チッポ家物語

チッポ観察日記

お父さんの秘密①

 お父さんは僕が知らないと思っているだろうが、オッとどっこい、それは大間違いで、僕はお父さんが隠れてコソコソ何やら遣ってる、小説家紛いの隠微な著述活動を、コッソリと覗き見しているのだ。以下に、それを紹介しよう。なかなかの内容もあるみたいだけど、殆どがオヤジのボヤキみたいな感じかな。これを読んで共感してくれる人が居たら、お父さんも感謝感激雨霰ってとこかな。それと、もし興味があれば、これからもお父さんの秘密をコッソリ教えるから、乞う御期待を。それでは、一部、紹介するね。 

 

 【「痛み」がシステム作りの源泉~痛いの痛いの飛んでK~】

 数日前から腰痛を患い、不快な気分が継続している。「痛い」こと、これが僕にとって一番嫌な事で、要するに、苦痛が不幸の原点だと思う。僕は禁欲主義ではなく、快楽主義者に該当する。苦痛が幸福だなんて、それはマゾヒストの何者でもない。普通は痛いのは嫌だし、そんなことに関わりたくない。もし愛犬が脚折ったりして、「キャイーンキャイーン」と 泣き叫び続けるシーンを想像してみたら分かる筈だ。絶対、見るに忍びない。痛がる仕草を見るに堪えないし、だからドウシヨウモナイ場合に、苦痛を味わわさないで済むよう、薬殺とかの殺処分が考えられるんだし、しかもその際、出来るだけ苦しまなくて死なす方法を考えるだろう。更に、自分の最愛の人間が事故に遭ったりした場合、そして最悪の状況になった場合、「最後は苦しまなくて亡くなったかどうか」という事が、一番気になる点だと思う。苦しみを味わわずに逝ったなら、少しでも救いとなる。納得がいく。結局は、これなんだと思う。それは多分にジェレミーベンサムの考え方になるのか。すると私は「功利主義者」か。功利主義の先駆者ベンサムは、幸福とは快楽であり、不幸は苦痛であると捉え、苦痛を避けることが人間にとり善的行為であると解釈している。すると、善的医療行為とは、まずは苦痛の除去であることになり、刺激に対する反応が弱まるように仕向けることを旨とするようになる。麻酔をかけたりする行為はその典型で、末期ガン患者の激痛を和らげる際に使用されるモルヒネ投与はその代表となる。患者が痛みのどん底に突き落とされ、その状態から解放されず終いであること程の苦しみはない。その苦痛が幾らかでも和らげられれば、患者にとってそれは地獄での責め苦からの解放とまで感じられるかも知れぬ。苦痛という責め苦が永遠に続くことほど、失意に苛まれることはない。それはすなわち人間にとっての最大の不幸事になる。死刑(閲覧注意)という極刑を犯罪行為を防ぐための抑止力とするのは、一般的にそれが人間にとり耐え難く苦痛をともなうものであり、そして最大の恐怖になるからである。そう、苦痛は恐怖であり、肉体的苦痛・精神的苦痛は人間をはじめとする高等動物にとり、避けるべき一番の対象ともなる。苦痛からの逃避は、人間に安らぎを与え安定化をもたらすということになる。精神的苦痛は精神病患者にとり忍びがたいものであるが、抗うつ剤などの薬剤はそれを緩和し精神的苦痛からの解放を導き出す。それがさらに高揚感などを誘引するに至れば、麻薬的効果を与えることにもなりかねない。苦痛は患者本人だけのものとは限らず、患者を取り巻く家族や関係者らのものでもある。患者の肉体的・精神的苦痛を直視させられる親族の精神的苦痛も、患者程ではないにしろ結構なものである。その苦しみからお互い解放されたいという衝動が、安楽死への衝動へと駆り立てる。苦痛に苛まれる患者を看るに忍びないという患者の親族や担当医らは、その精神的苦痛からの解放を待望し、そうした思いは多分に彼らのエゴに立脚するものでもあり、患者からすると迷惑千万な場合もある。また、苦痛を感じる動物ほど、高等動物の証明となり、人間並に扱おうとする心理が働くのではないか。アリや蚊を造作なく殺生できるのも、我々が彼らに苦痛を感じる能力を見出せないからであろう。

去年の11月6日だったろうか、私のダイアリーに以下の様な内容の書き物が残っていた。以下、抜き書きしておく。…ラスト・ゴキブリか、まだまだ暖かい。早朝というより深夜、台所で不振な小さい黒影が動いた。久し振りにあいつが活動している。前回の逢瀬では、死んだふりされ忍者の如く逃げられた。今度はひつこく追い回す。タワシが命中し、仮死状態に。ひっくり返っているところにトドメを刺す。ゴキブリの生命力には脱帽する。しかし気持ち悪い。彼等を見た瞬間、殺意が起こる。こちらの本能に刷り込まれた殺意。相手にしたらかなりの迷惑だろうが。ヘビとゴキブリはどうしてもやってしまう。何でだろう。殺蛇・殺ゴキのキラーマン。今までいったい何匹やってきたか。彼等からすると、私は地獄行き間違いなし。熱湯掛けも辞さなかった。ナンという殺戮か。南無阿弥陀仏。…、今年も先週あたりは温かかった。遠藤周作の「沈黙」を取り上げ、悪逆非道な奉行井上の所業がドウタラとコメントしながら、私自身も身近な生物に対し、何という残虐この上ない仕打ちをしている事か。彼等からすれば、この私は、奉行井上より恐れられるトンデモナイSATANなのかも知れない。私は貴方や貴女にとっては🎅であるが、ゴキブリ等にしてみれば、何たる残虐非道なデーモンサタンな存在か。残虐非道を懺悔する。
 さて、痛みの集約される極限の状況は、「戦争」だろう。この戦争だけは私を含め、人類として最も避けなければならぬ所業である。それを避けようとしながらも、戦争を敢えて創り続けて来たのが人類史でもある。最大の痛みを伴いその苦痛から派生する「恐怖」を避けたいとする思いが、民主化を促進しても来た。国家間戦争を未然に防ぐシステム作りが、国際社会を形成する上で切っ掛けとなる「ドイツ三十年戦争」を通して展開して行く。17世紀前半期に、ヨーロッパ全土を覆う宗教戦争が引き起こされ、キリスト教の名のもとに大量虐殺が為されて行った。こうした状況に逸早く対応しようとした国が、当時、世界覇権を狙う英国のライバル国として急成長を遂げた、貿易立国のオランダだった。戦争で荒廃するヨーロッパでは、オランダの富は水泡に帰す恐れがあり、安定した秩序を取り戻させる為の枠組み作りに率先して取り掛かる。1648年に、ウェストファリア条約締結の際、世界初の国際会議が開かれる運びとなり、戦争を抑止する為のシステム作りが進捗して行った。同年、オランダのグロチウスは、正しく国際法の父と言われる所以となる『戦争と平和の法』で、戦時国際法の原型を世に示した。奇しくも彼のその著書名に、世の中の縮図が込められていたのだ。平和よりも戦争を先に出し、戦争のルールを弁えさせる為の法の必要性を優先し、強調している点だ。「殺し方」にもきちんとした枠組みを設け、ルールに則った戦争をする為の法が、立法化される端緒が作られたのだ。何と言うシビア―さであろうか。だが、こうしなければ、我々は「皆殺し=ホロコースト」へ邁進してしまい、誰も居なくなる世界が待ち構えている可能性が、十分に考えられるからだ。核戦争などを想起すれば分かる筈だ。それでは、儲けを目論もうとする輩達にとっても、好ましい事ではなくなるのであり、平和を導く為の民主化を進めるシステム創りが必要となる訳だ。従って、「痛み」は「恐怖」の対象であり、それをコントロールする為のシステムが、覇権を暗黙裡に合理化させるものともなるのだ。痛みから解放されたい願望は、それをさせないよう、絶えず痛みである恐怖をチラつかせ支配する側の思惑に絡めとられ、利用される。腰痛に苦しむ私も、そのシステムの中で翻弄されている一人だ。早速、先日、病衣巡りをし乍ら、病院の民主化の具にされているか弱き自分を、垣間見たのであった。医療関係者は医療保険点数を稼ごうと、痛みに顔を歪める患者達を、「カーモンベイビー…」の流行り歌の如く、手薬煉を引いて待ち構え、受付から始まり諸検査を経てドクターXの診断を仰ぎ、様々な投薬を処方されて、長時間、肉体的・精神的苦痛を伴い乍ら、医療界のメシの種とされる。我々の痛みがカネに姿を変え、その医療界を束ねる圧力団体の日本医師会からの政治献金となって、自民党政権を下支えするのである。そうしたシステム創りの一過程に於いて、天下り厚労省幹部と大学経営者並びに医学部学部長とを医療コンサルタント会社が仲介し、東京医科大学等の不正入試や公金の不正流用の一コマが造られて行く。その医療界の基盤となるのが、大学最高峰に君臨する東大医学部であり、それを目指す事を至上主義とする日本の偏差値教育が横たわる。 

”神と仏陀”  

【七転び八起き】マーティン・スコセッシ監督映画作品「沈黙」を観た。原作者は遠藤周作で、その「沈黙」のリメイク作品だ。主人公のポルトガル人宣教師が、師と仰いだ先輩宣教師を追って、日本の長崎五島を目指す。到着した島で、隠れキリシタンの非業の死を数多く見乍ら、自身の信仰心が揺らぎ掛けるのを何度も感じ、それでも棄教を頑なに拒み続ける。キリシタン狩りの急先鋒である悪逆非道な奉行井上は、ありとあらゆる手段で、主人公の信仰心を揺さ振り続ける。そして遂に、頑なに井上の言葉に耳を貸そうとしなかった主人公は、責め苦に喘ぐ殉教覚悟の信徒達を救うべく、先輩宣教師の言い分を聞き入れ、とうとう棄教してしまう。もう一人の主人公キチジローも、宣教師同様、自分の弱さに苛まれ、裏切り行為を繰り返し乍ら、宣教師に最後の救いを求めるのだった。主人公は棄教した先輩宣教師を、自分達への背信行為として卑怯者と非難していたのだが、今はその先輩以上に背信行為に身を委ねるしかない自分を卑下し、日本人名と日本人妻を奉行井上から頂き、余生を送るしかなかった。キリスト教エスと縁を切ったかに見えた主人公だったが、荼毘に付される彼の掌には、その直前、妻から密かに手渡されたイエス像が抱かれていたのであった。オーマイガー!何と言う、沈黙サイレンスであろうか。神は答えてはくれぬと、何度も天を仰ぎ怒りを発した沈黙の中にも、主人公は最後迄、神イエスの声を見出そうと、必死に心の中でもがき苦しみ、秘蹟に耳を傾けようとしていたのではないか。沈黙の中に神の意志があった。この作品は、我々の心の琴線に絶えず触れ乍ら、人間の本性的弱さと強さの織り成す大パノラマの様相を呈する。それと、遠藤の高い精神性を上手く描きつつ、スコセッシならではの視角も随所に鏤められている。特に、キリスト教を背景とするヨーロッパ世界の優位性に、棄教した先輩宣教師フェレイラの口を通して、疑問を投げ掛ける手法は、スコセッシ監督ならではの慧眼だろう。そうした視点が、他の追随を許さぬスコセッシの所以たるものでもある。そして何より、そうしたスコセッシに深い感銘を与え、氏の集大成とも言って過言ではないこの作品に具現化した、遠藤周作の「深い魂」の慟哭に、心を揺り動かされるのである。

棄教を「転ぶ」と言う。転ぶことを拒否し、惨たらしく拷問処刑される。似た様な事が大日本帝国下でもあった。治安維持法で多くの「赤狩り」が為されたのがそれだ。プロレタリア文学の代表作『蟹工船』の作者、小林多喜二は、正しくキリスト教信仰がマルクス主義信仰に置き換えられただけの事である。小林も築地署で特高警察から、嘗て隠れキリシタンが受けた様な壮絶な拷問を受け、「転ぶ」事を拒み死を余儀なくされた。この場合、転ぶ事は、即ち「責め苦」を拒む事であり、社会主義者からの「転向」を意味する。さて、果たして責め苦を拒まず、逍遥として死を受け入れる事で、自分の弱さに負けず一時の苦痛に耐え忍び、魂を売り飛ばす事無く、永遠の勝利者となれるとでも言うのであろうか。その魂とは、一体全体、何なのだろうか。ソクラテスの言うところの「絶対的真理」なのか。彼も転ぶ事を拒み、プラトンら弟子達の逃亡の勧めを受け入れる事無く、毒杯を呷り自死を選択した。さて、弟子達からの逃亡の勧めを、「悪法も法なり」と一蹴し拒否したソクラテスは、果たして彼の守り通そうとした絶対的真理、即ち魂(プシュケー)に殉じたとでも言えるのであろうか。此処でも、「転ぶ」か「転ばない」かの、究極の選択に伴う葛藤があったのだろう。そして、ソクラテスは、転ぶ事を拒んだ。此処でもし、彼が転ぶ事を受け入れ、即ち弟子プラトンらと逃亡でもしていたら、どうなっていたであろう。その瞬間に、彼の価値は半減、否、皆無となったのであろうか。そして、違った形での永遠なる責め苦が、待ち構えていたとでも言うのであろうか。更には、あの戦争で、特攻隊で米艦に突っ込めず、生き永らえてしまった隊員は、特攻で散華した仲間に対し、生き続ける負い目から起こる責め苦に、未来永劫に渡り苛まれ続けなければならぬとでも言うのか。ソクラテスにしろ特攻隊員にしろ、彼等に共通する心理は、結局のところ「世間」体であり、自分以外の他者の目や訳の分からぬ常識と言われているモノサシへの同調なのではないか。何故なら、ソクラテスが言ったとされる(恐らく脚色された後付けであろうが)「悪法も法なり」の法とは、如何なる性格のものであるのか。彼が最重要視しプラトンら弟子達に教示した、永遠不変なる普遍的立法なるものが、果たして此の世に在り得るものなのか。弟子プラトンもその意味で、下らぬ当時のアテナの法に遵う事なかれと、師匠に逃亡を勧め様としたのではないか。所謂、此の世の法律は全て「時限的立法」なのである。それこそ、現憲法などは、様々なる不純なる如何わしい大国の思惑が交錯する中、錬金術師が制定した代物ではなかったか。特攻隊にしろ、彼等が純粋に真面目過ぎる程、護ろうとした当時(現在も含め)の「国」及び「国家」(国家機関に重きを置いた)なるものの「正体」は、果たしてどのようなものであった(ある)のか。こうしたバックグラウンドを考えていれば、簡単に「転ばず」カッコ良く死を選ぶ事より、苦渋に堪え世間(体)や得体の知れぬ「常識」なるものに抗い、「転ぶ」を「思慮深く」選択し「生き永らえる」事の方が、如何に困難であり真の「勝利者」と呼ぶに相応しい存在と、成り得るのではないだろうか。私は、遠藤の「沈黙」で、「転ばない」事でその後待ち構えている凄まじい拷問による死の責め苦を恐れ、「転ぶ」生き方を学んだ「沈黙」する似非キリシタンを肯定的に観る一人だ。従って、作中のキチジローは、私自身でもあるのだ。

【人の話を聞くな、聞いたふりをしろ2018.10.23】私は他人から「人の話を聞かない」と、よく言われる。妻からも同様な言われ方をして、不愉快になる。だが、私が人の話を聞かないのは殆ど当たっていて、その通りだと自覚してはいる。ここで私が思うのは、人の話にも色々あり、その人によりけりだと言う事だ。こんな私でも、私がこの人はと思う相手には、耳を傾けようとする。誰でも彼でも、言う事を聞かない訳ではないのだ。従って、私が人の言う事を聞かないのは、私の考えている事が一般的な人の考え方と反りが合わない事を意味する。簡単に言うと、常識を信じていないと言う事だろう。更には、私が信じられるものが、此の世には極めて少ないと言う事でもある。インド旅行でガイド役のシンさんからも、貴方は他人の言う事を聞かないと、半分呆れ顔で言われた。そのシンさんが連れ込んだ旅行者相手の販売店でも、私に店の品物を何とかして売り付け様と迫る印度オバサンからも、「アンタは難しい人」と捨て台詞を吐かれた。だが、私がそのオバさんの言う事を聞いていたら、ボッタクられていただろう。

【インドで目覚めた煩悩】其処は正しくカオスで、多様性に満ちた臨機応変の、何でもありの国だった。至る所、舗装されておらぬ道路から巻きがる土埃で、空気がスモッグの様に燻り、埃塗れの霞んだ空気の中を、小回りが利く乗用車に乗り移動した。大気汚染が深刻な状況だった。この国の道路を始めとするインフラ整備には、かなりの時間を要するであろう事を感した。混雑する道路は、隣の車とスレスレで車間距離もギリギリになり、ぶつからないか何時も冷や冷やしていた。それにしても、矢鱈とバイクの警笛音が耳障りで、最初、喧嘩でも売っているのかと思う程だった。だが、ああでもしなければ追突や接触事故が多発するだろうし、自分達の存在を他者に逸早く知らせるための警告音だと理解した。一見、無軌道でいて最終的には調和のとれた人畜一体の、何とも不思議な光景が随所で見受けられた。私が愛犬家のせいか、特に犬の顔付が優しく感じられたものだ。野犬同様の姿が道端で散見されたが、何かに怯える様子もなく優しい眼差しで、伸び伸びと人間と共存していた。日本なら、直ぐにとっ捕まり保健所にでも連れて行かれ、殺処分の憂き目に遭う筈が、聖なる牛だけでなく犬までもが、大切に扱われていた。ヨガ体験後の占いは、意外に思い当たる節があり信じてしまった。「貴方は金運が良いので、お金が手に入るでしょう」と言われ、仏教発祥国インドで悟りを開くどころか、煩悩に魅入られてしまう旅となった。さてこんな私は、ガンジス河にはどう映っていただろうか。

【ガンジス風呂最高!?2018.10.22】昨日、無事帰国。何と言っても今回の旅のメインは、ガンジス川での沐浴だった。初めは見てるだけのつもりだったが、息子から「それでいいのか」と半分脅され、一緒に入水しガンジス風呂を楽しんだ。一生の思い出が出来た。ヨガ体験後の占いは、此方の状況が良く当たっている気がして、意外に思い当たる節があり信じてしまった。ガイド役のシンさんに、「信じる」事の意味を示唆された思いがした。「貴方は金運が良いので、お金が手に入るでしょう」の占いは、インパクトがあり、これだけは信じたい。仏教発祥国であるにも拘らず、煩悩に魅入られてしまう旅でもあった。

ガンジー生誕150年に寄せて2018.10.16】明治維新150周年の今年は、奇しくもインド独立の父マハトマ・ガンジー生誕150年目の年でもある。そんな時、私はインドへ旅に出る。行く筈ではなかったが、息子が親子での旅を誘ってくれ決断した。ベナレスでの沐浴やタージマハルくらいしか興味がないが、家族3人でインドへ旅行するのも何かの縁か。インドは仏教の発祥地であるが、今はヒンドゥー教が主流で、仏教徒は殆どいない。仏滅の地クシナガラ辺りに行ってみたいが、行程表には其処は含まれていない。インドに旅した人は、それ迄と人生観が変わると、よく又聞きするが、それはどんな意味なのだろう。当初、中国上海に行こうと考えていたのが、インドへ変更となったのだが、はてさて吉と出るか、それとも…。あと少しで、その答えが見えて来る。

【人権侵害による怒りを訴えで昇華】昨年秋、米国ハリウッドの大物プロデューサー、ハーベイ・ワインスタインが、数多くの映画女優からセクハラで訴えられた。その後、同種の著名人に対する女性からの訴えが後を絶たず、最近では、モーガン・フリーマンまでも槍玉に挙げられる始末となっている。これらセクハラ問題に共通する点は、立場上、被害を申し出る事に躊躇せざるを得ない相手の弱みに付け込み、水面下で問題が進行する事である。加害者側は雇用関係などを盾に、反抗できない状況に追い込み、破廉恥行為を恒常的に繰り返す。生活保障が危ぶまれ、将来に渡りプライバシーを著しく侵害される非常にデリケートな問題であり、それらを十分覚悟の上で、勇気を振り絞り訴えなければならぬ。正しく命懸けの行為となろう。翻って、日大タックル問題で、悪質行為を命じられ世間からバッシングを受け掛けたアメフト選手も、破廉恥な要求を余儀なくされセクハラ被害に追い込まれた女優達同様、苦しい人生の岐路に立たされた事だろう。だが、孤独な記者会見での訴えで、事態は一変した。泣き寝入りするのでは浮かばれまい。

【狩られたくなければ武器を持て】止め処ない銃乱射事件。米国留学中の高校生だった服部剛丈氏が、銃の犠牲になってから四半世紀は経つだろうか。銃規制の叫びが虚しく続く。トランプは教師に銃所持させて子供を守れと言う始末。銃規制なんていう考えは微塵もないようだ。全米ライフル協会の存在は大きい。国は、殺人を狩りの如く解釈する国だ。狩りをする為には銃がなければ始まらぬ。人を人とも思わず、鹿や猪のように射撃の標的にしか見ていない。狩りを愉しむゲーム感覚で、殺人が日常茶飯事である国がアメリカ。こんな国が世界を支配する。その国のトップが狩られたくなければ、狩る側と同じ様に武器を持てと、真顔で世界に発信する。これでは、狩られたくなければ国家もそれなりの武器を持ち、狩る奴に対抗しろと言わんばかりだ。狩る国はアメリカだろう。北朝鮮もこんな恐ろしい国に狩られたくないので、核という武器を手にしたのではないか。今度はそれを許さじとばかりに、武器をもつ国をぶっ潰そうとしている。どちらの国がより狂っているのだろうか。

【姑息な安倍首相の改憲案】日米安保がある以上、此の国の真の独立は有り得ない。日米安保を廃棄すべしと主張する政治家は皆無だ。では、どうして安保体制下、米軍は駐留し続けやりたい放題なのか。それは、憲法9条がある中で、此の国には「戦力」の存在が認められないからだ。だから米軍により、日本及び東アジア極東地域の防衛を肩代わりして貰わざるを得ない。従って、米帝の植民地状態から抜けるには、憲法9条の戦力不保持条項を廃棄するしかないのだ。それは即ち現憲法のままでは有り得ないことを意味する。自衛隊を政争の具から解放し、国軍としての位置付けを明確化させる事こそが、此の国の真の独立が達成される必要条件である。安倍政権が考える改憲案は、9条2項には触れず新たに3項を加え自衛隊を明記する加憲案だ。これでは米軍指揮権の下で体良く下働きさせられ、今迄以上に我が国が米帝戦争に巻き込まれるだけで、深刻な事態に窮する事は目に見えている。北朝鮮テロ支援国家再指定をトランプに口添えし脅威論を煽り、姑息な加計隠しに利用しようとする安倍首相の考える改憲案など、米帝従属姿勢には何の変化も見られぬ愚策としか言い様が無いものだ。

【宗教と狂気】22年もの歳月を掛けたオウム裁判に、一応のケリが付けられた。が果たして、事件が提議した問題の深層に、我々は何処まで近付けたのであろうか。社会主義及び冷戦構造が崩壊していく過程の中で起きた、世界を震撼させる大事件であった。生物化学兵器を使うテロが、この日本で起ころうとは、誰が想像したであろうか。教団に疑惑の目が向けられても、まさかという思いが最後まで付き纏い、広報宣伝担当役でテレビによく登場していた上祐史浩の弁明に、俄かに信じ難い事とは思いつつも騙されてしまった感は否めなかった。そして、教祖以下、教団幹部によるマインドコントロール(洗脳)により、多くの信者を狂気に走らせた出来事を、全くの他人事として解釈できなかったように当時を振り返る。大日本帝国下の日本はどうであったのか、将又、現在の北朝鮮情勢はどうなのかと考えさせられたりもした。絶対的真理を希求する信仰心が、得てして仇になる場合もあると言う教訓を、オウム問題は示唆しているように思う。

<オウム裁判は22年で幕だと報じられても、根本問題には幕引きはない>1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件が我々に突き付けた問題。それは「宗教と狂気」だ。松本智津夫こと麻原彰晃は、天下の極悪人として処刑を待つのみとなった。彼のやった事は、正しく宗教が内包する「絶対的真理追及過程の一コマ」であったのではないか。オウムに限らず、他の諸宗教も、大なり小なり自分達の勢力拡大を目指す途上で、凄惨なる殺戮行為が、歴史上、繰り返されて来たではないか。その最たるものが、キリスト教史の中で展開して来た宗教戦争であろう。ドイツ三十年戦争など、血みどろの悲惨な出来事は、枚挙にいとまがない程だ。オウムが此処まで注視された背景の一つは、松本サリン事件に端を発する、生物化学兵器の使用という、今迄に見られなかった殺害行為を伴った事である。VXガス炭疽菌であるとか、現在のテロ殺害でも使用される毒物を、彼等が言うところの「ボア」なる聖的宗教行為の一環として使用した事にあった。だが、殺害手段に拳銃を使用しようが、刀を使おうが大同小異である筈なのだが、「サリン」という化学物質に、正しく化学反応の如く我々は異様な反応を示したのである。

そこで、考えてみよう。イスラム過激派組織が、聖戦ジハードとして何の躊躇(ためら)いもなく、自爆して多くの市民を犠牲にしても、自分達のやっている無差別テロを、正当化する事と、オウムが、サリンで地下鉄乗客を無差別にボアし、「ハルマゲドン」を声高に宣明する事と、どれだけの違いがあるかと言う点だ。

私は、何も麻原やオウムを擁護したいのではない。逆に、彼等の偏向した偏狭なる志向に対して、大いに嫌悪感を抱いている一人なのだ。断罪すべきは、宗教を利用し、支配権力を掌中に収めようと悪巧みする、「ダークマター」の存在なのである。

オウム問題と西部はリンクする。西部は、オウム麻原に思想的影響を少なからず及ぼしたとされる「中沢新一」と、かなり密接に繋がる人物であるからだ。昨年末、右翼主催の対談に元気な姿で出演し、何時もの西部節を披露していた。そのネット番組の最後の方で、冗談っぽく「死んでやる〜」とボヤいていた。あれから1ヶ月も経たない中で、多摩川に飛び込んで自殺したとは。日本社会へのある意味、諫言的な死だったのではないか。だが、三島の自決ほどセンセーショナルなものではなく、粛々と追悼報道がなされるだけで、西部も今頃あの世で、この程度のニュースにしか成り得ない自身の死の評価に、愕然としているのかも知れぬ。単なるボヤキ爺の自殺として、三面記事的に取り上げられて済まされようとしている世間の軽さに、彼の世で彼の嘆きは一段と深化されている事だろう。

痛みを感じない、感じられない戦争 リアルじゃない、バーチャルな戦争 大勢でない、ごくごく限られた戦争 限られた者がボタン押すだけの戦争 まさかマサカまさか嘘だろうの戦争 そんな戦争が近付いて来てる。

【怨念が民主化を促した】ところで、踏まれた痛みは踏まれた者でないと本当のことがわからないとよく言われる。広島・長崎、あるいは沖縄の人々に関しても同様のことが言えるのではないだろうか。原爆を投下され犠牲となった広島・長崎の人々にとり、加害者への恨みは一個人に対してだけでは済まず、加害国及び戦争に関わった全てに向けられてもいくのである。大変な人権侵害を受けた側にとり、その痛手や心の傷あるいは加害者に対する恨みは、永久的に続く。国家的犯罪とされる北朝鮮による悪辣な拉致事件問題が簡単に解決されないのも、日朝の過去の歴史がそうさせているのである。日本の一時期において諸外国に対し甚大な被害を与え、その責任を我々も含め今も問われ続けているのである。自分に直接、関わりのないことに対して、人はとかく鈍感になるものだ。しかしひとたび、わが身に害が及んで来たとき、安穏としていた自分が豹変してしまう場合もある。サカキバラ事件で殺害された土師淳君の父親もその内の一人だった。殺人は新たな殺意を引き起こすものであるということを噛み締め、「なぜ人を殺してはいけないのか」という一見子供染みた愚問のような問いにも、真摯に答える必要がある。

【ドウシヨウモナイ政治状況】無差別テロは、自身をも含めた破滅的行為により、己のルサンチマンを当て付けて憂さを晴らそうとする、卑怯な手口だ。テロ対象をピンポイントに絞り、相応の理由を持って然るべき相手に、破壊行為を振り向けるならまだ理解できる。例えば、我が国の戦前における、右翼によるテロ行為だ。井上日召血盟団事件などはそれである。「一人一殺主義」を実行し井上準之助や團琢磨を特定し暗殺した。他に何の迷惑も掛けず、己の思想・信条に基付くテロリズム。そうした性格のテロが、国内外ともに近年、皆無になっている。何とも情けない現状である。祭りやパレードなどで賑わう大勢の群衆に向かって、トラックを猛スピードで突っ込ませ、無垢な子供も含め多数の人間を轢き殺す。この非道この上ない遣り口が、最近、多くなって来た。凄惨な事件は全世界に広まり、彼等の存在を知らしめる世間へのPR効果は絶大だ。これを狙い、何度も同様の痛ましい事件が繰り返され、何の罪も無い、それまで幸せに暮らしていた筈の、平和な市民が巻き添えを被り、犠牲となる。犯人達テログループは、米帝に支配された世界の愚かしさを論い、自分達の悪逆非道な殺人テロ行為を正当化しようとする。ならば、そうした支配者をピンポイントで狙った正当的テロに特化していけば済む事だ。そうした努力をせず、安易な無差別爆弾テロ等に活路を見出すようでは、決して世界は変えられない。殺す事に対する躊躇(ためら)いも無く、殺した死者の魂への怯(おび)えも感じ無い。これが殺人者の通例だ。普通の精神を持った人間は、人を殺す事に対する想像を絶する躊躇いや、その後、自身に降り掛かるだろう死者への怯えに、到底、耐えられない。だから、殺さないし、殺せないのだ。

投票所に行く事が、意外に億劫だと感じてる人は、少なくないと思う。特に今回の衆院選は、台風日本直撃で風雨が強く、投票所まで足を運ぶのを厭う有権者が多く居たのではないか。そうした下らない理由が、案外、投票率の低下に関わってるものだ。斯く言うこの私も、そのショウもない輩の一人だった。そんな時、ネットで簡単に投票が出来るシステムなら、全然良いのになと思う事頻りである。従って、私はネット投票賛成派だ。データベース上に履歴が残ったりする事が回避できれば、問題ない。技術的に無理なのか。完全に履歴が消せると、実施が出来る。国会でも、審議後の多数決をとる際、ボタンを押して電光掲示板に瞬時に数字が示されたりしているのを、よくテレビ中継で見たりする。そんな時代なのに、投票が今でもアナログ方式で、多額の税金を使途して選挙・投票に無駄遣いする。もし、ネット投票が問題なく可能となれば、そうした事も改善されるし、現在の政治状況を激変させる事も可能と思うのだが。それが良い変化になるのか、そうじゃないのかは定かではないが、投票率は百%近くに跳ね上がり、それこそ直接民主制が実現できる。

最高裁国民審査この制度程、完全に有ってな無きが如しのものは無い。未だ嘗て一人たりとも辞めさせられた例はない。全員信任制度でしかない。最高裁は完全に御用化しており、その時の政権に顔を向け国民にはソッポを向く。砂川事件で、長官の田中耕太郎が米帝と日本政府に忖度し、「統治行為論」なる詭弁論法で、日米安保に対する憲法判断を回避した時から、この組織は不正義の象徴となった。現在もその本質は不変だ。「憲法の番人」「人権の砦」なんて、チャンチャラ可笑しい。正しく「米帝と政権の番犬」で、我々の人権侵害を見て見ぬ振りをするだけの、下らない権力の手先なのだ。「司法権の独立」も、最高裁による下級裁支配統制で、裁判官相互の独立、即ち司法内部における独立は、全く機能していない。それは、長沼ナイキ基地訴訟に於いて、当時、違憲判決を下した、札幌地裁福島裁判官のその後の人生が、如実に物語っている。トランプ戦争で、我々の命は守れないのである。「日米合同委員会」然り、超法規的米帝による日本支配及び植民地化は、日本の法律なんて全く通用しない。幕末・明治維新における不平等条約治外法権が、ほとんど同じ様にこの時代も罷り通っている。この現実は如何ともし難い、哀しい現実だ。

基本的には、天皇制に纏わるの暗い歴史が、知識人や言論人の態度表明に影響するのだろう。天皇制は、体制派であるかどうかの、正しく「踏み絵」であり、日本人であるかないかの「証明」でもある。天皇制に対するアンチテーゼは、反体制派であり、同胞とは見做されない事を覚悟しなければならない。そうした事に因る、自身に降り掛かる不利益を避けたいのが、一般国民の心情で普通の人なら、皇族に対して、日の丸の小旗を沿道で振り乍ら、笑みを絶やさず「万歳」の連呼に心掛ける。最たる不利益は、身の危険だ。昔なら非国民と謗(そし)られ、共同体から摘ま弾きにされた。疎外が高じて命を奪われる事も多々あった。小林多喜二の非業の死は、その象徴的弾圧として後世に語り継がれる。現在でも、暴力団的右翼のターゲットになり、嫌がらせの街宣が繰り返されたり、最悪の場合、暗殺の憂き目に合ったりもする。こうした事に対する恐怖が、言論活動への自粛や、天皇制に対する自由闊達な発言が抑制される背景となっている。為政者に対する愚痴や反体制的言動は、天皇制批判をしていない限り、概ね許容される。従って、近時に於いては、「天皇陛下のお言葉」を尊重する姿勢を、一応とっていれば、身の危険からは免れるのだ。そうした天皇及び天皇制の消極的政治利用が、少なからず知識人や言論人の頭を過ぎり、連綿と継承される隠微な日本文化の象徴ともなっている。

改憲に向け改憲論の前に】現実と理想の相克をどう解消するかがポイントだと思う。この場合、3通りの方法があって、①現実に理想を合わせる、②理想に現実を合わせる、③現実と理想お互い妥協させ歩み寄る、とまあ、こんなパターンかな。で、戦後、日本は③でやって来た。現実と理想は本来、対極的なる性格から歩み寄りなんて出来っこない。それをしようとすると、必ず「矛盾」や「偽装」が起こり、問題が連綿と続いていく。それによって自己破綻が生じてしまう。人間個々人の人生における営みに関しても、同様のパターンが展開しているのではないか。現在センター試験を始め大学入試本番真最中なので、進路を例に考えてみよう。①を実行するには、理想レベルを著しく下げなければならない。偏差値の低い現実の自分は、理想とする偏差値の高い大学には入れない。だから、偏差値の低い進路先を選定する。②を実行するには、逆に不甲斐無く情けない自身の無学力を、相当な「努力」により向上させ、低レベル偏差値を理想とする進路先の偏差値レベルに押し上げる必要がある。最後の③は、前記の①②共に中途半端な実行の帰結であり、そこそこの理想にそこそこの現実を擦り合わせて見出される着地点だ。憲法9条1項の「戦争放棄による平和主義」は、2項の「戦力不保持及び交戦権否認」で具現化される。だが、2項の「戦力不保持」という「理想」と現存する「自衛隊」という「現実」が、50年代中葉期以降、矛盾を来し、戦後日本政治史を大いに翻弄して来たのだ。米帝支配下の与党自民党政権は、野党からの矛盾追及指摘からH(叡智)を見出して来た。我々日本国民も、戦後最大の矛盾から多大なる影響下に晒され続け、戦後民主主義を嘯きながら「捻れ」た日本精神を育まされてきた。政権党のHは、イソップ童話の「酸っぱい🍇」の逸話に収斂されるだろう。喉の渇きを抑えながら、たわわに実ったブドウの木の下を通り掛かった狐の行動と心理だ。何度ジャンプしても、美味しそうに実った高木のブドウに届かない。ジャンプしても葡萄の果実にありつけず、喉の渇きを癒せないストレスから生じた「苦肉の策」が、狐の正しく狐の知恵(H:叡知)だった。自分の努力不足による目標未達成を遣り過ごし、高じたストレスから解放される方便を。「あの葡萄は腐っている。だから届かなくて幸いだ。通り過ぎよう」これを、フロイトは、防衛(適応)機制(反応)として、『合理化』と位置付けた。簡単に言うと、「自分の都合のいいように『解釈』して、難を逃れる」事だ。自民党政権も、2項の戦力不保持と自衛隊の絶対的矛盾を様々な苦肉の策を使い、自党へのストレスを解消する術を身に着けて来たのである。自衛隊は戦力ではなく、「必要最小限の『実力』である」と『解釈』して遣り過ごして来た。③の立場を基調にした離れ技を次々と編み出し、憲法条文を変えることなく、事実上の所謂『解釈改憲』を行って来たわけである。

2項の「戦力」不保持に関し、どれだけ国民がその本当の意味を理解しているのだろうか。1項と2項を結ぶ、謂わば接続詞的ワードがカギを握る。即ち、「前項の目的を達するため…」のフレーズである。1項で平和主義の第一要件である「戦争放棄」を謳っている。ここで「戦争」をどう捉えるかでも、その後の戦力の定義付けが微妙に変化する。戦争を「侵略戦争」と限定すればどうなるか。侵略戦争を行うための戦力を放棄するのであり、そうでない「自衛戦争」のための戦力までも放棄したのではない。自衛隊は、自衛戦争のための戦力であり、放棄したものではない。従って、自衛隊憲法違反(違憲)ではない。だが、自衛の名のもとに戦争はなされる事が概ねで、自衛戦争も含めた例外なき全ての戦争を戦争と看做すべきで、そうすると、自衛のための戦力、即ち自衛隊憲法違反となる。こうした神学論争が戦後、与野党間で繰り返されて来た。更に、自衛隊は自衛のための戦力ではなく、自衛のための「必要最小限度の『実力』である」なんて言う、苦肉の策が弄されて来た。必要最小限度の実力は戦力ではないと『解釈』され、改憲せずとも、事実上の改憲と変わらぬ、所謂『解釈改憲』がなされ現在に至って来た。

何が何でも改憲への流れ、これは止まらないし止められない。改憲イコール9条改定、すなわち自衛隊を曖昧的存在から脱皮。米帝はどちらでもいいとするスタンスをとる。現状維持なら今まで通りで、曖昧的存在のまま限定利用。改憲ならば自衛隊のフル活用が可能で米軍の補完手段。前者だと米軍負担は従来のままで大きいが、日本は去勢状態で傀儡可能。後者だと米軍の軍事的負担軽減できるが、日本本格的再軍備許容。日米安保への比重が急減し、日本の自助努力へ向けた姿勢転換。米帝ジャパンハンドラーは改憲勢力米帝言い成りに反抗しない程度ならば、彼等を操り、自衛隊を米軍の傘下で完全利用が可能になるよう暗躍するだろう。どう転んでも、米帝の軍産複合ネットワークから抜けられず、軍需産業の思う壺に、どんどん嵌められて行く。その過程で米帝戦争に自衛隊が組み込まれ、既に制定された安保法に則り、海外派兵を余儀なくされる自衛隊員の犠牲者が多発することは目に見えている。それだけでなく、米帝と一体化した日本は、ISなど反米勢力のターゲットとされ、国内外で邦人のテロ攻撃による犠牲者も続出する筈だ。そしてその先に待ち構えているものは何なのか。そう、それが一番の問題なのだが、結局、戦争という結末に至らないと収まらないのだ。歴史は繰り返す。絶対権力は腐敗する同様、絶対歴史は繰り返すのだ。もう日本国民もこの流れに身を委ね、自爆して活路を見出すしかないことを悟り始めている。所謂、ヤケクソなのだ。憲法が精神に該当するのなら、筋肉に該当するのは何なのか。それは、軍隊だろう。日本の自衛隊は、憲法上、軍隊ではない。もし、自衛隊が軍隊でないなら、この国には筋肉が無いことになる。そんなのクラゲ国家。国家とは言えない。その実力を手にしなければならない。

自衛隊の存在価値は、「刀」を持つ意味と同様である。自衛隊は刀という「暴力」装置であるが、戦後、その刀を決して抜かぬよう「武士道」を心掛けてきた。しかし、暴力世界という現実に翻弄され、「武士道」に押し潰されることから逃避しようと抜刀することで自身の弱さを誤魔化した。アメリカが仕掛ける「大義なき戦争」への逡巡は、我々が果たして「ラストサムライ」になり得るかどうかの踏み絵であった。見て見ぬふりのなあなあ関係がかえってお互いの距離を隔てさせ、モラル低下に歯止めが効かなくなる場合がある。また放縦的関係性の継続が、質の悪い苛めに繋がったりする。感情的爆発でお互いの馴れ合い関係を瞬間的に壊した方が、言葉を駆使してその場凌ぎをするより後腐れがなくて良いこともある。慇懃無頼な輩を野放しにする偽善的人権擁護論が後を絶たず、荒廃に拍車を掛ける。死刑廃止論を追い風に犯罪者が跋扈し、悪事に抑止力が全く機能しなくなる。そうした中、慇懃無頼な輩を野放しにしたモラル・ハザードの現代において、死刑廃止論は未だ大勢を占めない。ホッブズが人間の本質を「恐怖」から見詰め、近代的国家観を提唱したのも頷ける。

9条を正しく窮状へと追い込んだ。米国の我が国への再武装要求による自衛隊創設が、9条2項に明記された戦力不保持条項と矛盾を来たしたからだ。その後、現実に在る自衛隊と無いものとする条項との、無理な摺り合せが続く事となり、現在に至る。世界的にも有数の防衛力を誇る自衛隊は、2項の戦力に該当するのは明白であり、都合のいい解釈でそうではないと換言し続けても、嘘の上塗りでしかない。このまま2項の軍隊ではないとされる自衛隊では、隊員に命を賭して国を守ろとする気概や矜持は持ち得ようがなく、戦争を止めることはできない。人類史は戦争史でもある。戦争をしない時代は皆無と言っていい。世界大戦後、国際平和組織も二度にわたり形成されたが、覇権大国の具になるばかりだ。戦争がなくならない根本的背景として、「軍産複合体」がある。兵器産業の暗躍と政治や軍事との癒着構造だ。毎度、この厄介な代物に人類史は辛酸を舐めさせられて来た。戦争反対と念仏の如く言い続けても、戦争はなくならない。

日本会議の本質は、米帝支配植民地主義を後ろ盾にした、「寄らば大樹の陰」会議である。桜井よしこは、一体、何様のつもりなのか。小池以上に保守思想を軽々に扱い、ライトをファッション感覚的に標榜し、愛国者を嘯くだけの輩が、九条改憲翼賛体制推進会議の広告塔として君臨す。こんな輩に洗脳された似非ライト徒党集団が、此の国を米帝支配翼賛勢力の巣窟にさせ、ジャパンハンドラーに操られて行くだけなのだ。そもそも、彼等の口にする改憲とは、戦力不保持を謳った9条2項だけで、それ以外はどうでもいい話なのだ。彼等の叫ぶ憲法改正とは、九条2項に明記された「戦力」が、現存する自衛隊と矛盾なきものとなるようにする事だけを目的とした、非常に単純で卑小な矮小化されたものだ。その表れが、安倍晋三の9条3項加憲案。1・2項はそのままにして、2項に矛盾を来す「自衛隊」を3項に明示し、米帝馬鹿トランプの言い成りになるだけの、その場凌ぎ改定で済まそうとする小手先改憲である。このような姑息で、対米従属を念頭に置いた改憲が、果たして、保守派の狙い目であって良いものなのか。真の保守や右翼を宣言するならば、2項の戦力不保持条項は廃棄し、正規軍即ち国軍樹立に向けた条項に変える改正でなければ、嘘になる。そうした改正は、非現実的で国内外ともに支持を得られないだろうと、先走る浅知恵に負け、前述の安倍晋三等の加憲案が提示されるのだ。だが、この提示を衆院選勝利をバックに、今後、前面に打ち出していく事となるだろう。そして、この姑息改憲が現実のものと成ればどうなるか。米帝の世界支配に、自衛隊がフル活用され、自衛官の殉死者が累増するのは目に見えている。それだけではなく、世界各地に展開する日本の自衛隊を見た反米勢力は、テロ等のターゲットを直接、日本及び日本人に向けて来るのは間違いない。今迄、経験した事のない大惨劇が起こり、多大な邦人犠牲者を出す破目になるのを覚悟せねばならない。そうした事態に至るや否や、自説を都合良く翻し、憂国をカッコ良く発言するだけの、腑抜け勘違いデンデン首相を担ぐクラブが、日本会議なのである。

【学校教育から防衛問題を考える~教師と自衛隊~】「尊敬」される先生は遠い過去の肖像と化し、現在、「馬鹿」にされる「センセイ」が常態となる。センセイは社会的に「いじめ」の対象となり果てる。そんな社会的威信というバックボーンを喪失したセンセイは、自信をもてるはずもなく、子供達からも小馬鹿にされる正しく「悲しき玩具」となるのである。国家も教師も尊敬されるためには何が必要か。それは、「実力」である。実力には様々な要素がある。大別するとそれは二つに絞られるのではないか。一つは、精神的側面、もう一つが物理的側面。この両者がバランス良く並立していれば、最高の実力者と成り得るだろう。しかし現実は、そのどちらかを強く有する実力者か、あるいは、そのどちらも持ち得ない「無力」者に分かれる。さしずめ、トランプ政権下の米国は前者であり、物理的実力者の典型国だ。世界最強の軍事力を有する物理的実力国と言っていい。しかし、そうした力の米国に対し、世界は概ねひれ伏し、恭順の構えを示す。だが、心底、かの国を尊敬の眼差しで見ている国は少ないだろう。特にアメリカ第一主義を掲げ、他に対し排他的で強圧的姿勢を標榜する現アメリカには、敵愾心を抱く国が多く存在する筈だ。我国も同盟国ではあるが、表面的な友好関係を取り繕うだけで、腹に据えかねている事が多くあろう。教師も、米国型タイプになると厄介である。更にどうしようもなくなるのが、物理的実力もなければ精神的威信もない、無力な教師だ。まだ、前者のような教師に対して生徒は、曲がりなりにも従順的姿勢を取ろうとするが、後者になると悲惨である。生徒集団を無軌道で無秩序な暴徒に変容させてしまう。一部の正義感を持つ良心的生徒も、その性格を捻じ曲げざるを得ない場合も起こってくる。そうした最悪で最低の空気環境を打破するのは、矢張り実力なのだ。しかも物理的行使を伴う実力である。現在の日本国における物理力は、「自衛隊」だ。しかし、愚かな政治的作為を濃厚にした戦後のドサクサの中で、性急に捏造された憲法の元、「必要最小限度の『実力』」にしか過ぎない存在となっている。国連同様、正しく「哀しき『玩具』」なのだ。真の「実力」を有するためには、実力行使が可能な、言い換えれば体罰を行使しうる「軍隊」となる事が必要条件となる。現憲法の九条二項に去勢され無力化された自衛隊では、馬鹿にされることはあっても、尊敬に値する国軍とは程遠い存在なのだ。こうした状況を変える第一歩が、国家においては憲法第九条二項の「戦力不保持」の改定であり、教育においては学校教育法改定による「体罰」禁止条項の是正とその法的(制限的)許容である。この国自体が、不倫してると考える。「自分に嘘をつく」こと、コレが一番の不倫だ。日本は、自国に嘘をつき続けて来てる。自国を誤魔化し続けて来てる。是こそが、最大の不倫だ。

対教師暴力問題は、日本の防衛問題と通底するものだ。教師の生徒による暴行に対して、全くの無防備状況は、正しく戦力不保持の日本の現況と同様なのだ。米軍と言う後ろ盾がなければ、早晩、何処かの教師の如く、バカ生徒に足蹴りされそれを動画配信されて笑い者の種になるばかりだ。従って、必ず、現実世界においては、不当不正なる暴力を抑止し得る何某(がし)かの物理力が必要となるのは当然なのだ。憲法9条で軍隊を持てぬ日本も、体罰を禁止され、何も出来ない状況下に置かれた、去勢された教師と何ら変わらぬ存在なのである。唯一、相違する点は、日本国には前述の米軍という世界最強の物理力がバックに有る事だ。だが、哀しいかな日本の教師には、後ろ盾になってくれる味方は、何も存在しない。平教員同士で構成された相互扶助組織の組合は、対教師暴力の抑止力に何の役にも立たない。況(いわん)や、職場の同僚にしても、自分の身の安全を確保するのに精一杯で、更に管理職は、「生徒への体罰は絶対に許されるものではない」の一点張りだ。文科省の御触れに従うのみで、蚤の心臓しか持ち得ない下らぬ輩でしかない。それに、世間は、教師のスキャンダルネタを報じて、金儲け目当てに走るマスゴミのメシの種として踊らされるだけの、無見識な集団でしかない。家庭における教育力は皆無状態で、子供を躾けなければならない保護者が、崩壊する家族をまとめる事が出来よう筈がない。幼少期から子育てを放棄して、子供にゲーム機器を安易に買い与える。その挙句に、歳だけ取ったバカ者達は、バーチャル感覚で一日の殆どの時間、ゲームに現を抜かし、人を傷付けたり、殺めたりしても、何も感じない無機質人間と成り果てる。そうした連中が、学校で教師をゴミ扱いの如く、何の躊躇(ためら)いもなく、万座の前で蹴り上げ、それを見た生徒は止めようともせず、逆に煽り行為に加わり、動画を撮って面白半分でネット配信するのだ。こうした状況を打開する手立ては、体罰厳禁の中では、警察への即時通報による現行犯逮捕しかない。

ホンマに下らない事にエネルギーを費やし、挙句の果ては子供の人生を狂わせる。幾らなんでも、やり過ぎだろ。生まれつき赤毛の者もいたり、色々なタイプの人間が居る。それを一律、黒一色に染め上げさせる。正しくファシズムじゃないか。だけど、学校文化は、学校化された社会の縮図なだ。何も学校だけに限った事ではない。会社だって、皆、リクルートスタイルを強要され、それに合わせられぬ人間は、疎外の対象となる。だから、学校内だけの問題ではないのと違うか。こうした背景に、一人の我が儘を例外的に認めたら、体制が成り立たなくなり、崩壊してしまうと思い込む、管理・支配側の恐怖がある。学校で言えば、教師サイドの論理だ。これを広げてみると、北朝鮮権威主義的中央集権型の社会主義になる。この国でも大日本帝国軍国主義を邁進してた、1930年代から40年代半ばまでの時期、臣民として殆ど全員の日本人が同一色に染められ、戦争へと突っ込んで行った。だから、黒染めをシツコく、之でもかと強要するような教師が、大勢を占めた学校は、そうした戦争を翼賛する勢力に、直ぐ利用されるって事も考えとかなくちゃダメなのだ。少々の例外を作ろうが、世の中、そう簡単に変わらないものだ。逆に、日本人は乱れ過ぎて来ると、自主規制する国民性と言うか、文化を有している。だから、学校の先生も、タカが生徒の頭髪の色がドウタラと、下らぬ事にエネルギーを浪費するんじゃなくて、然るべきところにそのパワーを振り向けろって言いたい。先生自体が、皆、同じ色に染められ、文科省教育委員会の顔色ばかり覗い、変な忖度教育ばっかしてると、こう言うゲス極狂育になってしまうのだ。校長や生徒指導部(生徒課)平教員が、ショーモナイ糞メンツに縛られ、糞オモロナイ学校にしているのは、単(ひとえ)に学校管理職の器の小ささなのだ。一昔前の、持ち上げられた古き良き時代の先生と違い、今のガッコのセンセは、小心に世間体を気にし、体罰一つ出来ない。馬鹿にされるだけで何の権威も持てない、苦しい社会環境にあるのは共感できるが、年の若い生徒も、ちゃんと年長者を敬うと言う、基本的生活習慣は身に付ける事は大事だ。どんな奴でも先生は先生で、家で我が子が担任をボロカスに言ってたら、先ずは親が子を諫めないと駄目だろ。今は横柄横着な子供以上に、親が酷くなっている。

苛めは学校だけの問題ではない。学校化された世界の、至る所で見受けられるものである。苛めの構造は、権力構造とも一致する。まず、日本の近代化途上での欧米諸国との関係を通し、見比べてみよう。異質な日本が、西欧文化を旨とする国際社会の中で認知されるまでには、様々な苛めを受け、その試練を経験しながら、同様の欧米帝国主義の真似事をして、近隣東アジア地域で、植民地侵略と言う苛め行為を苛める側に組して行って来た。よく言われる、苛めっ子は、過去に苛められた経験のある者が殆どだという見方は、的を得た解釈である。苛めの苦痛を味わいたくないなら、苛める側の真似事をして、苛めの恐怖を回避する。例えば眉を剃り込んで強面にするとか、ヤンキーな風貌に変身するとか、苛める側に身を置き、苛めの加担をする。パシリをやらされたり、コンビニで盗みを働かされたりしていく。正しく、個人も国家も同様なパターンで、恐怖を巡るシーソーゲームを繰り広げているのだ。現在、北朝鮮を異物と看做し、苛めのボス米帝が日本をパシリ役にして、北朝鮮苛めの真最中なのだ。そうした構造を見極めて、決して自爆(殺)することなく、強かにサバイバルを図らなければならない。出来得れば、富を簒奪し捲る苛めのボスを退治していける手立てを見付けられたり、その覇権構造システムを打っ壊すキーマンに成れれば、言う事ないのだが。

そもそも、昔は不登校なんて言葉すらなかった。それぐらい、学校に行かない奴は殆ど居らず、行かないのは、よっぽどの事だった。それなりの理由があった。その代表が経済的問題で、勉強したくても、家が貧しくて、学費を納められず学校に行きたいけど行けない。これが普通だった。今は全然違う。自分の思い通りにならないので、学校に行かない。昔だったら、悪いのはお前だ‼︎で終わる話だった。それが今はズル休みが市民権を持ち、ズル休みを作る原因は、本人ではなく学校やそれを取り巻く社会環境にあると、主客転倒の扱い方となってしまった。戸塚ヨットスクールが世間に問うた、本質的問題は、似非生きる力ではない。生きて行きたいと、もがき苦しむ事から逃げず耐え忍ぶ力ではないか。戸塚宏の考え方が、未だに再考されているのには、それなりの理由がある。

2003年の経済協力開発機構OECD)の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど、低迷する日本教育の実態が浮き彫りとなった。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされた。昭和50年代半ばにゆとり教育が導入されて以来、授業時間と授業内容が一貫して削減されてきた。ゆとり教育は、子供の中にある怠惰を黙認・許容し、知識偏重の偏差値教育を揶揄する「勉強否定論」にまで至り、学習意欲のない生徒を甘やかせる結果となった。ゆとり教育総合学習も、日教組が昭和40年代後半から唱えてきたもので、文部省(現文科省)がその後30年間にわたって日教組の主張を結果的には実現してきたわけである。ゆとり教育学力低下した世代が、今、子の親となり、家庭における教育力低下に拍車を掛けている。校内暴力やいじめ、不登校などが激増した時期は、ゆとり教育を開始した時期に概ね符合している。小学校低学年にまで及ぶ学級崩壊は、幼児期の育てられ方に関係し、学力不足で大人に成り切れていない親たちの問題でもある。核家族化の進行のなかで、老人を疎外する社会が、結果的にはしっぺ返しを受けていると言ってもいい。生活の知恵や生きる術に長けた老人を家族から切り離し、臭いものには蓋をせよとばかりに隔離していくことが、未熟な夫婦による家庭における教育力の低下を促し、躾などで問題を有する近年の青少年を輩出する社会的な土壌となっているのではないか。また、そうしたバカ親に限って、昨今のモンスター=ペアレントになり得るのである。『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦氏は、「日本の子どもはバカだ」と指摘する。なぜこうなったのか。藤原氏は、個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという、子ども中心主義が信奉されてきたことを第一の理由に挙げる。インターネットの普及などの文明化と逆行する人々が増えている。大国の読み書き算術能力が退化すると何が起こるか。一部のエリートが、単純な言葉で大衆の人気取りに専念し、権力に居座る。ワンフレーズ首相と言われたパフォーマーが、劇場国家の中で一世を風靡したのはどの国のことであったろう。

昨今の安易で早計な改革論に押し流され、国家百年の大計を過つようなことがあっては、取り返しのつかないことにもなり得る。欧米近代合理主義を根幹とする戦後民主主義教育が至る所でその綻びを露呈している中、学校化する現代社会の病巣を修復するための処方箋として、学校教育の分析検証は必要不可欠である。日本の教育力は戦後の発展と成長を支えた柱の一つと言われ、若者の知の水準も主要国のトップを維持してきた。ゆとり教育の指導要領は有馬朗人文相(当時)が告示し、小中学校では2002年度から、高校では03年度から実施された。しかし文科省ゆとり教育の失敗を重く受け止め、総合学習により減少した授業時間数を一転、増やすことになった。が、こうしたブレまくる文科省の方針転換が、教育現場を大混乱させたことは想像に難くない。学力低下批判や公立学校不信の高まりをよそに、ゆとり教育をひたすら推し進めてきた行政の責任は大きい。失敗が明らかになった以上、自らの誤りを認めず場当たり的施策を打ち出すだけで詰め込み競争と揶揄し、基礎学力を軽視したことを深く反省する必要がある。2007年に希望者全員が定員枠に収まる全入時代となり、大学倒産も現実のものとなった。そして定員確保のための入試の安易化と受験生の負担軽減が大学生の学力低下に拍車を掛けた。小学校から大学に至る日本の若者の知的レベルの地盤沈下は、バブル崩壊以降のこの国の社会が抱える構造的なひずみと重なる部分も多い。ニートと呼ばれる無職層の若者の急増もこれと無関係ではなかろう。国の教育政策の失敗を十分検証するとともに、社会構造の変化も踏まえて新たな知を創造する仕組みが必要である。

高野連の悪巧みと言うより、それを操る大新聞メディアの罪は深い。夏は朝日、春は毎日、正月は読売。この3社が、スポーツを売り物にして、メシを食っているのだ。そして、高校野球箱根駅伝が教育的に美化され、国民の目を騙し続ける。学校教育も野球部を始め部活動というファジー領域を抱え、教員は時間外労働に無給で動員される。夏の甲子園に出場するために、青春時代を野球一筋に明け暮れ、勉強も六スッポせず数年間を過ごす。野球でメシ食える者は、ホンの一握り。イチローや松井の様に、大リーグでの活躍を夢見て、プロ野球を目指す。そんなピラミッドの頂点に立てる逸材を、育む為のシステム作りに学校は利用され、生徒・教職員が大なり小なり巻き込まれていく。熱中症死も出る確率の高い、一年で最も蒸し暑い過酷な時期に、甲子園大会に向けての地方予選の日程が一律に組まれ、ほぼ全国同時進行で試合が消化されていく。学校によっては、地区予選の一回戦から全校応援を余儀なくされる場合もある。それによって、野球優先の学校行事予定とも成り兼ねない。地方予選は、概ね7月中旬頃からスタートするので、まだ梅雨の明け切れない気候の不安定な中、雨で順延する事もしょっちゅうだ。大会役員はその度に試合日程の変更に苦慮し、学校現場も授業変更等、振り回されてしまう。こうした事が、年中行事の如く、毎年、全国津々浦々の高校現場で展開しているのだ。何というエネルギーの消耗だろう。これだけ大々的に為されるスポーツイベントは、他には見当たらない。マイナー競技に至れば、全国大会優勝戦ですら、学校からの応援は皆無だったりする事も当たり前だ。こうした競技に対する差別的取り扱いは、公正・公平を旨とする筈の学校教育上、誠に遺憾な事ではないだろうか。そうした苦言を呈する事も、学校現場ではタブー視されているのが、現状ではなかろうか。

【社会諸々】縄文は日本の原型なのであり、弥生は朝鮮渡来の異型なのだ。弥生人が原日本人の縄文を周縁に追い遣り、大和支配が完了する。その過程で、天皇制の枠組みも、構築されて行ったのである。九州熊襲や東北・北海道の蝦夷アイヌの人々は差別の歴史と共にあるが、我々日本人の祖先縄文は、こうした被差別の側に立たされている人達なのだ。我々自体は、朝鮮渡来の弥生系で、御先祖様である縄文系の人達を疎外し差別しながら、同時に朝鮮半島の人々に対しても、それ以上の歴史的差別を繰り広げて今に至る。そうした事を認識しない中での、天皇制日本の表層的事象に対する言及が通常であり、それが全くズレた言行へと、人々を誘導する背景としてある。

キリスト教古代ローマ帝国との関係において、それは如実に示された。近代以降においては、ガンジーの非暴力・無抵抗主義をバックにしたインドと大英帝国との関係が正しくそれである。現代では、憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。正義を嘯くアメリカというサタン。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、去勢されてきた。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が続いてきた。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華できるようになっている。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいる。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑がある。

人は他人の秘め事を知りたがると同時に、自身については他人に知られたくないものだ。「知る権利」を主張しながら、知られたくないと「プライバシー権」を盾にする。都合がいいのだ。政府は更に上手で自身に向けられた情報公開請求を逆手に取って、国民生活に対し情報開示を迫り、知る権利を有するかの如く振舞う。不確かな安心・安全に縋り、偽装された自由をかなぐり捨てようとしている。正しくエーリッヒ・フロムが嘗て警鐘を鳴らした「自由からの逃走」を再演しようとしている。 ポピュリストが輩出し事大主義に煽られ、我々は一体何処ヘ突き進もうとしているのか。核の平和利用の美名の下で「原子力ムラ」は着実に「増殖」する。6年前、世界中にあれだけの大惨事を曝け出し、痛い目に遭ったはずなのだが。この国の「センセイ」達は、「寄らば大樹の陰」で、「米国第一主義」なのだ。誰もが「日米同盟ファースト」とよく口ずさむ。当然、同盟によるハイリスクを覚悟せねばならぬ。ジョーカー・トランプが米国の覇権生き残りのため、日本を「切り札」として「捨て駒」にする日が近付いて来ているように感じる。都合の悪い事は直ぐ忘れようとするものだが、日本は現同盟国に、過去、核爆弾を2発も落とされた。これ以上ない理不尽を味わわされたにもかかわらず、奇襲攻撃という負い目を引きずり相手の顔色を窺い続ける。米国に砲艦外交で開国を余儀なくされて160年以上が経つ。ある意味、日本は、凌辱された女(日本)が、その意識を押し殺し凌辱した男(米国)への復讐を遂げる日を夢想しているなかで、米国との関係を成立させているようだ。正しく日本(人)は、「汚れちまった悲しみ」をバネに、それを生き甲斐としている。近代以降の日本人が、忠臣蔵の「仇討ち」に惹かれる背景には、こうした米国に対するどうしようもない怨念感情(ルサンチマン)があるからかも知れぬ。戦争を知らない平和ボケ世代がほとんどになり、過去の「悲しみ」の歴史を「忘れていく」事により、近い将来、「トランプ戦争」に巻き込まれ「忘れちまった悲しみ」に直面するのではないかと危惧する。

ゴジラ」は、「恐怖心の象徴」であると同時に、55年体制から今に至る「自民党」その物だ。野党から攻撃されて瀕死の状態になっても、ずっと進化を遂げ生き続ける。進化し続けるゴジラは、絶対多数党になった一強体制の自民だ。様々なエレメントを獲り込み、不死鳥の如く蘇りサバイブする。エレメントの筆頭は核。ゴジラの原点は、ビキニ環礁沖の水爆実験だった。核の被害者であると同時に、核エネルギーを吸収し巨大化したモンスター。それは正しく日本その物だ。原爆を2発もブチ落とされ、メゲルことなく核エネルギーの平和利用と嘯き、原発大国に伸し上がった。今や神の化身の如く在り続けるゴジラの中には、今後も様々なエレメントが集積されていくのであろう。ゴジラを倒すべきなのか、それとも共存すべきか、将又、ゴジラが臨界点を超え自爆してくれるのを待ち続けるのか。もう私自身もゴジラに取り込まれてしまっている。

憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、去勢されてきた。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が続いてきた。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華できるようになっているのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけ。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑。

我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。「恐怖」を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界という「お化け屋敷」のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も「武士道」における「刀」の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。見て見ぬふりのなあなあ関係がかえってお互いの距離を隔てさせ、モラル低下に歯止めが効かなくなる場合がある。また放縦的関係性の継続が、質の悪い苛めに繋がったりする。感情的爆発でお互いの馴れ合い関係を瞬間的に壊した方が、言葉を駆使してその場凌ぎをするより後腐れがなくて良いこともある。

7年前、世界中にあれだけの大惨事を曝け出し、痛い目に遭ったはずなのだが。この国の「センセイ」達は、「寄らば大樹の陰」で、「米国第一主義」なのだ。誰もが「日米同盟ファースト」とよく口ずさむ。当然、同盟によるハイリスクを覚悟せねばならぬ。ジョーカー・トランプが米国の覇権生き残りのため、日本を「切り札」として「捨て駒」にする日が近付いて来ているように感じる。都合の悪い事は直ぐ忘れようとするものだが、日本は現同盟国に、過去、核爆弾を2発も落とされた。これ以上ない理不尽を味わわされたにもかかわらず、奇襲攻撃という負い目を引きずり相手の顔色を窺い続ける。米国に砲艦外交で開国を余儀なくされて160年以上が経つ。ある意味、日本は、凌辱された女(日本)が、その意識を押し殺し凌辱した男(米国)への復讐を遂げる日を夢想しているなかで、米国との関係を成立させているようだ。正しく日本(人)は、「汚れちまった悲しみ」をバネに、それを生き甲斐としている。近代以降の日本人が、忠臣蔵の「仇討ち」に惹かれる背景には、こうした米国に対するどうしようもない怨念感情(ルサンチマン)があるからかも知れぬ。戦争を知らない平和ボケ世代がほとんどになり、過去の「悲しみ」の歴史を「忘れていく」事により、近い将来、「トランプ戦争」に巻き込まれ「忘れちまった悲しみ」に直面するのではないかと危惧する。

矛盾がある際、人はストレスに苛まれる。それを克服する手立てを古来から講じて来た。それが「辻褄合わせ」であり、フロイト精神分析で言う「合理化」である。簡単に言うと、「自分に都合のいい様に捉える=解釈する」と言う事だ。だが、それは「誤魔化し」に過ぎず、結局、破綻を迎える可能性が高い。今が正しくその次期であろう。だが、変えるのではなく、今まで通り変えない道もあり得る。ただその場合、姑息で歪曲した生き方を選ぶ覚悟が前提となる。それを検証する前に、憲法制定に纏わるアウトラインを押さえておく必要がある。憲法9条は1条との関連性をもつ。天皇制の存置がGHQ(連合国軍総司令部)にとり大きな課題となった。枢軸国の各責任者に対しては厳しい眼差しが向けられていた。独・伊の最高指導者は共に、その死で責めを負わされたが、日本は未だであり、侵略を余儀なくされた中国など社会主義国から、天皇断罪を求める声が高まっていた。そうした極東委員会における天皇制打倒を声高に掲げるソ連や中国などに対し、米国やマッカーサーには天皇制を占領政策を円滑に進める上で存置させ、資本主義の盟主米国の反共政策遂行に利用する必要があった。そこで、極東委員会でソ中がリードする天皇制廃止論勢力への懐柔策として、戦争放棄と戦力不保持を掲げた平和主義の条文が9条として用意された。こうした、戦後の極東委員会とGHQマッカーサーとの駆け引きのもと、天皇制存置を可能とする1条及び、その副産物的9条を核とした現憲法が、マッカーサー草案をネガとする米国主導で急造された。

1条で天皇制存置が可能となるなか、完全非武装憲法9条が設けられた。だが、49年の中華人民共和国成立と、翌年の朝鮮戦争勃発で、米国の対日占領政策に大きな転換が起こる。日本の武装化(再軍備)要求である。警察力の補強という触れ込みで警察予備隊、続いて保安隊、そして1954年の自衛隊となる。憲法との矛盾が顕在化していくなか、極東での対ソ戦略上、日本の米国への軍事協力は、喫緊の課題となっていった。自衛隊の発足の3年前の1951年には、日本独立がサンフランシスコ講和条約で達成される。と同時に、米軍は占領軍としてその存在理由がなくなり、 撤退せざるを得なくなるが、それは冷戦構造下、対ソ・中戦略上、不可能であり、占領ではなくて駐留するための口実作りが、「日米安保条約」となる。これで世界最強の米軍が日本に居座り続ける事が可能となった。そして同時に日本は、米軍の核の傘の下、平和維持が可能となった。従って、9条がある以上、日米ともに安保体制は堅持しなければならなくなったのである。なぜなら、日本は自衛隊という9条により制約を受けた状況下、米軍に守って貰わなければならず、米国も、自衛隊という実効性のない軍隊とは看做せず覚束無い組織には、米国の世界戦略上、極東地域のプレゼンスを任せられず、日米安保を維持するしかないのである。だから、沖縄基地問題が在り続け、それに付随する様々な精神的・身体的・経済的負担を強いられ余儀なくされ続けるのである。

我々日本人のルーツはモンゴルだ(とオラは思う)。正確に言えば、バイカル湖周辺当たり。医学的にも血液型タイプの共通性から、かなりの整合性がある。その昔、江上波夫史観「騎馬民族征服王朝説」というのがあった。東北ユーラシア系の騎馬民族が、朝鮮を支配しやがて日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して大和朝廷を立てたという説だ。騎馬民族日本征服論とも言い、支持を集めたが、学会では多くの疑問も出され、定説には至らなかった。今日ではほとんど否定されているが、オラはこの少数派の一人だ。小さい頃、蒙古斑がどうのこうのと身近に話題となっていた。日本史上、初めての国難に直面したのも、蒙古襲来と言うモンゴル騒ぎだった。そのモンゴルが、今や日本の国技であり伝統文化とも言える、「相撲」界を席巻している。これを良しとするのか、そうでないとするのかで、「日馬富士暴行事件」の見方が多少なりとも変化するのではないか。オラは、「朝青龍」が日本相撲を大いに揺さ振る元凶になったと振り返る。朝青龍は強かったが、その態度は実力以上にデカかった。突出する彼の存在を緩衝する役割として台頭したのが、「白鳳」だったように記憶する。だが、今度は、彼が第二の朝青龍的存在となって来ている。質が悪いのは、自分は表にはならずに、子分達を陰で操り、相撲界を牛耳ろうとしている事だ。そうした動きに反発しマッタを掛けたのが、貴乃花ではないか。だが、彼も同じムジナである事には変わらず、最後は「排除」されてしまった。一番の問題は、相撲協会の隠蔽体質だろうが、そんな「隠蔽」は何処にでもある事で、言ってても詮無い事だ。それより、協会トップの「八角理事長」が何の責めも負わず、ノウノウとしている事が最も問われなければならない。

【流行語「忖度」を振り返る】(2017.12.27 愛媛投稿) 今年の流行語「忖度」は、加計問題に端を発して忽ち、至るところで使い回されるようになった。前川喜平氏の言を借りれば、今回の問題で本来の意味や言葉の有すニュアンスが、大いに「歪められた」。来日したトランプ大統領に対し、安倍首相の姿勢には様々な忖度が垣間見れた。更には忖度を通り越し、媚び諂いの感も否めぬ面もあった。さて、忖度なる流行語の切っ掛けとなった、加計問題に話を戻そう。先の総選挙結果を、首相は自身に向けられた国民の疑惑への禊と捉え、長期政権5年目のメッセージで、もう加計問題は完全に消滅したかの素振りで無視し続けた。だが、不明朗極まりない血税流用疑惑に対し、加計孝太郎からは何の説明も無いままだ。疑惑の禊を済ませたと勝手に見做した安倍政権は、今後益々、暴走し続けるだろう。愛媛県民も、先細りする地元の地域興しを最優先させ、加計問題に目を瞑り、ある意味、談合政治に忖度してしまった。私もそうした県民の一人として、今年を苦々しく振り返っている。

ロシア革命から百年~天秤にかけられた自由と平等】「自由」と「平等」の価値は、近代市民革命のシンボルとして並置追求され始めた。だが、この両価値は水と油の関係でもあった。自由を追求すれば不平等になり、平等を追求すれば不自由となる。頑なに平等を追い求めるべく、百年前、ロシア革命が成され、70年程で挫折に至る。今は、不平等を尻目に自由が進化を遂げている。国家独占資本主義段階における、控え目な自由からの卒業である。だが、新自由主義も倦怠期を迎える昨今、パラダイム無き自由は、彷徨せざるを得ない。自由・平等ともに、その追求過程における「欲望」コントロールが必要だが、コントローラー役は個人では務まらない。国家権力による、両価値の操作が必然となる。平等を追求する共産党一党独裁が、自由を「規制・管理」し、国民には不自由を強要しながら、共産党ノーメンクラツーラのみの自由を、最大限に欲望し貪った。革命の名のもとに平等を嘯き、殆どの富を簒奪して成り立つ共産主義体制。マルクス理論を実践化したレーニンロシア革命から百年を迎えたが、結果的にはその敵失により資本主義の延命に手を貸す事となった。最後の末裔として、北朝鮮が足掻き続ける。国民の藻掻き苦しむ様に目を向けようとはしない金正恩体制は、早晩、破綻し、その後、平等は更に肩身の狭い思いを、余儀なくされるであろう。

【加計問題に関する今治市議会議員への調査確認要請について】本日、今治加計学園獣医学部新設許可が文科相から認可されました。地元愛媛県人として、慚愧に堪えない出来事であると痛感します。さて、加計学園の加計孝太郎氏と菅良二今治市長及び今治市議会議員の多くが金銭授受を通し癒着しているのではないかと、以前から問題視されていました。私も、菅良二市長へはメールで直接問い質した事もありましたが、案の定、核心に触れる返事は頂けませんでした。また、松田澄子市議に対しても、Facebook上で失礼ながら疑惑問題の潔白確認をさせて頂き、御本人から根も葉もない大いなる誤解であったという返事を示して貰いました。しかし、今治市民団体の一人、黒川敦彦氏は、菅市長らの不正に対し未だに疑念は晴らせていないと、一人孤軍奮闘し総選挙において安倍首相の選挙区山口4区にまで乗り込んで徹底抗戦するなど、全国にこの問題の重大性を問い続けています。しかし、加計問題への関心は急速にトーンダウンしているのは否めません。この私も、愛媛新聞に投稿したり、黒川氏による松山地裁検察庁への提訴を見て、それがきちんと受理されたかどうかの確認を問い合わせたりしました。血税の私物化のみならず、民主主義の根幹を揺るがす大問題に対し、御用組織の権力への忖度三昧は、最早、如何ともし難い正しく国難と化しています。特別国会でも真面に審議をしようとせず、このまま加計問題が闇に葬られる事は、全く許し難く看過するに忍び難い思いで、貴党へのメールとなりました。松田澄子今治市議を通して、今一度、今治市議会と加計学園との癒着疑惑の徹底調査をして頂くとともに、愛媛県議会において、県から96億円もの県税が、今正に今治市加計学園に使途されんとする中、貴党田中克彦県議による最期の抗いを強く祈念しております。 此の国は、北朝鮮と殆ど変わらない。メディアも政権に阿(おもね)る忖度機関と堕す。会計検査院はその存在自体が怪しい。政府からの独立性なんて保てるわけがない。税金無駄遣いの指摘なんて、政権チェック機能を果たしてますよとばかりの猿芝居を国民に見せる。官邸から演技芝居をさせられているのだ。更にそうした下手なガス抜き芝居を、御用メディアが忖度報道に買って出る。それこそ、下衆の極みの真骨頂だ。あの戦争の時代も、多くの著名文化人が体制翼賛に名を連ねた。菊池寛武者小路実篤谷崎潤一郎、等々、錚々(そうそう)たるメンバーが、戦争遂行に大いに利用された。市川房江も例外ではなかった。そうした愚を、繰り返しているのが現在なのである。会計検査院長とNHK会長だけではないのだ。森友・加計問題や伊藤詩織のレイプ事件を封印してしまった検察及び司法も、イカサマで出鱈目の御用組織の権化と化している。

トランプ親子に振り回された挙句、ATM安倍の大盤振る舞い。何処迄、国民の血税を私物化すれば気が済むのか。イバンカ基金などと訳の分からぬものに、57億円もの資金を提供する。数日前には、ドテルテに数千億円を無償援助すると約束したばかりだった。国民の合意の上での話なら、まだ分からぬ事ではないが、こうした不分明な税金流用が、安倍政権下では際立って多く感ずるのは、この私だけの事だろうか。加計問題での百数十億円もの不明朗な税金使途に関しても、未だにきちんとした説明を受けてはいない。先般の選挙で、安倍首相の不正に対する国民の疑惑を、拭い切れたとでも思っているのだろうか。そうであるならば、国民は舐められたものだ。これで10日に文科省の設置認可が下りる様だったら、今迄の事が全てイカサマだと言う事になる。黒川敦彦氏の訴えに耳を貸そうともせず、権力ヘの忖度ばかりに汲々とする法曹と御用メディアにより、この国の未来と民主主義が危うくされて行く。

60年代は正しく「政治の季節」だった。ベトナム戦争の泥沼化による米国覇権崩壊が、左翼勢力に活力を与える隙を作った。日本国内も戦後復興が完了し、高度成長へ向けエネルギーを発散している最中だった。こうした国内外情勢を背景に、学生運動が、日米同盟強化を目論む自民独裁打倒を掲げる野党陣営と連動し、全国展開したのだった。当時の青年達はゲバ棒を振り翳し、熱き青春の血を政治にぶつけようとした。或者は、幕末動乱に生きる草莽崛起の志士と、自身をだぶらせていたのかも知れぬ。ちょうど終戦直後生まれの世代が、戦後体制打倒の旗振り役となり、その挫折後は、経済大国へ躍進する時代の中核となった。そして今、戦後体制の総仕上げをしようとする安倍政権を、陰で支える70代世代となっている。さて、翻って今の青年達は、半世紀前にスクラム組んでデモ隊の一員として大義に突進しようとしていた連中を、どう観察しているのだろう。ただ、殺人をゲーム感覚で行うよりは、エネルギー発散のしがいもあるだろうが。

【加速化する改憲への動きにどう対応】小池・前原両氏の新党立ち上げに伴う野党分断が、安倍自公政権の窮地を救う結果となった。今後、改憲勢力による九条改定に向けた具体的動きが、一段と加速化するであろう。その際、我々、国民一人ひとりが、憲法とどう向き合うのかが問われる事になる。安倍首相は、現在の九条に自衛隊を明記した三項を加える、いわゆる加憲案を念頭に置き、国民投票で信を問う構えだ。従来、二項で保持が禁じられた「戦力」に、現存する自衛隊が該当するかどうかで、神学論争がなされる中、曖昧な性格を有す自衛隊を、事実上の解釈改憲でその都度運用して来た。稲田前防衛相の日報問題も、こうした自衛隊憲法における不分明な位置付けが、何等かの要因になっていた事は否めない。その自衛隊は1950年代初頭、極東情勢の変化に伴う再武装化の過程で創出された。だが憲法上、国家正規軍として認められず肩身の狭い自衛隊は、抜刀を禁ぜられた帯刀武士の如く、彷徨い続ける十字架を背負わされて来たのだ。憲法9条が改められれば、集団的自衛権及び安保法制をバックに、米国の世界戦略の一翼を積極的に担わされる事は必至であろう。その後に起こる必然的諸問題を引き受ける覚悟があるかどうか、国民投票で賛否の一票を投ずる日が、どんどん近付こうとしている。 忖度と啐啄は、読みもだがその意味合いも似ている。お互い相手を思い遣り、意気投合する。本来、両用語とも良き心情表現としてのものであった筈だ。しかし前者は、本来有すニュアンスやイメージが、今年、大きく歪められてしまった。正しく、前川喜平語録の一つに成り果てた。こうした言語のバックグラウンドには、矢張り文化的素地の関連を感じる。「以心伝心」と言う、双方の分かり合えぬ内心を、言葉を駆使せず、お互いの心底を感得し行動へと移す。物質至上の西欧文化とは一線を画し、明瞭化する事に因る浅薄さを回避し、曖昧模糊とした精神世界に優位性を置こうとする、東洋ならではの工夫が内包された用語でもある。だが、精神的に高尚なる場合に使われる事を想定して創られた筈の用語も、低俗な現象世界の営みを通し、本来の意義を変容させられても行く。今回の加計問題での前川氏の内部告発的発言は、奇しくも、新旧官僚文化の殻を、啐啄するかの如く発せられたものではなかったろうか。

【一本化された国体を望む】国体に明け暮れたこの数年間だった。愛媛県天皇杯獲得を目指し、膨大な予算を県費に計上し、全国から助っ人選手を引っ張り抜き、強化に傾注してきた。だが、後一歩のところで、賜杯獲得の夢は潰えた。だが、一強の東京をあわやのところ迄追い詰めた各競技選手達の頑張りは、賞賛に値する。こうした努力を決して無駄にしない為にも、今月末に開催される障害者の国体を是非とも成功裏に繋げてもらいたい。とかく、障害者の大会には、国民の目がなかなか向かないのも否めない。オリンピックにしても、パラリンピックは盛大な祭典から程遠い感を呈する。健常者と障害者の二本立てで大会を運営すれば、一般の健常者は、障害者の方へ目を向けようとはしなくなるのが常だ。その分離された大会を一本化して、同期間に実施する事も検討すべきではないか。そうすれば障害者大会も盛り上がりに欠ける事もなくなるだろうし、ノーマライゼーションの精神にも合致したものとなる。こうした取り組みから変えなければ、上辺だけの付け足し大会で終わってしまう。更には、障害者大会の得点も加点された中での、賜杯獲得合戦にするのが、本来在るべき国体の姿だと思う。

【苛めは学校だけの問題ではない】昨年度、全国の学校での苛め件数は、認知されただけでも、過去最多となった。こうした中、学校現場では、自殺される事を恐れるが故の、消極的苛め防止策に追われていはしないだろうか。だが、苛めは学校だけの問題ではない。学校化された世界の、至る所で見受けられるものである。近代化途上で異質な日本が、不平等条約など様々な苛めを受け、その試練を経ながら、同様の欧米帝国主義に便乗し、近隣東アジア地域で、植民地侵略と言う苛め行為を苛める側に組して行った過去の歴史を忘れてはなるまい。苛めっ子は、過去に苛められた経験のある者が多いとよく言われるが、強ち間違いではない。苛めの苦痛を味わいたくないなら、苛める側の真似事をして、苛めの恐怖を回避する。苛める側に身を置き、苛めの加担をする。正しく、個人も国家も同様なパターンで、恐怖を巡るシーソーゲームを繰り広げているのだ。そうした構造を見極め、決して自爆(殺)することなく、強かにサバイバルを図らなければならない。出来得れば、富を簒奪し続ける苛めのボスを退治する手立てを見付けられたり、その覇権システムを打っ壊すキーマンに成れれば、言う事ないのだが。現世での解決努力を諦め、「生きる力」が「死ぬ力」に凌駕された挙句に選択した、怨念を抱き乍らの自死は、余りにも哀しい。 自殺は、いかなる理由にしろ、自身に向けられた最大の暴力行為である事を確認したい。自爆テロとは違い、他者を巻き添えにしたものではないが、何等かの怨念を抱き乍ら、死を賭して世間に訴えようとする事に於いて変わりない。現世での解決努力を諦め、「生きる力」が「死ぬ力」に凌駕された末の自死。学校現場では、自殺される事を恐れるが故の、消極的いじめ防止策を講じているのが現状ではないだろうか。世界には、戦争や不治の病気などで、生きたくても生きれない、死にたくても死ねない人達が、多く居るという事を、教師は声高に叫ぶ必要もある。

加計捨てでいいのか  加計問題は、政界を利用して優位に教育ビジネスを展開しようと、悪巧みを図る加計孝太郎と首相との癒着を巡る、単なる利権問題として済ませられない。  前川喜平氏の言を借りれば、地方自治が大いに歪められた由々しき大問題と認識せざるを得ない。加計学園から口裏合わせの今治市議会工作資金が議員多数に配られ、獣医学部誘致の話が決められた。正しく公金横領事件だ。こうした事が殆ど報じられず、愛媛県議会で幕引きが謀られた。中村知事は、伊方原発再稼働許容と同様、政権忖度姿勢を崩さず、斯くして百億単位の血税が糞塗れに流用される。

小池は軽はずみに排除発言して、自分自身を首相の座から排除してしまった。正しく、「廃女」と化した。立憲民主党なんぞと言う、アナクロニズム的政党名を掲げ、小池アレルギーの連中の溜まり場を作った。改憲論者の枝野に又もや国民は騙され、この掃き溜め似非政党が躍進した。逆に、策に溺れた小池は、自身の賞味期限切れを悟り、衆院選出馬断念で女性初宰相への夢は露と消えた。こうした絶妙な敵失が、自公政権を勢い付かせた。安倍晋も、小池や前原の汚い遣り口に対する国民のソッポにより、命拾いし延命が叶った。

ポスト安倍が誰であれ憲法改正は進む。そもそも、反体制のシンボル憲法9条とは何なのか。「9条護れ」是れ即ち「護憲」で、これを主張すれば善良なのか。そりゃあ、平和で非武装で済めば何も言うこと無しだが、それができれば苦労はしない。国内だって、警察があって市民生活の安心・安全が成り立ってる訳で、警察がなければ矢張り困る。パトカーや警察官見たら、自然に緊張する。片手運転してたのが、さっと両手で運転している。どんなに格好良く言ってても 武力がなければ、抑えが効かない。嘗められるだけだ。自衛隊は軍隊じゃないと、2項で解釈されている。じゃあ、軍隊でなければ何なのか。簡単に言うと、「案山子」だと言う事だ。カカシの様に、「在って無きが如し」の存在なのだ。そうでないと、憲法違反となってしまう。しかし、カカシだと分かっていたら、嘗められ捲るのは必定で、それでは、国民の生命・安全・財産は守れない。だから、日米安保条約で強面の米軍に日本を守って貰っている。従って、アメリカの言いなりにならざるを得ない。そして、沖縄基地問題が永遠と続き、少女が米兵にレイプされても、オスプレイが何度落ちても、何も言えない。更には、北朝鮮ミサイルが日本上空を悠々と通過して然様ならの繰り返しとなる。それに対して、北朝鮮はケシカラン、米軍の振る舞いは慇懃無礼だ、地位協定はダメだ、日米合同委員会が諸悪の根源だと、言い上げていく。さて、こうした事になってしまうのは、何が原因なのか。それは、憲法9条があるからだ。これがある以上、日米安保及び米帝の日本支配は無くならない。日本の植民地状態は永遠に続く。それならば、どうしたらいいのか。憲法九条を変える、否、無くす。国家正規軍が出来ると、日米安保は不必要となり米軍は撤退する。それを実は米帝も密かに願っている。その米帝の底意を見切れずに、変に曲解して「忖度」外交しているから、こんな国になってしまった。この国自体が、不倫してる。日本は、自国に嘘をつき誤魔化し続けて来た。是こそが、最大の不倫だ。諸悪の根源、それは、日本が米帝の植民地支配から何時までも抜けられずにいる事だ。

安倍政権誕生後、日本社会は懐古主義へと大きく舵を切った。少子化で学生数確保が困難となる中、経営不振に喘ぐ教育ビジネスの急先鋒加計孝太郎が、利益誘導を目論み首相を狡猾に利用した。地方の生き残りと中央の思惑を見事に結び付けたプロジェクトを、教育ビジネスを追求する加計学園が巧みに操る。財政難を抱え地域興しを願う地元選出の議員がお友達関係を利用し、中央官僚の政権に対する忖度を引き出すことに成功した。また、財政再建を図らんと策謀された経済戦略が、結果的にそれを隠れ蓑にした特定業界だけを潤わせ、血税簒奪の為の特区制度に成り下がっている現実が垣間見れた。

反安倍勢力の肥大化するカタルシスの持って行き場が捏造され、ガス抜きを謀ろうとする。同時に立憲民主党の枝野が女狐小池に代わり、安倍改憲勢力の補完機能として大いに利用される。 タカ派色を前面に出して仮想敵をつくって煽り立て、内憂を外患へ振り向けガス抜きを謀り、声高に危機感を煽情する政治屋が輩出する。バカトランプは軍産複合体にとって操り傀儡し易い大統領であり、兵器産業界からすると、願ったり叶ったりの存在になる。北朝鮮への強硬姿勢を取り続けるのも頷ける。トランプの腰巾着になってる日本の安倍晋三も、加計問題で窮地に追い込まれてもどうした訳か、長期政権を維持できるのは、それなりの絡繰があるのだ。そして、世界中のカタルシスの行き場として、ISや北朝鮮が位置付けられる。北朝鮮をメシの種にしようと企む軍産複合に蜷局を巻かれ、それに担がれ旗振り役を担わされているのが、アホのミクス安倍晋ちゃんなのだ。

【糞ダメにヨウコソ】「偽装」社会どうのこうのとよく言うが、偽装はそもそも必要悪じゃないのか。偽装は、ある意味、生き抜く知恵で、コレ無くして、生存は危ぶまれる。擬態なんてその典型だ。また、「不倫」も偽装の一形態だ。浮気は、生物学的に眺めると、男女のより良い遺伝子を、後世に伝える為の手段なのだ。尤も、そんな見方は一般的に通用せず、屁理屈として一笑に伏されるだけであろうが。だが、以下の事例を通して、強(あなが)ちそうした解釈が、満更でもない事が理解される。それは、この国自体が、不倫していると考えられないかである。古代、此の国がパトロンとして選んだパートナーは、中国だった。大和政権は、日本神道をDNAの核としながらも、圧倒的なパワーを誇る隣の大国中国の存在に怯え、自身の生き残りを模索し始めた。そして、聖徳の時代、中国仏教を大胆に受容し、日本初の遺伝子操作がなされたのである。その後、鎌倉期における外敵からの侵略の脅威に晒される中、神仏混交を深化させ、日本の文化的遺伝子の強化に努めた。更には、近代以降、欧米列強の猛烈な帝国主義侵略行為を目の当たりにし、英仏欄から西洋の遺伝子を絡めながら、国の肉体改造を謀るべく、本格的な遺伝子操作をバージョンアップさせていった。最後に日本の遺伝子をサバイバルさせるために擦り寄った相手が、米帝だったと云う事である。人間個々人における「一夫一婦制」も、時代や地域により、その制度にも変化や相違が見られる。例えば、我が国もその昔、妾を何人も持ち、それが一般常識であった時代もある。多くの妾を有す男ほど、経済的に裕福で社会的ステイタスが優位な者の証ともなっていたのだ。また、イスラム世界では、度重なるジハードにより、人口比で男が女より激減する中、「一夫多妻制」の歴史を前提として来た。

「嘘吐きは政治屋の始まり」 女狐小池がチャンス到来とばかりに動いた。だが女狐小池は首相の座を狙い損ねた。「希望」の党は「絶望そして死亡」の党へ様変わりした。狡猾で慇懃で小賢しい小池も賞味期限切れだ。彼女の「排除」発言で墓穴を掘り、安倍晋は延命したか。民進党は前原の裏切りで一気に瓦解した。目的の為には、平気で噓をつき騙す。勝ち馬に乗り続け、勝ち目がないと見切るや否や乗り換える。こうした女狐に、国民も嫌気がさして来た。正しく、ハイエナのようなエゲツナイ抜け目ない火事場ドロボーだ。それにしてもまあ、情けないのがそれに巣食う男ども。雪崩を切ったように、彼女に群がる奴等。此奴らこそが、ハイエナであり下らぬ輩だ。

今回の政変劇は、小沢が前原を唆(ソソノカ)して、小池に民進党を明け渡させた事だ。それを好機に枝野が反旗を翻し、立憲民主党なんぞと言う、アナクロニズム的政党名を掲げ、小池アレルギーの連中の溜まり場を作った。改憲論者の枝野に又もや国民は騙され、この掃き溜め似非政党が躍進した。逆に、策に溺れた小池は、自身の賞味期限切れを悟り、衆院選出馬断念で女性初宰相への夢は露と消えた。こうした絶妙な敵失が、自公政権を勢い付かせた。安倍晋も、小池や前原の汚い遣り口に対する国民のソッポにより、命拾いし延命が叶った。

信頼の政治なんてあり得ない。嘘なんて平気で吐き、嘘吐き狐と狸の騙し合いが続く。誤魔化し小池の原発政策もウソに決まってる。山本太郎が揺れている。糞ダメに入るべきか、入らざるべきか。糞ダメを用意した小沢と太郎は合わないのは、最初から分かっていた事で、二人は袂を分かつ時が来た。共産党も糞ダメはちょっと遠慮したいと、ポッタン便所の中を覗き込んでる。我々は何時も何処でも「うんこ」を腹蔵してる。皆うんこの前では平等なのだ。

安倍を退陣に追い込んでも、その後が小池じゃもっと質悪い。誰が日本のトップになろうが、ジャパン・ハンドラーは日本支配を続けるのに大した影響はない。

さて、「安倍政権へ鉄槌を下せ」という民意が達成された後、どうなるのか。ポスト安倍が誰であれ憲法改正は進む。それは、安倍晋と自民結党以来の悲願と言う事で、目出度しメデタシ。そもそも、反体制のシンボルだった憲法9条とは何なのか。「9条護れ」是れ即ち「護憲」で、これを主張する側が良い人なのか。そりゃあ、平和で非武装で済めば何も言うこと無しだが、それができれば苦労はしない。国内だって、警察があって市民生活の安心・安全が成り立ってる訳で、警察がなければ矢張り困る。パトカーや警察官見たら、自然に緊張する。片手運転してたのが、さっと両手で運転している。どんなに格好良く言ってても 武力がなければ、抑えが効かない。嘗められるだけだから、今のままでは日本はずっと嘗められっ放しとなる。自衛隊は軍隊じゃないと、2項で解釈されている。じゃあ、軍隊でなければ何なのか。簡単に言うと、「案山子・カカシ」だと言う事だ。カカシのように、「在って無きが如し」のような存在なのだ。そうでないと、憲法違反だからだ。カカシだと分かっていたら、嘗められ捲るのは必定で、それでは、国民の生命・安全・財産は守れない。だから、日米安保条約で真の実力ある米軍に日本を守って貰っている。従って、アメリカの言いなりにならざるを得ない。そして、沖縄基地問題が永遠と続き、少女が米兵にレイプされても、オスプレイ原発に落ちても、何も言えない。更には、北朝鮮ミサイルが日本上空を悠々と通過して然様ならの繰り返しとなる。それに対して、北朝鮮はケシカラン、米軍の振る舞いは慇懃無礼だ、地位協定はダメだ、日米合同委員会が諸悪の根源だと、言い上げていく。さて、こうした事になってしまうのは、何が原因なのか。それは、憲法9条があるからだ。これがある以上、日米安保はなくならない 米帝の日本支配はなくならない。日本の植民地状態は永遠に続く。それならば、どうしたらいいのか。憲法九条を変える、否、無くす。国家正規軍が出来ると、日米安保は不必要となり米軍は撤退する。それを実は米帝も密かに願っている。その米帝の底意を見切れずに、変に曲解して「忖度」外交しているから、こんな国になってしまった。

ただよそよそしいしゃべりの舌足らで気弱な、一国のリーダーとしての風格など一欠片も感じない安倍晋三。典型的世襲政治家に過ぎぬ優男が、その実像とは掛け離れた評価を真に受けその気になり、高飛車な言動や政策を実行し、将来の日本に禍根を残そうとしている。こんな馬鹿らしい宰相を担ぎ上げ、長期政権を意図的に形成させている奇妙な社会現象こそ、問い質すべき対象である。ここで、我々の命運を左右する程の危機的状況を作り上げた安倍晋三について、その生い立ちから始まり彼の浅薄な歴史認識や政治観を再確認し、そういう人物に国の将来を託す事が、如何に過ちであり愚かであるかを明確にしなければならない。

彼は戦後政治で危惧されてきた、極右勢力の神輿に担がれ、憲法改正へ猪突猛進している。なまじ知性があって哲学や歴史観をもつ人物は、猪突猛進型の政治的突破の障害となる。ほとんどの独裁的政治指導者は、浅薄な歴史社会観を持つの人物が常なのである。そういう無能な人物を祭り上げ、背後から自在に操る。安倍晋三の右旋回思考とその背後にある極右勢力との利害が一致し相乗作用が働いている。この神輿に乗る安倍晋三はどんな環境でどう育ち、将来の日本に大きな禍根を残す政治家となったのか。

近年、アメリカも日本も政治家の質が極めて低下している。過去賢人政治家たちと違い、現代のそれは国家百年の計を考えて政治にあたる者ではない。トランプであれ安倍であれ、どれも近視眼的政治屋であり、その知性や歴史社会観の質に大差ない。現在の閣僚にしても、漫画に現を抜かし勉強などろくにせず、卒業して直ぐに政治家の書生になった漢字も読めない者が、要職を担い内閣を取り仕切っている。小手先の政策や根回しには長けているが、とても国家百年の計を考えられる知性など持ち合わせていない。政治家というより政治屋である。そういう者達がアメリカの軍事政策の言い成りになり、米帝のため公金を湯水の如く無駄遣いしている。下らぬ政治家が浪費した付けは、何十年後の国民が全て負わなければならない。騙す政治屋が悪いのか、騙される国民が悪いのか。どっちもどっちだが、馬鹿な政治屋を選べば、国は滅びるだけなのだ。

安倍晋三の態度と発言は、常に、よそよそしく、何事を語っても、気持ちが感じられない。彼の言動の背景には、そうさせるに至った幼少期における家庭環境があったのではないか。安倍家の内情に詳しく、安倍の乳母だった久保ウメは、晋三の幼年期から思春期にかけて家庭状況や精神的発育の状況を詳しく語っている。 晋三は親の愛情を注がれて育っていない。父晋太郎は子供に愛情を注ぐ時間を削って政治活動に没頭し、母は支援者回りに勤しんでいた。二人の兄弟の面倒は、乳母の久保ウメが見ていた。添い寝をしたのは母ではなく乳母だった。だから、安倍家の親と子供の関係はきわめて冷めたものだった事は容易に想像される。晋三が生まれた頃には晋太郎の政治活動が繁忙を極め、父母の愛情を受ける機会がなかった。幼児期における親の愛情不足は子供の情緒を不安定にし、人を思いやる感性を育まない。父母より晋三に目を向けたのは、母方の祖父岸信介であった。晋三が父晋太郎ではなく、祖父の岸を意識する背景がここにある。その祖父も、三男が生まれて岸家の養子としてから、晋三への態度がそれまでとは一変する。祖父に気に入られる弟と冷静で父の後継と目される兄との狭間で、晋三の精神的コンプレックスが植え付けられた事だろう。しかし、父晋太郎は、兄や弟にはない晋三の頑なに持論を守る姿勢に、政治家の資質を見出し、最終的には晋三の方が政治家向きだと考えるに至ったという。だが、頑なに持論にしがみつくのは、愚鈍なだけではないか。

安倍政権誕生後、日本社会は懐古主義へと大きく舵を切った。安倍氏が祖父等の果たせなかった改憲を最大目標とし、自らの手で実現しようといきり立つ焦りがここ数年における政権暴走に拍車を掛け、それにブレーキが効かなくなって来た。安倍政権下の異常事態に対する国民のアレルギー反応が都議選結果に示された。安倍に必要なのは、「李下に冠を正さず」より、「過ちては改むるに憚ること勿れ」であろう。森友・加計問題における彼の行状は、一国の首相とその知人絡みの国政私物化という点で、辞任に追い込まれた韓国前大統領と酷似する。少子化で学生数確保が困難となる中、経営不振に喘ぐ教育ビジネスの急先鋒加計孝太郎が、利益誘導を目論み首相を狡猾に利用した。奇しくも「県議と加計の事務局長がお友達で話が進んだ」と、前愛媛県知事が謀議的計画であったことを自ら暴露した。地方の生き残りと中央の思惑を見事に結び付けたプロジェクトを、教育ビジネスを追求する加計学園が巧みに操る。財政難を抱え地域興しを願う地元選出の議員がお友達関係を利用し、中央官僚の政権に対する忖度を引き出すことに成功した。また、財政再建を図らんと策謀された経済戦略が、結果的にそれを隠れ蓑にした特定業界だけを潤わせ、血税簒奪の為の特区制度に成り下がっている現実が垣間見れた。渦中の地元民が事の真相を全く知らされず、蚊帳の外に置き去りにされている事に、唖然とさせられる。アベノミクスだと言われても、生活向上が実感されなかったり、安保法制や共謀罪など、安倍政権下でゴリ押しされた数々の出来事も、今にして思えば安倍氏の公僕精神から程遠い、私利私欲の賜物であったからではないか。また、日本会議メンバーの一人加戸守行が使った「おもちゃにされた」発言は、何の説明もされず百億円相当の血税加計学園に使途された今治市民及び愛媛県民に該当するのではないか。先細りの地域を応援したいところだが、問題が有耶無耶にされる事は看過できない。

憲法が精神に該当するのなら、筋肉に該当するのは何なのか。それは、軍隊だろう。日本の自衛隊は、憲法上、軍隊ではない。もし、自衛隊が軍隊でないなら、この国には筋肉が無いことになる。そんなのクラゲ国家。国家とは言えない。「イップ・マン」を見てて、最近の極東情勢がダブって、次の様な事を考えさせられた。イップ・マンは、やられっ放しの日本とは違い、相手をやらせっ放しにして相手の様子を窺い、相手の力量を試しながら、相手のスタミナが切れていくのを見計らいながら、逆に攻勢をかけて、形成を逆転する、決して今の日本などではない、強かな何処かの国ではないだろうかと。しかも、一見 、相手にやられっ放しの様に様に見え、全然、そうじゃなくて、攻めさせながら、相手に自分の非力さを悟らせている。このやり方が、一番の強さで、この戦術を、我々は身に付けなくてはならない。しかし、そうした真の強さは、イップ・マンの絶対的実力に裏付けられているのも事実であろう。こうした事を踏まえ、日本も、その実力を、今後、どのように身に付ければ良いのか真剣に考え、その実力を手にするべく、実行しなければならない。

【映画と私】なかなか変われない現実の自分から、暫しの脱出を図るべく、映画の世界に逃避行する。私が映画好きなのは、こうした表れなのかもしれぬ。毎日ボヤキながら「精神的に死に体状態で存在する」自分が情けない。「人間は合理化する動物である」。合理化とは精神的ストレスから身を守る防衛機制の代表格。私もよくこれをやりながら今まで何とか生き延びてきた。これからもこれをやり続けるだろう。やっていることに「意味付け」する、これをしないとやってられなくなる。「ジョニーは戦場へ行った」の主人公ジョニーは、完全に閉鎖された身体世界の戦場で、狂わんばかりの精神を武器にして闘い続けていたのだ。

我々は理想と現実の狭間で矛盾を睨めながら生き続ける。そうした根本的課題を提示してくれた作品が「プラトーン」であった。ベトナム戦争で主人公の若者が対照的な二人の人物に大いに翻弄される。戦場においては柔な人道主義を捨て、現実的に身を処していかなければならないとするA、それに対していかなる場合であろうと人間性をなくしてはならぬと主張するB、二人は事あるごとに真っ向から対立する。次第にBに感化され同時にAに対する敵愾心を強めていく主人公であるが、BがAに殺されたことを知り、とうとうAを撃ち殺してしまう。我々も「人生プラトーン」という戦場で、映画の主人公の如くA(現実)とB(理想)の狭間で煩悶しているのかもしれぬ。人間性がどうのとBに洗脳されたくもないし、Aに撃ち殺されたくもない。

「ライフイズビューティフル」の主人公グイドは、何の変哲もない日常のなかで、夢のような非日常を創り出していく。別に金がなくても、ちょっとしたユーモアのセンス、ちょっとした相手に対する思いやり、機転があればライフいずビューティフルになるはずだよと、基本的なことを教えてくれたような気がする。自分の置かれている環境がなんて幸せで甘いものかを見せ付けられる。夢のない自分が嫌になったりもする。どんな環境に置かれても、その人の考え方ひとつで全然違った世界が展開するという、大切なことを教えてもくれる。主人公のような本当の強さを持てるよう、自分をなんとか少しでも変えようと努力したい。

感動する映画の基本パターンは、始め年老いた主人公の現在シーンからスタートし、回想して過去に遡っていき、そしてまた現在に辿り着くというやつ。「タイタニック」、「イングリッシュ・ペイシェント」も然り。「嵐が丘」、「ダウンタウン・ヒーローズ」、そして「野菊の墓」も。こうしたパターンではなく、圧倒的感動を与えたものもあった。高校生の時見た「燃えよドラゴン」。圧巻であった。今まで見たこともない超(鳥)人「ブルース・リー」。圧倒的迫力とは正しく彼のために用意された言葉だった。彼に多大な影響を受けた。ブルース・リーの生誕70周年が過ぎた。存命中なら、今、彼もいい歳だろう。よぼついた彼の姿など、想像したくない。超人的な身のこなしに、目を疑った。彼は私の憧れの的となり、学生時代のヒーローだった。彼に近付きたいと、よく物真似に没頭し、武道系サークルにも所属して、飛び跳ねた。彼の魅力に吸い込まれ、影響される人物の最右翼となった。それにしても男を二つ書いて、その間に女が書かれてる字が「嬲る」なんて知らなかった。よく考えたもんだ。僕は男一人だけのナブりの方が絶対いい。男2人だったら、女を奪うために殺し合うかも。これは「嵐が丘」の本質的テーマに通じる。ローレンス・オリピエ演ずるヒースクリフは僕自身かもしれない。最愛の存在(マール・オベロン演ずるキャシー)を独占せんがために、その存在を嬲り続ける。

数年前、久し振りに映画館で話題作を見た。次から次へと、飽きさせないよう、だれないよう仕掛け満載なのだが、見た後、内容が思い出せないくらい、何を見ていたのだろうとピンと来ないのだ。刺激はあるのだが、感動せず、印象に残っていないのである。一体なぜなのだろう。これでもかこれでもかとジェットコースター方式の展開は、スピルバーグ作品から始まったと振り返る。しかし、何十年もそうしたパターン映画を見せ付けられてくると、さすがに慣れてきて、逆に辟易とした感じとなる。感覚が麻痺してしまうというか、感動が拡散されるというか、正しくピンボケしてしまうのだ。自分の健康状態や体型に対する認識も、現状に慣れてしまうと、感じなくなってしまうというのが実際だろう。最近は、映画館に足を運ばなくても、ホームシアターで楽しめる時代になった。ケイブに落ち、右手を岩間に挟まれ身動きの取れなくなった冒険家が、四苦八苦した挙げ句、右腕を自らの手で切断し、脱出生還するという、サバイバルものを見た。「死の恐怖」に直面した主人公が、何とか精一杯の力を振り絞り、窮地から抜けようと足掻き藻掻く様は、臨場感を刺激され見ている者を釘付けにする。自分なら、いざこんな時、どうするだろうと、考えさせられる。閉塞された空間でサバイバルを図るのだが、人間追い詰められると、最後は「やけくそ」となり、普段、想像も付かないとんでもない行為をしてしまうのだなと、見ていて思わされた。死に直面し、それまでの何気ない日常の有り難さを痛感し、半ば諦めながら、尚も生きたいと思い続ける主人公。有らん限りの体力と知力を駆使して、生き延びようとする。その過程で、途中、死への恐怖と疲労が錯綜する。その恐怖を睨めながら、感覚麻痺が漂い、追い詰められて自棄糞(やけくそ)になる。戦争が正しくそれだ。我慢し続けることから惹起する耐えられない疲労感。これから解放されたい一心で、「最後の審判」を迎えるのだ。

 

第一話 「日本(人)と西欧近代」について

 

 日本文化は、集団主義を旨とする。勝手な言動は厳しく諌められ、常に集団全体を最優先する規律のなかで、自ずと全体の調和を乱す者は集団内で疎外の対象としてレッテルを貼られ煙たがられる存在になってしまう。だから集団生活のなかでできるだけ目立たないようにしようとしていく意思が働いて、皆、能面を被ったような個性のないタイプがつくられるのだ。そうした中で、ストレス発散の具として、異色なタイプをリーダーとして要望する傾向が強まるのだが、最終的には日本文化の集団主義が、「出る杭は打たれる」方式を働かせてしまうのである。しかし、均質でお互いの力関係が拮抗していると、絶えず緊張感によるストレスに苛まれなければならない。それに耐えられなくて、拮抗した力関係を自発的に壊そうとするなかで犠牲者(スケープゴート)がつくられる。それを疎外することによって同質同士関係の息苦しさから一時的にでも解放されたいとする。特に日本は集団主義で、和を以て尊しとすを旨とする文化的土壌や、横並び志向の社会的背景が絡って、余計、均質的風土におけるストレス社会を醸成しているように思われる。それと、昔より今のほうが均質的集団組織になってる分、いじめが深刻化すると考えられる。昔は学校のなかで必ずガキ大将っていた。絶対的リーダーが同質集団のなかにおいて、ある意味で異質的存在として君臨することにより、拮抗関係によるストレスがうまくガス抜きされていたともみれる。やはりリーダーは必要なのだが、リーダー的存在というのは、要するに責任者ということだ。集団内にそいう責任をとる者がいないと、その集団はいつも落ち着かなく不安に駆られてしまい、お互いぎすぎすしてストレスが高じてしまう。責任をとることはリーダーの必要条件であり、その見返りとしてまわりの者はそういうリーダーに権力を委譲する。かつて、独裁者の出現が問題となる訳である。

 

 「自分は一体、何者なんだ」を考えていると、「日本人とは何か」ということに行き当たる。 今から40年ほど前に、「大きいことはいいことだ…」というチョコレートのテレビコマーシャルが流行り、私もそれを口ずさんでいた。何か気持ちも大きくなり、浪費に現を抜かしたような記憶がある。そうした時代とは違い、現在は大きく様変わりし、世の中が世知辛くなった。私を含めた前世代の営みのツケを払わされているような気もする。しかし「大きい」ことばかりがいいとは限らない。「小さい」ことが功を奏す場合だってある。日本人の身体は欧米人に比べ小さいが、小さいなりの知恵を編み出し、世界と渡り合ってきた。ちっちゃい日本(人)は、古来からほぼ同様のパターンで、その克服に翻弄され続けてきた。聖徳太子も中国との冊封関係による劣等国から離脱するために福沢諭吉の脱亜論の魁を実行した。中国支配から離脱するために、中国仏教を日本に取り込み文明化することに成功した。敵に勝つためには、まず敵のことを熟知しなければならない。しかし、敵と同じムジナになってしまった。中国の日本から日本の中国へと逆転し、中国侵略という覇権の歴史へと邁進してしまった。「坂の上の雲」を仰ぎ過ぎて、身の丈に合わぬ大望により墓穴を掘った一時期もあるが、「小よく大を制す」の諺通りここまでこれた。そうした延長線上に「イチロー」の活躍がある。中途半端な大きさや力で勝負しようとすれば、絶対的な大きさや力を持つ側に弾かれてしまう。日本文化を体現したイチローは、徹底した小ささと技で大きい連中を翻弄させ続けている。そうした姿に「義経」をだぶらせながら、彼を日本や日本人の象徴として持ち上げ賞賛するのだ。

 

日本の歴史文化は、「天皇制」という不変システムを基層として擁しながら、その表層は、仏教文化流入しての中国化、そして文明技術を模倣しての欧米化をしつつ、絶ゆまず進化を遂げてきた。その過程で、物真似の上手いイエロー・モンキーであるとか、猿真似の得意な変節国家などのそしりを甘受してきた。しかし、それも天皇制という、不易なるものを保守せんがための、苦肉の策であった。正しく自国を鍛え続けてきたのである。そうした努力が、他地域に対する徒花と化したことも、幾たびかあったことは否めない。古代日本は、冊封体制下、中国との朝貢関係を余儀なくされた。日本の中国化は、中国優位を如実に示すものであった。中国化の典型は、漢字使用だ。日本が中国の漢字使用を歴史的に日常化してきたのは、中国が日本より文化的優位性を示す表れで、それは日本の中国に対する劣等感の証左でもある。その中国に対するコンプレックスの反動が、その後における暗い日中関係史を構築することともなった。しかし、日本文化に純粋性を求めること自体に無理がある。結局、日本文化あるいは日本的と言えるものは何かと問われたら、外来文化を受容し折衷加工するシステムとなるのではないか。だから、何事も程々のところで折り合いをつけなければならない。人間同士に限らず、国同士においても、「苛め」は厳然としてある。帝国主義の歴史過程の中で、日本は苛められまいと、必死に悪戦苦闘してきた。苛められる対象がまず、その「恐怖」から逃れるために為すことは、苛める側の物真似をすることである。弱い者ほどツッパリのマネをするのは、苛めのターゲットから抜けてその脅威から逃げ延びたいがためなのだ。従って苛められる者は、苛める者に加担し、そして同化していく。いつの間にか苛められる側から苛める側に変身するのだ。日本帝国主義は欧米帝国主義の卵であった。

 

 日本はかつて福沢諭吉等の「脱亜入欧」論に乗じ、欧米列強(西洋近代)に伍し、白人支配の帝国主義路線の末端に参画しながら、近代日本を構築してきた。その結果、西洋近代を西洋にかわり大東亜に広げていったと評価され、不名誉にも日本(人)に対して「名誉白人」というレッテルが下賜されたのではなかったか。そして今、日本では「脱欧入亜」論が叫ばれ、日米安保体制との鬩ぎあいが高じつつある。アメリカはアジアシフトを念頭に置きだした日本を警戒しながらアジア外交を展開している。

 

 戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、それをじっと我慢してきた。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が現在のわが国である。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華されるようになったのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、結局ニーチェの指摘したルサンチマンを基盤としている。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑であるとか、ウォーラーステインの「世界システム(資本主義)論」を照合しつつ問題分析なり検証をしていかなければならないが、そうすることによりかえって「表象の世界」を合理化してしまうおそれがある。

 

 米国の一極支配にとり気懸かりなのは中国の台頭であり、その中国をいかに封じ込めていくかが今後における米国の外交主題の一つとなりそうである。また近代(米欧)とポスト近代(アジア)の間で、両者を曖昧な(アムビギュアス)姿で共有する日本は両者の「文明の衝突」による終末を回避させる鍵を握っている。あるいは、両者の摩擦による軋み回避のため、両者が連合してJバッシングという防衛規制を働かせ、日本はいつか来た道を辿らされるのかも知れぬ。日本の外交上、片や「日米基軸」、もう一方では「アジアの一員」と、異なる二原則で倒れずに前進するのは容易ではない。

 

 “山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。”かつて漱石が山路を登りながら、智=近代西洋と情=前近代東洋の板挟みに苦悶した時と同様に、日本は西洋(米欧)と非西洋(アジア)の狭間で、今後益々葛藤を余儀なくされるであろう。

 

 私はこの数十年間、アメリカニズムを懐疑し、その源泉であるヨーロッパ近代を問い続けている。アメリカニズムとは、アメリカ的思考及び行動様式であるが、その源泉にはアメリカの母体であるイギリスの思想が、特にベーコン以降の英国経験論やその系譜にある功利主義などがある。そしてそれら英国思想の影響下にあるアメリカの哲学、すなわちプラグマティズムアメリカ二ズムの核をなしている。更にプラグマティズム相対主義を唱道するものであり、価値相対主義の延長線上には、様々な領域におけるボーダーレス化が待ち構えている。例えば男性の女性化・女性の男性化という性のボーダーレス化もそのうちの一つとして指摘される。こうしてあらゆるジャンルで差異を淘汰していこうとする傾向が、今後益々進行していくであろう。多用される「チェインジ」という言葉は、価値相対主義的動向を表象する代名詞であると同時に、アメリカ一極支配に迎合するべく、日本のシステム及び日本人を変えるために用意された造語に思えてならないのである。

 

 西欧近代は、理性を尊重する合理主義を根幹として発展を遂げてきた。その反面ナショナリズムは非理性的なものとして抑圧され続けてきた。ナショナリズムは、近代の象徴である個人主義自由主義と葛藤し、それらにより返って孤立し不安を募らせる近代人にとって、母胎内の羊水の如くアイデンティティを満たしてくれるものでもあった。また近代文明により疎外度を増していく近現代人は、不変的なるナショナリズムへの永劫回帰すなわち自由からの逃走によって自慰しようとするのである。近代を人類史における自我形成期とすると、現代はその自我の分裂期にあたる。20世紀、西洋近代の危機を克服するため、社会主義イデオロギーが要望されたが、その挫折が自我分裂に拍車をかけている。西洋近代の自我分裂は日本近代の自我分裂でもある。経済立国日本の低迷、政界の混沌も結局、近代の挫折の延長線上にあるように思われる。 我々の社会構造の至る所に、競争の原理は仕組まれている。そして我々が現実の競争社会を生き抜いていくなかで、条件反射的に常用してきた言葉は「努力」である。M.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかでも指摘されているように、プロテスタントの宗教心の根幹をなす勤勉・努力というエトスが、近代以降の資本主義社会の構築に多大な影響を与えてきたことは、よく言われるところである。さて、その「努力」なる言葉の背後にあるものは、一体何なのであろうか。努力を怠ると、忽ちその先には奈落が待ち構えている。そうした「共同幻想」を味わいたくないという「恐怖」を、我々は日々掻き立てられ日常生活を余儀なくされている。しかし、この努力の遠い先に待ち構えているものは、何であろうか。それは、努力により期せずして獲得された覇権主義核兵器保有論ではないだろうか。さて、奈落の底は、我々にとって苦痛となり、その逆の覇権や核保有は、幸福となるのであろうか。

 

日常が当たり前と受け止められて時が過ぎ行く。人生、黄昏時が進行中であるが、何も疑わなくなっている自分が、そこにはある。疑わないとは、考えないと言うことである。「疑う」とは「考える」ことである。考えるには、それなりの労力がいる。労力を惜しむようになった自分とは、退廃する自分である。思い続けたい。疑い続けたい。私は、何事もすぐに信じてしまうタイプである。この殻からなかなか抜けられぬ。信じる者はだまされる。全くその通りだ。何も疑わず温々と生きてきた。疑わないから生きて来られたのかも。マルクスは「全てを疑え」と権力体制に疑義を唱え革命を叫んだ。猜疑心は不安を助長する。疑い続け、最後に自分をも信じられなくなる。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」で言う、疑っている自分自身は果たして疑いようがないのだろうかと、疑ったりもする。さて、どっちなんだ。「疑う」のか「信じる」のか。前者には、孤立無援が待ち構える。後者には共有し共生する道が開ける。お前はどっちなんだと自問自答するのだか。どちらを選択するにしても、何らかの労力は付き纏いそうだ。両者の狭間に立つ。これはどうだ。疑いながら信じる。なかなか両立しにくいようだが。古代ギリシアの時代から思考停止状態は続いている。プラトン流の「二元論」からアリストテレスの「動的一元論」へシフトするか。真っ向から対立する両極端は、得てして繋がりを持ったりするものだ。冷戦下の米ソも、「軍産複合」体制という儲け主義においては、水面下で繋がっていた。表層では対立を装い、その実、基層では濃厚に融合化している。これが世の中だろう。暫くは「フュージョン」を指針としてみようか。

 

 現代は、労働(日常)が軽減され安息(非日常)が増加している時代でもある。そして日常と非日常の差異が見失われ、「越境」化が進行している。更には、近い将来において、日常と非日常の逆転がなされることも考えられる。このような、非日常の日常化のなかで、「毎日が日曜日」であることに耐えなければならず、現代人は益々、ストレスを高じさせようとしている。非日常が日常的に繰り返されると、感動はなくなる。慣れは、初心を忘れさせてしまう。繰り返される現代の驚愕的諸事象にも慣らされ、感覚麻痺が漂う。そうした世相は、必然的に某作家の「鈍感力」を、ベストセラーへと押し上げたり、某政治家の「鈍感力が大事」発言に繋がり、「格差社会」の拡大に、その力を大いに発揮させたりした。とかく、「鈍感」より「敏感」の方が評価され易いが、敏感が過敏となると、落ち込んでネガティブでマイナス思考に悩まされ、体調を崩すことさえある。アレルギー体質など、外の変化に敏感に反応し過ぎると、病気がちとなる。「鈍感力」があれば、こうした周囲の変化に振り回されず、常に自然体でいられる。そして、鈍感力が自信へと繋がる。一つのことに集中すると、没頭する余り周囲に鈍感となり、周りを気にせず、変に気を奪われなくなることがある。つまり、鈍感力を身につけるとは、「夢」を抱きながら、何かに熱中するということであろうか。「釣りバカ日誌」は釣りと出会い、その面白さについ没頭してしまう話であるが、バカになれるほどの鈍感力を身に付けたいものだ。

 

 ニーチェは、『善悪の彼岸』のなかで「道徳的現象などというものはまったく存在しない。むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。」と述べたが、現代社会に道徳的現象が存在しなくなってきているとするならば、「KOUUNな十三の話」もただ現象の道徳的解釈のみに終始したわけになる。尤も、今という時代は道徳的解釈すらも存在しなくなりつつあるのではないか懸念されるのだが。ニーチェは、当時、キリスト教を母体としたヨーロッパ近代を懐疑しそれに警鐘を鳴らした。そのためには、「いじめ」による孤立無援をも覚悟で我が侭を徹さねばならず、そしてそれは一筋縄ではいかぬ最終的な修業であるとも言わしめたのだった。アメリカ一極支配が継続するなかで、彼の言葉は示唆に富むものがあるのではないか。さりとて、真のエゴイストたらんと金権力に塗れ、最終的な修業を踏み間違え、「権力への意志」を滾らせ、自滅への道に至らぬよう、気を付けなければならないことは勿論の事である。

 
 

第二話 「リビドー」について

 

 

   機器を通し、居乍らにしてあらゆる情報が苦もなく入手でき、様々なことが疑似体験できる環境のなかで、虚(バーチャル)と実(リアリティー)との「越境」化が進行しているように思われる。今、政治・経済的思惑のもとソフトな越境化がなされようとしているのかも知れぬ。越境化は、境界で仕切られていたものを融合し平準化させるが、相互の差異やそれにより醸し出されていた価値を希薄にさせるものでもある。また、価値希薄化に伴う権威の喪失がもたらすモラルの低下も懸念される。パソコンの画面を通して世界と一体化が図られると幻想を抱かせるインターネットは、バーチャルリアリティーを加速させた。バーチャル、すなわち仮想(虚像)を現実と錯覚する社会的事象も至る所で展開している。例えば、その一つとしてバブル経済が挙げられよう。プラザ合意後の消費扇情経済のなかで、儲け主義に現を抜かし、バブルの幻影に錯誤して今だに覚醒しきれてはいない。あるいはまた、カルト集団によるテロ行為の背景として、ファミコン世代の若い信者を中心とする心性傾向がかなりの面でバーチャル化されているなかで、簡単にそれを操作洗脳し破壊活動を容易に実行させるようになったことも指摘されうるディスクロージャー(情報公開)や規制緩和などの自由化の波は、その目的とは裏腹にこの傾向に拍車をかけてしまう虞れのあるものではあるまいか。性別越境シンドロームにまでつながりかねない問題をも内包することになる。核家族化の進行する現在においては、女性の職場進出によって家庭での様々な機能を男性も当然果たさなければならなくなった。学校教育の見直しが図られ、高校家庭科男女共修実施など、家庭における男女協業が真剣に検討され出した。官民あげて文化的・社会的性の境界タブーにどんどん踏み込まざるを得ない状況になりつつあるのだが、そうしたなかでユニ(モノ)セックス化や種の保存に不可欠の生殖行為を減退させるような傾向がつくられているのではないか懸念される

 戦後ちょうど半世紀を経た95年に発現したオウム問題や、世間を騒がす凶悪犯罪も、真の「生きる力」を見失い空中浮遊して彷徨するバーチャル社会の延長線上にあったのではないか。性懲りもなく平気で嘘をつき続け、犯行を合理化していく彼等のやり方に、憤りを募らせたものだ。しかし、カルト教団を国家に、信者を我々国民に置き換えた場合、同様のパターンが、その昔、国家的に展開していたのではないかとも思われた。ソト(諸外国)から異質として受けとめられがちの日本教を、ウチなる日本人信徒はそれを信じて疑わず、徹底的にイニシエーションかつ洗脳され続け、過去において正しく最終戦争ならぬ聖戦をしかけ、挙げ句の果ては教祖のためならば命をも惜しまず集団自決で一億総玉砕にまで猪突猛進しようとしていたのだから。その傾向は今も拭いきれずに我々の遺伝子に組み込まれている。イスラム原理主義を背景とするテロや、北朝鮮問題をみていく場合、我々の内なる日本教の過去及び現在を絶えず比較検証する必要がある。

 ネット社会では閉鎖的な自分を解放させてくれる。得体の知れぬ怪しさが自分を変身させるのだ。正しく、「アバター」効果だ。簡単に言えば、「匿名」で「無責任」になれるということである。「ウソ」が罷り通るバーチャル虚構社会で、お気楽に自分の憂さをある程度さらけ出しながら、最後のところで本性を隠し遣り通せる知のネットワークが構築され、弁証法的に自分を止揚することが可能なことは利点だが、匿名の問題点は、その「無責任」さが「軽薄」社会を助長することだ。そうした先に、秋葉原無差別殺傷事件は位置付けられよう。事件を起こした者のほとんどは、自身の弱さを他者や社会のせいにして、我が儘で身勝手な欲求不満を、世間への恨みに肥大化させ当て付ける。劇場型ともいえる理不尽な凶行には、呆れるばかりで反吐が出る。

 それにしても、殺人犯の少年から「殺す経験をしてみたかった」というコメントが出てきたり、また、その際に周囲から、「なぜ人を殺してはいけないのか」という呆れ返った言葉が投げ掛けられたり、それに対する返答までも窮するという始末だ。子が親を殺し、親が子を殺す。そして自分自身をも。他人の尊い命をも奪うことが自由であるなどと、とんでもないはき違いまでするほどのモラル=ハザードだ。ところで、踏まれた痛みは踏まれた者でないと本当のことがわからないとよく言われる。広島・長崎、あるいは沖縄の人々に関しても同様のことが言えるのではないだろうか。原爆を投下され犠牲となった広島・長崎の人々にとり、加害者への恨みは一個人に対してだけでは済まず、加害国及び戦争に関わった全てに向けられてもいくのである。大変な人権侵害を受けた側にとり、その痛手や心の傷あるいは加害者に対する恨みは、永久的に続く。国家的犯罪とされる北朝鮮による悪辣な拉致事件問題が簡単に解決されないのも、日朝の過去の歴史がそうさせているのである日本の一時期において諸外国に対し甚大な被害を与え、その責任を我々も含め今も問われ続けているのである自分に直接、関わりのないことに対して、人はとかく鈍感になるものだ。しかしひとたび、わが身に害が及んで来たとき、安穏としていた自分が豹変してしまう場合もある。サカキバラ事件で殺害された土師淳君の父親もその内の一人だった。殺人は新たな殺意を引き起こすものであるということを噛み締め、「なぜ人を殺してはいけないのか」という一見子供染みた愚問のような問いにも、真摯に答える必要がある。

 ブログ流行りの昨今だが、その本質は「己の内なる欲望の部分解放」である。得てしてブロガーは異性の閲覧者を想定して、その内容や構成を考え創作に勤しむ。暫くして特定の閲覧者ができると、その相手の悦ぶ姿を想い描きながら、時間が経つのも忘れ作家に成り切る。相手の反応が創作のエネルギー源となっていく。その根源には、最終的には特定の異性閲覧者へ到達したいという、妖しい渇望がある。それと同様、人間の営みの諸相には、こうした異性を意識した単純動機が隠されている。性対象への渇望を考える際、フロイトの「リビドー」論は必要不可欠である。リビドーとは、性的欲望または性衝動のことであり、性的衝動を発動させる力である。一方、ユングは、すべての本能のエネルギーのことをリビドーとした。心的エネルギーであるリビドーは、人間の性を非常にバラエティに富んだものへと変換させる本質的な力と考えられている。全ての人間活動はこれの変形として表象される。特に文化的活動や人間の道徳的防衛はリビドーが変形し、もしくはそのリビドーから身を守るために自我が無意識的に防衛したものとして理解されている。

 エジプト女王クレオパトラは、古代ローマの礎を築いたカエサルとの性交渉を通して、崩壊する自国の政治的安寧を図ろうとした。中国三国時代、魏の曹操は呉の軍師の妻を奪おうとし、蜀・呉連合軍と天下分け目の「赤壁の戦い」で一杯血に塗れた。政治史を彩る男と女の性の攻防が、国の命運を左右しその興亡の鍵を握るファクターとなる。政治は性との相関により展開している、と言っても過言ではない。政治は「権力への志向」とともにある。権力志向はその者の「欲望」により形成される。欲望の基本的構成には、生理的なものと社会的なものとに分類されるが、前者の代表格は「性」的なものであろう。

 イギリスのビクトリア朝時代の厳格過ぎる道徳により抑圧され帯電した性エネルギーは、そのはけ口を資本主義に求め、爆発的生産及び消費社会の構築に発散していった。勤勉・禁欲・節制・貞淑などのピューリタニズムをベースとする価値観や道徳が強要されたのは、産業資本主義から独占資本主義へと高度化する過渡期でもあった。そうした資本主義の高度化が文化的諸事象にも強く影響を与えた。産業資本主義段階の終盤にあたるビクトリア朝の前半は、まだ労働市場が男性主体の時代に該当しており、女性は職場で疲れた男達を癒す家庭内存在として位置付けられていた。それが、イギリス経済が急成長するビクトリア朝後半の独占資本主義段階になると、女性の社会進出が図られ出し、ジェンダーも変貌する。そしてそれは、現代の男女共同参画社会と同様、「女性の労働(納税)者化」でもあった。女性の社会進出が、不特定多数の視線及びメディアを意識した動きやすく見せるファッションや、自己身体認識の変化へと繋がっていく。こうして過度の外見的美へのこだわりや、拒食症を伴う不健康な美の追求が、美的コンプレックスを利用し消費社会のマーケティングに絡め捕られることになった

 性は秘め事であり、いつしか抑圧される対象ともなる。抑圧された性は、エネルギーを蓄え、その解放を希求する。その解放過程が人間の様々な営みへと変容するのである。人類の文明史は、「性の抑圧により蓄積されたエネルギーの発散過程」と言えよう。人類史上、最も忌み嫌われた人物は、ヒトラーであろう。その彼は「同性愛」的傾向を指摘されてきた人物でもある。同性愛者であることを隠微するかの如く、エバ・ブラウンを愛人として側腹に侍らした。彼がエバと結婚したのは世を欺くためだったという説もある。この性的はぐらかし行為は、「割腹自殺」というセンセーショナルな終焉を演じ、後世に謎を残した三島由紀夫にも見受けられる。それは、『仮面の告白』の中に隠されている。男色同性愛者のミシマが、結婚生活という「仮面」を被ることで自分をはぐらかそうとしたのである。逆に同性愛者であることを臆面もなく晒け出したのは、構造主義の泰斗、ミッシェル=フーコーである。彼の思想形成には、二つの事が影響していると思われる。一つは、医者であった父親との進路をめぐる確執である。自殺未遂事件を起こすなどの精神的混乱は、こうした父親との関係が少なからず影響していたであろう。もう一つは、ニーチェである。フーコーの思想は、ニーチェの「力への意志」や伝統的価値の無力化の指摘に影響を受け、それをもとに、社会内で権力が変化する様々なパターンと、権力が自我に関わる様とを探究した。彼は、自分自身がホモ・セクシャルの同性愛者であったこともあり、人間社会とセクシャリティ(性関連事象)の歴史的変遷に関心を持って、権力・性的快楽・性の道徳規範の関係を歴史資料を元に論証した大著『性の歴史』を書き上げたキリスト教世界宗教となる以前のギリシアやオリエントの古代社会では、ホモ=セクシャリティの性行動や少年愛は貴族階級の一般的な性愛として社会的に承認されていた。何故、キリスト教倫理が支配的となる中世社会で、同性愛者は罪深い神への冒涜者とされ性倒錯者として排除されたのか、何故、産業文明が発達する近代社会で、ホモ=セクシャリティは蔑視や差別の対象になってしまったのかを精緻に理論化した。そして彼は、権力構造とは「国力の増強に繋がらず、共同体の存続維持を妨げる異質性の排除及び隔離」と捉えた。現代でも未だに根強い精神疾患精神障害)などに対する誤解や偏見が残存していて、うつ病統合失調症等の精神疾患に罹患したことをカミングアウトすることにより社会的経済的不利益を招くことが少なくないフーコーが看破した近代の資本主義社会における精神の病理とは、共同体の存続維持と発展繁栄に貢献するものを善、貢献しないものを悪とし、その存在が社会にとり有用であるかどうかを価値判断基準にするという、多分に功利主義的な共同体倫理であった

 「うつの時代」の今日、森田療法の対象者はべらぼうにふえている。森田はこれを治癒するには、何かの「執着」や「とらわれ」に陥っていることから解放させることが最も重要だと考えた。自分の理想と現実のギャップに囚われてばかりいるのではなく、「あるがまま」の自分を受け入れるほうがいいと判断した。彼の考え方には中国の老荘思想に共通する見解が見受けられる。老荘思想道家思想とも呼ばれ、老子荘子の考え方である。老子の思想の根本は「無為自然」である。「人為」を排した「自然」を重要視する。人は、大人になるに従い概ね人為に絡め捕られてしまう。その挙げ句、生き苦しくなるものだ。それに比べ、未だ成長の見られぬ「子供」や原初的段階の「赤子」には、素直で人為(=嘘偽り)がなく、その赤裸々な生き様には屈託も見受けられない。「赤子」には人為的「生き方」はなく、あるのは正しくその「生き様」であり、「有り様」のみなのだ。また森田の考え方は、結局のところニーチェ思想に通底する。ニーチェは「偽善」を嫌った。偽善は「キリスト教」そのものであり、「他者」への愛である。道徳的なるものの本質は、「建前」であり、それは「嘘」なのだ。彼は偽善に対する猜疑心を絶えず研ぎ澄ませた。そうした彼には、嘘で覆われた物事は軽蔑の対象でしかない。しかし、ニーチェは、魔性の女「ルー=ザロメ」の魅力に嫉妬した。彼を無力化(=骨抜き)するほどの得体の知れぬ魔力。その所有者である彼女にメロメロになってしまった。非凡さに更に研きをかけたものが、彼女に対する嫉妬心であった。それが創造力の源泉となった。彼女を独占することが可能であったなら、「ツァラトゥストラ」の誕生はなかっただろう。彼女に翻弄されたニーチェだったが、「欲望」の獲得挫折が、人の潜在能力を呼び覚まし、芸術なるものが創造される。ルー=ザロメの魅力は、ニーチェの非凡な能力を開花させる触媒であったのだ。彼の狂気にも似た才能は、彼の性的嫉妬によりアウフヘーベンされたのだ。ニーチェを袖にしたルー=ザロメは、ショパンが恋した永遠のジョルジュ=サンドと比肩され得る。両者の共通点は、関係する男性の能力を高めたことである。男性能力とは、性機能というより文化的創作能力である。ザロメに失恋したニーチェは、その絶望により彼の代表作「ツァラトゥストラ」の創作に着手する切っ掛けを掴んだ。これは、性交渉の途絶による反動が、芸術創造に関わった象徴的事例である。ショパンも、自分にはないジョルジュ=サンドの自由奔放な生き方に触発され、彼の文化的創造力を大いに掻き立てられることになる。ショパンのサンドに対する求愛行為を逆撫でするような彼女の男性遍歴が、ショパンの嫉妬心を燃えたぎらせ、それにより彼の偉大な作曲活動が増幅されたのであった。エミリー=ブロンテの傑作『嵐が丘』で描かれた人間の根源的テーマも、ニーチェショパンが翻弄された、異性に対する「嫉妬心」が引き起こす「エネルギー」であった。

 森田療法と共鳴するニーチェ思想の根本は、「近代」を超克することであった。ニーチェ自身及び彼の思想にも矛盾は内包されていることは否めないが、彼はそうした自身に巣くう「内なる諸矛盾」をも含め、ポスト近代という精神革命を意図したのではなかったか。ニーチェに感化されたろうヒトラーにも、自身における内部矛盾の相剋が見受けられる。あるがままを称揚する「権力への意志」を滾らせ、ドイツ第三帝国という夢物語を芸術家気取りで「超人」として夢想した。そうした彼の政治活動に「ホモ=セクシャリティー」という、あるがままの姿を隠そうとする「性の倒錯」が多分に関連していると、私は見ている。ニーチェとともに実存主義の双璧とされるキルケゴールにも、ショパンと何かしら共通した雰囲気を感ずる。それは、屈折した優男。しかし、その優男達は屈折した精神をバネに、不朽の名作を世に残すことに成功した。彼等の屈折は、両者とも思い通りにならぬ女性との関係に起因すると考えられる。キルケゴールは、恋人との破局が余りにも有名だ。彼女を独占することから起こる罪悪感。キリスト教信者としての敬虔さが、恋愛の持続を妨げる仇となった。そして、彼の最後は路頭に迷い、雪道に倒れ昏睡するという悲業な結末であった。いわゆる野垂れ死にである。世間一般からは不可解にしか映らなかった一方的婚約破棄。そのことを切っ掛けに晩年、彼は社会的批判を一身に浴びながら、そうした近代社会及び近代人を懐疑し対峙格闘したのであった。存命中には、全くと言っていいほど相手にされなかったキルケゴールであったが、彼の近代に対する慟哭の意味するところは、死後一世紀を待たねば理解されるようにはならなかった。彼が生前書き残した著書には、生前の繊細でか弱い女性的印象を完全に払拭するかの如き思想が隠されていたのであった。

 ニーチェとともに実存主義の双璧とされるキルケゴールにも、ショパンと何かしら共通した雰囲気を感ずる。それは、屈折した優男。しかし、その優男達は屈折した精神をバネに、不朽の名作を世に残すことに成功した。彼等の屈折は、両者とも思い通りにならぬ女性との関係に起因すると考えられる。キルケゴールは、恋人との破局が余りにも有名だ。彼女を独占することから起こる罪悪感。キリスト教信者としての敬虔さが、恋愛の持続を妨げる仇となった。そして、彼の最後は路頭に迷い、雪道に倒れ昏睡するという悲業な結末であった。いわゆる野垂れ死にである。世間一般からは不可解にしか映らなかった一方的婚約破棄。そのことを切っ掛けに晩年、彼は社会的批判を一身に浴びながら、そうした近代社会及び近代人を懐疑し対峙格闘したのであった。存命中には、全くと言っていいほど相手にされなかったキルケゴールであったが、彼の近代に対する慟哭の意味するところは、死後一世紀を待たねば理解されるようにはならなかった。彼が生前書き残した著書には、生前の繊細でか弱い女性的印象を完全に払拭するかの如き思想が隠されていたのであった。

 

 三島的なるものは、映画人にも見受けられる。それは、ブルース=リーである。三島のタナトス的在り方を、ブルースは格闘技世界で模索していた。彼は日本の宮本武蔵に惹かれていたという。武蔵も、武士道世界のなか求道者として、理想と現実の狭間で苦悩していた。我々の人生は、概ね、理想と現実の狭間で相剋し煩悶する。理想と現実が乖離する場合、タナトス的在り方を求める度合いが強くなる。その道に真剣に立ち合う者ほど、その理想は高く、孤高の存在者となる。通常の者は、理想と現実の両者が妥協し、その距離が近接する。無限に続くハードルを乗り越えなければ、求道の先にある自分に見合う理想(自由世界)には到達できない。勢い求道過程でタナトス的在り方を見出し、ワープしようとするのではないか。ナルシズムも、そうしたなかで引き起こされる。マイケル=ジャクソンにも、そうした傾向がなかっただろうか。人類史は文明化の過程でもあり、それは、自然との関係史とも言えよう。自然を改変し続ける人間は、自身が自然の一部であることを忘れ、何時しか、自分の心身をも改変しようと試みる。そうした現代人の最先端に、彼は立っていた。彼は地球だけでなく、月面にも立とうとしていた。ムーン=ウォーカー、マイケルの死は、機械化が日常化する今を警鐘している。その動きは正に機械だった。人間と機械の越境化だけでなく、人種のフュージョンも実体験しようと整形を重ね、何時しか、タナトス的マシーンに「トランスフォーム」して-しまい、本当の自分が分からなくなった。機械化が日常的となる現代だが、そうした流れに抗うことが、真のターミネーター(抵抗器)であるはずだ。国家においても、理想と現実の狭間に苦悶し続けている姿が垣間見られる。それは、中国である。社会主義という政治的理想を掲げながら、現実的経済で資本主義を謳歌している。ここ数年における中国の躍進には目を見張るものがある。そしてそれが映画の話題作にも表れている。「アバター」では中国が侵略者の汚名を被ったと、抗議が起こったというが、最近の映画作品には、躍進する中国が皮肉られてよく作中に描かれる。「2012」の中にも、地球最後の日を目前にして、人類を救う現代版「ノアの方舟」まがいの巨船建造を手掛け、サバイバルを図ろうとイニシアティブをと-る大国中国の姿があった。冷戦崩壊後、現実的資本主義に取り込まれる国が大半を占めるなか、社会主義という理想をかなぐり捨てない中国は、孤高の国として残り続けることができるであろうか。今後、理想と現実の齟齬のなかで、タナトス的在り方をとろうとする中国が危惧される。

 

 エジプト女王クレオパトラは、古代ローマの礎を築いたカエサルとの性交渉を通して、崩壊する自国の政治的安寧を図ろうとした。中国三国時代、魏の曹操は呉の軍師の妻を奪おうとし、蜀・呉連合軍と天下分け目の「赤壁の戦い」で一杯血に塗れた。政治史を彩る男と女の性の攻防が、国の命運を左右しその興亡の鍵を握るファクターとなる。政治は性との相関により展開している、と言っても過言ではない。政治は「権力への志向」とともにある。権力志向はその者の「欲望」により形成される。欲望の基本的構成には、生理的なものと社会的なものとに分類されるが、前者の代表格は「性」的なものであろう。 イギリスのビクトリア朝時代の厳格過ぎる道徳により抑圧され帯電した性エネルギーは、そのはけ口を資本主義に求め、爆発的生産及び消費社会の構築に発散していった。勤勉・禁欲・節制・貞淑などのピューリタニズムをベースとする価値観や道徳が強要されたのは、産業資本主義から独占資本主義へと高度化する過渡期でもあった。そうした資本主義の高度化が文化的諸事象にも強く影響を与えた。産業資本主義段階の終盤にあたるビクトリア朝の前半は、まだ労働市場が男性主体の時代に該当しており、女性は職場で疲れた男達を癒す家庭内存在として位置付けられていた。それが、イギリス経済が急成長するビクトリア朝後半の独占資本主義段階になると、女性の社会進出が図られ出し、ジェンダーも変貌する。そしてそれは、現代の男女共同参画社会と同様、「女性の労働(納税)者化」でもあった。女性の社会進出が、不特定多数の視線及びメディアを意識した動きやすく見せるファッションや、自己身体認識の変化へと繋がっていく。こうして過度の外見的美へのこだわりや、拒食症を伴う不健康な美の追求が、美的コンプレックスを利用し消費社会のマーケティングに絡め捕られることになった。 性は秘め事であり、いつしか抑圧される対象ともなる。抑圧された性は、エネルギーを蓄え、その解放を希求する。その解放過程が人間の様々な営みへと変容するのである。人類の文明史は、「性の抑圧により蓄積されたエネルギーの発散過程」と言えよう。

 
 

第三話 「戦争(暴力)」について

 

 私は時折、年老いた父の住む家へ足を運ぶ。その父の傍らには、一枚の古ぼけた写真が飾られている。それは、軍服姿で軍刀を真ん中に携え、こちらを威嚇するが如く見詰め端座する、父の若かりし日のスナップ写真である。私はそれを見る度、父の心のなかに占める戦争の記憶の大きさ・重さ、そして悲しさを痛感するのだ。これまで父と戦争中のことについて語り合うことは何度もあった。しかし、父の方から私にあの時代や戦争について、あまり語ろうとはしなかった。そんな父に対し、かつて私は、「オヤジにも戦争責任がある」とか、「こんな写真を見て、結局は戦争を美化しているのと違うか」などと言ったりして、概ね次のような口論が続いた。「そういうお前みたいな利己的な輩が、戦後、やたらに増え続け社会の荒廃に拍車をかけているんやないか。みんな砂のようにばらばらで一体、何を考えとんかわからん。わしは、物質的には豊かになった今より、挙国一致で何かのために命懸けで結束していた戦争中のほうがまだましやったんやないかと、ふと思うことがある。自分の命を犠牲にしてまで、何かのためにまっすぐに生きていくってどういうことかわかるか。自分より他人のことを考え実行した特攻隊員の方々の自己犠牲こそ、今の世の中に一番欠けていることやないか。現在の社会的問題となっているモラル・ハザードは、戦後民主主義の産物である個人主義に胡座をかいてきた帰結なんやないか」、「かといって復古主義的風潮を是とする考え方は、かえって危険なナショナリズムに糾合されてしまうばかりだろ。 偏狭なナショナリズムが若者をはじめとして台頭していることを危惧するよ。ナショナリズムには、全体に対しての個人の自己犠牲が絶えず付き纏う。一人ひとりの私的なるものより国家などの公共的なるものが至上とされる時代に逆行するなんてもう御免だよ。特攻隊員はそんな時代潮流の中で生死を翻弄され、正しくそんな時代の犠牲者となったんじゃないのか。関行夫氏が特攻一号として軍神に崇められているなんて、同郷人として複雑な思いだよ」、「それはどういう意味や。特攻で散華された方々に対して余りにも失礼な言い方やないんか。愛する人達と共に生きたくてもそれが許されず、死出の旅路しか選択できない人の心根を少しでも考えたことがあるんか」特攻で死にきれなかった隊員は、その後の人生を狂わされただろう。絶えず生死を賭けたギリギリのところに身を置く非日常を旨とした場合には、かえって苦渋に満ちた永遠の時間に曝されていく。そこには、死ぬこと以上に苦しい生の連続が待ち構える。父は「お前らには、何言うても、わからへん。あの時代は、そんなお前らが簡単に言うて済むようなもんやなかったんじゃ」と繰り返し、平行線のままジェネレーション=ギャップを募らせていた。そんな二人であったが、最近、私の方が、父に理解を示し出した。「何でもありのモラル=ハザードが進行するこんな時代より、オヤジの戦争中の方が考えようによると良かったかもしれんな。不幸のなかでも人間としては何かのために尽くそうという目的意識があり、その意味では生き甲斐があったんやなかろか。感謝を忘れた今の日本は、みんなエゴイストばかりで、バラバラやけんな」と言うなど、ちょっと危ない傾向も無きにしもあらずなのだが。

 

 過去、辺境に位置付けられた日本人の意識に、中国や欧米諸国に対する劣等感が醸成され、その反動としての近代化路線が中国・朝鮮半島への侵略へ、そして欧米諸国との覇権争いへと高じてしまった。福沢諭吉脱亜入欧論は、日本人及び彼自身のコンプレックスの裏返しだった。日本(人)は、古来からほぼ同様のパターンで、コンプレックスの克服に翻弄され続けてきた。聖徳太子も中国との冊封関係による劣等国から離脱するために、中国仏教を日本に取り込んで文明化することに成功し、中国の支配から抜けようとした。そして、敵に勝つためには、まず敵のことを熟知しなければならないと言いながら、敵と同じムジナになってしまう。福沢の主張した脱亜入欧論をベースに大東亜共栄圏構想を実現するべく、中国侵略という覇権の歴史へと邁進してしまった。さて、福沢の脱亜論にしても、その背後に幕末維新期の欧米列強に対する相当の恐怖があるように思える。現代のアメリカにもそうした恐怖はないだろうか。9.11以降、要するに世界中が「お化け屋敷」となった。恐怖を司る側はそれに操られ翻弄する側の姿に快感を憶え、ついつい仕掛けはエスカレートしていくものだ。恐い者知らずが横行し、モラル・ハザードが進行している現代においては、恐怖は必要とされるものかもしれない。私は怖がりの性分で、「お化け」は苦手である。この苦手意識の克服策は、逆療法しかないのかもしれない。基本的には恐怖に浸る状況に身を曝せながら、恐怖を相対化させようとする森田療法的方式とでも言えるだろうか。しかし、「恐怖からの自由」が却って生死に対する感覚を鈍麻させ、新たな問題を突きつけることにもなる。死の恐怖の克服により、世界屈指の軍隊を作り出すことを可能にさせた大日本帝国などはどうだろう。感覚鈍麻のなかで、自身の実力を錯誤させ破滅への道を辿らせることにもなる例が、その他にも見出される。ベトナム戦争中、米軍が、兵士にビデオで残虐シーンを見せ続け、殺戮行為を容易にさせるトレーニングをしたことなどもその一つではないか。常勝アメリカもベトナムには結果的に敗北してしまい、その後遺症が尾を引いている。敗北恐怖症とでも言うか。恐怖の克服が、死をも恐れず暴走する輩を駆り立て、戦争の歴史を繰り返させることにもなってしまう。恐怖の克服は、核抑止をも上回るというシニカルな結果を招くことすらあるわけだ。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中に生きてはいない。刀に対するある種の恐怖を通し精神修養や修行がなされるとするならば、「戦争」という恐怖について考察することは、堕落した日常を戒めるためにも必要なことである。

 

 生き甲斐の完全に喪失した状況のなかでも生き続けるということの何という虚無感。昨今の此処彼処で嘯かれる「生きる力」なる造語は、平和惚けで空中浮遊する日本社会の風潮を象徴するものである。軽薄で脆弱な実感の得られない時代のなかで、空念仏「生きる力」の大合唱に繋がっているようでもある。特攻を余儀なくされ散り逝った「海神の声」に耳を傾け、死ぬこと以上に苦しい生の連続が待ち構える神経難病ALS患者の余りにも重厚なその一瞬をイメージすることから始めなければならない。さて、死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、「宮本武蔵」であるが、彼の真骨頂は、その「強さ」というより、恐怖心との対決を終生の課題としたことではないだろうか。「葉隠れ」に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあるが、彼もいつか自分が敗者となり、死ぬ時が来るであろうことを、絶えず予期していただろう。だが、その覚悟ができない場合、死にきれなくなることも起こり得る。そうすると、とにかく勝ち続けなければならない。ひょっとして、無敗の武蔵は、「負ける(=死ぬ)こと」に対する異常な恐怖心につきまとわれていたのかもしれぬ。我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。「恐怖」を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界という「お化け屋敷」のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も「武士道」における「刀」の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。それは、自衛隊の存在価値を考える場合である。自衛隊は刀という「暴力」装置であるが、戦後、その刀を決して抜かぬよう「武士道」を心掛けてきた。しかし、暴力世界という現実に翻弄され、「武士道」に押し潰されることから逃避しようと抜刀することで自身の弱さを誤魔化した。アメリカが仕掛ける「大義なき戦争」への逡巡は、我々が果たして「ラストサムライ」に成り得るかどうかの踏み絵であった。

 

 私自身かつて何度か体罰を行使した過去を持つ。そのほとんどは、自身の弱さの裏返しの感情的表明であった。見て見ぬふりのなあなあ関係が、かえってお互いの距離を隔てさせ、モラル低下に歯止めが効かなくなる場合がある。また放縦的関係性の継続が、質の悪い苛めに繋がったりする。感情的爆発でお互いの馴れ合い関係を瞬間的に壊した方が、言葉を駆使してその場凌ぎをするより後腐れがなくて良いこともある。「金八先生」も、昨今のモラル=ハザードに、その教師像を変容せざるを得ないのである。慇懃無頼な輩を野放しにする偽善的人権擁護論が後を絶たず、教育荒廃に拍車を掛ける。死刑廃止論を追い風に犯罪者が跋扈し、悪事に抑止力が全く機能しなくなりつつある様相が随所で展開中だ。そうした中、慇懃無頼な輩を野放しにしたモラル=ハザードの現代において、死刑廃止論は未だ大勢を占めない。このような現実世界の中で、湾岸戦争イラク戦争が展開し、世界中がそうした戦争を黙認したのだろう。

 

 歴史は恐怖との対峙の展開である。恐怖を司る側とそれを余儀なく被る側が社会を形成し、その体制からの逃避を「自由」や「平等」という価値で模索してきた。恐怖の典型は「死」であり、死は即ち「未知」ということである。簡単に言うと「分からない」領域である。その領域をめぐり宗教が人類史と伴に並存し、「神」なる精神安定装置を創出し、不安定からの逃避の歴史を繰り返してきた。ショウペンハウエルも「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。老後に生き甲斐を無くした者は、老いを加速させるものである。目的喪失は「死に至る病」であり、逆に目的保持は生きようとする欲望を喚起し、それが強ければ強い程、生命に活力が注入される。プラトニズムにしても理想を高く掲げ、それを追求し続けるなかで生命力を輝かせようとするのであり、我々はその虜になり、文明史を形成してきた。そして、死に伴う精神的・肉体的苦痛から解放してくれる文明という名の快楽を追求してもきた。その最先端にアメリカニズムがあり、核抑止も付随する。「毒を毒で以て制す」ならぬ「恐怖を恐怖で以て制す」という構図が、ハンムラビの「目には目を」の応報主義法典から抜け出せず、相も変わらずDNAの如く受け継がれてきた。

 

 その恐怖の構図への挑戦を仕掛けたのがイエスであろう。その変態的姿勢を敢えてとり続けられるなかで、相手は自己矛盾に苛まれ自壊作用を来すのである。キリスト教古代ローマ帝国との関係において、それは如実に示された。近代以降においては、ガンジーの非暴力・無抵抗主義をバックにしたインドと大英帝国との関係が正しくそれである。現代では、憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、それをじっと我慢しているわけだ。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が現在のわが国である。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華されるようになったのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、結局ニーチェの指摘したルサンチマンを基盤としている。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑であるとか、ウォーラーステインの「世界システム(資本主義)論」を照合しつつ問題分析なり検証をしていかなければならないが、そうすることによりかえって「表象の世界」を合理化してしまうおそれがある。

 

 我々の社会構造の至る所に、競争の原理は仕組まれている。そして我々が現実の競争社会を生き抜いていくなかで、条件反射的に常用してきた言葉は「努力」である。M=ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかでも指摘されているように、プロテスタントの宗教心の根幹をなす勤勉・努力というエトスが、近代以降の資本主義社会の構築に多大な影響を与えてきたことは、よく言われるところである。さて、その「努力」なる言葉の背後にあるものは、一体何なのであろうか。努力を怠ると、忽ちその先には奈落が待ち構えている。そうした「共同幻想」を味わいたくないという「恐怖」を、我々は日々掻き立てられ日常生活を余儀なくされている。しかし、この努力の遠い先に待ち構えているものは、何であろうか。それは、努力により期せずして獲得された覇権主義核兵器保有論ではないだろうか。さて、奈落の底は、我々にとって苦痛となり、その逆の覇権や核保有は、幸福となるのであろうか。

 
 

第四話 「教育」について

 

 偽装教育へのバッシングは、高校世界史未履修問題なで扇情された。そして教育基本法改定に、そうした世間の風潮が利用された。学習指導要領を印籠の如く振り翳し、教育への権力介入を牽制する教基法第十条を改定するのに、まんまと成功したのだ。だが、高校世界史未履修問題など、ほぼ全国的詐欺紛い行為が大昔からなされていたのなら、指導要領逸脱行為を黙認してきた文科省担当者が責任をとるべきで、それを現場の校長や平教員に責任転嫁するだけでは済まされぬ問題であった。結局、これらの問題を通して浮き彫りにされたのは、文科省の下部組織である教育委員会が全く機能不全に陥っていることが再確認されたことだった。

 

 教師にとり生徒指導は教科指導と同様、教師の資質を図る上で重要な要素である。生徒指導がきちんとできる教師は、学校社会の中で一目置かれる存在となりうる。それができない場合は、生徒からも軽視されてしまうのが常である。しかし、そうした教師像を信仰することが、学校社会を歪める一因ともなる。生徒と教師の関係は水平的関係性と垂直的関係性の織り成す微妙な彩で成り立つものである。前者の関係がほとんどの場合、秩序維持が図りにくくなったり、最悪の場合は学級崩壊の憂き目にあうかもしれぬ。しかし、後者のなかで表層的に整然と秩序が保たれている場合は、より気を付けなければならない。それは生徒の本音や意見を吐き出すことができないからだ。北朝鮮大日本帝国下の人心を想起すればわかるだろう。

 

 明治以降、近代日本の国家目標は欧米列強に追い付き追い越すことを只管、模索してきた。そのために、富国強兵・殖産興業を国是とし、その達成に向けた社会的基盤づくりのための教育が要請されてきたのである。強力な中央集権国家を形成するうえで必要不可欠のエリートを、国家的威信を背負い設立された東京大学にスポイルし、福沢諭吉の「学問のススメ」をうまく利用しながら学歴信仰社会を構築してきた。日本の教育問題の根っこの部分に、東大を頂点とする知のヒエラルキーとでもいうべきピラミッド構造と、結局そこから抜けられない学歴偏重主義の呪縛とが厳然と横たわる。そして旧態依然の東大解体論などの大学改革論が叫ばれたりするが、行政改革が口先だけの大号令に終始するのと同様、既得権益を死守したい輩の大勢いる大学内をそう簡単には変えられない。また、大学改革だけで済むような問題でもなく、元を辿っていけば、日本人の学歴信仰のルーツを探るべく、それこそ、福沢諭吉などが関わる近代史をみなければならなくなってしまう。更に、福沢の思想に影響を与えた欧米の近代合理主義までをも検証しなくてはならない。近代合理主義は理性的なものに価値を見出し、反理性的なものには価値がないとする見方だ。実利的・機能的でないのは非合理的となる。結果オーライという言葉も合理主義的用語の典型で、結果が良ければ手段化された過程も合理化される。結果良ければ全て良しで、それは目的のためには手段を選ばずという考え方にも繋がる。強力な国家は、精強なる軍隊と暴利を貪る産業界の存立に支えられ、更に企業は優秀で従順な産業人により成立する。近代化路線を強力かつ性急に展開したわが国は、それに必要な教育制度の確立が必要不可欠であった。よりよい産業人を養成するための教育指針が、日本文化の骨子である集団主義をもとに設定され、それがわが国の学校教育全般を今日まで規定し、様々な諸問題を派生し続けてきた。組織力を上げるためのトレーニングが集団主義教育のあらゆる局面で展開され、効率的な学校運営が文教行政のもと指導徹底化されてきた。国家の教育指針を司る文科省は各地方自治体の教育委員会を、教育委員会は各学校を統括し、上意下達システムが強固に形成され、そのシステムのなかで日本資本主義を担う従順な産業社会人が大量生産されてきた。特に経済立国の基盤を確立する高度経済成長期、東大を頂点とした教育界におけるヒエラルキーが磐石となり、日本では東大出身の学歴が最高の名誉であり価値であるとする見方が社会通念となった。そして、冗費問題など、その組織の著しい腐敗が指摘されて久しい官僚が、日本の閉塞社会の病巣とまで言われた。そうした官僚を輩出してきた日本の教育も、その元凶の一つとして批判対象とされる。

 

 高度経済成長を遂げた70年代後半以降、校内暴力、いじめ、不登校、そして学級崩壊が起こる。さらに少年による凶悪犯罪が相次いだ。こうしたなかで教育改革が急務とされ、そのスローガンも「人間性豊かな児童・生徒の育成」、「自己教育力」、「新しい学力観」そして「生きる力の育成」と変わってきた。1980年代には、中曽根内閣の臨時教育審議会が「学歴社会の弊害の是正」などを答申し、これを受けて文科省はその後、「ゆとり教育」への転換を図った。「生きる力」を掲げた総合学習の創設により、授業時間の削減など日教組が長年追求してきた「ゆとり教育」が、文部科学省の推奨のもと実行された。これは、プラザ合意後の日本経済における内需拡大策の一環として導入された週5日制との連動であった。しかし学力低下への批判から一転して「授業時間を増やし、総合学習を減らす」という方針転換が迫られることになった。そうした朝令暮改的方針転換に、現場は大混乱する。

 

 教育が様々な問題の源泉に位置付けられ、教育論が百家争鳴の如く展開されているにもかかわらず、なかなか日本の教育に明るい展望が見出せない。その国の教育の目指すべきものが、その国の行く末を暗示するものであり、逆に国家の掲げる目標が必然的に教育に投影される。近代以降の父性原理が現代社会における環境問題等の背景として、母性原理の見直しが叫ばれる一方、モラルなき社会の立て直しのため父性の復権を求める声も上がっている。林道義氏による同名の著書『父性の復権』のなかで、節操なき現代社会を招来させた一因に、戦中派の敗戦体験による精神的葛藤が関係しているとし、そのコンプレックスが権威を無下に否定する団塊世代に影響し、さらには宇宙人的な団塊ジュニアを輩出したと述べられている。そして、このような父性をもって育てられなかった世代、すなわちマンガ的「無脊椎人間」が大勢を占めるなか、社会の退廃化が進んでいるのであって、それを押し止めるには「ものわかりのいい父親」への逃避癖を改めなければならず、健全な権威を備えた父親が必要であると強調する。林氏の指摘はある意味で戦後民主主義が日本の教育に与えた功罪を問うものであり、戦後日本の教育問題を考察していく上で示唆を与えている。戦後教育の精神的支柱の一には子供主体の自主性を尊重し押しつけを排す欧米型自由主義的教育論があり、それに対し、それまでの儒教的教育は非民主的・非合理的なものであると見做され、軽視されてきた。そして忠孝礼節などの徳目は、戦後半世紀の間、過去の戦争を想起させる負のイメージとして、絶えず我々の脳裏にすり込まれてきたのではないだろうか。

 

 戦後教育は、自主性なるものを尊重するあまり、嫌なことから逃げることまで肯定するハメになった。スパルタ教育はアナクロニズムとなり、自己決定や自己教育力の名の下に、一方的働き掛けを否定的と捉え、真正面からの関わりを極力避ける。それは、指導困難者を相手にせざるを得ない側からすれば、都合のいい逃げ口上ともなる。カウンセリングにおいて、カウンセラーは常に受容的態度が常識とされ、子供の自発的行為をひたすら待ち、彼等を受容しようとする。そうした子供達に対する大人のおもねりが、彼等を誤解させ我が儘にさせる一因ともなる。欲求は与えられ過ぎると充足し希薄化する。従って逆療法的に欲求不満状態をつくることが、解決策になることもある。自分の好きな物だけ偏食していると、健康を害し病気になる。嫌いな食べ物には、栄養豊富で病気を防ぐものが多い。そうした嫌な食べ物を摂取していくことが、健康維持に繋がるものだ。そうすると、子供達におもねた教育環境が、果たして善であるのかということなのだ。

 

 教師は、生徒の赤いマフラーや靴下に反応し、教育上、好ましくないと注意する。そして白色のものが好ましいと指導しようとする。こうして、色に対する偏見が学校教育で植え付けられ、小さい頃から、色に関するマインドコントロールが潜在意識のなかにすり込まれる。それは、某カルト集団のやってたことと等しい。その合法的マインドコントロールが、学校というサティアンで日々イニシエーションされていく。教師は、自分の心の色まで真っ白に染め上げる。純白の鳩が平和を象徴するように、白色は世界に好ましい色と認知されていると合理化する。国際的公共の福祉に合致した、すなわち教育上、好ましい色だと。だが、白は白人の黒人をはじめとした有色人種に対する優越感を誇示する色でもあるのだ。学校も暗に差別を前提にしているところとなる。そう考えると、理不尽な学校での日常生活もそれなりに理解できる。管理上、都合のいい色を押し付けるなかで、その色に染まるようなカメレオン的生き方在り方が是とされ、それ以外の色は疎外の対象となる。生徒もオリジナリティー微塵も感じられぬパフォーマンスで応戦する。それを自己主張と錯誤して。一時期、大流行して教師を悩ませた茶髪。欧米人の真似をしてまで、アメリカニズムに迎合する彼・彼女等の精神の痴態は、棄民化思想とも通呈する。今の世の中、殺人や自殺が後を絶たない。このままだと、いずれ日本列島は軽くなり過ぎて宙に浮き、最後は空中分解するかもしれぬ。そうした中、利己主義者が蔓延していると、教育基本法を改定してまでも道徳教育を重視し、公共心の育成を図ろうとしている。日本社会はそのレベルにまで落ち込んでしまったのか。「なぜ人を殺してはいけないのか」とぬかす輩も居たりして、モラルがどんどん崩壊している現代だから、ガイドラインが必要なのだと。「在り方・生き方」というキャッチコピーも、現代の利己主義的風潮を諫めるためのキーワードとして、昔の古き良き時代を再考しようという切り札的言葉として喧伝された。しかし、生き方・在り方と言われても、何か道徳の押し付けのような胡散臭さが付き纏う。生き方より今は死に方の方が問われる時代だろう。超高齢社会だし、やはり生き方より死に方が大切だ。ソクラテスは「悪法も法なり」と、堕落した衆愚政治への警鐘を、自身の死でもって示そうとしたし、生き方はやはり死に方と深く関わっている。イエスとて脳死臓器移植だの遺伝子治療だの、やたら自然に反逆するかの如き、生命への畏敬の念をかなぐり捨てる延命操作には、頭を傾げることだろう。生き方・在り方を言う前に、政治家達にまず見本を見せてもらいたい。国民にこうあるべきだと言う前に、ちゃんと襟元を正して欲しい。政治家のモラルが一番問われる。何処かの国の元大統領なんて、言い掛かりを付け不正義の戦争を仕掛けてふんぞり返っていた。在り方・生き方と言うよりも、世界の在り方がどうしようもない状態ではないか。政治家は、きちんとした言葉使いが必要だ。言動に無責任な彼等の言葉の乱れが、学校をはじめとする乱れた現代社会の背景にある。  教師が命懸けで守るべきものは、決して得体の知れぬ学校文化ではない。教師は「服装の乱れは心の乱れにつながる」とよく言う。人を見掛けだけで判断してはいけないと言いつつ、パッと見の外観で判断しがちだ。見掛け倒しというように、外観は立派だが内容が伴わないこともよくあることで、そうした唯物論的なものの見方が誤解や偏見を生む。生徒がピアスなどをしているのは、そういう現実に対する細やかなレジスタンスであり、そういう目に見えない生徒の心の襞を、教師の心の目で汲み取ってもらいたいという、せめてもの表明なのだ。だが、何だかんだと時代に合わせて機能的に変えていきさえすればいいのでもない。社会が余りにもだらしなくなってきてるぶん、学校文化は保守すべきものなのだ。こうした考え方は、多分に復古的で、超保守的な危うさと裏腹だ。そんな自分を犠牲にしてまで守らなければならないような文化とは何なのか。犠牲と言えば、宇和島徳州会病院での臓器移植問題に関してはどうだろう。臓器提供者は自己犠牲のなかで他者を生かすと言いながら、臓器売買をめぐり金銭的問題の腐臭がしてならない。最愛の人が臓器移植をしなければ生きられないとなった場合、そんなことを言ってられるのか。そう言う者に限って金銭に物を言わせ助けようとするんじゃないか。やはり、生命すなわち生死を科学文明で操作しようとするのは、神への冒涜であり自然の法則に反することだ。脳死を人の死とする考え方は、プラトンデカルトのように二元論を基にする西洋的な発想であり、アニミズムなど日本の古来からの考え方を否定することになる。生き方より死に方が大切なのか。イエスだって脳死臓器移植だの遺伝子治療だの、やたら自然に反逆するかの如き、生命への畏敬の念をかなぐり捨てる延命操作には、頭を傾げるだろう。しかし、犠牲の精神を旨とするイエスならば、自分の腎臓を一つだけでなく両方とも切除させて与えるかも。しかも無償で。正しく右の腎臓を取られたら、左の腎臓も取らせなさいと言うだろう。

 

 教育には、何かを目標にして、それに近付くための努力に最大の価値を置く。しかし、それが強調され過ぎると、様々な問題に繋がるのも事実だ。その背景として、教育と資本主義システムとの絡みが指摘される。その一例が、スポーツ界のドーピング問題だ。薬物を使用してまでも勝利至上主義に拘り、肉体改造に勤しみながら、資本主義システムの虜となる。より高く、より速くという言葉に翻弄され、教育が資本主義システムによって歪められる。高校野球はどうだろう。都合のいい資本主義の道具と化し、そのシステム維持に利用されてはいないか。甲子園を目指し甲子園に出ることは、プロ野球への登龍門と裏腹なのだ。高校野球は学校教育の一環というが、野球用語には併殺プレーや盗塁など、殺す盗むという言葉が随所で使われる。高校野球を崇高なものと持て映やし、夏の甲子園は日本の風物詩となり、全国が振り回される。また、野球用語の犠打は、犠牲の精神を含み、。チームワーク宜しく滅私奉公的精神を強調する高校野球は、日本型資本主義システムを堅持するためのキーワードとなり、全国的に支持され、そして利用される。高校野球に心血を注ぐ監督が大勢いるが、結局、彼等は自分の家庭を正しく犠牲にしてまでも、資本主義システムを守らんとする先兵なのだ。負けて惨めな思いをする敗者を見下ろし、優越感と勝利の美酒に浸る。頂点に立ち、その他大勢のなかで独り勝ちをする監督(覇者)は、独占資本主義を支える存在なのだ。だが、単なる動物界の食物連鎖的ピラミッドシステムとは違うものだ。弱者は切磋琢磨して力を付け、努力せず胡をかく強者に取って代わるという、要するに下剋上的仕組みであり、競争のなかで緊張が維持され、お互いが活性化できる仕組みだ。固定化された身分差別的仕組ではなく、努力の有無により上下関係が決まる。最終的には、努力をするかしないかを価値判断の基準にするということだ。オリンピックが肉体世界の競争なら、精神世界のそれが知のオリンピック、ノーベル賞だ。それを無理に頑張って、機械に近付こうとしているのが現代じゃないか。人間自体がどんどん機械化していくのが恐い。三島由紀夫にも肉体と精神の一致を求めながら、結局その齟齬に悩み苦しんだ形跡が見受けられる。彼がボディービルで肉体を鍛え上げその肉体に見合う精神を模索し、挙句の果てに自らを腹切りへと追い込んでいったのと同様、現代は己れの肉体をマシーンの如くヘンシーンさせ、限り無く無機質なものにしようとしている。しかし、文化防衛論を展開し割腹で大和魂を実践化したかにみえた三島も、その理想とした肉体は古代ギリシアの彫像群であり、その精神もプラトニズムの範疇から逸脱するものではなかったように思えるのだ。だが、こうして試行錯誤している頭でっかちな人間を創造したのも、要するにプラトニズムの結末だろうか。ほとんどが猫背で腰が引けた姿勢になって塾通いする最近の子供達の姿を見るにつけ、心体のアンバランスというか不一致の兆候を強く感じる昨今でもある。もうそろそろ、学校体育に携わる先生方の認識も、変えたらどうか。今の自分の姿を尊重した体育ということだ。肉体を表象する体操の世界において、その歪みが顕著ではないか。肉体をその個人の精神性とは無関係なものとし、単なる技術的要素を競い合う様相をより強くしている。その結果、アクロバティックでメカニカルな演技を志向する傾向になっているように思われる。特に女子は中国雑技団の二番煎じに思えてならない。だが、技術を磨くことがなぜ悪いのか。特に、わが国は技術大国と言われるように、米国人の力に対抗するための技術を工夫してきたわけだ。柔道など柔よく剛を制すと言うように、どうしようもない肉体的ハンディを技術で克服しようとしていく。その際に磨かれた技術には大いに精神性が込められているのではないか。野球にしろ、本場アメリカのパワー野球に対して日本の集団主義を前提にした技術野球で勝負してきたのと違うか。その過程で、賛否両論あるなかでも高校野球が多くの支持を得ながら、その歴史が形づくられて来た。教育には社会主義と資本主義の両手法がバランス良く共存しなければならないのではないか。それが今や政治の世界と並行して、社会主義的要素が軽視され、資本主義的観点が幅を利かせている。競争至上主義が跋扈するなかで、苛めが生徒だけでなく教職員間でも切実な問題になってきている。例えば、習熟度能力別クラス編成などを採用している学校などでは、選抜クラスの担任に遣手の先生を充てたりして、教員間の競争を煽り対立の原因にもなり、そこに自ずと苛めの構造が出来上がってしまったりする。  苛め自殺が後を断たないが、自殺する勇気があるなら、苛めの構造を見抜きそれを然るべきところにぶつけないか。我々を操りほくそ笑む者達をのさばらせて、一体、何をしているのか。苛められた経験のある者は苛める者になる。日本も欧米に苛められ、そのトラウマから逃れるために、同朋の亜細亜人を苛めたのではないか。苛めは、自分達とは何か違ったものを発する存在を異質なものと見做し、それをターゲットにして疎外することによって仲間意識を確認し合う。田中角栄は、結局、マスコミに苛められ、葬り去られた。学校も今や社会的に苛めの対象として、マスコミの餌食になっている。

 

 目立つことは同質集団にとって、ウィルスのような異質物として扱われ、除菌される羽目になる。最近、癒し(ヒーリング)という言葉をよく耳にするが、複雑多岐になっている現代社会の人間関係のなかで、屈折した心を苛めという歪曲化されたシャーマニズムを取り入れることによって、“悪魔払い”しているのかも知れない。最近、個性重視の教育が何処もかしこも決まり文句になった。それは、一つ間違えれば苛めのターゲットにされかねない。いろいろな意味で我々の病原菌に対する抵抗力というか免疫力が落ちてきている。生きる力と言ってもいい。苛めに対して耐える力もつけねばならない。こうした見方は、苛めを容認してしまう考え方にもなりかねない。が、発想の転換も必要な場合もある。苛めをはじめ荒廃の一途を辿る学校を、学校の怪談とかいうオカルトの場に設定し、どうしようもない学校教育の問題を暗に揶揄しているように思われる。ひょっとして、学校が社会的に苛められていると見れないこともない。  学校も国家と同様の憂き目に遭う可能性がある。今、ボーダーレス化のなかで国家の必要性が問われているわけで、国民も権威の失墜した国家に対して、かつてのようにもう拠り所を求めようとしなくなりつつある。インターネットにより国家が機密情報を最早、占有できないことにより存立価値を喪失しつつあるように、学校も知の独占的所有を電脳機器の登場により切り崩され、その権威をどんどん低下させてるように見受けられる。だが、ボーダーレス化による国家的威信の減退現象と並行して、その流れを押し止めようとする動きもあり、拠り所をなくし右往左往している国民は、過去の国家の栄光に縋ろうとしているのも事実で、学校も浮遊化する生徒にとっては、それなりの存立価値があるのではないか。ただその際に、国家も学校も変容する国民や生徒の実態に応じてその姿を変えていくのか、それとも変わらない国家や学校の実態に国民や生徒を合わさせていくのかが、今後メルクマールとなるのではないでか。だが、後者の遣り方はもう時代遅れの観は否めない。

 

 2003年の経済協力開発機構OECD)の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど、低迷する日本教育の実態が浮き彫りとなった。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされた。昭和50年代半ばにゆとり教育が導入されて以来、授業時間と授業内容が一貫して削減されてきた。ゆとり教育は、子供の中にある怠惰を黙認・許容し、知識偏重の偏差値教育を揶揄する「勉強否定論」にまで至り、学習意欲のない生徒を甘やかせる結果となった。ゆとり教育総合学習も、日教組が昭和40年代後半から唱えてきたもので、文部省(現文科省)がその後30年間にわたって日教組の主張を結果的には実現してきたわけである。ゆとり教育学力低下した世代が、今、子の親となり、家庭における教育力低下に拍車を掛けている。校内暴力やいじめ、不登校などが激増した時期は、ゆとり教育を開始した時期に概ね符合している。小学校低学年にまで及ぶ学級崩壊は、幼児期の育てられ方に関係し、学力不足で大人に成り切れていない親たちの問題でもある。核家族化の進行のなかで、老人を疎外する社会が、結果的にはしっぺ返しを受けていると言ってもいい。生活の知恵や生きる術に長けた老人を家族から切り離し、臭いものには蓋をせよとばかりに隔離していくことが、未熟な夫婦による家庭における教育力の低下を促し、躾などで問題を有する近年の青少年を輩出する社会的な土壌となっているのではないか。また、そうしたバカ親に限って、昨今のモンスターペアレントに成り得るのである。『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦氏は、「日本の子どもはバカだ」と指摘する。なぜこうなったのか。藤原氏は、個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという子ども中心主義が信奉されてきたことを第一の理由に挙げる。インターネットの普及などの文明化と逆行する人々が増えている。大国の読み書き算術能力が退化すると何が起こるか。一部のエリートが、単純な言葉で大衆の人気取りに専念し、権力に居座る。ワンフレーズ首相と言われたパフォーマーが、劇場国家の中で一世を風靡したのはどの国のことであったろう。

 

 昨今の安易で早計な改革論に押し流され、国家百年の大計を過つようなことがあっては、取り返しのつかないことにもなり得る。欧米近代合理主義を根幹とする戦後民主主義教育が至る所でその綻びを露呈している中、学校化する現代社会の病巣を修復するための処方箋として、学校教育の分析検証は必要不可欠である。日本の教育力は戦後の発展と成長を支えた柱の一つといわれ、若者の知の水準も主要国のトップを維持してきた。ゆとり教育の指導要領は有馬朗人文相(当時)が告示し、小中学校では2002年度から、高校では03年度から実施された。しかし、文科省ゆとり教育の失敗を重く受け止め、総合学習により減少した授業時間数を一転、増やすことになった。が、こうしたブレまくる文科省の方針転換が、教育現場を大混乱させたことは想像に難くない。学力低下批判や公立学校不信の高まりをよそに、ゆとり教育をひたすら推し進めてきた行政の責任は大きい。失敗が明らかになった以上、自らの誤りを認めず場当たり的施策を打ち出すだけで詰め込み競争と揶揄し基礎学力を軽視したことを深く反省する必要がある。2007年に希望者全員が定員枠に収まる全入時代となり、大学倒産も現実のものとなった。そして定員確保のための入試の安易化と受験生の負担軽減が大学生の学力低下に拍車を掛けた。小学校から大学に至る日本の若者の知的レベルの地盤沈下は、バブル崩壊以降のこの国の社会が抱える構造的なひずみと重なる部分も多い。ニートと呼ばれる無職層の若者の急増もこれと無関係ではなかろう。国の教育政策の失敗を十分検証するとともに、社会構造の変化も踏まえて新たな知を創造する仕組みが必要である。  斜陽化する欧米世界が立ち直りの処方箋として、日本の教育を見習おうとしているなかで、当の日本ではその教育に悲観的観測を募らせ、安直な改革論を振りかざしながら、恰も欧米の辿った轍を踏もうとしているようである。モラルなき日本社会を招来させている一因が、自由民主主義を履き違え狭隘な個人主義を蔓延せしめた戦後教育にあるとするならば、今後わが国の教育の何をどのように改革していけばよいのかは、自ずと判明することであろう。

 
 

第五話 「政治・経済」について

 

 泣き愚図る赤ん坊は、ゆらゆらとあやすと、大概は治まる。小さい頃、よくブランコに乗って揺れることを楽しんだ。大きく揺さぶることに快感を覚えたりもした。許容できる範囲の揺れは、普通、気持ち良さに繋がる。しかし、度が過ぎると、それも不快に変わり、恐怖の対象となってしまう。昔から怖さの代表格として、「地震・雷・火事・親父」は定番であった。近年、親父はその中から失格したが、地震は、依然とトップに君臨する。大地を揺るがす。震度5以上のクラスになると、どうしようもない不安と恐怖に駆られる。今はそんな地震が、全国どこで起こっても不思議ではない。こうした物理力による揺れもさることながら、精神的・心理的揺れも、抜き差しならない。通常、選択肢に迷う場合、心が揺れ動き、落ち着かなくなるものだ。「自由か平等か」、「私か公か」などの選択の場合も、心穏やかではなくなる。

 

 かつて、親分肌のイメージが強い田中角栄に、日本国民は政界の改革を期待した。今太閤と褒めそやし、平民宰相の再来と、彼に日本の将来を託したのだった。しかし、疑獄事件で、「政治は力、力は数、数はカネ、従って、政治はカネ」という金権政治家としてレッテルを貼られ、マスコミや国民に苛められ、最後には葬り去られてしまったのだった。今、政治家のなかで、田中角栄のように個性豊かな人物を見出すことは困難である。しかし、集団内のストレスが再臨界を迎えようとする状況が、日本国民に破天荒なリーダーを待望させようとするだろう。

 

 財政赤字を累積し続け国民感覚に鈍感で無責任な某政党は、去る総選挙の際、臆面もなく「責任力」なんぞというキャッチコピーを掲げ、案の定、いっぱい血にまみれた。無軌道政治に辟易としていた国民は前政権党に引導を渡し、現政権党は我が世の春を謳歌するはずだった。が、旧態依然とした政治手法に対し、国民の期待が失望に急変した。優柔不断で無策振りを天下に晒し混乱を来すリーダーのあまりの不甲斐なさに、怒りを通り越して虚脱感すら漂った。そして現在、世の中に「なんとか力」が溢れ返っている。「力への意志」は無力感漂う現代社会の裏返しでもある。「愛なき力は暴力」だが、「力なき愛は無力」であり、前者より厄介な結果をもたらす場合がある。数年前のイラクをはじめ北朝鮮などにおける独裁体制の横暴を押さえ込むため、アメリカを「世界の警察官」という超法規的例外暴力装置として黙認してきた。外交的手段で平和裏に独裁者による支配欲を抑制させながら、不正義を黙認せざるを得ないことほど、遣る瀬無いモラルハザードの極みはない。湾岸戦争イラク戦争におけるアメリカの行動を世界的に容認したのは、正しくこうした人々の心理が働いていたからではないか。アメリカの嘯く「正義の戦い」を嘲笑しながらも、不正義な「アメリカの正義」が世界の不正義に利用されたのだ。そして今、世界的テロがこうした構造の再現として展開している。一極支配の維持に汲々とするアメリカは、「強さ」を誇示しながらも結局はその裏返しである「弱さ」を披瀝している。新世紀が到来したが、社会のいたるところでモラル・ハザードが日常的となり、国内外ともに明るい展望が見出せない。そして、9.11以来、世界は恐怖をめぐるお化け屋敷となった。単独行動主義と合理化された米国の先制攻撃が、テロという名の怨念紛いのエンドレス復讐劇を増幅させた。S.ハンティントンの「文明の衝突」論が狡猾に扇情され、アメリカはかつて経験済みのミッションを着実に遂行し、世界が大きく傾き掛けた。冷戦構造が崩壊し、軍産複合体制がその生き残りを模索していた最中に起こった湾岸戦争の頃と同様のパターンを繰り返した。「普通の国」を目指そうと、様々な思惑が「改革」の名のもとに実現していった。

 

 80年代を一言以てこれを蔽うことは困難だが、あえて集約すればそれは「保守化」である。ケインズ主義の破綻を克服すべく「小さな政府」の理念が掲げられ、いわゆる「新保守主義」が台頭し、80年代後半の社会主義の挫折とその崩壊が世界に与えた影響は甚大であった。旧社会主義国が次々と市場経済に移行し、ウォーラーステインの説く世界資本主義が本格化を見せ始めている。体制に対するアンチテーゼとしての社会主義イデオロギーは、体制にとり厄介なものである以上に都合のいい調節弁であった。なぜなら、体制をより強固なものにするためには、軍事的側面をはじめとして様々なる仮想敵対象が必要であり、産軍複合体を活力源にする資本主義(社会主義も同様)にとりアンチテーゼは好都合なものであった。また、様々な社会的フラストレーションを糾合させ、それをうまく誘導させるものでもあった。カルト集団によるテロにしても、その社会的背景として、社会主義挫折崩壊後の混沌が関わっていることは否めない。よりシステム化される体制のなかで、拠り所(アイデンティティー)を求められない20代・30代の若者達が、詐欺ペテンにころりと引っ掛かってしまい、二進も三進もいかない状況に追い込まれてしまった。あるいは、旧ソ連邦崩壊後のロシア経済不安定と杜撰な軍備管理が、カルト集団に付け入る隙を与え誇大妄想を駆り立たせた余地も少なからずあるだろう。このように、社会主義の挫折が残したものは多大であった。また、社会主義の挫折はすなわちヨーロッパ近代の挫折でもあり、それを模範にしてきた世界が将来へのパラダイムを描けず、右往左往しているのである。私は、社会主義崩壊後、それまで進歩的知識人と呼ばれた者達の言説に圧され影の薄い存在であった保守派文化人が捲土重来し、巻き返しに転じ伝統回帰を声高に叫び出す姿に好感は持てないが、どちらの立場に立つにせよ、アメリカニズムを懐疑する者に対しては共鳴するところである。しかし、こう言いながらも、従来から留意しなければならないと自戒してきたはずの作為的ナショナリズムに、結局誘導されてしまっている自分に行き当たらざるを得ない。今更ながら自分自身に巣くう内なる矛盾を直視せねばならなくなったわけである。

 

 マルタ会談により米ソ冷戦構造に終止符が打たれ、社会主義というイデオロギーに閉じ込められていたナショナリズムが次々と噴出した。そして世界的に民族主義をバックにした地域紛争が続発した。ソ連邦崩壊後、アメリカが唯一の超大国として「世界の警察官」となり一極支配を確固とした。「悪の帝国」ソ連に変わる新たな仮想敵国づくりが必要とされた。その第一段階が湾岸戦争を通してであった。アメリカがイラン封じ込めのためモンスターに育て上げたフセインイラクがターゲットとされた。そして、それまで軽視されていた国連が、様々なかたちで利用された。わが国の国際貢献が声高に叫ばれ、封印されてきた自衛隊の海外派遣が通例となった。また、政治大国へ変身するための政界再編が次々と仕組まれ実行されていくなかで、諸種の「構造改革」がキーワードとなった。この間世界は、「軍産複合体」制の再構築をするべく、軍需産業の生き残りを命懸けでサポートしていたのである。

 

 ナショナリズムという相対主義的動向と、アメリカニズムという絶対主義的動向が鬩ぎ合いながら世紀が変わった。テロも日常化しつつある。「軍産複合体」制の再構築が企てられ、我々は否応なしに、軍需産業の生き残りのため仕組まれる「永遠の戦争」や、アメリカの偽善的正義(普遍主義)を世界に押し付けることに利用される。イラン・イラクベネズエラ北朝鮮・中国・ロシアが連帯しているかの如くアメリカ一極支配に抵抗勢力として立ち塞がろうとしている。こうしたなか、日米同盟を後生大事に堅持し、いつまでも国民に対し偽り続ける政権党と、似非政権を後生大事に保守し、自分に嘘をつき続けようとする日本人の姿があった。

 

 国家の精神を標榜する憲法が不健全であれば、社会は次第に内部から蝕まれていく。日本国憲法は、その成立過程に不透明性を宿していた。すなわち、第二次大戦直後における、米国による対ソ封じ込め戦略の一環を担わされたということである。第一条を反共の具とし、それに異議をはさもうとした陣営を第九条の第一項で懐柔した。第一条の副産物的条文となる第九条も、更にその第二項書き出しの但し書きにより武装化が可能となる解釈の絡繰が用意され、朝鮮戦争後における米国の対日政策転換すなわち、わが国への再軍備自衛隊創設)要求に利用されるものとなった。このような憲法にまつわる諸問題が、戦後の節操なき日本社会を現出させたと言っても過言ではない。様々な欺瞞を黙認あるいは利用しながら、ふしだらな状況が露呈されてきている。また、こうしたなかで保守・革新ともにその性格を自ずと歪曲せざるを得ないのである。

 

 自民党を一とする保守陣営は、第一条及び第九条を中心とする改憲すなわち自主憲法制定を声高に叫びながら、その実、現憲法を押し付けたと見做す米国に対しこの半世紀の間日米安保体制下、自国の領土である沖縄に後方基地を設けさせ、しかもそればかりか思いやるような屈辱的従属姿勢をとり続けてきた。それで果たして、自主独立自尊を主張することができるのであろうか。また、共産党を一とする革新陣営は、日米安保体制(条約)を廃棄すべしと嫌米姿勢をとり続けながら、第二次大戦直後における米国の対ソ戦略の影響下に晒された憲法の擁護を標榜してきた。自らの主義主張と相容れないはずの第一条との矛盾から目をそらし、正義の味方を嘯くような護憲では、どのように講釈を垂れてもそれは子供騙しにしかすぎないのではないか。このように、両陣営はそれぞれアイデンティティーの矛盾に苛まれながらお互い鬩ぎあいをしてきたのである。 冷戦後におけるアメリカは、世界で唯一の超大国として君臨し一極支配するためのシナリオづくりに懸命である。そのシナリオにより軍産複合体を基盤とする儲かるシステムが実現されるからである。冷戦時代には悪の超大国ソ連が存在してくれたおかげで、儲かるシステムは左団扇でありえたが、ソ連邦崩壊により新たな仮想敵対象及び世界秩序を次々と打ち出していかなければならなくなった。湾岸戦争イラク、核疑惑の北朝鮮、中台問題の中国と冷戦後における軍産複合体の巻き返し戦略に世界が振り回されているのであり、わが国もその渦中から逃れられずに巻き込まれてしまうのである。近時の日米安保再定義にしても、沖縄での米軍兵士少女暴行事件をきっかけに日米安保見直しの気運が高まりかけたにもかかわらず、日米安保強化という日米双方における軍産複合体の目論み通りの結末に至ってしまった。

 

 日本は幕末明治以降、米欧列強のいじめに恐れおののきながら、生き残り策を模索してきた。そして、脱亜入欧論や大東亜共栄圏構想を展開するなかで、いじめの合理化をはかり、結局その呪縛から逃れられなくなり自滅への坂道を転がり落ちるしかなかった。今またいじめられる側にも問題があると言わんばかりにいじめられない「普通の国」を目指そうという声が高まりつつある。弱小異質に徹し(成り)切れず曖昧なままいじめる側に取り込まれるのでは、まさしく猪突猛進的な自殺行為でしかない。いじめの構造を見抜き、いじめる側に加担しないだけでなく、いじめられる側を擁護できるのが「普通の国」であるはずだ。

 

 覇権主義とどう向き合うかは、根幹で核抑止論を問うことでもある。結局のところ覇権主義にしろ核抑止論にしろそれが罷り通る背景には、人類史における宿命的命題が隠されているのではないか。その命題から我々は抜け出せずに、不可避的神秘のベールに身を包まれながらそれを運命愛として受容してきた。それとは要するに「恐怖による脅迫」である。我々を含む全ての生命体は、大なり小なりこの恐怖をその活動の源泉にしていると言ってもいいだろう。恐怖のなかで組織体の安寧秩序が保たれ延命が可能となる。覇権や核もそれらが醸し出す恐怖が組織集団員の横暴を抑止し、その結果、安寧秩序が保たれ生命維持が図られる。

 

 帝国主義のもと植民地争奪戦を展開していた18・19世紀の世界観が今の時代にも盤石な基層としてある。古代ローマ帝国から近代大英帝国そして現代米帝国と、支配統治権力者の姿こそ変われども、その基本的性向は不変的である。基本的性向を形成するべく以下の要素を遺伝子の如く継承してきた。それは、力(軍事力)による支配であり、白人至上主義に基づく搾取である。ヨーロッパはこの二要素を合目的的に発揮するため、近代国家なるものを踏み台にあるいは隠れ蓑にしてきたのではなかったか。個人が会社などの組織を通して、金銭欲・名誉欲など自己の欲求を満足させていくのと同様に、国家を利用して、己れの欲望を満たそうとする存在があり、その利権を保守するためのシステム造りに事欠かない歴史が展開してきた。絶対王政時代、朕は国家なりとも言われたように、国家は国王でありその主たる欲望は権力欲であった。国王以外のほとんどの者にとり国家(国王)とは正しく裸の王様的存在であって、虎の威を借る狐たちには国家は自分たちの利権を保障してくれるもの以外何物でもなかった。商業人がその金銭欲を満たすのに、国家(国王)の軍事(政治)力は強ければ強い程都合が良かった。国内においては営業活動がしやすいように安寧秩序の保持のため統治してもらい、国外においては国王に侵略戦争による世界帝国形成を実現させ、商業市場が世界的に拡大し利潤を高める必要があった。商業人が商業的利益を追求するためには、このように強い国家(国王)が要望されたのである。強い国家(国王)は力(軍事力)による支配により産み出されるものであり、それはひいては商業人らの財力に支えられるものでもあった。こうして、国王(政治)と商人(経済)は強く癒着していくのであり、この構図は古今東西、通底している。そして、より強い国家をつくるためより儲かるシステムが必要とされ、帝国主義軍産複合体はその典型となった。産業革命後の産業資本主義以降このシステムは本格化し、欧米列強による世界資本主義が世界分割のもと展開するなか、富を収奪して繁栄を謳歌する北の一部の地域と、それらに富を強奪され第一次産業を押し付けられた南の貧しい地域との南北問題が深刻化していく。そして人口問題・エネルギー問題・環境問題など抜き差しならぬ諸問題を派生させ現在に至っているのである。

 

 世界平和を司るべきはずの国連安保理常任理事国は、平和を説きながら戦争の火種になる武器輸出を盛んにしている。国連安保理常任理事国は五大国とも呼ばれるように、現在世界の強国であり、従ってより儲かるシステムを追求している国々でもある。すなわち、帝国主義路線や軍産複合体制がより顕著に見られる国々と言えよう。冷戦が終結したにもかかわらず地域紛争が後を絶たないのも、軍産複合体制が巻き返しをはかっている証拠である。冷戦という戦争準備期は、核兵器を頂点に大量の兵器生産を必要とした。そして、その生産を手掛けた軍需産業のほとんどが大企業であり、戦争を念頭に置いた緊張関係があればこそ兵器の受注、生産が可能となり、高性能のハイテク兵器などの生産は軍需産業にとっては儲け頭であったのだ。それが、冷戦後の和平のなかで軍事化に逆行する流れがつくられだし、軍産複合体という儲かるシステムが綻びだした。そこで、軍産複合体はその生き残り策を冷戦後の世界で模索していくのである。ゴルバチョフが失脚する切っ掛けとなった保守派によるクーデタも、和平路線を掲げるゴルバチョフを追い落とそうとしたソ連軍需産業が保守派リーダーを擁して仕組んだものであった。また、湾岸戦争もある意味で軍産複合体の復活を証明するものであったと言われている。当時のブッシュ大統領も、次期大統領選挙を睨んで、危ない賭けに打って出た観は否めない。軍需産業の主体である大企業の存在及びその意向は、選挙戦を有利に運ぶためには無視できないものである。現代においては、国家権力の中枢に位置する政治家と防衛産業などを担う企業家がそれぞれの利害打算で癒着し、それに付随する諸問題が後を絶たないのである。

 

 長年の日本政治に対する国民の失望感が、捨て鉢なキャラクターとシンクロして小泉人気は有り得た。それまでの政治家がとかく保守的なイメージだったのに対し、独特なヘアースタイルなどから自由闊達な雰囲気を感じさせ、人気は続いた。バブル崩壊後の不景気にともなう日本の沈滞ムードも、80%を超える異常な支持率につながった。そして、国民の政治への諦めが、ほのかな期待という錯覚へ変容した。55年体制下、自民党は様々な構造汚職問題を通して、国民の批判を受け続け、遂に93年には過半数割れをし、その後は、他党との連立でかろうじて政権を維持した。こうしたなかで、自民党と小泉はお互いが双方を利用した。彼は米大統領に行くなと言われても行くと言い、敗戦記念日に参拝して公約を実行したかの如く、最後まで姑息なパフォーマンスに終始した。

 

 今後、日本の政治は、小泉等の風見鶏的で扇動的パフォーマーに対するバブル的期待値を有す有権者の動向にかかっている。政治は「命」に直結するものである。指揮者である政治家と演奏者である国民との信頼関係のなかで、美しい音色を奏でるオーケストラにするのが政治の果たすべき役割である。現在は、政治哲学を持ち合わせていない政治家のもと、識見の乏しい有権者による似非民主主義が展開している状況と言っても過言ではない。

 

 地方自治の活性化が叫ばれて久しいが、中央集権的体質を改善するのは至難の業である。そもそもわが国の近代化は、幕末明治草創期、欧米諸国による侵略阻止のため、早急になされる必要に迫られた。従って下からの近代化を待つなどの余裕はなく、勢いお上による上からのものとなり、それが後々の中央集権化を決定付けた。切迫した危機的状況が、日本の上からの近代化を促した。そして中央と地方は主従関係のもとで、地方は中央依存体質を甘受しながら、中央からの補助金を主体とする地方財政の構造が規定され、それを維持することが中央の地方統制を容易なものとした。このように中央と地方は、地方自治が骨抜きになる体制を暗黙裏に看過しつつ、持ちつ持たれつの関係性を堅持してきた。本来、「地方の時代」というフレーズは、中央(鵜将)が、補助金という赤い糸を地方(鵜)の首に巻き付け、鮎を呑み込むという自治活動をさせない操作の絡繰りを払拭し、地方が鵜飼い状態を克服することを意味する。今や国家財政が破綻寸前というなかで、中央政府も地方丸抱えの体制を維持できなくなり、地方分権化を、政府自ら声高に叫び出しているのが現実である。要するに地方分権は、80年代以降の自由化・規制緩和に沿った路線、いわゆる「官」から「民」へのシフトである。EU統合や銀行・地方自治体などの統廃合と、これらの諸事象に共通する背景に財政難という危機的状況がある。

 

 戦後、55年体制は米ソ冷戦構造という世界の枠組みを反映したものであった。また、それは軍産複合体制を盤石なものとするためのシステムでもあった。「政治は力、力は数、数は金」すなわち「政治は金」という政治信条を永田町に定着させたのは、田中角栄であった。元々、民主主義とは、デモス(民衆)のクラトス(支配)という原義からすれば、多数による決定方式を意味する。従って民衆の質を問わずにデモクラシーを金科玉条とすれば、単なる「量の支配」となるのは必定である。田中的手法は、デモクラシーの盟主アメリカの圧倒的物量戦略をネガにし実行したものであり、その挫折は、戦後民主主義の末路であったとも解釈されよう。かつてロッキード事件田中角栄の政治手法を利益誘導型であり構造汚職の元凶として揶揄したが、そもそも政治の本質は権益をめぐる諸事象でもあるということを忘れてはならない。

 

 国家の場合も個人と同じことが言えると、岸田秀氏は以下のように指摘する。個人の人格は自我とエス(無意識)の二重構造になっている。自我とはこれが自分だとする、いわゆるアイデンティティである。反対にエスとはこれは自分ではないとする。この自我とエスとは対立関係にあり、この関係は激化する。それを回避し精神的安定を図るためには、絶えず外部に敵を捏造しなければならない。実際、世界には常にどこかの国を敵にしなければ、その国のアイデンティティが保てない国家が多数、存在する。人工的理念を設定し、その理念を普遍的に正しいと見なして設立された国家ほど、仮想敵を煽り自身を合理化する必要に迫られる。自由・平等・民主の理念を掲げ、原住民を大量虐殺して成立した人工国家はどこであったか。その国には、この理念以外に国家としてのアイデンティティを支えるものが他にない。しかも強大な軍事力を持っているから、なおさらに恐ろしいと。また、原田剛氏は以下のようにも指摘している。支配者が全面的に物理力や暴力の行使に依存するのは、不安定性を補償する必要がある時で、主として政治権力を樹立した当初とその崩壊の直前においてである。支配者はその地位を強引に引き伸ばす最終手段として暴力を行使する。支配の維持のためにもっぱら暴力に依存することは、「強さ」の表れというよりもむしろ「弱さ」の表れであると。果たしてこうした国はわが国との関係上、非常に近い所に存在しているのではないか。

 

 さて、北朝鮮問題だが、中国を後ろ盾に、上手に大国アメリカと五分に渡りあっている北朝鮮に対し、日本は米国にごねるカードは北鮮より多く持っているはずなのに、いつまで米国の腰巾着をし続けるつもりなのか。中国も米国への牽制として北鮮を利用してきたが、いつでも見限る用意はしている。そうなると、益々、北鮮は暴走する。現在の東アジア情勢は、関ヶ原前の状況と似て相手の動向を見渡しながら、決断を決めかねている。そんな危うさを伴いながら、最悪のシナリオが待ち構えているかもしれぬ。北朝鮮がいつでも日本へミサイルを撃ち込めるぞとデモンストレーションすることが、日本に駐留している米軍への牽制となるのだ。北朝鮮にとっての核保有は、米国に先制攻撃させないようにするための切り札である。さて、この国は、何でもありの愚劣国家ということがハッキリした。イラク戦後、フセインイラクとアルカイーダとの繋がりがなかったことを自ら認めたのだから。大量破壊兵器の存在も自国調査委で否定したのだし、これでイラク戦争大義が全くなくなった訳だ。ならば、あの戦争は完全なる侵略戦争だったということで、国連及び国際社会はアメリカ及びそれに加担した国々を裁かねばならないのと違うか。それを何もせず放任しているのは、この世の中が完全に狂っていることの証である。また、この国は日本に原爆を2発も落とした国なのだ。そんな国を後ろ盾にして、姑息な生き長らえ方を選択し続ける日本。どちらもどちらだが、そのどちらの国も、北朝鮮を批難する資格があるのか。日本人拉致問題は埒があかぬが、日本は、その昔、朝鮮人を強制連行し集団的に拉致をしていた歴史を忘れてはならぬ。

 

 寂寞とした時代に我々は漂流している。ルサンチマンのレジームから逸脱できずに。アジアの不統一及びそれによって引き起こされる緊張関係をほくそ笑んでいるのはどこか、その国の何らかの操作が浮かび上がってくるのではないだろうか。またその国を動かしている軍産複合体制に突き当たるのである。イラク戦争が様々な陰謀によってでっち上げられ開戦されたことが、最早、周知の事実となった現在、ブッシュ及びアメリカの仕掛けた戦争が、犯罪行為として裁かれなければならないのは当然である。また、彼等にのこのこと追従した小泉純一郎は、当然断罪されなければならない。イラク戦争後の泥沼状況のなかで、日々、多くの人命が亡くなっている現実を見るにつけ、ブッシュのあまりにも愚かで稚拙で軽率な言行がもたらしたものへの憤りを痛感するのは、この私だけのことであろうか。日本では、偽装建築・偽装教育・偽装経営など、偽装流行りのここ10年だが、これら偽装の頂点に、偽装国家を展開させる偽装政治があることを忘れてはならぬ。

 

 かつてフランシス・フクヤマは冷戦の終焉を「歴史の終わり」であると論じ、「資本主義が勝利し、社会主義が敗北した」と宣告した。あれから資本主義体制はほぼ全世界を覆い尽くし、マルクス主義は完全に過去のものとなった観がある。しかし資本主義の盟主アメリカは、かつてイギリスが辿ったように帝国崩壊へメルトダウン寸前の兆候を示している。世界恐慌の再来もあながち非現実的とは言えぬ様相を呈している。

 

 シュムペータは、「資本主義は生き延びることができるか。否、できるとは思わない」と断言した。彼は「資本主義が成功すればするほど、資本主義はその存立基盤を失っていくのではないか」と懐疑していた。そして、リーマンショック以降、アメリカを中心とするグローバル資本主義は正しくそうし懸念を地でいくかの如く邁進している。「資本主義は生き延びるか」という問いに対し、チャーチルの「民主主義は最悪の政治制度だが、他の制度に比べれば最もまし」という言葉を拝借すると、「資本主義は最上の制度ではないかもしれないが、これまでの諸制度に比べればまし」ということになろう。

 

 資本主義は、競争社会を前提とし飽くなき利潤追求を至上命題とする欲望の体系である。初期資本主義は、ヨーロッパ、イベリア半島のスペイン・ポルトガルにより展開された。両国は、中南米をはじめ世界中の富を独占すべく、帝国主義の礎を築いた。18・19世紀はアダム=スミスの古典派経済理論による自由放任主義が社会的基調となり、小さな政府(=夜警国家)のなかで自由主義経済が追求された。自由と平等という両価値理念は、フランス革命などを経て近代市民社会を構築していく上でシンボリックなものとなるが、この両者は並立することが困難なものでもある。自由を追求すれば不平等になり、逆に平等を厳守すれば不自由になる。景気変動が許容範囲のなかで展開すればいいが、勢い逸脱行為がなされるとパニックに陥る。それが独占資本主義段階が深化していく19世紀終盤から20世紀にかけて顕著となり、1929年の世界恐慌を迎えるに当たり、アダム=スミスの「国富論」は資本主義経済理論の主役から後退していく。そしてそれに取って代わる資本主義延命化のための理論がカンフル剤的に注入される。すなわち、ケインズ理論による有効需要の創出であるが、この公共投資を重視する政策は、当時躍進していた社会主義的手法を利用するという苦肉の策であった。しかしケインズ政策による公共部門への過大比重により、その後、財政赤字が慢性的となり、80年代以降、「大きな政府」から「小さな政府」への復古がなされ、資本主義の原点の見直しが図られる。18世紀のレッセ・フェールが、あたかも「神の見えざる手」により半世紀を経た後、蘇生したのである。

 

 戦後日本のアイデンティティは、「経済」立国であった。高度経済成長を経て、日本社会は大変貌する。村落から都市へ人口が供給され、産業構造が高度化していくなか、経済成長維持が図られていく地域社会の相互関係は、世界的には南(発展途上地域)が北(先進地域)の経済的繁栄に必要な資材を絶えず供給し続け、生み出される南北問題の構造と重なる。産業構造が高度化し、人口が村落地域から都市地域へと流動し、両地域における問題が相互作用のなかで深刻化していった。「外圧利用による構造改革」が、日本の生活関連社会資本整備にプラスとなったことを否定できない。日米貿易収支の不均衡が顕著になりだしていた昭和60年、ニューヨークでのプラザ合意が、その後の円高傾向を決定付けた。円高により国内市場における供給過剰が問題となってくるが、いわゆる内需拡大策が唱えられ貯蓄性向の極めて高い日本人への消費がより一層喚起されていくことになる。同時に消費行動を促すための休日の設定が週休2日制の導入によって図られていく。この実施はかねてから急務であった労働時間の短縮に、ひいてはそれが対日貿易赤字で嫌日感情を募らせていた米国や欧州先進諸国のジャパンバッシングを軟らげることに貢献するものでもあった。週休二日制導入による余暇の増加は、アメニティ社会の到来と並行して人々の週末における過ごし方に影響を与えていく。週末のレジャーをめぐりいわゆるリゾートブームが煽られ、観光開発が国家的プロジェクトのもと日本全土を覆っていった。そのなかで、哀しいかな、日本株式会社人間はリゾートやゴルフ場を目指し、ファッショ(ン)化された遊戯を真似ながらウィークデーの仕事の延長戦に興じていったわけである。そしてリゾート開発やゴルフ場増設が、業界からの後押しで施行されたリゾート整備法を追い風にして、新たな問題を育んでいった。すなわち、乱開発による自然破壊・環境汚染や政財界の癒着などの問題である。ゼネコン汚職や共和問題はリゾート開発やゴルフ場開発に絡んだものであり、結局、自民党は以上の問題を通して55年体制下における長期一党支配にピリオドをうつことになるのである。またこれらの問題の背景として、開発する側だけにとどまらず地域の活性化を図ろうと開発を安易に受け入れようとする、過疎化に悩む地方の実状があることも忘れてはならない。そして開発は土地をめぐるバブル経済を膨らませ、土地転がしの橋渡しをしながら不良債券を雪ダルマ式にため込んだ金融機関の破綻並びにその監督官庁であるはずの大蔵省の不祥事へと波及するものでもあった。

 

 経済立国日本にとり、慢性的労働力不足は深刻な問題である。この背景として、近年における少子化があげられる。少子化はまた労働問題と相関するものでもある。女性の職場進出が男女平等の理念のもと実現化するなか、夫婦共働きが一般化しつつある。それによって少産傾向に拍車がかかり、近い将来にはDINKs形態も市民権を得ようとしている。こうして、女性労働力確保による女性の職場進出は、新たな問題を提起することともなる。すなわち、先述の共働き夫婦が増加するなかで、出産を手控えようとする傾向が強まり、結果的に少子社会を助長してしまうという悪循環である。女性が子供を産み安心して働ける労働環境が、それを支えるべきはずの社会保障の未整備によりなかなか確保されないことによって、悪循環をより深刻なものとしている。このように労働問題・社会保障問題・人口問題は三位一体関係にあると言っても過言ではない。

 

 90年代「失われた10年」は、取り返しのつかない状況を現出させた。「国債」を麻薬の如く常用し続け、雪だるま式にGDPを上回る借金総額となってしまった。財政赤字は当然、経済社会に悪影響を与える。経済不況で消費が低迷しスパイラル状況から脱出できず、社会のいたるところで地盤沈下が進行している。90年代に入りバブル崩壊後、長期的に日本経済が沈滞化するのに対し、中国経済は上海など沿海地域を中心に驚異的な高度成長を遂げ、ブリックス4カ国の主軸として世界の注目を浴びている。逆にアメリカはサブプライムローン問題を切っ掛けに、経済的苦境に喘ぎながら帝国崩壊へとメルトダウンしていく。日本の食糧安全保障は非常に危うい。第一次産業を切り捨て、産業構造を高度化し続けてきたツケを払わされている。日本国内がメイドインチャイナで溢れかえる今、かつて中国大陸を軍事的に荒らし回り、負の遺産を残してきたわが国が、食料品をはじめ中国製品により報復されているかのようである。

 

 非価格競争時代のかで、同一価格商品からの選別入手が、商品差別化を生む。大衆化のなかで、現代人が差異の見出しにくい均質的傾向を強めていき、個性の発露に苦慮するのと同様、現代市場も製品の均等価傾向が僅かの差異を創出し、利益を確保するための商品差別化につながる。従って均質化し没個性化する現代人は、他者との差異を表層的個性に見出そうとして、消費生活において偽装的に差異化された品を獲得し満足させられていると言えよう。

 
 

第六話 「宗教」について

 

 極限状況に追い込まれた際、人間は果たして謙譲の姿勢を示せるものかどうか。そうした究極のテーマを描いた「タイタニック」に感動したものだ。永く残り続けるものにはそれなりの価値や輝きがある。キリスト教は最大の組織を有しながら、二千年の永きにわたり我々の歴史・人生を左右してきた。その事実は何を意味するのか。これほど長時間、多くの者の支持及び関心を得たものが他にあるであろうか。その教祖はとうとう神に祭り上げられた。彼は「右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい」「汝の敵を愛しなさい」と教えた。何というマゾヒスティックな手法だろう。この手法を戦術とし、世論を味方につけ大英帝国との政治的駆け引きに勝利したのがガンジーであった。人類はこの二千年間イエスを担ぎ上げ、彼を楯にして自身の安心立命を図り、エゴを最大限に追求し続けてきた。その間、一体どれ程の思考と思案をめぐらしてきたのだろうか。21世紀の現在、もうそろそろイエスへの惚れ薬から覚醒してもよいのではないか。否、人類における恐怖との対峙の歴史が続く限り、第2・第3のイエスは登場するのかもしれぬ。「犠牲」が、不朽の輝きとなり永遠に語り継がれるものとなる。

 

 毎年のことながら、戦争体験者にとり8月は特別な意味を持つ時期だが、戦争体験のない我々も、「靖国」など戦争について考えさせられる。人間の最も嫌がることの一つは、責任を取ることだ。戦犯者は、日本(人)のやった、否、欧米帝国主義諸国のやった侵略戦争の罪を背負わされているのではないか。戦犯者は、キリスト教でいうと十字架に架けられ人類の原罪を背負わされ犠牲となったイエスに近い性格を有す存在ではないか。クリスチャンはイエスに後ろめたさを感じ、彼を拝み続ける。なぜ、戦犯者を靖国に合祀し、それを首相が公式参拝するのか。その根底に、キリスト教徒が抱くイエスへの感情と同様に、日本人の戦犯者に対する後ろめたさが隠されているからだ。要するに人間の一番嫌がる責任を負わされた存在は、後生大事に祀られ拝まれ続けるのだ。紀元前後に生きた一人の男は、とうとう神に祭り上げられてしまった。この二千年間、彼を担ぎ上げ彼を楯にして頼りながら、我々は自身の安心立命を図りエゴを最大に追求し続けてきたのだ。また、彼は恐怖の構図への挑戦を仕掛けた。その変態的姿勢を敢えてとり続けられるなかで、相手は自己矛盾に苛まれ自壊作用を来すのである。キリスト教古代ローマ帝国との関係において、それは如実に示された。近代以降においては、ガンジーの非暴力・無抵抗主義をバックにしたインドと大英帝国との関係が正しくそれである。現代では、憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。

 

 安定化を図るためには絶対的依存物を創出する必要があり、それが真理(神)として求められるようになる。その神(真理)を宗教は解くなかで信仰をも説いていくのであるが、信仰を通して垂直的関係が強いられ、絶対的帰依、恭順を余儀なくしていくのである。なぜなら、単なる信じるという水平的形態ではより強い安定化が求められないからである。従って宗教は必然的にヒエラルキーを構築するのであって、人類史を宗教との関わりの歴史とみるならば、それはひいてはこのヒエラルキーを人間社会の隅々に及ぼしていく過程とも言えるだろう。ヨーロッパ・キリスト教世界は、このヒエラルキーを教会を母体として国家にまで擬制していったのである。そしてヨーロッパ社会を模範に近代化してきた日本及び世界の国々は、このヒエラルキーを社会の原型としながらも、そのなかにおける支配体制を絶えず問い続け脱却しようとしてきたのである。

 

 古代人にとり自然(神秘)は不可思議で、その脅威から沸き起こる畏怖は計り知れぬものがあっただろう。宗教の全盛期であった中・近世は、自然(神秘)の脅威への盲従から離脱を試み出そうとする時代だが、その切っ掛けをつくったのは取りも直さず宗教家であった。先述したように、宗教は自然(神秘)の脅威が惹起させる恐怖心を克服するよう、その神秘を垣間見せながら未知が醸し出す恐怖による苦痛を相対化させようとする。そのため、宗教家は神(真理)を説くなかで自然(神秘)の摂理を解こうとし、科学的視野の萌芽が形成されていく。また、神秘(自然)の摂理を解くことは、同時に「知」を司ることでもあり、宗教家は「知」の占有者として尊敬される権威的存在となるのである。しかし、宗教改革により万人祭司主義がとられ「知」の占有及び権威体制が崩れるとともに、神秘に対する捉え方も変容せざるを得なくなる。そして、近・現代人はそのベールを少しずつ剥がしながら畏怖を忘れかけつつあるようだ。

 

 死も、我々人類にとり脅威の的であり続けてきた。死は未知への恐怖を醸し出すものでもある。人類史は、この死の恐怖との対峙の過程とも言えるだろう。そして人間は、宗教のなかで未知なる死を黄泉の国への扉と解し、未知への恐怖心を克服する方便を模索してきた。また人間は、死の恐怖を克服するもう一つの工夫を編み出してもきた。すなわち文明の歴史を構築するうえで不可欠の労働である。労働は人間生活に必要不可欠の物質的糧を与えるだけでなく、その日常性(=ケ)は死の煩悶を紛らわせるものでもあり、それが精神的安定を図るのに果たした役割は少なくないだろう。また、この日常性の継続は絶えず死の恐怖を強迫観念として潜在化させるものともなる。こうして非日常(=ハレ)としての安息は、この強迫観念を顕在させそれを相対化させる役割を担わされてきた。

 

 死は欲望すなわちエネルギーが枯渇した際の現象であり、生は欲望という燃料が肉体という器に注入されている状態といえよう。人生も車同様に定期的に燃料を補給し続けないと停止してしまう。しかし、欲望を燃焼させる過程で廃棄物を出し続ける。この欲望エネルギーの副産物が、人間世界に戦争をはじめとする様々な害悪を引き起こすのである。そこで、欲望をできるだけクリーンに燃焼させる試みが必要となる。それがキリスト教をはじめとする宗教の営みである。

 
 

第七話 「ニーチェ」について

 

 ニーチェはその著「善悪の彼岸」で、我を抑えさせるキリスト教道徳を批判し、真のエゴイストになるべきだと主張した。イエスの説く隣人愛の容易さに対し、エゴイスト的生き方はむしろ至難であり、その実現には、一筋縄ではいかぬ修行を通し獲得された、自分を信じるということが必要であり、それこそ最終的な修業なのだと言う。  彼は「神は死んだ」の名セリフで世界思想史にその名を刻んだ。詩人のような著作。論文調ではない彼の文体。マルクスとは対照的な非科学的社会観。独り言の呟きの如く、神は死んだと言う神懸かり的作風に、多少の違和感を抱きながらも、常識を覆し、独特で、権威主義を打破するその手法に、ずっと惹かれてきた。哲学者なのか、精神錯乱者なのか、両方を合わせ持った風貌に、傾倒し続けてきた。論理性を欠き、直感が幅をきかす彼の考え方に、同調し敬意を表してきた。自分とシンパシーを感ずるニーチェが、大のお気に入りであった。彼は、「善悪の彼岸」で、我が儘な生き方を推奨する。簡単そうで、実は最も厄介な我が儘。オレ流は気儘に見えて、難しさが付きまとうものでもある。常識という体制に抗し、独自路線を貫き通す。私には到底できない、そんな生き方在り方に、憧れを抱き羨望してきた。疑うことを知らず、私は何事もすぐに信じてしまうタイプだ。この殻からなかなか抜けられぬ。信じる者はだまされる。全くその通りだ。何も疑わず温々と生きてきた。疑わないから生きて来られたのかも。マルクスは「全てを疑え」と権力体制に疑義を唱え革命を叫んだ。猜疑心は不安を助長する。疑い続け、最後に自分をも信じられなくなる。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」で言う、疑っている自分自身は果たして疑いようがないのだろうかと、疑ったりもする。こうした「疑う」ことの後には、孤立無援が待ち構える。

 

 ニーチェは、ソクラテスを始め世人に思想界の権威者として崇められてきた哲人を否定し、次々と木っ端微塵に粉砕した。そして、あらんことにキリスト教をもバッサリと斬り捨てたのだ。何という掟破り。これ以上のものはないだろう。ヨーロッパ世界に君臨し続けてきた、誰も疑おうとしなかった最高の創造物を、いとも簡単に破壊するのだ。「神は死んだ」、そして、「キリスト教は奴隷道徳だ」と。この宣言は、ヨーロッパ世界に生きる者としては、自殺行為にも繋がる文句だ。そして、今度は彼自身が思想の神として君臨していく。これは一体どういう事か。言った者勝ちなのか。否、それだけでは彼に対する支持は得られまい。やはり、我々を魅了させて止まぬ何かがそこにはあるのだ。 「うつの時代」の今日、森田療法の対象者はべらぼうにふえている。森田はこれを治癒するには、何かの「執着」や「とらわれ」に陥っていることから解放させることが最も重要だと考えた。自分の理想と現実のギャップに囚われてばかりいるのではなく、「あるがまま」の自分を受け入れるほうがいいと判断した。彼の考え方には中国の老荘思想に共通する見解が見受けられる。老荘思想道家思想とも呼ばれ、老子荘子の考え方である。老子の思想の根本は「無為自然」である。「人為」を排した「自然」を重要視する。人は、大人になるに従い概ね人為に絡め捕られてしまう。その挙げ句、生き苦しくなるものだ。それに比べ、未だ成長の見られぬ「子供」や原初的段階の「赤子」には、素直で人為(=嘘偽り)がなく、その赤裸々な生き様には屈託も見受けられられない。「赤子」には人為的「生き方」はなく、あるのは正しくその「生き様」であり、「有り様」のみなのだ。こうした森田の考え方は、結局のところニーチェ思想に通底する。

 

 ニーチェは「偽善」を嫌った。偽善はキリスト教そのものであり、他者への愛である。道徳的なるものの本質は、「建前」であり、それは「嘘」なのだと。しかし、ニーチェは、魔性の女「ルー=ザロメ」の魅力に嫉妬した。彼を無力化(=骨抜き)するほどの得体の知れぬ魔力。その所有者である彼女にメロメロになってしまった。非凡さに更に研きをかけたものが、彼女に対する嫉妬心であった。それが創造力の源泉となった。彼女を独占することが可能であったなら、「ツァラトゥストラ」の誕生はなかっただろう。彼女に弄ばれ翻弄されたニーチェだったが、「欲望」の獲得挫折が、人の潜在能力を呼び覚まし、芸術なるものが創造される。ルー=ザロメの魅力は、ニーチェの非凡な能力を開花させる触媒であったのだ。彼の狂気にも似た才能は、彼の性的嫉妬によりアウフヘーベンされたのだ。ザロメに失恋したニーチェは、その絶望により彼の代表作「ツァラトゥストラ」の創作に着手する切っ掛けを掴んだ。エミリー=ブロンテの傑作『嵐が丘』で描かれた人間の根源的テーマも、ニーチェが翻弄された、異性に対する「嫉妬心」が引き起こす「エネルギー」であった。森田療法と共鳴するニーチェ思想の根本は、「近代」を超克することであった。ニーチェ自身及び彼の思想にも矛盾は内包されていることは否めないが、彼はそうした自身に巣くう「内なる諸矛盾」をも含め、ポスト近代という精神革命を意図したのではなかったか。ニーチェに感化されたろうヒトラーにも、自身における内部矛盾の相剋が見受けられる。あるがままを称揚する「権力への意志」を滾らせ、ドイツ第三帝国という夢物語を芸術家気取りで「超人」として夢想した。

 

 ニーチェは偽善に対する猜疑心を絶えず研ぎ澄ませた。そうした彼には、嘘で覆われた物事は軽蔑の対象でしかない。しかし、どこか我が儘すぎる彼の独善に、危うさを感じざるを得ないのも事実だ。ストレスで充満した世相に、彼の考え方はある種、欲求不満解消剤として受け容れられる。そして、大爆発への起爆剤とも成りかねない。昨今の日常が当たり前と受け止められて時が過ぎ行く。人生、黄昏時が進行中であるが、何も疑わなくなっている自分が、そこにはある。疑わないとは、考えないと言うことである。「疑う」とは「考える」ことである。考えるには、それなりの労力がいる。労力を惜しむようになった自分とは、退廃する自分である。思い続けたい。疑い続けたい。そうだ。疑う対象を見つけたり。私の中に巣食うニーチェを殺す営みを通して、毎日、繰り返される日常を吟味することから始めたい。「ニーチェは死んだ」

 
 

第八話 「バーチャルリアリティー」について

 

 スキャンダラスで「何でもあり」の現代に不信感を募らせながら、我々は「バーチャルリアリティー」による疑似体験がもたらす罠にはまろうとしている。バーチャルリアリティーは、ゲーム機器などを操作する際に感じられる錯覚である。あたかも、いじめ社会でたまったストレスを、発散させるかのごとく作られた、バイオレンス物が人気の的になっているが、その前でバーチャルリアリティーの虜になりながら、命がどんどん軽んじられるようにマインドコントロールされていく。機器を通し、居乍らにしてあらゆる情報が苦もなく入手でき、様々なことが疑似体験できる環境のなかで、虚(バーチャル)と実(リアリティー)との「越境」化が進行しているように思われる。今、政治・経済的思惑のもとソフトな越境化がなされようとしているのかもしれぬ。越境化は、境界で仕切られていたものを融合し平準化させるが、相互の差異やそれにより醸し出されていた価値を希薄にさせるものでもある。また、価値希薄化に伴う権威の喪失がもたらすモラルの低下も懸念される。パソコンの画面を通して世界と一体化が図られると幻想を抱かせるインターネットは、バーチャルリアリティーを世界的に加速させた。バーチャル、すなわち仮想(虚像)を現実と錯覚する社会的事象も至る所で展開している。例えば、その一つとしてバブル経済が挙げられよう。プラザ合意後の消費扇情経済のなかで、儲け主義に現を抜かし、バブルの幻影に錯誤し、なかなか覚醒できなかった。また、カルト集団によるテロ行為には、ファミコン世代の若い信者を中心とする心性傾向が社会的背景として関わっていたのではないか。バーチャル化された彼等を簡単に操作洗脳し、破壊活動を容易に実行させた。そして、バーチャル化社会の進行は、性別越境シンドロームにまで繋がりかねない問題をも内包する。核家族化の進行する現在においては、女性の職場進出によって、家庭での様々な機能を、男性も当然果たさなければならなくなった。学校教育の見直しが図られ、高校家庭科男女共修実施など、家庭における男女協業が、真剣に検討され出した。官民あげて、文化的・社会的性の境界タブーに踏み込み、ユニ(モノ)セックス化を一般化させる。その結果、生殖行為の減退傾向が少子化に拍車をかける。世間を騒がす凶悪犯罪も、真の「生きる力」を見失い、空中浮遊して彷徨する、バーチャル社会の延長線上にあるのではないか。戦後半世紀を経て発現したオウム問題では、性懲りもなく平気で嘘をつき続け、犯行を合理化していく彼等のやり方に、憤りを募らせるばかりだった。しかし、カルト教団を国家に、信者を我々国民に置き換えた場合、かつての日本で、同様のパターンが展開していたではなかったか。ソト(諸外国)から異質として受けとめられがちの日本教を、ウチなる日本人信徒はそれを信じて疑わず、徹底的にイニシエーションかつ洗脳され続け、過去において、正しく最終戦争ならぬ聖戦をしかけ、挙げ句の果てに、教組のためならば命をも惜しまず、集団自決で一億総玉砕になるまで猪突猛進しようとした。その傾向は、今も拭いきれずに、我々の遺伝子に組み込まれている。イスラム原理主義を背景とするテロや、北朝鮮問題をみていく場合、我々の内なる日本教の過去及び現在を、絶えず比較検証する必要がある。

 

 ネット社会では閉鎖的な自分を解放させてくれる。得体の知れぬ怪しさが自分を変身させるのだ。正しく、「アバター」効果だ。簡単に言えば、「匿名」で「無責任」になれるということである。「ウソ」が罷り通るバーチャル虚構社会で、お気楽に自分の憂さをある程度さらけ出しながら、最後のところで本性を隠し遣り通せる。知のネットワークが構築され、弁証法的に自分を止揚することが可能なことは利点だが、匿名の問題点は、その「無責任」さが「軽薄」社会を助長することだ。そうした先に、無差別殺傷事件は位置付けられよう。事件を起こした者のほとんどは、自身の弱さを他者や社会のせいにして、我が儘で身勝手な欲求不満を、世間への恨みに肥大化させ当て付ける。劇場型ともいえる理不尽な凶行には、呆れるばかりで反吐が出る。モーセ十戒の中でも「汝、殺すなかれ」は一番であろう。だが、殺人犯の少年から「殺す経験をしてみたかった」というコメントが出てきたり、また、その際に周囲から、「なぜ人を殺してはいけないのか」という、呆れ返った言葉が投げ掛けられたり、それに対する返答までも窮するという現代でもあるのだ。子が親を殺し、親が子を殺す。そして自分自身をも。他人の尊い命をも奪うことが自由であるなどととんでもないはき違いまでするほどのモラル・ハザードだ。ところで、踏まれた痛みは踏まれた者でないと本当のことがわからないとよく言われる。広島・長崎、あるいは沖縄の人々に関しても同様のことが言えるのではないだろうか。原爆を投下され犠牲となった広島・長崎の人々にとり、加害者への恨みは一個人に対してだけでは済まず、加害国及び戦争に関わった全てに向けられてもいくのである。大変な人権侵害を受けた側にとり、その痛手や心の傷あるいは加害者に対する恨みは、永久的に続く。国家的犯罪とされる北朝鮮による悪辣な拉致事件問題が簡単に解決されないのも、日朝の過去の歴史がそうさせているのである。日本の一時期において諸外国に対し甚大な被害を与え、その責任を我々も含め今も問われ続けているのである。自分に直接、関わりのないことに対して、人はとかく鈍感になるものだ。しかしひとたび、わが身に害が及んで来たとき、安穏としていた自分が豹変してしまう場合もある。サカキバラ事件で殺害された土師淳君の父親もその内の一人だった。殺人は新たな殺意を引き起こすものであるということを噛み締め、「なぜ人を殺してはいけないのか」という、単純で難解な疑問と対峙し続けなければならない。

 
 

第九話 「歴史」について

 

 「歴史は繰り返す」と言う。その通りだ。それは、毎日は繰り返すと同様だろう。同じ事の繰り返し。繰り返しの中で、日常に安穏とする。変化は、不安定を引き起こす。できるだけこうした非日常は避け、安全地帯を確保する。しかし、日常の惰性が嫌悪感を呼び起こす。そして、時折、揺さ振りを実行する。マントル対流地殻変動をきたし、断層の歪みストレスを発散させるべく、地震発生により調節する。このような繰り返しにより、長時間にわたり地形が徐々に変容していく。正しく、歴史も地殻変動と同様に、安定と動揺を繰り返し、少しずつ変わっていくのだ。

 

歴史は恐怖との対峙の展開である。恐怖を司る側とそれを余儀なく被る側が社会を形成し、その体制からの逃避を「自由」や「平等」という価値で模索してきた。恐怖の典型は「死」であり、死は即ち「未知」ということである。簡単に言うと「分からない」領域である。その領域をめぐり宗教が人類史と伴に並存し、「神」なる精神安定装置を創出し、不安定からの逃避の歴史を繰り返してきた。ショウペンハウエルも「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。老後に生き甲斐を無くした者は、老いを加速させるものである。目的喪失は「死に至る病」であり、逆に目的保持は生きようとする欲望を喚起し、それが強ければ強い程、生命に活力が注入される。プラトニズムにしても理想を高く掲げ、それを追求し続けるなかで生命力を輝かせようとするのであり、我々はその虜になり、文明史を形成してきた。そして、死に伴う精神的・肉体的苦痛から解放してくれる文明という名の快楽を追求してもきた。その最先端にアメリカニズムがあり、核抑止も付随する。「毒を毒で以て制す」ならぬ「恐怖を恐怖で以て制す」という構図が、ハンムラビの「目には目を」の応報主義法典から抜け出せず、相も変わらずDNAの如く受け継がれてきた。

 

人間は生物界の数多の種のなかで自然(神秘)に盲従し続けられず、その摂理を解明し盲従からの離脱を絶えず試みながら、錯誤する動物である。それは、あたかも神経衰弱者がその苦痛から逃れようと、悩みの原因を模索し苦痛(恐怖)を相対化しながら気休めを図るパターンのようである。自然(神秘)は人間にとっての試金石であり、人類史を形成する源泉でもある。人類は中世まで自然に則ってその支配下に甘んじてきたが、理性という有為を身に付け出す近世以降、被支配的立場からの脱却を謀り続けその則を越えてしまい、そして今、錯誤しようとしている。

 

人類史は以下のように人間のライフサイクルと比較することができるだろう。一般的には人間は誕生してから乳幼児期頃まで母親の従属下に置かれるが、教育を通して知恵を身に付け出す児童期以降、従属的立場から自立しようとし続ける。そのピークが青年期だが、人類史においては自然を人間の支配下に置こうと試み出す近代に相当する。人類史も人間のライフサイクルもこの時期が大きなターニングポイントになる。人類は近代、科学を駆使し自然(物質的外界)の改造に努め、人間は青年期、教育により自己(精神的内界)の探求に勤しみながら、神秘的世界に近付きその正体を究明しコントロールしようとする。両者ともにそれ以前は自然(神秘)の脅威に屈伏し畏れおののきつつも、従順なるがゆえの生き易さがあり、それ以降は被支配側から支配側に転換し恐怖の克服が図られるが、独立独歩なるが故の生き難さがある。このように、我々はいかなる時期においても不安定要因に苛れる存在なのであり、そのなかで絶えず安定化を求め続ける存在でもある。

 

米欧による反文化相対主義の主張がなされ、それが逆説的にはナショナリズムの高揚にも繋がっている。冷戦崩壊がイデオロギーの終焉を決定付け、相対主義的動向に拍車をかけている。民族主義ナショナリズム)が相対主義的動向を象徴するのに対し、絶対主義的な動向はコスモポリタニズム(インターナショナリズム)という言葉に置き換えられよう。双方は人類史を通し、景気循環のように錯綜しながら競合しつつ交代が繰り返されてきた。社会が安定化に向かうとコスモポリタニズム的な気運が高まり、それが形骸化するなかで不安定で危機的な状況になるとナショナリズムが強くなる。湾岸戦争を契機に、アメリカ(傀儡的国連)主導の新世界秩序創りによる絶対主義的動向が再生される一方で、民族主義を代表とする相対主義的動向が顕著になり、地域域紛争が展開してきた。また、ヨーロッパでは、斜陽化するパックス・アメリカーナと対抗するべく欧州連合を形成し、絶対主義的動向を示すなかで、ネオナチなどの相対主義的動向が懸念された。こうして、世界全体が絶対主義的動向と相対主義的動向の相克のなかで鬩ぎあいをしながら、幾重にも錯綜しつつ展開した。そしてテロ時代の幕開けを迎え、S・ハンティントンの『文明の衝突』論が喧伝された。そのなかで、冷戦後の世界を「西欧と非西欧の対立」と捉え、斜陽化する西欧世界に対し、台頭する非西欧世界への警戒を暗に仄めかした。これは、それぞれの文化に固有の価値を認めようとするいわゆる文化相対主義を逆手にとった、欧米による反文化相対主義の擁護でもある。西洋近代の見直しの産物である文化相対主義を、今、西洋近代の擁護として引き合いに出しているのである。また、中国を中心とした東アジアの高度成長が西洋の危機意識を募らせ、それと並行して東洋の見直しが進んでいる。

 

歴史とは、面白いものである。吉田松陰を尊敬する人は多いだろう。私もその一人であった。学生時代、彼に憧れを抱いてもいた。自分の命を、大義のためなら、惜しむことなく捨て去ることができる。何という信念の持ち主か。しかし、彼の思想には、多分に先鋭的ナショナリスティックな側面が垣間見られる。「征韓論」は、その代表だ。彼は尊皇攘夷論者であった。列強勢力に対抗するためには、日本は西洋式軍備を取り入れて、軍事国家となり、自ら侵略者の立場に立つことを主張した。このような中で、征韓論は台頭し、朝鮮などのアジア民衆を侵略することで、日本の発展を目指そうとし、日本の帝国主義の基礎となったのである。 

 

 世界恐慌から80年、冷戦崩壊から20年以上がたった。天文学財政赤字を累積し続け国民感覚に鈍感で無責任な某政党は、去る総選挙の際、臆面もなく「責任力」なんぞというキャッチコピーを掲げ、案の定、いっぱい血にまみれた。無軌道政治に辟易としていた国民は前政権党に引導を渡し、現政権党は我が世の春を謳歌するはずだった。が、旧態依然とした政治手法に対し、国民の期待が失望に急変した。優柔不断で無策振りを天下に晒し混乱を来すリーダーのあまりの不甲斐なさに、怒りを通り越して虚脱感すら漂った。そして現在、世の中に「なんとか力」が溢れ返っている。「力への意志」は無力感漂う現代社会の裏返しでもある。「愛なき力は暴力」だが、「力なき愛は無力」であり、前者より厄介な結果をもたらす場合がある。数年前のイラクをはじめ北朝鮮などにおける独裁体制の横暴を押さえ込むため、アメリカを「世界の警察官」という超法規的例外暴力装置として黙認してきた。外交的手段で平和裏に独裁者による支配欲を抑制させながら、不正義を黙認せざるを得ないことほど、遣る瀬無いモラルハザードの極みはない。湾岸戦争イラク戦争におけるアメリカの行動を世界的に容認したのは、正しくこうした人々の心理が働いていたからではないか。アメリカの嘯く「正義の戦い」を嘲笑しながらも、不正義な「アメリカの正義」が世界の不正義に利用されたのだ。そして今、世界的テロがこうした構造の再現として展開している。一極支配の維持に汲々とするアメリカは、「強さ」を誇示しながらも結局はその裏返しである「弱さ」を披瀝している。新世紀が到来したが、社会のいたるところでモラル・ハザードが日常的となり、国内外ともに明るい展望が見出せない。そして、9.11以来、世界は恐怖をめぐるお化け屋敷となった。単独行動主義と合理化された米国の先制攻撃が、テロという名の怨念紛いのエンドレス復讐劇を増幅させた。S.ハンティントンの「文明の衝突」論が狡猾に扇情され、アメリカはかつて経験済みのミッションを着実に遂行し、世界が大きく傾き掛けた。冷戦構造が崩壊し、軍産複合体制がその生き残りを模索していた最中に起こった湾岸戦争の頃と同様のパターンを繰り返した。「普通の国」を目指そうと、様々な思惑が「改革」の名のもとに実現していった。

 

 20世紀最後の10年間を日本では「失われた10年」と呼んだ。その中頃に拙著『現代社会副読本』を出版し、その冒頭で、「変われない臆病さに愛想が尽きたと軽率な変身の合理化をする方が、変わらない愚直さに甘んじる以上に質が悪いように思えてならない」と「変化」に対する危惧を示した。果たして一体、何がどう変わったのだろう。人の心が益々、寒々しくなりはしたものの、この国の精神は一向に遅滞状態から抜け出せないままではないか。そして、経済立国日本が根底から瓦解しているなか、スパイラル状況からいかにして脱却できるのか。こうした状況下、果たしてどのような「夢」を抱けるというのか。ニーチェは、『善悪の彼岸』のなかで「道徳的現象などというものはまったく存在しない。むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。」と述べたが、現代社会に道徳的現象が存在しなくなってきているとするならば、拙著における筆者の検証もただ現象の道徳的解釈のみに終始したわけになる。尤も、今という時代は道徳的解釈すらも存在しなくなりつつあるのではないか懸念されるのだが。

 
 

第十話 「アメリカニズム」について

 

 私はこの数十年間、アメリカニズムを懐疑し、その源泉であるヨーロッパ近代を問い続けている。アメリカニズムとは、アメリカ的思考及び行動様式であるが、その源泉にはアメリカの母体であるイギリスの思想が、特にベーコン以降の英国経験論やその系譜にある功利主義などがある。そしてそれら英国思想の影響下にあるアメリカの哲学、すなわちプラグマティズムアメリカ二ズムの核をなしている。更にプラグマティズム相対主義を唱道するものであり、価値相対主義の延長線上には、様々な領域におけるボーダーレス化が待ち構えている。例えば男性の女性化・女性の男性化という性のボーダーレス化もそのうちの一つとして指摘される。こうしてあらゆるジャンルで差異を淘汰していこうとする傾向が、今後益々進行していくであろう。多用される「チェインジ」という言葉は、価値相対主義的動向を表象する代名詞であると同時に、アメリカ一極支配に迎合するべく、日本のシステム及び日本人を変えるために用意された造語に思えてならないのである。

 

 西欧近代は、理性を尊重する合理主義を根幹として発展を遂げてきた。その反面ナショナリズムは非理性的なものとして抑圧され続けてきた。ナショナリズムは、近代の象徴である個人主義自由主義と葛藤し、それらにより返って孤立し不安を募らせる近代人にとって、母胎内の羊水の如くアイデンティティを満たしてくれるものでもあった。また近代文明により疎外度を増していく近現代人は、不変的なるナショナリズムへの永劫回帰すなわち自由からの逃走によって自慰しようとするのである。近代を人類史における自我形成期とすると、現代はその自我の分裂期にあたる。20世紀、西洋近代の危機を克服するため、社会主義イデオロギーが要望されたが、その挫折が自我分裂に拍車をかけている。西洋近代の自我分裂は日本近代の自我分裂でもある。経済立国日本の低迷、政界の混沌も結局、近代の挫折の延長線上にあるように思われる。

 

 ニーチェは、キリスト教を母体としたヨーロッパ近代を懐疑しそれに警鐘を鳴らした。そのためには、「いじめ」による孤立無援をも覚悟で我が侭を徹さねばならず、そしてそれは一筋縄ではいかぬ最終的な修業であるとも言った。アメリカ一極支配が継続するなかで、彼の言葉は示唆に富むものがあるのではないか。さりとて、真のエゴイストたらんと金権力に塗れ、最終的な修業を踏み間違え、「普通の国」を目指しながら「権力への意志」を滾らせ自滅への道に至らぬよう気を付けなければならないことは勿論の事である。ソ連邦の解体後、核弾頭の解体処理が急速に進められているが、核開発に関わる技術や頭脳がロシアから世界に流出拡散し、核管理体制の杜撰さが大きな問題になっている。そんな折、北朝鮮金日成死去及びNPTからの脱退宣言、IAEAの核査察拒否と極東での緊張が高まるなか、米国は日米原子力協定で譲歩したわが国のプルトニウム路線を見守るしかなかったようだ。北朝鮮が国際的孤立化を辿るなかで、最後の切り札として核保有をちらつかせる現在、極東における日本の位置付けが微妙に変化している。もし、対北朝鮮ないし中国を考慮した米国の戦略上、日本にいつでも核開発(保有)へ転用がきく原子力対策が暗黙裏に検討されているのだとすれば、これは日米双方にとり諸刃の剣でもある。日本に咬ませ犬としての役割を担わせようとするなかで、日本自体が脅威の的になりかねないからだ。特に日米安保の見直しあるいは不要論までが実際に取り沙汰されている昨今、いわゆる「普通の国」を目指しながら将来、核武装化を踏まえたうえでのプルトニウム政策があるのではないか厳重に監視していく必要がある。

 

 米欧による反文化相対主義の主張がなされ、それが逆説的にはナショナリズムの高揚にも繋がっている。冷戦崩壊がイデオロギーの終焉を決定付け、相対主義的動向に拍車をかけている。民族主義ナショナリズム)が相対主義的動向を象徴するのに対し、絶対主義的な動向はコスモポリタニズム(インターナショナリズム)という言葉に置き換えられよう。双方は人類史を通し、景気循環のように錯綜しながら競合しつつ交代が繰り返されてきた。社会が安定化に向かうとコスモポリタニズム的な気運が高まり、それが形骸化するなかで不安定で危機的な状況になるとナショナリズムが強くなる。湾岸戦争を契機に、アメリカ(傀儡的国連)主導の新世界秩序創りによる絶対主義的動向が再生される一方で、民族主義を代表とする相対主義的動向が顕著になり、地域域紛争が展開してきた。また、ヨーロッパでは、斜陽化するパックス・アメリカーナと対抗するべく欧州連合を形成し、絶対主義的動向を示すなかで、ネオナチなどの相対主義的動向が懸念された。こうして、世界全体が絶対主義的動向と相対主義的動向の相克のなかで鬩ぎあいをしながら、幾重にも錯綜しつつ展開した。そしてテロ時代の幕開けを迎え、S・ハンティントンの『文明の衝突』論が喧伝された。そのなかで、冷戦後の世界を「西欧と非西欧の対立」と捉え、斜陽化する西欧世界に対し、台頭する非西欧世界への警戒を暗に仄めかした。これは、それぞれの文化に固有の価値を認めようとするいわゆる文化相対主義を逆手にとった、欧米による反文化相対主義の擁護でもある。西洋近代の見直しの産物である文化相対主義を、今、西洋近代の擁護として引き合いに出しているのである。また、中国を中心とした東アジアの高度成長が西洋の危機意識を募らせ、それと並行して東洋の見直しが進んでいる。

 

 日本はかつて福沢諭吉等の「脱亜入欧」論に乗じ、欧米列強(西洋近代)に伍し、白人支配の帝国主義路線の末端に参画しながら、近代日本を構築してきた。その結果、西洋近代を西洋にかわり大東亜に広げていったと評価され、不名誉にも日本(人)に対して「名誉白人」というレッテルが下賜されたのではなかったか。そして今、日本では「脱欧入亜」論が叫ばれ、日米安保体制との鬩ぎあいが高じつつある。アメリカはアジアシフトを念頭に置きだした日本を警戒しながらアジア外交を展開している。米国の一極支配にとり気懸かりなのは中国の台頭であり、その中国をいかに封じ込めていくかが今後における米国の外交主題の一つとなりそうである。また近代(米欧)とポスト近代(アジア)の間で、両者を曖昧な(アムビギュアス)姿で共有する日本は両者の「文明の衝突」による終末を回避させる鍵を握っている。あるいは、両者の摩擦による軋み回避のため、両者が連合してJバッシングという防衛規制を働かせ、日本はいつか来た道を辿らされるのかも知れぬ。日本の外交三原則のうち、「日米基軸」「アジアの一員」という二原則を満たすために、片足は米国もう一方の足はアジアと、異なる二本の足で倒れずに前に進むのは容易ではない。

 

 “山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。”かつて漱石が山路を登りながら、智=近代西洋と情=前近代東洋の板挟みに苦悶した時と同様に、日本は西洋(米欧)と非西洋(アジア)の狭間で、今後益々葛藤を余儀なくされるであろう。

 

 かつて、「小泉劇場」なる流行語があった。小泉純一郎氏は、イラク戦争の際、自ら米国に出向いて行ってまで、支援恭順の態度をネコ撫で顔で媚びた。米国本土が攻撃を加えられたのであって、日米安全保障条約第5の共同防衛義務に該当する、わが国の施政下の領域内におけるいずれか一方に対する武力攻撃に対してではなかったのだ。彼の失政は、この不正義な戦争に参戦したことだ。それが、未だに総括されず仕舞いなのは、どうしたことなのか。日本国民は、まだ、氏のパフォーマンスによる洗脳から、完全に抜け切れていないのではないか。さて、劇場なのものは至る所に見出される。劇場内の構成は概ねステージ上で演ずる役者と、それら役者の芝居をステージ下で傍観する観客に大別できる。そうすると、小泉劇場では、ステージ上の小泉首相らのパフォーマンスを、ステージ下で傍観者的に遠く離れた桟敷席から望遠鏡でも覗きながら眺めているしかなかった、日本国民の悲しい姿を物語る現れなのではないか。パフォーマンスを遠い世界のこととして眺めてはいなかっただろうか。

 

 アメリカのシンボルとされる自由は、儲けを飽くなき追求できる自由なのである。そして、その自由獲得のためならば、何でもやらかすという厄介なものでもあった。まず、それは母国イギリスからの決別戦争からスタートした。新天地北米大陸の豊かな資源を簒奪したいイギリスと、それを阻もうとするワシントン以下の北東部独立派による最初の戦いであった。そして、第2段階として依然、北米大陸南部に未練を抱く英国をバックにした勢力と、独立派の儲け主義を脈々と受け継ぐリンカーン以下の北部WASPとの内戦が展開した。その間、領土の拡張と白人定住地の拡大が国家的使命としてなされ、その使命はインディアンの征服と土地奪取という陰惨なやり方で達成された。19世紀後半、とくに1860年代から80年代にかけての西部は、インディアンと白人との激烈な戦いの場となった。今世紀に入り、それらの戦いは西部劇の題材としてたびたび取り上げられることになる。ハリウッドが創り出した「正義の騎兵隊vs野蛮で残忍なインディアン」という図式は、白人の身勝手な虚構であることはいうまでもない。インディアンにとっては、侵略者から自分たちの生活を死守するための戦いだったのであり、実際に野蛮で残虐だったのは白人の側だった。英国の影響下にあった資源豊かな南部をも制圧した連中は、19世紀終盤以降、国家的欲望を世界大に及ぼしていく。日本がこの欲望の果てに翻弄されるのに、さして時間はかからなかった。そして、ぺりーとマッカーサーが土足でやって来たのだ。  そもそもなぜ米国との軍事同盟が存在するのか。またなぜ今も、沖縄に米軍基地があり続けるのか。そして挙げ句の果てに米軍駐留兵士による愚劣極まりない横暴を余儀なくされ続けるの。結局、米国による覇権主義を容認(黙認)しているからに他ならない。動物の世界では縄張りをめぐる争いは常である。その縄張りを侵されないようマーキング行為に余念がない。人間世界も同様で、歴史のなかで唾の付けあいをし続けてきた。縄張り争い(戦争)に事欠かないのがこの世の常である。日本は50年前にその縄張り争いにおいて米国に完敗したのである。普通、敗者は勝者の縄張り(覇権)のなかで細々と余生を送るのである。その際、敗者は勝者による様々ないじめを覚悟せねばならぬ。勝者はまたその敗者いじめを示威行為としても利用し、覇権を全体に誇示するのである。そうして勝者は自分に取って代ろうとするものがないように絶えずマーキング行為に励まなければならないのである。ソ連亡き後、米国はマーキング行為に余念がない。縄張り争いに敗けたソ連が自暴自棄になっていた80年代終盤に米国は世界制覇に向けて歩み出した。'91年のイラクフセイン)いじめを手始めに制覇への地歩を固めつつある。今、制覇に 異を唱えられる実力を有する存在は中国であろう。中国は経済面で資本主義化したが、政治面は依然と社会主義なのである。当然、米国は中国をいかに封じ込めていくかに今後精力を傾注するだろう。その折り、日本は米国側の最前線に位置し楯とされるのである。そういう状況下において、沖縄の米軍基地は最重要拠点であり、冷戦構造が崩壊し戦後半世紀たったのだから基地を縮小し最終的には日米安保体制も見直し、日米安保条約を廃棄すべしとおいそれとはいかないのだろう。また、正義を旨とするはずの警察が不正義の象徴でもある暴力団に完全になめられている社会のなかで、暴力団の縄張り争いに怯える大衆が不正義がばっこし、まかり通る社会を容認している図式は要するに現在の世界においても当てはまるのではないか。正義の象徴であるはずの国連が不正義のアメリカ(当人は正義をうそぶいているが)におもちゃにされ、世界制覇を虎視眈々とねらう世界のなかで、覇権主義を黙認し力による一極支配と、それによってかもし出される冷たい平和を求め、その結果として覇者による恐喝に怯えながらも、生き残り策を模索し続けている世界、そして日本。犠牲を代償としなければ成り立たない現実を、運命愛として受け入れながら、一体いつまで自己を偽り続けていけるのか。

 

 現代の近代化論に影響を与えたものは、1970年代中期においてウォーラースティンにより提示された世界システム論だ。彼によると、近代世界システムは15世紀末に形成されたもので、それは主権国家から成る国際体系、国境を越えて利潤を求めて貿易が行われる世界資本主義体系(世界資本主義体制)、異なる文化から構成される体系という特徴を持ち、政治・経済・文化などを一体として捉えなければならないとする。また世界資本主義体制は搾取の体制でもあり、世界の国々は資本集約的で先端的な技術を持つ中心、労働集約的で時代遅れの技術しか持たない周辺、中間的に両者の特徴を合わせ持つ準周辺のいずれかに属し、この三層構造のなかで、中心はその構造を維持しようとし、また周辺はその構造を変革しようとし、世界システムにおける支配と対抗の構図が成立するとした。そして中心のなかに覇権国が出現し、その存在が世界の政治・経済の安定化につながるが、飽くなき独占利潤を求めながら、様々な分野を商品化し、もはや資本蓄積の可能性がなくなると、世界資本主義体制はその歴史的な役割を終えて、他のシステムにとって替わられるとした。

 

 米ソ両超大国の影響力の凋落と冷戦構造の崩壊を迎えた今日、新たな世界秩序ないし国際レジームの誕生の可能性が注目されるが、アジア・イスラム世界をはじめとした資本蓄積可能の対象地域が注目されだした現在、世界資本主義体制はその歴史の終わりを迎えたのではなく、新たな始まりを展開しようとしている様にも見受けられる。