏食しているとたちまち健康を害し病気になる。嫌いな食べ物には得てして栄養価の高い病気を防ぐものが多い。そうした嫌な食べ物を摂取していくことが健康維持につながるのである。そうすると子どもたちにおもねる良好な教育環境を提示し続けることが、果たして善であるのかということである。果たして、それは悪なのだ。
     
     「永く残り続けるものにはそれなりの価値があるのではないか」ということを、県立美術館の建つ前の県民館跡地を発掘調査しながら、残り続けるものに対して畏敬の念を強めたものだ。文化や伝統もしかりで、残り続けるものにはそれなりの輝きがあるように思われる。未来はわからない、不透明なものだ。それに比べ今ははっきりとした現実。現実的な今に対して、わかりにくい未来は、ある意味で理想とも言い換えることができる。まずは理想を掲げ、現実を充実させていこうという意味合いにも受け取れる。しかし、理想と現実は往々にして対立的でもあり、矛盾を引き起こすものでもある。理想が高ければ高いほど、それから遠退く現実に嫌気がさし、同時に理想がどんどん色褪せたりするものだ。また、どうしようもない現実に、アグラを組んでしまい、理想を棚上げし現実にどっぷり浸かり込んでどんどん努力不足のなかで蔓延するどうしようもない現実を更に合理化してしまう。現実に打ち負かされ片隅に追いやられてしまわないようにするためにはどうすればいいのか。そのカギはやはり、「明日に向かい今を生きる。」まず、明日に向かい、絶えず今の初心を忘れることないよう日々を規則正しく過ごすことが大切だと思う。
     
     人は健康を害してみて始めてその有難味を本当に実感できるように、人権もそれを侵害されて始めてその本当の意味を知るのかもしれない。それまでは、なかなか自分のこととして受けとめられないのが実際である。自分に直接、関わりのないことに対して、人はとかく鈍感になるものだ。しかしひとたび、わが身に害が及んで来たとき、安穏としていた自分が豹変してしまう場合もある。数年前、さかきばら事件で殺害された土師淳君のお父さんもその内の一人であったのかもしれない。殺人は新たな殺意を引き起こすものであるということを噛み締め、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対する答えを見いだしてほしいものである。
     
     言葉が全てではないこともあるように思える。言葉による注意がかえってお互いの距離を隔てさせ、どうにもならない様相を呈し、放縦的関係をとり続けるなかでモラルの低下を余儀なくしてしまう場合がある。そして、その放縦(任)的関係性の継続が質の悪い苛め(暴力)に展開することも有り得る。体罰をしなければ正しくお互いを殺してしまうことと同然になってしまうわけである。言い換えれば、体罰がお互いの立場をまがりなりにも秩序だったものにするのである。体罰を振るう側に対し、それはしょうもない面子だと言う者もいるだろうが、どう言葉を駆使してもどうしようもないことが在りうるのだ。「暴力だけはどうしても許せない」と言う者の言葉自体、どうしようもないことがあることを表明しているではないか。教育荒廃に拍車が掛かるのは、慇懃無頼な輩を野放しにする偽善的人権擁護論が後を絶たないことだ。死刑廃止論を追い風に、犯罪者が跋扈し、悪事に抑止力が全く機能しなくなりつつある現在と同じ様相が学校でも展開中だ。
     
    学校の歪談 ◆生徒指導室にて~たかがピアス、されど  教師「お前、その耳は何や。オカマじゃあるまいしピア    スなんかして、それでも男か。もっと男らしゅう    せんかい。お前みたいな奴はほんまに超ムカツク    わ。今の時代は男が女の、女が男の真似をしたり    して、どんどん男らしさ、女らしさがのうなって、    なんや訳がわからんようになってきてしもたわ。    ほんまに性奇纏や。」  生徒「それなら、先生の言われる「らしさ」とはどうい     うことなのか、きちんと説明して下さい。そうで     ないと納得できません。」  教師「男のくせに、ああ言やこう言う、お前みたいに女     の腐ったような奴がやたら多くなって今の日本を     駄目にしとるんと違うか。日本人は日本語を話す    から日本人であり、全世界が英語だけの統一語に     なれば、自ずとそれぞれの国の差異は希薄になっ     てしまう。そういう傾向が最近、強くなってきて     いるやろ。シチュエーションに応じた格好は当然     必要になってくるわけで、その約束事というか暗     黙の了解がないと、いわゆる公序良俗は守れなく     なってしまう。ここは学校や。従って学校という     場に応じた格好をしろと言うてるんや。」  生徒「公序良俗とか公共の福祉とか、そんなもん一体、     誰が決めたのですか。私の良心に反しないことが     ポリシーだと思うのですが。」  教師「公共性は歴史によって培われてきたものやないん     か。そういうものに、我々は否でも応でも従わな     ければならない場合がある。例えば憲法はその代     表格やろ。現憲法は、我々の生まれる前からあり     その成立には立ち合えないわけやが、それがどう     であれ、我々の生活をずっと規定し拘束し続けて     きているんやろ。本校の校則にしても同じや。」  生徒「私の良心に反する公共性なんて、やはりどこかお     かしいし認められません。それに矛盾あるものに     目を向けようとしないことが問題じゃないですか     むしろ、それから目を逸らし、現実を矛盾なきも     のに変えようと努力してこなかった歴史を軽蔑す     ることはあっても、決して尊重することなどでき     やしない。そんなの自分を偽って生き長らえるの     と同じです。」  教師「現憲法の成立過程には戦勝国など様々な思惑が絡     んどるけど、紆余曲折を経ながらも、戦後半世紀     にわたり一度も改定されず今日に至ったという重     い歴史もそれなりに尊重されるべきものやろ。」  生徒「だけど、条文に合わない矛盾のある現実を変える     努力は棚上げして、結局、おかしな現実に合う憲     法第9条に解釈上歪曲してきたんでしょう。それ     って洒落じゃないけど、ほんと窮条じゃん。もっ     と素直になればいいのに。」  教師「素直になるってどういうことや。9条を変えろと     でも言うんか。」  生徒「だって、公共の福祉に反しないことも大事でしょ     う。国内だけじゃなく、国際的な公共の福祉って     ものも考えないと駄目じゃないですか。湾岸戦争     の時、日本の一国平和主義が問われたんでしょう     世界が戦時の際、自国だけ平時を装うってもろ公     共の福祉に反するのと違いませんか。大体、アメ     リカができない非武装中立の平和主義なんてもの     を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、そ     れをじっと我慢してきたんだからストレスたまっ     ちゃうよ。日本ももうそろそろ発散してもいい時     期だし、ちょうどいいチャンスじゃないのかな。     アメリカだって自分を偽らなくて済むんだし。第     9条を変えることがひいては戦後半世紀、正義を     嘯いてきたアメリカの息苦しさを少しでも楽にし     てやれることになるでしょう。それを変えないの     は、逆に苛められたアメリカに対する当て付けで     それこそ陰湿です。」  教師「軽率に変えることの方が、取り返しのつかないこ     とだってあるやろ。変われない臆病さに愛想が尽     きたと軽率な変身の合理化をする方が、変わらな     い愚直さに甘んじる以上に質が悪いように思えて     ならんわ。とにかくお前のそのだらしない格好は     何や。そんなアメリカナイズされたルーズな格好     するんじゃないよ。どう見ても教育上、好ましく     あらへん。」  生徒「それこそ苦し紛れの合理化と違いますか。大体、     靴下は白色が好ましいなんて、それこそ色に対す     る偏見を学校教育で植え付けているようなものじ     ゃないですか。小さい頃から、色に関するマイン     ドコントロールが潜在意識のなかにすり込まれる     それって、某カルト集団のやってたことと変わら     ない犯罪ですよ。その合法的マインドコントロー     ルが、学校というサティアンで日々イニシエーシ     ョンされている。先生、自分の心の色まで白一色     に染めて、一体どうするんですか。」  教師「別に、白のどこが悪いんや。純白の鳩が平和を象     徴するように、白色は世界に好ましい色と認知さ     れているんやろ。国際的公共の福祉に合致した、     すなわち教育上、好ましい色やないか。」  生徒「どんな色をしていても大切な命には変わりないは     ずです。要するに、白って白人の黒人をはじめと     した有色人種に対する優越感を誇示する色なんで     しょう。学校も暗に差別を前提にしているところ     なんですよね。そう考えると、理不尽な学校での     日常生活もそれなりに理解できます。それが、管     理上、都合のいい色を押し付けるなかで、その色     に染まるようなカメレオン的生き方在り方が是と     されそれ以外の色は疎外の対象になっちゃう。」  教師「お前も、もっとオリジナリティーに根ざした自己     主張をしたらどうや。茶髪にしてまで欧米人の真     似をすることはないやろ。そこまでして、アメリ     カニズムに迎合する今のお前らの精神の痴態は、     棄民化思想とも通呈するんじゃないか。」  生徒「先生のそういう拘りこそ、精神の遅滞を来す悪し     き日本の病根ではないですか。先生も何かに縛ら     れたいんじゃないですか。家では家族に縛られ、     学校では教師としての倫理観に縛られ、一生、縛     られっぱなしじゃないですか。」  教師「今の世の中、殺人や自殺が後を絶たないやろ。こ     のままだったら、いずれ近い内に日本列島は軽く     なり過ぎて宙に浮いて、最後は空中分解するよう     な気がしてならんわい。利己主義者が蔓延してい     るからこそ、教育基本法を改定してまでも道徳教     育を重視し、公共心の育成を図らなければならな     くなったわけで、日本社会はそのレベルにまで落     ち込んでしまった。なぜ人を殺してはいけないの     かとぬかす輩も出て来る始末。モラルがどんどん     崩壊している現代だから、ガイドラインが必要な     んだろ。在り方・生き方っていうのも、現代の利     己主義的風潮を諫めるためのキーワードじゃない     か。昔の古き良き時代を再考しようという切り札     的言葉だろ。」  生徒「生き方・在り方って何ですか。道徳の押し付けの     腐臭がしてなりません。生き方より今は死に方の     方が問われる時代ですよ。だって超高齢社会だし     やっぱり生き方より死に方が大切でしょう。ソク     ラテスは悪法も法なりって堕落した衆愚政治への     警鐘を自身の死でもって示そうとしたし、生き方     はやはり死に方と深く関わっているでしょ。イエ     スだって脳死臓器移植だの遺伝子治療だの、やた     ら自然に反逆するかの如き生命への畏敬の念をか     なぐり捨てる延命操作には、頭を傾げることでし     ょうね。生き方って言われると何か胡散臭い気が     しますよね。誰かが言った美しい何チャラのよう     に。生き方・在り方って、先生達にまず見本を見     せてもらいたいですよね。生徒にこうあるべきだ     と言う前に、ちゃんと襟元をただして欲しいです     よ。世界史未履修問題で見苦しい真似したのは何     処の誰でしたかね。もう大丈夫なんですか。また     政治家のモラルが一番問われますよね。何処かの     国の大統領なんて、言い掛かりを付け不正義の戦     争を仕掛けてふんぞり返っていますよね。我々高     校生の在り方・生き方っていうよりも、世界の在     り方がどうしようもない状態ではありませんか。     ま、しかし、大丈夫ですよ。だって日本列島は浮     沈空母だって、その昔、誰かが言ってたし。切っ     ても切れない何処かの国との固くて強い鎖に縛ら     れ漂流することもないし。結構、縛られるって悪     いものでもないんでしょう。」  教師「それとこれとは話が違うだろ。わしはアメリカニ     ズムの呪縛を問題だと言いたいんや。自分に正直     にありたいと思うからこそ、アメリカニズムに席     巻された世界のなかで、日本人として正直たれと     言ってるつもりや。」  生徒「先生も教師らしくきちんとした言葉使いをして下     さい。ひょっとして、先生のような言葉の乱れが     学校をはじめとする乱れた現代社会の背景にある     のかも知れませんよ。気付いておられないようで     すね。先生も御自身の言動にもっと責任を取って     頂きたい。先生が命懸けで守るべきものは、決し     て得体の知れない学校文化ではない。あなた方が     死守しなくちゃならないのは、あなた方が直面し     ている生身の生徒の心であるはずです。さきほど     から先生が燻らす煙草の煙で僕の命を縮めること     が先生の命懸けの指導ですか。先生、少しは教師     らしくして下さい。」  教師「“服装の乱れは心の乱れ”につながるんや。人の     心は服装に表れるんと違うか。お前以外のもんは     ちゃんとしとるやないか。お前のその姿はお前の     態度そのものを示しとるんと違うか。」  生徒「先生は人をぱっと見て判断するんですか。人を見     掛けだけで判断してはいけないといつか言ってた     じゃないですか。先生は、嘘を僕達に教えていた     んですか。」  教師「だがな、人は見掛け、すなわち外観で判断しがち     なのも事実なんやないか。とかく、人の目に見え     るものが、目に見えないものに影響を与えるもん     や。実際、お前がここにおるのも、ピアスをしと     るという、明らかにわしの目に見える事実が、お     前のどこかがおかしいという目に見えないわしの     心に影響して、お前を呼び止めるという行為につ     ながったんや。」  生徒「先生、そういう唯物論的なものの見方が僕に対す     る誤解、いや大いなる偏見を生んでいるんです。     見掛け倒しというように、外観は立派だが内容が     伴わないこともよくあることで、逆に背広でない     先生のそのラフなジャージ姿が、駄目教師に直結     しないことと同様であるはずです。僕がピアスを     しているのは、そういう現実に対する細やかなレ     ジスタンスであり、そういう目に見えない生徒の     心の襞を、先生の心の目で汲み取って頂きたいと     いうせめてもの表明なのです。」  教師「ほな何だかんだと時代に合わせて機能的に変えて     いきさえすればええんか。日本人やったらシャツ     をだらっと出したりして締まりのない格好するん     やない。社会が余りにもだらしなくなってきてる     ぶん、わしらは今まで以上にしっかりせなあかん     のが本当やないんか。学校文化はそういう意味で     は保守すべきや。」  生徒「先生の考え方は、多分に復古的というか大日本帝     国の精神に通じるところがあり、それって超保守     的で危なくないですか。先生一人がそんなに意気     がって今の流れを押し止めようとしても、それこ     そ逆に溺れ死んでしまうのが落ちじゃないですか     そんな自分を犠牲にしてまで守らなければならな     いような文化なんて嘘っぱちですよ。」  教師「そのような考え方を持つ利己主義者が蔓延してい     るからこそ、教育基本法を改定してまでも道徳教     育を重視し、公共心の育成を図らなければならな     くなったわけで、日本社会はそのレベルにまで落     ち込んでしまった。なぜ人を殺してはいけないの     かとぬかす輩も少なくはないんやろ。」  生徒「じゃ、先生は宇和島徳州会病院での臓器移植問題     に関してどうお考えなんですか。臓器提供者は自     己犠牲のなかで他者を生かすと言いながら、臓器     売買をめぐり金銭的問題の胡散臭さが付き纏いま     すが。」  教師「最愛の人が臓器移植をしなければ生きられないと     なった場合、そんなこと言ってられるか。そう言     う奴に限って金銭に物を言わせ助けようとするん     じゃないか。」  生徒「やはり、生命すなわち生死を科学文明で操作しよ     うとするのは、神への冒涜であり自然の法則に反     することです。脳死を人の死とする考え方は、プ     ラトンやデカルトのように二元論を基にする西洋     的な発想であり、先生の尊重されているアニミズ     ムなど日本の古来からの考え方を否定することに     なり矛盾してると思うのですが。」  教師「やっぱり生き方より死に方が大切やろ。イエスだ     って脳死臓器移植だの遺伝子治療だの、やたら自     然に反逆するかの如き生命への畏敬の念をかなぐ     り捨てる延命操作には頭を傾げるやろ。」  生徒「しかし、犠牲の精神を旨とするイエスならば、自     分の腎臓を一つだけでなく両方とも切除させて与     えるでしょうね。しかも無償で。正しく右の腎臓     を取られたら、左の腎臓も取らせなさいって。」 ◆入試選考会議で~会議は踊る、されど  教師A「A生徒は総合得点でB生徒より1点下回ります      が、面接時の態度は非常に良く、また野球部の      エースとして活躍もしており、将来性を考える      とB生徒よりも上位になり逆転します。」  教師B「A先生のように入試以外の点に目を向けたら、      どうしても選考者の恣意が払拭しきれなくなり      客観性を欠いた情実的選考にもなりかねない恐      れがでてきます。あくまでも入試の成績結果に      ウェイトを置いた選考に心掛けるべきです。」  教師A「勿論、その点に関しましては異議はございませ      んが、試験の得点結果だけでは合否が判別でき      ないからこそ、今やっている我々の選考会議の      意義があるわけで、しかもこの場合、AB各生      徒の入試得点の違いは、たった1点だけなので      すよ。だったら余計に入試の成績結果以外にも      よく目を向けるべきです。」  教師B「それだったら、B生徒も水泳部のキャプテンと      してよく部活動をまとめ、三年間、根気よく続      けて頑張ったと内申書には記載してあります よ。」  教師A「それこそ、内申書の記載者の恣意がないとは言     い切れませんよ。記載者の文章表現でどのよう      にも解釈できることです。」  教師B「A先生もそう言われるんだったら、尚更1点差      というAB各生徒の入試成績結果の厳然たる事      実に拘らなければならなくなるはずでしょう。」  教師A「B先生、ちょっと待って下さい。A生徒は地区      大会で準優勝しているピッチャーですよ。これ      こそ、厳然たる事実以外の何物でもないはずで      す。あなたとここで評価論を展開するつもりは      ないですが、私の持論は評価は絶対的に絶対で      はないということです。評価というのは結局は      相対的なもので、土地の評価と同様に時と所に      よって絶えず変化するものです。その時には見      向きもされなかったものが、ある時には素晴ら      しいものになったりすることもあるわけで、我      々教師は生徒をただ一面的に捉えるのではなく      あらゆる角度から観察し分析検証しながら評価      することに心掛けねばなりません。」  教師B「そんなことはA先生に指摘されるまでもないこ      とで、私も絶えず評価に関しては慎重であるべ      きことは当然だと思います。ただ、あなたのよ      うな多分に相対主義的価値観のもとで、果たし      て教育が成り立っていくのか疑わしいというこ      とです。それなりの自信と覚悟がなくて、人が      人を評価することなどできないはずです。その      ためにそれなりの入試問題が検討作成されてい      るんじゃないですか。」  教師A「そうでしょうか。私にはB先生のように断言が      できない実状があるように思えてならないので      すが。例えば、文科系の試験では思い切った論      述式問題を作成しようとしても、採点基準など      の様々な問題点があり、結局、従来型の短答形      式にならざるを得ず、限界があるのではないで      すか。そして、より多くの事項をいかに覚える     かが優劣の分かれ目となり、そうした入試問題      に即応できる授業や教育活動となってしまい、      東大はいわゆる超勉強法のテクニックに長けた      エリートをスポイルする機関として機能してき      たんじゃないですか。」  教師B「それが一体どうしたと言うのですか。あなたは      東大を引き合いに出して、日本の教育システム      をどうのこうのとおっしゃりたいようですが、      ここでそれを言ってみても時間の無駄というも      のです。そりゃね、私だって日本の教育問題の      根っこの部分に、東大を頂点とする知のヒエラ      ルキーとでもいうべきピラミッド構造があり、      結局そこから抜けられない学歴偏重主義の呪縛      があるということぐらいわかりますよ。そして      旧態依然の東大解体論などの大学改革論が叫ば      れたりするんでしょうが、大体、行政改革が口      先だけの大号令に終始するのと同様、既得権益      を死守したい輩の大勢いる大学内をそう簡単に      は変えられないでしょう。また、大学改革だけ      で済むような問題でもなく、あなたの言うよう      に元を辿っていけばそれこそ、日本人の学歴信      仰のルーツを探るべく、福沢諭吉などが関わる      近代史をみなければならなくなってしまいます      よ。」  教師A「その通りですよ。更に、福沢の思想に影響を与      えた欧米の近代合理主義までをも検証しなくて      はならないわけです。近代合理主義は理性的で      あるものに価値を見出し、反理性的なるものに      は価値がないとする見方です。実利的・機能的      でないものは非合理的なものとなるわけです。      結果オーライという言葉も合理主義的用語の典      型で、結果に至るまでの過程は手段化され、結      果がよければ手段化された過程も合理化されて      しまう。結果よければすべてよしで、それは目      的のためには手段を選ばずという考え方につな     がるものです。」  教師B「A先生は、1点差という結果に至るまでの過程      が問題だと言われるんですか。そんなのわかる      わけないでしょう。一体どうすればいいって言      うんですか。」  教師A「先程、文化系の問題について言及しましたが、      AB各生徒の国語の答案を検証してみてくださ      い。必ずどこかに解決の糸口があるはずで      す。」   AB各生徒の国語の答案が検証される。  教師A「やはり、問題点が見つかりました。7番の問題      で絶体絶命をAは「絶対絶命」と書いて全く得      点がなく、Bは「ぜったいぜつめい」と書いて      2点の内1点得点されています。この問題では      漢字で答えよというような条件付きではござい      ませんが、国語の試験問題において積極的に漢      字で書こうと臨んだA生徒と、最初から問題が      条件付きでない場合は全部ひらがなで書こうと      安全策をとったB生徒とで1点差が点けられた      しかも、難易度の高い漢字に挑戦したA生徒で      はなくて、安易なひらがなで表記したB生徒に      優位な採点がなされたわけです。」  教師B「しかし、絶体を絶対と明らかに誤記したA生徒      と、それを誤りのないぜったいと表記したB生      徒とでは、明らかに優劣がつくのではないです      か。その優劣の差が1点差になって表れたので      しょう。」  教師A「B先生、絶対にそう言い切れるでしょうか。ひ      らがなで表記したB生徒も1点は減点されてい      るのですよ。ということは、出題者並びに採点      者は、問題が条件付きでなくても、試験で漢字      を使用するのは、しかも国語の試験においては      当然だ、という常識を持っているのではないで      すか。」  教師B「そんなことは当然でしょう。議論するほどのこ     とではないですよ。ひらがなで書くより漢字で      書くことに付加価値があるのですよ。従ってA      生徒のほうがB生徒より優位に立つが、誤ると      いう行為によって立場が逆転しただけのことじ      ゃないですか。そもそも、漢字で書けという条      件付きでない問題において、ひらがなで書いた      ことを減点すること自体、問題になりますよ。」  教師A「漢字で書くことに付加価値があるんでしょう。      我々は小さい頃から数えきれない漢字テストの      試練を受け漢字を覚えさせられてきた。画数の      多いいわゆる難しい漢字を覚えることに、付加      価値が与えられてきたのです。」  教師B「それはどうしてだと思われますか。」  教師A「難しいことに挑戦することが美徳であり、それ      を実行することが努力につながるからでしょ う。」  教師B「要するに、暗記することに努力を要したという      評価がなされたということですよね。A先生は      暗記することに懸念を示されていたんじゃなか      ったですか。」  教師A「暗記することに対してではなくて、どうして記      憶するのかということを問わずに盲目的に暗記      することを警戒しているのです。」  教師B「それでは、どうして漢字を覚えるのか、A先生      の見解をお示し下さい。」  教師A「日中友好のためです。」  教師B「そんなの子供騙しにもなりませんよ。社会に出      て通用するためでしょう。あなたの見解は社会      に通用しません。」  教師A「そんなことはありません。漢字は日本起源では      なく、中国文化の典型です。従軍慰安婦などの      問題で日本に対する警戒心が高まっているなか      漢字を多用することはアジアの一員であるとい      う証明につながるのです。」 教師B「A先生の見解は、難しい漢字以上に難解ですね      しかし、あなたの言われた従軍慰安婦問題は主      として韓国との間でこじれているもので、更に      アジアのなかで漢字を使用している国はごくわ      ずかですよ。」  教師A「それはそうですが、過去、わが国がアジアに対      して行ってきたことを鑑みると、中国との友好      はアジア各国との友好につながっていくのでは      ないですか。」  教師B「しかし、日本が漢字を使用しだしたのは大昔の      ことで、A先生のおっしゃってることはかなり      のこじつけです。中国のほうが日本より文化的      に上で、日本は中国の漢字使用を歴史的に日常      化してきたが、それは日本の中国に対する劣等      感の表れではないですか。」  教師A「厳密に言えばそういうことですが、実際、日本      文化に純粋性を求めること自体に無理があるわ      けです。結局、日本文化あるいは日本的と言え      るものは何かと問われたら、外来文化を受容し      折衷加工するシステムとなるのではないですか      だから、何事も程々のところで折り合いをつけ      なければならないわけです。」  教頭 「ここで、あなたがたに文化論を議論してもらっ      ても困ります。話しを本題に戻して下さい。そ      れでは面接の際の詳細を、担当のC先生に報告      してもらいましょうか。」  教師C「面接に関して、AB各生徒とも別段、変わった      様子はございませんでした。」  教師A「大体、面接も問題ではないですか。マニュアル      通りの形式的な面接など、やってもしょうがな      いんじゃないですか。」  教師B「しょうがないとは何ですか。面接は重要な選考      資料の一つになりますよ。」  教師A「だって、最近は、面接官の質問自体が、大幅に      規定化されてきているではないですか。例えば     尊敬する人物は誰かというような質問は、本人      の思想信条に関わる問題であり好ましくないな      ど、質問事項が次第に固定化されてしまってい      る。それを受けて受験者側も面接の想定問答練      習がし易くなり、質問に対する応答がほとんど      大同小異で、あらゆる点でマニュアル化してき      ており、そういう面接を儀礼的・形式的だと言      われても仕方ないんじゃないですか。また、面      接において面接官はこういう質問は控えるべき      だ、被面接者はこういう質問に対して答えるべ      きでないとか、それは限りなく抑圧的にならざ      るを得ず、結果的には自己規制をしてしまう傾      向になり全てが形骸化してしまう。それこそ言      論統制的色彩を帯びるものです。」  教頭 「堂堂巡りで決着が付きませんので、それでは校      長先生の御決裁を仰ぎたいと思いますが、よろ      しいですか。」  全教師「異議なし!」  校長 「少子化のなかで生徒数が急減し、学校経営が困      難になろうとしている現在、‘落とす’入試で      はなく、“入れる”入試が一般化しております      しかし、それに伴う質の低下も懸念されるとこ      ろで、益々、私ども教職に就く者は厳しい教育      環境に直面せざるを得なくなるでしょう。そう      いうなかで我々教師は、生徒や保護者、そして      それを取り巻く社会に対して、今後、迎合的姿      勢を余儀なくされるでしょう。さて皆さん、籤      引きで決めてはどうでしょう。」  全教師「異議なし!」拍手おこる ◆グランドにて~より高く、より速く  顧問「何言ってんだ。他人に向けられた最大の暴力が殺     人なら、自殺は自分に向ける最大の暴力じゃない か。そんなの許されることじゃない。簡単に死ぬ     なんて言うんじゃない。大切なお前の命は自分だ     けのものでないってことを忘れちゃ駄目だろ。苛     め自殺が後を断たないが、自殺する勇気があるな     ら、苛めの構造を見抜きそれを然るべきところに     ぶつけないか。我々を操りほくそ笑む者達をのさ     ばらせて、一体、何をしているのか。苛められた     経験のある者は苛める者になる。日本も欧米に苛     められ、そのトラウマから逃れるために、同朋の     亜細亜人を苛めたんだろ。」  生徒「でも、もうこれ以上、耐えられないんです。だっ     て、皆、集団で僕を殴る蹴るんです。」  顧問「いじめって何か自分達とは何か違ったものを発す     る存在を異質なものと見做し、それをターゲット     にして疎外することによって仲間意識を確認し合    うんだよね。また、均質でお互いの力関係が拮抗     していると、絶えず緊張感によるストレスに苛ま    れなければならない。それに耐えられなくて、拮     抗した力関係を自発的に壊そうとするなかで犠牲     者(スケープゴート)がつくられる。それを疎外     することによって同質同士関係の息苦しさから一     時的にでも解放されたいとする。特に日本は集団     主義で和を以て尊しとすを旨とする文化的土壌や     横並び志向の社会的背景が絡って、余計、均質的     風土におけるストレス社会を醸成しているように     思うわ。それと、昔より今のほうが均質的集団組     織になってる分、いじめが深刻化すると考えられ     るわ。昔は学校のなかで必ずガキ大将っていたよ     な。絶対的リーダーが同質集団のなかにおいて、     ある意味で異質的存在として君臨することにより     拮抗関係によるストレスが、うまくガス抜きされ     ていたともみれる。」  生徒「やっぱりリーダーって必要なんですかね。だけど    リーダーが独善的存在になってしまうと返ってい     じめを誘発してしまうこともありますね。」  顧問「リーダー的存在というのは、要するに責任者とい     うことやな。集団内にそいう責任をとる者がいな     いと、その集団はいつも落ち着かなく不安に駆ら     れてしまい、お互いぎすぎすしてストレスが高じ     てしまう。責任をとることはリーダーの必要条件     であり、その見返りとしてまわりの者はそういう     リーダーに権力を委譲するわけで、独裁者の出現     が問題になるな。田中角栄は‘政治は力、力は数     数はカネ’従って、政治はカネっていうイメージ     を払拭しきずに、結局、マスコミにいじめられた     かも知れないね。」  生徒「マスコミの問題もありますよね。学校も今や社会     的にいじめの対象として、マスコミの餌食になっ     てるんじゃないかな。やっぱ、マインドコントロ     ールには弱いんじゃないかな。特に男の子に人気     のあるバイオレンスもののゲームには問題が多い     と、この私でさえ思いますよ。ゲーセンなんかで     画面に釘付けになりただ操作レバーを長時間にわ     たり、黙々とカチカチャやっている姿はどう見て     も異常としか言えないです。」  顧問「同質集団内におけるストレスがいじめにつながっ     ているのではないかと指摘したけど、学校での集     団活動では皆と足並を揃えて行動することが何よ     りも重視されるよね。勝手な言動は厳しく諌めら     れ、常に集団全体を優優先する規律のなかで、自     ずと全体の調和を乱す者は集団内で疎外の対象と     してレッテルを貼られ煙たがられる存在になって     しまう。だから集団生活のなかでできるだけ目立    たないようにしようとしていく意思が働いて、皆     能面を被ったような個性のない傾向がつくられて     しまうよね。そういう世界で目立つことは同質集     団にとって、ウィルスのような異質物として扱わ れ、除菌される羽目になるということかな。最近     癒し(ヒーリング)という言葉をよく耳にするけど     複雑多岐になっている現代社会の人間関係のなか     で、屈折した心をいじめという歪曲化されたシャ     ーマニズムを取り入れることによって、“悪魔払     い”しているのかも知れない。」  生徒「だけど最近、個性重視の教育が何処もかしこも決     まり文句になったけどそれって一つ間違えればい     じめのターゲットにされかねないじゃないですか     とにかくそんな厄介な集団生活なんか、やっぱつ     いていけない。私は性悪説的人間観です。だから     できるだけ下らない人間関係は避けたいな。いじ     めが悪魔払いの儀式だなんて、とんでもないです     よ。私は犠牲者ですか。」  顧問「いじめの問題にしても言えることだけど、いろい     ろな意味で私達の病原菌に対する抵抗力というか     免疫力が落ちてきてるよね。生きる力と言っても     いいかな。」  生徒「先生の今、言われたことはいじめに対して耐える     力をつけよという意味ですか。そのような見方は     いじめを容認してしまう考え方にもなりかねませ     んよ。」  顧問「決して、そのようなことを言っているのではない     よ。発想の転換も必要な場合もあるよと言いたか     っただけさ。いじめをはじめ荒廃の一途を辿る最     近の学校を、学校の怪談とかいうオカルトの場に     設定し、どうしようもない学校教育の問題を暗に     揶揄しているのかな。ひょっとして、学校が社会     的にいじめられていると見れないこともないよ     な。」  生徒「先生には僕のことより、勝負のことしか頭にない     んでしょう。僕前々から勝利至上主義に疑問があ     るんです。」  顧問「生意気なこと言うんじゃないよ。そんなこと、お     前なんかに言われなくったって、百も承知だよ。   だったらお前は一体、何のために厳しい練習をや     ってるつもりなんだ。ただ、自分の健康増進のた     めとかなんぞの目的では、向上はありえないんじ     ゃないか。何をするにしても高い理想や目標があ     るからこそ、頑張ろうという気持ちにつながるん     だろう。苦しい練習がありそれを乗り越えた者に     勝利の女神が微笑むわけだろ。じゃあ聞くが、オ     リンピックは何のためにあるんだ。世界平和のた     めとかいうのはあくまで表向きの建前であって、     参加することだけに意義があるんじゃないだろ。     出場した限りは、頂点を目指して頑張ることが大     切なんじゃないか。やはり、金メダルを獲得する     ためにお互い鎬を削っていくんだろ。」  生徒「より高く、より速くと他を押し退け頂点を目指し     泣き笑い、一喜一憂しながらメダル獲得に火花を     散らすことに、どれ程の意義があるんですか。む     しろ僕はそのなかで、見失われていくものが多い     ように思われます。」  顧問「そんなことをほざくのは、負け犬の言い訳であっ     て、努力不足を棚上げする練習嫌いのお前のよう     な奴が言いそうなことさ。」  生徒「だけど最近のオリンピックでドーピング問題が深     刻になっているのは、僕の指摘している勝利至上     主義の弊害の表れではないですか。」  顧問「当然ドーピングは認められないことだが、より高     く、より速くという情動は、人間の押さえがたい     自然の発露で、むしろ人間の向上心の表れであり     健全な精神だろ」  生徒「それが歪められているのが、現在のオリンピック     の姿ではないですか。より高く、より速くという     言葉は、それこそ資本主義のキャッチフレーズに     利用されているだけじゃないですか。今、僕や先     生のやっている野球にしても、結局は都合のいい     資本主義の道具じゃないですか。甲子園を目指し     てとか言ってるけど、その先には、プロ野球への    道があって、甲子園に出るということは、プロへ     の登龍門ということでしょう。‘巨人軍は永久に     不滅です’なんて言ったりする野球選手を、ずっ     とヒーローに祭り上げるよう煽られている自分達     は、一体全体何なのか考えたことがありますか。」  顧問「資本主義の日本、いや資本主義が勝利したとまで     言われている世界のなかの日本、野球のどこがい     けないのか、はっきり言ってみろ。」  生徒「学校教育の一環という言葉をよく耳にしますが、     野球用語には併殺プレーとか盗塁とかいうように     殺す盗むなどという言葉が至る所で使用され、そ     れには何も触れず、逆に高校野球を崇高なものと     持て映やす。しかも、夏の甲子園は日本の代表的     年中行事の一つで先生方もその甲子園に振り回さ     れてきた犠牲者の一人じゃないですか。」  顧問「野球用語のなかには、犠打とかいうように、自分     を殺して相手を生かすというような、犠牲の精神     を含むものもあるじゃないか。その言葉には、現     代の日本が忘れかけてる自分達のアイデンティテ     ィーが隠されているんじゃないか。お前みたいな     自分優先の考え方が大勢を占めるようになってき     ている今だからこそ、チームワーク宜しく滅私奉     公的精神を強調する高校野球は全国的に支持され     ているんじゃないか。私も野球部顧問として、本     校のために自分の家庭を犠牲にして、今日までや     ってきたつもりだ。そのぐらいの覚悟がなくて、     どうするんだ。何かを犠牲にしないと実際得るも     のは少ないのと違うか。例え試合に勝ったとして     も、生半可な練習での勝利では心の底からの満足     感は味わえないのは当然の事だろ。」  選手「そういう覚悟とかいうのが、僕には迷惑なんです     そんな大袈裟なことを言われるから、練習が楽し     くなくなるんですよ。そもそも相手を負かし、負     かされた相手を見ながら自分は優越感に浸り、満    足する。負けて惨めな思いをしている敗者の存在     があるから、勝利の感激が沸き起こるんでしょう     「頂点に立つ」すなわち、その他大勢のなかで、     独り勝をする覇者が優位に立てるって、まさしく     独占資本主義的ですね。」  顧問「我々、人間社会における勝負システムは、お前が     言うような最初から強いものが弱いものを餌食と     して成り立つ動物界の食物連鎖とは違うものだろ     最初、弱かったものも、切磋琢磨して力を付け、     努力もせずして胡をかいてるものに取って代ると     いう、よりよい競争のなかで緊張が維持され、お     互いが活性化できる仕組みさ。言い方は悪いが、     要するに下剋上的仕組みということにもなるな。     固定化された身分差別的仕組ではなく、努力の有     無により上下関係が決まるってことさ。最終的に     は、努力をするかしないかを価値判断の基準にす     るということで、それは学問の世界と同じことじ     ゃないか。知の世界におけるオリンピック、ノー     ベル賞が。」  選手「だけどノーベル賞は国家間で金メダルの数を競い     合う程のものではないですね。やはり、肉体のオ     リンピックに比べ、ノーベル賞は競争を曖昧なか     たちにしている。それが返って偽善的じゃないか     と思えるんです。だけど結局、肉体上の世界競争     の方が、精神上の競争に比べより鮮明に優劣が付     けられる分、差別性が伴うんじゃないかな。」  顧問「で、お前は一体何が言いたいんだ。」  選手「ですから、練習も程々でもっと楽しくやりましょ     うと言いたいわけです。より高くより速くなんて     そんなの機械に任せてたらいいじゃないですか。     人間、所詮いくら頑張ってもロケットのようには     高く跳べないし、速く走れもしない。それを無理     に頑張って、機械に近付こうとしているのが現代     じゃないですか。機械化のなかで人間自体がどん     どん機械化していくのが恐いんですよ。」 顧問「お前な、SF小説の読み過ぎじゃないか。」  選手「いや、僕は三島由紀夫の小説は読みますが、彼に     も肉体と精神の一致を求めながら、結局その齟齬     に悩み苦しんだ形跡が見受けられます。彼がボデ     ィービルで肉体を鍛え上げその肉体に見合う精神     を模索し、挙句の果てに自らを腹切りへと追い込     んでいったのと同様、現代は己れの肉体をマシー     ンの如くヘンシーンさせ、限り無く無機質なもの     にしようとしている。しかし、文化防衛論を展開     し割腹で大和魂を実践化したかにみえた三島も、     その理想とした肉体は古代ギリシアの彫像群であ     り、その精神もプラトニズムの範疇から逸脱する     ものではなかったように思えるのです。」  顧問「だから、どうしたって言うんだよ。お前みたいな     頭でっかちな人間を創造したのも、要するにプラ     トニズムの結末だろ。ほとんどが猫背で腰が引け     た姿勢になって塾通いする最近の子供達の姿を見     るにつけ、心体のアンバランスというか不一致の     兆候を強く感じるよ。」  生徒「ですから、もうそろそろ、学校体育に携わる先生     方の認識も、変えたらどうかと思うんです。今の     自分の姿を尊重した体育ということです。肉体を     表象する体操の世界において、その歪みが顕著で     はないでしょうか。肉体をその個人の精神性とは     無関係なものとし、単なる技術的要素を競い合う     様相をより強くしている。その結果、アクロバテ     ィックでメカニカルな演技を志向する傾向になっ     ているように思われます。特に女子は中国雑技団     の二番煎じのように思えてなりません。」  顧問「技術を磨くことがなぜ悪い。特に、わが国は技術     大国と言われるように、米国人の力に対抗するた     めの技術を工夫してきたわけだろ。柔道など柔よ     く剛を制すと言うように、どうしようもない肉体     的ハンディを技術で克服しようとしていく。その     際に磨かれた技術には大いに精神性が込められて    いるんじゃないか。今、俺やお前の取り組んでい     る野球だって、本場アメリカのパワー野球に対し     て日本の集団主義を前提にした技術野球で勝負し     てきたのと違うか。その過程で、賛否両論あるな     かでも高校野球が多くの支持を得ながら、その歴     史が形づくられて来たんだろ。」 ◆職員室にて~自由化は荊棘の道  教頭「遅刻するとは何事ですか。弛んでます。」  教師「申し訳りません。」  教頭「あなたみたいなことをしているから、教師の質が     低下していると世間で噂されるんじゃないですか     社会人としての当たり前のマナーからなっていな     い。」  教師「教頭先生は教師の質が低下していると言われまし     たが、私達は逆に、あなた方の世代のデモシカ先     生ではなく、厳しい教員採用試験をくぐり抜けて     きたという密かな自負があります。」  教頭「一体何ですか、その口の利き方は。全く最近の教     師は話しにならん。我々の世代の教師観とは雲泥     の差がある。教師としての自覚が微塵も感じられ     ない。私は、教師の倫理観を強調して言っている     つもりです。あなた方はペーパーテストにおいて     は一応、教師の端くれとして及第点が得られたの     でしょうが、人格的に今曲がり角に来ているよう     に思われます。そういうなかで、様々な学校問題     が噴出してきているのではないですか。」  教師「そういう偏狭な教師観だから、教職員間の融和が     図れなくなり返ってぎすぎすしてしまうんじゃな     いですか。そういう雰囲気が、学校の閉塞状況を     より悪化させているようにも思えるんですが。だ     から、私は教師の質が低下しているから、教育の     自由化が必要だなんていう口車に乗って、教職員     間の競争を変に煽ったりしない方が賢明だと思う    のです。若い世代の教師ばかりに自由化論を強要     するのはおかしいんじゃないですか。大体、セク     ハラ問題などを起こしているのは、教頭先生達の     世代も例外ではないでしょう。私は、むしろ古い     世代にこそ、自由化の風が必要と思いますが。」  教頭「しかし、君みたいな年長者を年長者とも思わない     ような、モラルの欠落した若い連中を黙って見て     ろとでも言うのかね。それこそ、とんでもないこ     とになるんじゃないのかね。」  教師「だからこそ、教職などの職域では民間企業並の市     場原理を取り入れることに慎重であらねばならな     いと言いたいのですよ。教育職は完全自由化をす     べき性質のものではないのです。なぜなら、近年     一般企業が踏み切ろうとしている年功序列などの     日本的労働慣行を自由化の波に晒すことは、教頭     先生の言われた年配者に対する敬意などを軽視す     る傾向を助長することはあれ、それを回復するよ     うにはならないと考えるからです。特に我々の教     職において、そういう年功序列などは長幼の序と     いう徳目につながるもので、教育上必要不可欠な     ものでさえあると思います。さらに賃金体系を市     場原理に晒し能力給にしていくことは、その査定     に評価基準など困難な問題が起こってきて、生徒     の成績判定より面倒な作業が伴うからです。なぜ     なら仕事による労働成果は、生徒の成績結果のよ     うに短時日如実に表れるような性格ではないか     らです。特に教育職においてはその労働内容に精     神性を含む場合が多くそれを実績として評価し査     定することは非常に難しく、もしそれを実際にし     ようとするならば、生徒が卒業後、どれだけ社会     に有為な存在となっているかを追跡調査しなけれ     ばならなくなったりするわけです。また、その際     生徒が在学中には全く見られなかった様相を呈し     ている場合、果たしてそれが学校教育によるもの     か、社会教育によるものなのか、将又個人的問題    によるのか、判断できるのですか。学校教育の目     標が、試験結果などの単なる個人的成績を向上さ     せるというものではなく、あくまでも国家社会に     有為な存在の育成という理想にあるならば、教育     職における労働実績の評価査定も、その理想に見     合うものでなければならないはずです。そうする     と、教頭先生のように、毎日机の前に座ってペチ     ャクチャつまらないお小言を吐いてる暇はありま     せんよ。そんなくだらぬあなたのような教頭職こ     そ、能力給の前では話にならない最低の査定と評     価されても仕方なくなってしまうんじゃないです     か。」  教頭「話をすり替えてはいけないね。」  教師「すり替えているのは、教頭先生の方じゃないです     か。中国の社会主義市場経済じゃないですが、教     育には社会主義と資本主義の両手法がバランス良     く共存しなければならないのではないでしょうか     それが今や政治の世界と並行して、社会主義的要     素が軽視され、資本主義的観点が幅を利かせてい     るんじゃないですか。競争至上主義が跋扈するな     かで、いじめが生徒だけでなく教職員間でも切実     な問題になってきているとも言えます。例えば、     習熟度能力別クラス編成などを採用している学校     などでは、選抜クラスの担任に遣手の先生を充て     たりして、教員間の競争を煽り対立の原因にもな     りそこに自ずといじめの構造が出来上がってしま     ったりする。」  教頭「教職員間のいじめ問題とは聞き捨てならないね。     そういう見方が狭隘じゃないのかね。さっき今の     教育界には社会主義的観点が希薄になりつつある     という指摘があったけど、果たしてそうかな。義     務教育などでの評価記述が絶対評価を重視したも     のになっているのは、君の指摘とは逆のように思     えるんだが。」  教師「それは、過熱する偏差値至上原理が引き起こす資    本主義的悪弊を緩和しようとする文科省の姑息な     苦肉の策でしょう。それが、相対評価に慣らされ     曖昧な絶対評価に飽き足らない保護者の困惑に拍     車をかけ、序列が明確になる塾へわが子を戦士と     して通わせる結果になっているんじゃないです     か。」  教頭「君は案外、保守的なんだね。校則の見直しや指導     要録の開示に、君は反対だと言うのかね。」  教師「反対だと言うのではなく、全面的に賛成だとは言     えないということです。なぜなら、規制緩和など     の改革が外からの圧力で実行されているからで     す。」  教頭「はてさてどういうことかな。もっとわかりやすく     話してくれないとよくわからないな。どうも君は     よくわかる授業の実践がなされていないようだ     ね。」  教師「今、教頭先生の言われた‘よくわかる授業’の     “よくわかる”というのが、案外、曲者なんで     すよ。80年代後半、独り勝する日本経済に苛     立つ欧米が、わが国に対して不公正な貿易慣行     を改めるよう再三にわたり迫ってきましたが、     その際、日本はよくわからない国であると文化     的要素にまで苦言が及んだりしたわけです。そ     うした中、日本文化まで見直そうという傾向が     つくられてしまったのです。」  教頭「世界のなかの日本、すなわち世界あっての日本     じゃないのかね。一体、何が問題なのかね。」  教師「私は寧ろ、規制緩和や情報公開を無闇に受け入     れる方が、危なっかしく思えるんですが。教頭     先生によくわかる私にもなりたくない。なぜな     ら、教頭先生の管理上、よくわかる私になるの     は余りにも情けなく、本当の私ではなくなるか     らです。またアメリカが世界を管理する上で、     よくわかる日本になるための規制緩和や情報公     開には決して賛同するわけにはいきません。」  教頭「君の言ってることは、ナショナリストに近いよ     うな気がするんだが、君という人間こそ危なっ     かしくて、よくわからないよ。結局、校則の見     直しや指導要録の開示には賛成できないと言う     んだね。」  教師「校則の見直しに関しては、逆に厳しくしていく     必要があるのではないかとすら思えます。なぜ     なら、今の子供達は指示待ち指向が強くなるな     かで、マニュアル人間が一般的になっているわ     けです。そういう自律のできにくい他律的な彼     等に対して、規制緩和策は返って裏目に出る可     能性が高いということです。次に指導要録の開     示に賛同できない理由ですが、よくわかる授業     の実践が、生徒に合わせようと迎合するなかで     結果的に授業の質の低下を来してしまうのと同     様、開示をすることにより見せるための記述に     終始してしまい、限りなく当たり障りのない虚     構記録になる恐れがあるからです。研究授業な     どの、他人に見せる公開授業が、フィクション     を通り越して、最早“やらせ”的領域に達して     いるのを見れば推察がつくことでしょう。教頭     先生達の世代は、戦後民主主義がどうのこうの     と反体制的な考え方を主張してきたいわゆる団     塊の世代じゃないですか。そういう人達が管理     職になり、今の若い連中はなってないとか言わ     れても、無責任過ぎると思うわけです。自分達     が現在の混乱を引き起こした張本人かも知れな     いのに、ここに至っても総括すらできないなん     て、私には納得がいきません。」  教頭「かといって、君のように反動的になるのも民主     主義に反することになるんじゃないのか。時勢     に逆行して駄々をこねても仕方ないじゃない     か。」  教師「仕方ないとは何事ですか。黄門様の印篭のよう     に、民主主義って言えば皆が平伏し何でも済ま     されるわけじゃないでしょう。」  教頭「またまた問題発言だね。君は教育基本法を何と     心得ているのか。」  教師「またそういう言い方をする。その言い方がまさ     しく印篭じゃないですか。私だって教育者の端     くれ、第一条の教育の目的ぐらいは知ってます     よ。“教育は、人格の完成をめざし、…”けど     人格の完成って言うけど、“人格”とはどうい     うものなのかは知りません。」  教頭「君はそれでよく教育者の端くれなどと言えたも     のだね。」  教師「じゃあ、教頭先生の人格とは何ですか。」  教頭「そりゃあ、民主主義を尊重する人物だろ。」  教師「教頭先生は余程、民主主義がお好きなようです     が、あなただってソクラテスやイエスのように     その犠牲者になる可能性だってあるのです。」  教頭「一体どういうことかね。」  教師「衆愚による民主主義もあるからですよ。」  教頭「それは、私が身をもって、規制緩和、自由化の     教育実践をしている証拠じゃないのか。」  教師「教頭先生、履き違えないで下さい。それは、あ     なたの好きな、あなた個人に対する自己教育力     を高めるための規制緩和、自由化であるべきで     す。教頭先生も校長になりたいのなら、我々に     よくわかる管理をする方が得策で、それがあな     たの生きる道じゃないですか。」  教頭「そうすると、さっきのよくわかる授業の実践じ     ゃないが、この私に君達教職員に迎合するよう     な管理をせよと言うのかね。」  教師「そうです。今の子供達と同様に、我々教職員も     マニュアル化しているのですから、そういう今     の教職員の質に合わせた管理となると徹底した     規制であって、その逆ではないわけですよ。」  教頭「それは、結局、私に対する教職員の嫌悪感を煽     るだけじゃないか。」  教師「だけど、規制緩和策では益々混乱しかねない。     とにかく、自由化は荊棘の道ってことです     よ。」  教頭「今、校長先生が言われた‘勿体ぶる’のが、と     かく教師などの学校教育に見られるイメージで     そのイメージが教師や学校の権威を支えている     ものではないでしょうか。そして教師や学校が     ‘勿体ぶる’のは知という専門的情報を占有し、     それを自在に操作することにより可能となるわ     けです。従って、我々の存在価値もその知の有     無になってくるということで、知を求めて人は     教師のいる学校へ足を運びながら、知をめぐる     権力関係もつくられていくのではないでしょう     か。パソコンの導入は、その知をめぐる諸関係     を変えざるを得なくしていく。もはや教師は知     の占有者ではなくそれは教師の権威をも失墜さ     せるばかりではなく、皆が学校に足を運ぶ必要     がなくなるわけです。ネット社会が様々な境界     を無化させようとしている時代に突入している     今、学校の存続もその範疇からは逃れられなく     なるでしょうね。」  教師「学校も国家と同様の憂き目に遭う可能性がある     ということです。今、ボーダーレス化のなかで     国家の必要性が問われているわけで、国民も権     威の失墜した国家に対して、かつてのようにも     う拠り所を求めようとしなくなりつつあるよう     に思われます。インターネットにより国家が機     密情報を最早、占有できないことにより存立価     値を喪失しつつあるように、学校も知の独占的     所有を電脳機器の登場により切り崩されその権     威をどんどん低下させてるように見受けられる     からです。」  校長「でも、ボーダーレス化による国家的威信の減退     現象と並行して、その流れを押し止めようとす     る動きもあり、拠り所をなくし右往左往してい     る国民は、過去の国家の栄光に縋ろうとしてい     るのも事実で、学校も浮遊化する生徒にとって     は、それなりの存立価値があるんじゃないか     な。」  教頭「ただその際に、国家も学校も変容する国民や生     徒の実態に応じてその姿を変えていくのか、そ     れとも変わらない国家や学校の実態に国民や生     徒を合わさせていくのかが、今後メルクマール     となるのではないでしょうか。」  校長「私は、君の言った後者の遣り方はもう時代おく     れの観がするね。」