チッポ家な夢

チッポ観察日記

チッポ家な日記

【フランスパリの高校生やるの~】フランスパリの暴動は未だに収束のめどが立たぬ程、過激化している。そして、高校生までデモに加わり逮捕者も出る始末。ホントにフランスパリは元気やね~。然るべきところに自分達の不平・不満を、ちゃんとブツケとるがな。それに比し、日本の若者はドナイシトンかいな~。昨日は、不登校傾向の者がエライ大勢いるなんていう、何とも情けないニュースが報じられてたが、何しとんねん。家に引き籠って一日中、部屋の中でパソコンゲームしたりして、下らん事に時間を潰しとんやろ~。そんなんじゃ、アカンやろ~。夜中に外へ出て、密かに体鍛える方がまだマシやんか。学校や社会に文句があるんやったら、然るべき手段に訴えて、ちょっとはデモンストレーションでもせんと、何にも変わらへんで~。パソコンがあったら何か出来るやろが。例えば、文科相にメール送るなりして、直訴してみんかい。オラはその昔、小泉純一郎(当時の首相)に米国の仕掛けたイラク戦争へ追従した件に関し、抗議メール送ったで~。本人には届いてないやろけど、遣る事はやってるよ。安倍晋三にも何かでメールしとるわ。こんな感じで、今の時代やったら、パソコンやスマホ一つあれば、それをツールに何でも出来るで~。自己満足で終わったとしても、何にもせんよりはマシやないかいな。新聞投稿もあるで~。ワシは昨年から今年にかけて、地元新聞を中心に結構投稿したよ。加計問題や原発再稼働問題を中心に、どんどん発信したぜ。基本はピンポイントで抗議すべきやね~。あくまでも民主的に訴えるのは当然で、暴力的手段に訴えるのはアカンよ。捕まるの覚悟でやるんなら別やが、そんな事になったらタダでは済まんわいな~。自分だけじゃなく、他人にも迷惑掛けてしまうし、もの凄いロスに繋がってしまうわな。だから、即効性が無く効果的で無い手段でも、小さい事を繰り返し巻き返し遣り続けていたら、少しずつ扉が開かれて行くと思うよ。不登校や引き籠り続けて、一生働きもせず何にも社会との繋がり持たずに、親や誰かのスネ齧り捲って老いさらばえるのでは、余りにも哀し過ぎやないかいな~。オラのブログでも読んで、少しは腹立てたらエエと思うで~。「腹が立つ」事が、先ず一番大事な事なんや~。これが全ての原点になるんよ~

 

【( ^ω^)おっノーベル】ノーベル賞授賞式に、最初から最後まで和服の紋付き袴姿で出席した本庶さんに、アッパレを挙げたい。私はノーベル賞自体にはその在り方や選考方法などに関し、普段からあまり好印象は持ち得ない。ある意味、「知のオリンピック」みたいなものだろうが、純然たる選抜ではない。多分に妬み僻み嫉みのヤッカミ根性がその様な穿った見方をさせるのであろうが、肉体界の王者決定戦に対し、精神界のそれを競わせるノーベル賞大会に、矢張り疑念が付き纏う。両者共に欧米世界の国々が、圧倒的にその強さを見せ付けて来た事実が、その歴史であろう。従って、政治的・経済的に劣位な発展途上地域の国々に、その王者決定戦に勝ち目はないのだ。名乗りすら出来ぬのが現実だろう。「衣食足りて礼節を知る」の諺通り、衣食が慢性的に不足し、その日暮らしに追われ食うに食えない極貧生活を余儀無くされている国では、ノーベル賞やオリンピックなどで活躍しようなどと云う、呑気で気ままな生活が送れるほんの一握りの贅沢なお金持ちしか出来そうにない暇潰し大会などに、参加する事すら可能ではないのだ。その呑気で気ままな贅沢三昧の生活者が多数存在する国、アメリカが、肉体・精神両世界の百獣の王に君臨し続ける事は、至極当然の事であり、そうした事実を確認する作業が繰り返されているに過ぎないのだ。こうしたピラミッド構造を踏まえて、我々は一喜一憂しなければならない。だが、「それを言っちゃあ、御終いよ」の寅さん口調に圧されて、ピラミッドシステムを容認し乍ら、日本人受賞者にガンバレ~のエールを送るのだ。だが、日本はピラミッドの上層階に近代以降、居座り始め、今では常連組に属している。だから、本来なら近隣の東南アジアなどの、下層階に属した国々にエールを送るべきなのだが、如何せん、この歴史的に堅牢に築かれたピラミッドシステムは、そう簡単には崩す事は百%に近い確率で不可能なのだ。だから、偶に起こる奇跡的快挙を待つしかないのだが、そんな偶発的事象は殆ど皆無に近い。さて、再度話を蒸し返して、ピラミッドシステムに目を向けよう。本庶さんは京都大学で研究活動をされていた。自然科学系のノーベル賞受賞者は、日本人なら「京都閥」が多数派である。京都大学の理学部や医学部などでの研究者が、ノーベル賞の誉に与れる確率が非常に高い。湯川秀樹朝永振一郎がその先鞭を切った。最近では名古屋大学などもノーベル賞受賞者を出したりしたが、日本の大学では京大・東大がノーベル賞に最も近い双璧だろう。この大学に入る為の偏差値教育が、此の国の教育の根幹にあるのは周知の事実で、それをより強固で不動なものへ形成していく営みが、日本社会の隅々に様々なる形に姿を変えて展開されているのではないだろうか。そのネットワークにぶら下がろうと悪戦苦闘し、日本人一人ひとりが「知のネットワーク」参加者としてバーコード化され、先ず第一段階として品評されるかされないかの二大別区分が、大学入試のセンター試験で実行される。さて、五十年前に起きた三億円事件は、高度経済成長下の日本で、その後に於ける拝金主義社会の行く末を暗に仄めかす、極めてエポックメーキングな出来事であり、「知のネットワーク」に反逆する、正しく「結構変態仮面」張りの戯偽義挙となったのではないか。勤勉努力を逆撫でした詐欺的手法で、金を効率良く獲得出来る手口をデモンストレーションし、経済動物として飼い慣らされ、偏差値教育に絡めとられコントロール支配されていく連中を、嘲笑うかの如き反逆行為となった。

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【インドの余韻~「ナマステ」は全てに通ず】インドから帰って2か月が経とうとしている。あの時の衝撃は今も脳裏に焼き付き、振り返る事が多い。何とも言えぬ、今迄、体験する事の無かった異空間が、其処には歴然とあった。私の生っチョロい人生観や価値観は、全く通用しないだろう、正しく「カオス」そのものが広がっていた。目の前に、牛・馬・犬・(猫と象は意外にも私が行動したエリア内で見掛けた事は無かった)バイク・車(日本車は小回りが利くスズキが多く見られた)・人人人が、人畜一体となり、自然調和の如く、お互い棲み分け宜しく、大自然の営みが滔々と、粛々と展開されていたのだ。ガンジス支流の河川敷には、数多くの沐浴場があり、人々が水辺で祈りを捧げる光景を、何度となく目にした。先日まで、日本の片隅で、パソコンを前に悶々と日々を遣り過ごしていた自分の存在意義を、改めて問い直す機会となった。インドの人々の眼差しには、優しさの中にも、その日の糧を求める厳しく鋭い光で、観光見物で通りすがる呑気な日本人として映っているように思われた。均質で上質な日本人及び日本社会の、何と言う「贅沢三昧」で「横着この上ない」、清潔感の充満した幸福空間は、此処では異端空間とも見做される程、特異な世界である事が実感され、我々の目指そうとしている世の中が、果たして真っ当な行末であるのだろうかと、大いなる疑念を抱かされる旅となった。 私はこれ迄、中国へは何度も足を運び、日本とは違うそのスケールの大きさに、度肝を抜かれた。東京の何倍もの大きさを感じさせる北京や上海に、日本の小ささをまざまざと見せ付けられ、中国人の日本人に対する見方や考え方の基底に、こうした生活空間スケールの大小が、多分に影響しているのだと、思い知らされた。そうした中国とも、また違う何か「得体の知れぬ」「不気味さ」を感じさせるインドだった。だが、この両国には共鳴性も見出し得る。インドは仏教発祥の地であるが、紀元前5世紀以降、仏教の「輪廻」思想を中心とする教えが、アジア各所に伝播し、中国の古代儒教精神に少なからず影響を与えて来たであろう事は、容易に推察出来る。その後インドは、仏教がヒンドゥーに取って代られて、その釈迦の精神は中国で花開く事となる。輪廻思想は儒教と対抗的位置付けを示す、老荘思想道家へ、正しく「上善如水」へと注ぎ込まれて行った。水の姿は実に人の道に近い。この老子の考えは、インドの旅に於いて再考する事となる。至る所、人畜一体の光景を目の当たりにし、人と他の動物達が争う事無く、お互いの存在を認め合い、信頼関係が自然と出来上がっていたのである。特に、愛犬家の私が注目したのは、犬の佇まいと、その犬の眼差しであった。日本では考えられぬ「放し飼い」状態が、普通であったのだ。鎖やリードで繋がれた犬を、殆ど見付ける事は出来なかった。道路の呂畑にのんびりと横たわり、人はそうした犬に、何の危害を加える様な素振りすらせず、犬もそんな人間達に対し威嚇する必要性も無く、無駄吠えをしたりした犬を見受ける事は皆無だった。また、危害を加えられない生活環境が、犬の瞳に如実に反映されていたのである。どの犬も、本当に「優しい目」をして、ゆったりとした立ち居振る舞いだったのだ。日本だったら、直ぐに通報され然るべき措置がとられる筈だと、何度も複雑な思いに駆られたものだ。そして、中国にも思いが及んだ。中国では、犬にとっては其処は「地獄の修羅場」と化す。犬を食用とする彼の国では、露店で丸焼きの犬が吊るされていたりするのは、当たり前の光景となる。そんな国では、自ずと犬の目付きも変わらざるを得ないだろう。優しい目など、在り得ない事なのだ。潰されたくないのなら、犬は人間を攻撃対象としてしか見ず、人を見れば直ぐ一目散に逃げ去るか、威嚇行動をとり牙をむき吠え続け、人間に齧り付くかのどちらかだろう。そんな中国とは一転して、犬にとりインドは正しく、「ガンダーラ」そのものなのだ。

2018-12-11

「覇権システム神経症」って!?~「システム」と云う名の「お化け屋敷」

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【「痛み」を感じないと🙅よダメダメ!】「このハゲ~!」って、何処かの女代議士が自分の秘書に禿呼ばわりして問題になり、結局、政治生命絶たれる事にナッチャッタよね。それ程、ハゲはデリケートなものなのだろうね。さて、それはそうと、先程のナマハゲは、何処からそんな差別的用語と化したのだろう。今は昔のお噺だが、威勢の良かった某女代議士が「このハゲ~!」と秘書に対しメチャクチャ罵倒し話題となったが、たら、誰だって禿になる位、大きな精神的ダメージを受ける事だろう。世界文化遺産に登録された「ナマハゲ」だって、これ迄、どれだけ禿呼ばわりされて来たことか。ハゲ呼ばわりされるナマハゲの気持ちになって、少しは「他人の痛み」を我が身の事としてじっくり考えようではないか。さて、この私は以前、腰痛を患い、「痛み」に拘り続けていたのだが、最近、腰回りの痛みから少しずつ解放されている。痛み(苦)からの解放は、「他人への思い遣り」を希薄にさせる事ともなる。「他人の痛みは、自分も同様に踏まれてみないと分からない」もので、「自分が踏まれてみて初めて、その真の痛みの意味を共感出来る」ものである。だから、人は概ね、他人の抱える苦しみや問題に対し、無関心であり、無頓着なのだ。世間では様々なトラブルで、大怪我や最悪の場合、死に至る事だって枚挙に暇が無いが、それらを我が事として受け留め、その痛みに寄り添うなんて事は不可能に近い。ましてや、よその遠い国に於ける戦争で、人の命が軽んぜられ、日常的に悲惨な出来事がニュースで報道されても、その悲痛な叫びは殆ど心に響かないのが現実だろう。だが、一端、そうした他人事だった筈の出来事が、いざ自分自身に降りかかってくれば、それまでの対応が豹変してしまうのは想像に難くない。他人の痛みが、自分自身に跳ね返って来た時、初めて、その痛みが理解され、その対応行動が始動し出すのだ。そして、その痛みが強ければ強い程、その痛みを自身に与えて来た対象に、強い「怒り」となって発露し、「行動」へと駆り立てられる事となる。究極の行動が「戦争」だ。さて、此処で私が取り上げたいテーマは、「人の痛み」は「他人の痛み」を理解し得る者に、真に理解され得ると云うなどの、「人」や「他人」ではなく「人間以外の他生物の痛み」についてなのである。「人権論」者は、一般に「人間の権利」をテーマにして、様々な論考を展開する。世間から「人権活動家」であるとか、「人権擁護論者」と見做されて思しき人々は、案外、人間以外の他生物に対してはシビアな考え方をとる者が多い。「灯台下暗し」で、他人に愛想振り撒く者ほど、身近な家族には冷たい素振りをしていたりするのと同様で、人以外の生き物には全く目もくれず、虐待や人の温もりを感じさせぬ行動を、何食わぬ顔で取り続けている者が、人権論者の中にも居るだろう。

【「あんま」は差別用語!?「ザリガニ(イザリガニ)」も差別用語!?「言葉狩り」で「表現の自由」侵害か!?】杖とサングラスを身に付けとぼとぼ歩く人の姿を見れば、それは視覚障害者の「盲人」であるだろうなと分かる。さて、嘗ては視覚障害者の盲人を、「あんま」という言葉を使って呼ぶ場合もあった。だが、今では「あんま」という言葉自体が、放送禁止用語扱いされ差別用語と見做される。自宅などで「按摩」をしていても、看板広告には「マッサージ」と表記する様になった。だが、私は「腰に按摩を掛ける」などと、未だに口走っている。言葉使いには気を付けなければと自戒するが、長年培われて来た言語文化の習慣は、一朝一夕には改まらないのも実情である。盲人も何か引っ掛かるが、ギリギリセーフか。だか、「盲」一字となるとアウトギリギリになりそうだ。その一字にしても、盲をモウと呼べば特段問題ではないが、「メクラ」なんて言おうものなら、大問題となる。更には、障害者も「障がい者」と表記する事が多くなり、「害」という字を差別的イメージとして捉える心象傾向が窺える。そうすると、害と云う一字は、我々から差別的取り扱いをされている事になるのか。害は兎角「災い」を意味し、そうしたイメージがこの一字を「忌避する行動」へと繋がる。忌避する行動とは、この場合、使用しないと云う意味で、それはこの一字を目の前から「遠ざける」と云う事であり、最終的には「消し去る」事をも視野に入れた、何とも意味深な対応なのだろう。「害を及ぼす」や「災いを招く」など、行き着く先には人の「死」が待ち構えていると云う、負のイメージを伴う表現は、出来得る限り、近付かない、近付けない、よって「使わない」方が得策だと考えるからであろう。究極は「触らぬ神に祟り無し」の諺に収斂される訳だ。だが、この諺自体も多分に差別的色合いが含まれた表現であるとされ、昨今は使用を躊躇う傾向がある。今夏の西日本豪雨災害も、何時の日か「豪雨災がい」や「豪雨さいがい」と、ひらがな表記されて行く事になるのだろうか。さて、「ザリガニ」は果たして、何処に問題があると云うのだろうか。読者諸氏、お分かりだろうか。ヒントは( )内の別名に起因する。ザリガニの語源は、「いざり蟹」の転訛とする説(「いざる」は「膝や尻を地につけたまま進む」こと)と、「しさり蟹」(しざり蟹)の転訛とする説(「しさる」「しざる」は後退り、後退行すること)とがある。ほかに「砂礫質に棲むことから“砂利蟹”」であるとか、体内で生成される白色結石から仏舎利を連想して“舎利蟹”と呼んだというような説もあるが、前者についていえば、ニホンザリガニはとくに砂礫質の場所を好んで棲むわけではない。地方によってはエビガニと呼ぶ。身近に生息しているためザリ、ザリンコ、マッカチンなど多くの俗称がある。これ迄、ほんの一事例を挙げ、微妙でデリケートな言葉への対応を検討して来たが、表現を変えたり表記し直したりする事は、何を意味しているのだろうか。先ずは、その表現や表記により、著しい心的被害を被った場合、人権侵害で訴えられたり、糾弾されたりする恐れがあると云う事への恐怖反応が起こるからだ。一つ間違えば、裁判沙汰になり、世間からの厳しいバッシングや風評被害が待ち受け、それは当人にとり、社会的存立を著しく危うくさせる大問題であり、大いなる脅威でもある。だから、深刻に受け止め、過剰過ぎる程の対応に突き進んでしまうのだ。誰かが言い始めると、忽ち燎原の火の如く全土を覆い尽くす程のスピードで、差別用語、或いは差別的表現・表記だと揶揄され、一端、差別性のある表現・表記だとのレッテテルを張られたものは、忽ち世の中から淘汰されて行くのである。嘗て、筒井康隆氏の『無人警察』で、表現上、「てんかん」の取り扱いが差別的だと抗議団体からの誹りを受け、「表現の自由」が著しく歪められると、「断筆宣言」で徹底抗戦の構えを示したのは、記憶に懐かしい。

【「ナマハゲ~」の「痛み」を感じないと🙅よダメダメ!】ナマハゲが世界的に認知される。さて、ナマハゲって、一体、どんな禿なんだろう。「このハゲ~!」って、何処かの女代議士が自分の秘書に禿呼ばわりして問題になり、結局、政治生命絶たれる事にナッチャッタよね。それ程、ハゲはデリケートなものなのだろうね。さて、それはそうと、先程のナマハゲは、何処からそんな差別的用語と化したのだろう。と思いきや、実はその語源には差別的意味合いは見出せない。冬に囲炉裏(いろり)にあたっていると手足に「ナモミ」 「アマ」と呼ばれる低温火傷(温熱性紅斑)ができることがある。“それを剥いで”怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与えるという意味での「ナモミ剥ぎ」から「なまはげ」 「アマハゲ」 「アマメハギ」 「ナモミハギ」などと呼ばれるようになった。従ってナマに「生」の字を当て「生剥」とするのは誤りであり、頭髪の無い人へのバカにした呼称である「禿げ頭」の「禿」でも無いのである。なまはげの仮面の形は地域によって様々異なるが、赤面と青面の1対に定型化もされており、この場合は赤面がジジナマハゲ、青面がババナマハゲと呼ばれる。

【ナマハゲは道徳教育代行者】私が幼かった頃、ナマハゲは私にとり此の世でコワイもののベストテンには入っていた様に記憶する。それ程、本当にこんなのが居るものと信じて疑わなかったのだ。兎に角、怖かった。今は遠い昔の話だ。今でも東北北部地方では、子供達の前に現れ、子供達をビビらせているのだろう。そのナマハゲが、世界に認知された形となったのだ。私は、怖がり性分で、今もその性格は不変だ。臆病者と言うか、小心者大将と言っても過言ではない。そうした性分が、私の終生のテーマ「恐怖とは」に繋がっているのだろう。私は、この恐怖が曲者だと、常日頃から思い続けている。私は、恐怖は必要悪と捉えている。「恐さ」は、あらゆる営みに関わる源泉であり、コレなくしては、我々の生命維持は図られないだろう。簡単な話をすれば、俗な例として、「何故、生きるのか」と云う問いに対する答えが、それに該当するであろう。それは、「死ぬのが怖いから」だ。極、シンプルな答えで、核心を突いている。この答えは、単純明快過ぎて子供扱いされるが、これが一番、重要で大切な鍵を握っている。逆に考えれば分かる事だが、「死ぬのが怖くなければ、何でもやれてしまう」となり、これは良い解釈なら「死んだ気になれば、出来ない事はない」と、挫折し掛けた際の励ましの言葉となる。だが、ここで取り上げるべきものは、そうした捉え方ではなく、「恐さを知らぬが故に、抑止力が働かなくなり、不善行為に至ってしまう」と云う解釈の方だ。「恐くなければ、何でもやらかし、殺人行為も抵抗なくやれる」となってしまう。それが、最悪の場合、「戦争なんて怖くないから、核を始めとする大量殺戮兵器を使用して、全面核戦争も辞さない」なんて事にも成り兼ねない。だから、「核抑止論」なる恐怖による核のシーソーゲームの背景理論が誕生し、それが実しやかに通用し、戦争が未然に防がれている等と、核保持が正当化されるようになる。再度、身近な話に戻して、怖さが全ての営みの元になる例を季節行事で示せば、更に理解し易いだろう。この時期、中学や高校では期末考査の頃だ。生徒に「何故、勉強するのか」と問えばどうだろう。それは、普通、「いい点数が取れるように勉強する」なのだろうが、その先には「悪い点数を取るのが怖いから」となるのではないか。悪い点数は悪い成績となり、自分の評価が下げられ、その積み重ねの先には、思わしくない進路選択が待ち構えている。そうした先々の予測も含め、勉強しなければ悪い出来事が待っているとする「恐怖心」が先立ち、期末考査に向けた勉強へと生徒達を駆り立てるのではないか。この様に、怖さが必要悪として存在し、その恐怖心が曲がりなりにも自身の生活保障へと導く鍵なのである。「ナマハゲ」で子供時代に恐怖心を体感させられるのは、ナマハゲが子供達に「悪さする者イネ~か」とその鬼の強面で叫び乍ら、子供達に不善行為の禁止を幼心に刷り込ませている、道徳的代行行為としてあるからなのだ。「三つ子の魂百までも」の金言通り、小さい子供時代に不善行為に対する怖さを、ナマハゲがその象徴となって道徳教育の代替的役割を担っているのである。

【瀬尾孫左衛門の「悲痛」&「大日本帝国」江上少尉最期の意味深な「辞世絶叫」】討ち入り前、チクデンした瀬尾孫左衛門も、遠藤周作「沈黙」で描かれた「キチジロー」と、ほぼ同様な「痛み」を抱き続け、艱難辛苦の人生を送り続けた人物ではなかっただろうか。例え、この映画の様に大石の遺志を受け継ぎ、それを一身に「心の支え」として生きていたとしても、生き続ける事は、死ぬ事より辛い「責め苦」として、彼の魂に絶えず蔑みの雷鳴の如く、鳴り響き続けていたのではなかっただろうか。
 私は、赤穂浪士が、イエスを信じ殉教して逝った隠れキリシタン達や、特攻で散華して逝った隊員と同様の立場であって、状況は違えど本質的には変わらぬ心性傾向を有していたのではないかと、考えるのである。それは、逃げようのない閉鎖的精神空間領域に追い込まれた立場であり、その逃避行動不可能な「究極の極限」状況からの精神的解脱を、「大義」と云う「得体の知れぬ共同幻想」を持ち出して掲げ、それに依存して適応規制を図り、やり過ごそうとした心性傾向である。
 ミシマも、その「大義」なるものを、「天皇」やその存在を含む「天皇制」に見出し、割腹殉死を遂げようとしたのではないか。だが、ミシマには物理的空間領域に於いては、自由な逃亡が可能な立場には居たのだが、彼が考え彼が構想する精神的レジーム領域に於いては、現実の日本社会では何処にも見出せない程に逃げ場はなく、彼なりの究極の極限状態に、自らを追い込んでいたのだろう。
 我々一人ひとりも、大なり小なりミシマ的存在であり、自分なりに何等かの「大義」を用意し、日常生活を遣り過ごしているのではないか。その大義が、一般的定義に於ける「公的なるもの」への帰依や帰属意識を意味しなくても、個人レベルでの言うなれば「小義」を引っ張り出して、生き甲斐としているのではないだろうか。だが、そうしたプライベートな個人にしか通用しない「小義」では、究極の極限状況に追い込まれ、どうにもこうにもならなくなった際、脆弱なものでしかないと思い知るのだろう。そうした心理状態では、死に際を「見苦しく」してしまうばかりになるので、そこで安全弁としての「大義」を持ち出し、曲がりなりにも「潔い」「死に際」を演出せざるを得なくなるのではないか。それを見事に描いたものが、映画「大日本帝国」の中で、見付け出す事が出来る。それは、3人の主人公の一人、「江上少尉」であり、彼の生き様と死に様であった。私は、篠田三郎演ずる江上に、これ迄、何度、自分を重ね合わせて来た事だろう。戦争犯罪のカドで留置されたフィリピン刑務所内で、江上の恋人であった夏目雅子演ずる「京子」が、江上との別れ際で涙に咽び江上に訴え乍ら言い放った最後の言葉が、私の思いを代弁してくれているのだ。だが、それを打ち消すような、それを遥かに凌駕する程のパワーを抱いた江上少尉の恋人京子への「心の叫び」を発露する「絶叫」に感動し、思わず涙した私だった。そして、いよいよ、最後の処刑の瞬間、江上の発した辞世の絶叫が、全てを象徴的に物語る「警句」として、私の心に反響し続けているのだ。そして、これら殆ど全ての営みに神の如く鎮座し、我々を操り続ける<a href="https://blog.goo.ne.jp/noborou55/e/9abfffe9369d77d67b9577d88fb5ec17"><font size="5">覇権システム</font></a>があり、その<a href="https://www.google.co.jp/search?q=21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%99%AE%E9%81%8D%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%80%8D:+%E3%80%8C%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AA%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%80%8D%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E3%80%8C%E5%8B%9D%E3%81%A1%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%83%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89&stick=H4sIAAAAAAAAAONgFuLRT9c3LDRNKjE1Ks5V4gXxDJPMC83TSyqztAQcS0sy8otC8p3y87P983IqASJndt8xAAAA&sa=X&ved=2ahUKEwiH37_om-LeAhVIW7wKHXteAIwQxA0wD3oECAUQBg&biw=1258&bih=620"><font size="5">史的検証</font></a>をしなければ、累々の涙と屍が待ち構え続けるのだ。</font>

【勝ち続けなければ、自分が負けて無くなってしまうと思い込む錯誤の中で~宮本武蔵とU.S.A.】
 我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。恐怖を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界というお化け屋敷のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も武士道における刀の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。
  勝ち続けなければならない。ひょっとして、今のアメリカは剣豪武蔵と同じ心境ではないだろうか。死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、宮本武蔵であるが、彼の真骨頂は、その強さというより、恐怖心との対決を終生の課題国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、それをじっと我慢しているわけだ。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が現在のわが国である。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華されるようになったのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、結局ニーチェの指摘したルサンチマンを基盤としている。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑であるとか、<font size="4"><font color="red">ウォーラーステインの「<a href="https://ncode.syosetu.com/n1622fd/">世界システム</a>(資本主義)論</font>」</font>を照合しつつ問題分析なり検証をしていかなければならないが、そうすることによりかえって「表象の世界」を合理化してしまうおそれがある。

【宝くじなど当たる訳無いと思いつつ買う。神など居る訳無いと思いつつ信じる。是即ち八百長!?】分かっちゃいるけど、止められない。これが、イエスを祭り上げる心にすり替えられる。宝くじなど当たる訳ない。もし当たりでもしたら、それこそが罰当たりと思う。それでも、何かを信じ買ってしまう。神様なんて、居る訳ないだろ~と思いつつ、山下達郎の「クリスマス・イブ」を聞き乍ら、サンタクロースの御伽噺に結局、嵌められる。この何かを信じなければ、遣り過ごせぬ弱い者達に付け込み、彼等をコントロールしようと目論むサタンが、有りもしない神などの共同幻想を創り上げ、その物語に平伏すシステム構築を謀ろうとする。八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべえ)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海太夫囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海太夫の機嫌をとっていた。しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、<font color="red">真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長</font>と呼ぶようになった。2002年に発刊された日本相撲協会監修の『相撲大事典』の八百長の項目では、おおむね上記の通りで書かれているが、異説として長兵衛は囲碁ではなく花相撲に参加して親戚一同の前でわざと勝たせてもらった事を挙げているが、どちらも伝承で真偽は不明としており、「呑込八百長」とも言われたと記述されている。1901年10月4日付の読売新聞では、「八百長」とは、もと八百屋で水茶屋「島屋」を営んでいた斎藤長吉のことであるとしている。
 以上ウィキペディアから出典したが、冷戦体制は、正しく、八百長の権化だった。今にも第三次大戦が核戦争となって勃発するぞと思わせ乍ら、米・ソが熾烈な核軍拡競争を、「核抑止論」と言う都合の良い子供騙しの論理で、遣らかして行った。そして、止め処ない核弾頭を保持する事に成功し、戦後の米ソお互いの住み分けが、資本主義・社会主義のイデオローグのもと、展開して行く。その間、それぞれの軍産複合体が盤石に構築され、兵器産業が羽振りを利かせ、景気の舵取り役を担ったりもした。ロッキードマーティン社やボーイング社はその主役と成り、大儲けして大量の労働者を雇い入れる大企業となった。その兵器製造を一手に担う大企業は、政治を動かすキーマンであり、大統領はこの大口の政治献金を賄ってくれる軍需産業の意向を無視しては、その政権維持が可能ではなくなり、政治を操る程のダークマターともなった。また、兵器産業は大統領を動かし、世界の不安定要因となる紛争や戦争を敢えて創らせるよう仕向け、その先兵として、CIAが偽装工作に大活躍していく。だが一方で、こうした状況が中長期的に継続すれば、軍拡競争の煽りを受けた軍事予算の突出による財政赤字に直面せざるを得ず、それが八十年代以降の旧ソ連邦に於ける社会主義崩壊へのカウントダウンとなって露見する。ゴルバチョフ登場後、立て直しを図る政策が打ち出されるが、その本質は軍拡狂騒に歯止めをかける為の施策であった。従って、彼の存在は、軍産複合体の側からすれば、非常に煙たい存在であり、消すべき指導者と見做されるのであった。それが、世界を一時震撼させた彼のクリミア幽閉であり、その後の彼の政治生命を短命化させる要因ともなった。ゴルバチョフを幽閉し失脚させようとしたのは、軍産複合体に突き動かされた保守派であり、ペレストロイカを阻もうとした旧ソ連共産党ノーメンクラツーラ達だったのだ。
 米国側も、軍需産業をバックにしたブッシュ親子が、二代に渡り、ソ連に取って代わる新たなる仮想敵探しを演出して行く。そのお芝居が、中東イラクフセインとの八百長であった。だが、分限を弁えず、猿芝居に辟易としてしまったフセインは、自らの命を落とす破目と成り、次なるターゲットとして、テロ戦の幕開けに繋がるシンボリックな人物が登場する。それが、今は昔となった、ウサマ・ビン・ラディンその人だった。彼は当初、米国との協力関係をとり、反ソ親米路線の人物だったが、サウジアラビアへ居座り続ける米軍に業を煮やし、それが彼を嫌米・反米の旗手に変貌させてしまった。このパターンは、イラクフセインも同様であり、彼も当初は反米ホメイニ・イランの対抗者として、アメリカに利用懐柔され、ビッグモンスターに成長させられた存在だったのだ。すなわち、米国がシナリオを描き、それを演じさせられた役者が両人だった。両人ともシナリオ通りに演じ切れなくなり、消される事となった訳だが、そして現在は、更にビン・ラディンのアルカイーダの血脈を受け継ぐISが、八百長試合を継続中であり、注射とガチンコの繰り返しで、危うい演技が続いているのである。
 冷戦構造を日本国内に取り入れた形となったのが、55年体制だった。日本列島で米ソの代理戦争が政治の季節となって展開したのだ。米帝資本主義の代理を与党自民党政権が、ソ連社会主義のお先棒を社・共両党を中心とする野党が担わされ、その元、九条を巡る憲法論争が国会で神学論争となって繰り広げられ、その実、自民党一党独裁支配体制が形成されていった。ここでも、日本国内の軍需産業が暗躍し、軍産複合体が盤石に構築される事となる。それが、朝鮮戦争勃発を端緒とする自衛隊創設過程であり、それ迄、米国の対日占領政策の下、完全非武装化要求と言う去勢され丸裸状態だった日本の防衛が、180度方針転換を余儀なくされて行く布石が作られた。自衛隊自民党保守合同で誕生した55年のちょうど1年前に創設され、正しく日本の再軍備化と自民党政治がタイアップする形で、強固な軍産複合体が出来上がって行くのである。それは、世界の八百長芝居が日本でも上演されて行くと言う事であり、自民党社会党の対立が、米ソ対立同様、迫真の演技で公演されて行ったのだ。その過程で、そのお芝居に気付けない純粋無垢の学生達は、安保闘争ベトナム反戦運動に大量動員され、その後の人生を翻弄される事ともなる。割腹自決で「痛み」システムに挑戦しようと自作自演でそれを超克しようと熱演したミシマや、その死をその後問い続け、先般、他者幇助により自裁した西部らも、八百長世界の一員として演じ切るのに辟易として、そのシステムからの消極的逃避を試みた人物達だった。だがその他殆どの者達は、そのシステムをも理解し得ず、意味の解らぬ儘におチャラケ生活を過ごしているか、そのシステムをある程度理解しつつも、消極的逃避すら出来ずに、覇権システムの中で、枝葉末節的事象把握に終始し、変に悟り切った様に思い込んでいるかの、どちらかに属しているのだ。そしてこの私はどうかと言えば、前者でもあり、またある時は後者でもあり、八百長ネット社会の空蝉の如く、仮想現実を浮遊する哀しき無名ブロガーでしか無い。挙句の果てに、「カ~モン・ベイビー・アメリカ…」なんて、イイねマークを指で真似して、浮かれポンチの写真ポーズで、年甲斐もなくニタニタしながら、越年しようとしているだけなのである。猿芝居も出来ぬオッサンに、明日は無い

【負け続けてばかりでいいのかな~八百長世界のなかで】小中学校で不登校の児童生徒は過去最多の約14万人、いじめの数は分かっているだけで約41万人を超えた。無理に学校に行く必要はないとする保護者や子供の意識も、市民権を得つつある。だが、こんな学校になってしまったのは、個の弱さに目を背け、弱さに胡坐をかき居直る側からの糾弾を畏怖する社会や、そうした社会風潮に異議を唱えようとせず身を隠す世間に、その背景の一端があるのではないだろうか。難しい事には拘らずバッシングを避け、見て見ぬ振りをする事勿れ主義が得策だと、殆どの者が変に悟りを開いてしまってはいないか。そしてそれが、平和憲法を嘯き続け姑息な生き方を身に付けて来た、戦後日本の生き様に正しく収斂され、延いては個の弱さに反映し、綺麗事で済まそうとする学校社会に露見されている様に思えてならない。

【社会から虐められる学校に、夢など語れよう筈がない】過去5年間に教員と看護師が精神疾患となったケースを調べた、2018年版「過労死白書」が示された。保護者や患者など業務上の関係者とのトラブルが、それぞれ疾患の原因の半数近くを占め、教育・医療現場における労働環境の厳しさが改めて確認された。兎角、先生と呼ばれる者達が形成する組織集団は、事勿れ主義を前提とする隠蔽的体質が通常化している。だから陰湿な諸問題が後を絶たず、理想を抱いて職場に赴いた若い先生達は、理想とは掛け離れた現実世界に打ちひしがれ精神を病んでしまうのだ。それに追い打ちを掛けるのが、地域社会の現代教師への冷ややかな眼差しである。古き良き時代の教師は尊敬の眼差しで見守られ、それに胡 坐をかけていた。だが今は違う。最早、信頼を前提とする学校教育では、有り得ぬのだ。生徒の苛めやそれによる自殺者が後を絶たないが、教師への社会的苛めも深刻度を増しているように思われる。苦しい立場を話し合い分かち合える筈の教師同士が分断化され、孤独で物言えぬ存在と成り果てている。政治と同様、信なくば学校教育は成り立たたぬ。

 

【勝ち続けなければならなくなる、八百長世界の中で翻弄される「宮本武蔵」と「U.S.A.」?】
 我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。恐怖を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界というお化け屋敷のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も武士道における刀の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。それは、自衛隊の存在価値を考える場合である。

  <a href="https://ncode.syosetu.com/n9646fc/1/">勝ち続けなければならない。ひょっとして、今のアメリカは剣豪武蔵と同じ心境ではないだろうか。死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、宮本武蔵であるが、彼の真骨頂は、その強さというより、恐怖心との対決を終生の課題としたことではないだろうか。「葉隠れ」に「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」とあるが、彼もいつか自分が敗者となり、死ぬ時が来るであろうことを、絶えず予期していただろう。だが、その覚悟ができない場合、死にきれなくなることも起こり得る。そうすると、とにかく勝ち続けなければならない。ひょっとして、無敗の武蔵は、負ける(=死ぬ)ことに対する異常な恐怖心につきまとわれていたのかもしれぬ。恐怖を直視した武蔵も、武士道世界という「お化け屋敷」のなかで、数多くの仕掛けに翻弄され続けていただろう。無敗の武蔵は、負ける(=死ぬ)ことに対する異常な恐怖心につきまとわれていたはずである。</a>
  9.11以降、要するに世界中が「お化け屋敷」となった。恐怖を司る側はそれに操られ翻弄する側の姿に快感を憶え、ついつい仕掛けはエスカレートしていくものだ。恐い者知らずが横行し、モラル=ハザードが進行している現代においては、恐怖は必要とされるものかもしれない。私は怖がりの性分で、お化けは苦手である。この苦手意識の克服策は、逆療法しかないのかもしれない。基本的には恐怖に浸る状況に身を曝せながら、恐怖を相対化させようとする森田療法的方式とでも言えるだろうか。しかし、「恐怖からの自由」が却って生死に対する感覚を鈍麻させ、新たな問題を突きつけることにもなる。死の恐怖の克服により、世界屈指の軍隊を作り出すことを可能にさせた大日本帝国などはどうだろう。感覚鈍麻のなかで、自身の実力を錯誤させ破滅への道を辿らせることにもなる例が、その他にも見出される。ベトナム戦争中、米軍が、兵士にビデオで残虐シーンを見せ続け、殺戮行為を容易にさせるトレーニングをしたことなどもその一つではないか。常勝アメリカもベトナムには結果的に敗北してしまい、その後遺症が尾を引いている。敗北恐怖症とでも言うか。恐怖の克服が、死をも恐れず暴走する輩を駆り立て、戦争の歴史を繰り返させることにもなってしまう。恐怖の克服は、核抑止をも上回るというシニカルな結果を招くことすらあるわけだ。
  我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中に生きてはいない。刀に対するある種の恐怖を通し精神修養や修行がなされるとするならば、戦争という恐怖について考察することは、堕落した日常を戒めるためにも必要なことである。毎年のことながら、戦争体験者にとり8月は特別な意味を持つ時期だが、戦争体験のない我々も、「靖国」など戦争について考えさせられる。人間の最も嫌がることの一つは、責任を取ることだ。戦犯者は、日本(人)のやった、否、欧米帝国主義諸国のやった侵略戦争の罪を背負わされているのではないか。戦犯者は、キリスト教でいうと十字架に架けられ人類の原罪を背負わされ犠牲となったイエスに近い性格を有す存在ではないか。クリスチャンはイエスに後ろめたさを感じ、彼を拝み続ける。なぜ、戦犯者を靖国に合祀し、それを首相が公式参拝するのか。その根底に、キリスト教徒が抱くイエスへの感情と同様に、日本人の戦犯者に対する後ろめたさが隠されているからだ。要するに人間の一番嫌がる責任を負わされた存在は、後生大事に祀られ拝まれ続けるのだ。紀元前後に生きた一人の男は、とうとう神に祭り上げられてしまった。この二千年間、彼を担ぎ上げ彼を楯にして頼りながら、我々は自身の安心立命を図りエゴを最大に追求し続けてきたのだ。 
 特攻隊も自爆テロも、自己犠牲を通して何かのために殉じようとする。死を賭して何かを訴える。自殺行為もその一つではある。死は大きな恐怖であると同時に、大きな力、影響力を有す。そんな死に少なからず憧れを持ったりもする。これが、いわゆる死への衝動、タナトスである。堕落した惰性的な生、生への衝動、エロスが続く中で、それを諫めようとする死への衝動が呼び覚まされる。両者の闘争が文明史の興亡に少なからず影響を与えてきた。宗教から派生する科学は死を遠ざけようと、不自然な重力に反する文明を追求する。延命治療はその象徴であり、延命操作で不自然な生を贈り届け、死を遅らせる。 歴史は恐怖との対峙の展開である。恐怖を司る側とそれを余儀なく被る側が社会を形成し、その体制からの逃避を「自由」や「平等」という価値で模索してきた。恐怖の典型は「死」であり、死は即ち「未知」ということである。簡単に言うと「分からない」領域である。その領域をめぐり宗教が人類史と伴に並存し、「神」なる精神安定装置を創出し、不安定からの逃避の歴史を繰り返してきた。ショウペンハウエルも「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。老後に生き甲斐を無くした者は、老いを加速させるものである。目的喪失は「死に至る病」であり、逆に目的保持は生きようとする欲望を喚起し、それが強ければ強い程、生命に活力が注入される。プラトニズムにしても理想を高く掲げ、それを追求し続けるなかで生命力を輝かせようとするのであり、我々はその虜になり、文明史を形成してきた。そして、死に伴う精神的・肉体的苦痛から解放してくれる文明という名の快楽を追求してもきた。その最先端にアメリカニズムがあり、核抑止も付随する。「毒を毒で以て制す」ならぬ「恐怖を恐怖で以て制す」という構図が、ハンムラビの「目には目を」の応報主義法典から抜け出せず、相も変わらずDNAの如く受け継がれてきた。
 <a href="https://ncode.syosetu.com/n9646fc/2/">その恐怖の構図への挑戦を仕掛けたのがイエスであろう。その変態的姿勢を敢えてとり続けられるなかで、相手は自己矛盾に苛まれ自壊作用を来すのである。キリスト教古代ローマ帝国との関係において、それは如実に示された。近代以降においては、ガンジーの非暴力・無抵抗主義をバックにしたインドと大英帝国との関係が正しくそれである。現代では、憲法第9条を前面に平和主義を掲げるわが国が、イエスの教えを標榜する選ばれた国家に成り得るかも知れぬ。非暴力国家日本対暴力的テロ世界。しかし、それを阻むサタンが付きまとい、行く末を怪しくする。正義を嘯くアメリカというサタンが。戦後、アメリカが到底できない非武装中立の似非平和主義を、半世紀以上も日本は押し付けられてきて、それをじっと我慢しているわけだ。飼い主に牙を向けたペット犬に対して、猿ぐつわをされた状態が現在のわが国である。飼い主のペットいじめは時にアメを、時にムチを使いながら、サディスティックに続く。ペットのストレスは限界に近付こうとしている。否、イエスのマゾヒスティックな教えを完全にイニシエーションされ、苦痛を快感に昇華されるようになったのか。飼い主であるアメリカも、正義面で自分を偽り続けながら息苦しさに喘いでいるのかもしれない。ペット犬の前で飼い主は、自身の欺瞞を絶えず見透かされているように感じるものだ。テロ報復戦争にしても、それを「文明の衝突」とか「新しいかたちの戦争」とか言い囃しているだけで、結局ニーチェの指摘したルサンチマンを基盤としている。当然、軍産複合体制の維持を目論む側の思惑であるとか、ウォーラーステインの「世界システム(資本主義)論」を照合しつつ問題分析なり検証をしていかなければならないが、そうすることによりかえって「表象の世界」を合理化してしまうおそれがある。

 歴史は恐怖との対峙の展開である。恐怖を司る側とそれを余儀なく被る側が社会を形成し、その体制からの逃避を「自由」や「平等」という価値で模索してきた。恐怖の典型は「死」であり、死は即ち「未知」ということである。簡単に言うと「分からない」領域である。その領域をめぐり宗教が人類史と伴に並存し、「神」なる精神安定装置を創出し、不安定からの逃避の歴史を繰り返してきた。ショウペンハウエルも「人生は安心と不安の振り子の間」と言い当てているように、人間世界は、この恐怖と良きに付け悪しきに付けつき合ってきた。またこの恐怖の克服が、文明化の歴史を形成させもした。文明化は「死の恐怖」の反動、すなわち「生への欲望」の結果であった。
 私は、赤穂浪士が、イエスを信じ殉教して逝った隠れキリシタン達や、特攻で散華して逝った隊員と同様の立場であって、状況は違えど本質的には変わらぬ心性傾向を有していたのではないかと、考えるのである。それは、逃げようのない閉鎖的精神空間領域に追い込まれた立場であり、その逃避行動不可能な「究極の極限」状況からの精神的解脱を、「大義」と云う「得体の知れぬ共同幻想」を持ち出して掲げ、それに依存して適応規制を図り、やり過ごそうとした心性傾向である。
 我々は平和ボケの世の中にある。そのなかで、生きているという実感が見出せないことすらある。恐怖を直視した武蔵に少しはあやかりたいものだが、武士道世界というお化け屋敷のなかで、彼も数多くの仕掛けに翻弄され続けていたとしたら。我々は、刀を振り回し命の遣り取りをするような世の中で生きてはいない。しかし、武蔵の生き方を想像することが、戦争を考えることにもなるのではないだろうか。自分自身が極限状況に追い込まれたなかで、果たして謙譲の姿勢が示されるものなのかどうか。そうした中で、わが国も武士道における刀の持つ意味や、真の強さとは何かを考えさせられてもいる。
 勝ち続けなければならない。ひょっとして、今のアメリカは剣豪武蔵と同じ心境ではないだろうか。死の恐怖と対峙することを人生とした人物は、宮本武蔵であるが、彼の真骨頂は、その強さというより、恐怖心との対決を終生の課題とした事だ。

アンビバレントなジャポン&私【「犬のお巡りさん」逝く~犬も歩けばQUEENに当たる2018.12.6】童謡「いぬのおまわりさん」「サッちゃん」の作曲家、大中恩さん死去、94歳
「ボ~っと生きてんじゃねー!」は認知症患者への侮蔑に繋がりませんかなんて思ってたが、ホントに何にも知らずにボーっと生きて来たのかも。サっちゃん</a>」の歌も、よく知ってる曲だが、2番の歌詞は殆ど知らなかった。「サっちゃんはね、バナナが大好き」だったんだよね~。全然知らなかったよ~。ホンマに「ボーっと生きて来たんだよね~」

フランス革命再来!?「ボ~っと生きてんじゃねー!」抗議デモ激化受け、増税6か月延期発表2018年12月05日】フランスで燃料税増税に対する抗議デモが激化し一部が暴徒化して死者も出ており、マクロン政権はいったん方針転換し、増税を先送りせざるを得ないと判断した。しかし、8日予定の抗議デモは実施されそうだ。抗議デモは11月17日から土曜日を中心に断続的に行われ、死者は計4人に上った。1日のデモはパリのシャンゼリゼ通りのほか、全国で約13万人が参加し、治安部隊との衝突などで260人以上が負傷した。安倍首相の祖父岸信介が、安保闘争で国会周辺をデモ隊に取り囲まれ、一時は命の危険すら感じた58年前とは、隔世の感がする。私は当時、未だ幼少期だったが、戦後の貧しさの記憶と豊かさへの憧憬を同時に体感し、前者の余韻を訝りそれを打ち消して後者に恭順した「アンビバレント・ジャポンの申し子」となった。そんな覚悟の定まらぬ昭和30年代初頭に誕生した我等の子供達が今、親となり世相を創る主役となろうとしている。燃料税増税に抗議するパリっ子を眺めるだけでは、カタルシスの持って行き場を、益々、現実ではないネット社会の仮想空間へと見出して行くだけに終わり、それこそ政権の思う壺だ。仏日共に、ストレス溜まっているのだろうが、フランスと違い此の国の住人は大人し過ぎる。「怒り」のぶつけ処を間違えてはいないだろうか。パリっ子は昔も今も変わらず、熱く行動する。マクロンは嘸かしビビリアンの絶頂になっているのかも知れぬ。ルイ十六世がギロチン台に赴かんとする心境程では無いにしても、ちょっとだけ追い込まれた際の、気持ちが伝わったのか。方や、此の国のリーダーは独裁恐怖政治を長期に渡り継続し、国民の自身に向けられ掛けたカタルシスを、おフランス自動車ルノーカルロス・ゴーンに向け変えるさせ、ギロチン台からまた一歩後退する事に成功した様だ。
渋谷ハロウィン乱痴気騒ぎを、パリっ子は笑っちゃってるかもね!?「そのエネルギーを然るべきところにブツケねーか!こんな事して恥ずかしいと思えんのか。恥ずかしいと思えば、こんな事出来ませんね。そんな元気があれば、安倍政権への抗議に振り向けてみろ~!
寝ては🙅、寝たら彼が出て来るよ
夢の世界で彼に襲われる
この私も、「夢か現の狭間」で、ドウシヨウモナイ世界に引き込まれ掛けて
「無我夢中」で夢から覚めようとした事が何度かある
きっと誰にでも、心の中に、自分だけの、自分にしか解り様の無い(否、自分ですら説明し様の無い)
アイツが潜んでいるのだろう

【「アストリッド」&ルノー「ゴーン」との司法取引!?】私は、怖がり性分で、今もその性格は不変だ。臆病者と言うか、小心者大将と言っても過言ではない。そうした性分が、私の終生のテーマ「恐怖とは」に繋がっているのだろう。私は、この恐怖が曲者だと、常日頃から思い続けている。私は、<font size="4">恐怖は必要悪</font>と捉えている。「恐さ」は、あらゆる営みに関わる源泉であり、コレなくしては、我々の生命維持は図られないだろう。簡単な話をすれば、「何故、フクシマ原発事故があっても再稼働出来るのか」と云う問いに対する答えが、それに該当するであろう。それは、「フランスが怖いから」だ。極、シンプルな答えで、核心を突いている。六ケ所村の再処理工場がフクシマ以降、運転停止しているので、日本国内の原発内に貯蔵されている放射性廃棄物と云う厄介な核の「ゴミ処理」を、フランスに委託して代行処理して貰っているからだ。「もんじゅ」が膨大な高額予算を空費して、計画頓挫へと至り、それが日仏共同計画の次世代型高機能コンパクトタイプの原子炉「アストリッド」へと繋がった。fd/">原子力ムラの懲りない住人達は、この「アストリッド」計画に自分達の生き残りを賭けて、着々と粛々と悪業を推進していた。そこに起こった「ゴーン逮捕」劇は、日本の原子力ムラの住人達を蒼褪めさせることとなる。ゴーン逮捕の意匠返しに「アスリッド計画からの撤退」をチラつかせてきたのだ。「恐怖は必要悪」として存在し、その恐怖心が曲がりなりにも我々自身の生活保障へと導く鍵なのであると先述したが、「アストリッド」共同計画中止を「必要悪の恐怖」として、日仏両首脳がどの様に操り操られ乍ら、我々を揺さ振り続けて行くか注視しなければならない。ナマハゲに登場して貰い、「悪さする者イネ~か」と「原子力ムラ」の懲りない面々に対し、「必要善としての恐怖」を下す必要がある。おフランスは好きだけど、今の仏マクロン政権は嫌いだと云う、アンビバレントな私がいる。そして、これら殆ど全ての営みに神の如く鎮座し、我々をコントロール支配し続ける覇権システムの史的検証をしなければ、累々の涙と屍が待ち構え続けるのだ。

僕の名前は「チッポ」。「チポ」とも呼ばれている。余り聞かれない名前だけど、ポチの反対と聞けば納得して覚えて貰えるかも。これから僕のお父さんの書き物を紹介するね。その殆どがボヤキに似たお父さんのストレス発散パフォーマンスで、読まされる方は大いに迷惑で堪ったもんじゃないけど、読者諸氏も僕に免じて御容赦下さい。何か感じた事があれば、最後のコメント欄に書いて下さいね。

【もう師走~先生は走っているの?】僕の好きな愛犬チポの年だった戌年も、残すところ後、1か月を切って来た。師走とは、教師が走る位、忙しい12月と云う事だ。「バタバタして気忙しくなる年末」と云う意味で、教師がその代表格に挙げられてる訳だ。さてそれは本当だろうか。教師はどれだけ走っていると言うのだろう。走るどころか歩きもせず、パソコンばかりに目をやり現を抜かしているのと違うだろうか。パソコン画面しか見てなくて、子供の顔が見えていないのと違うか。子供をパソコンデータとしてしか見ようとしない。それがそもそも教育を「恐育」や「狂育」にしてしまうのではないのか。誰かが教育は「共育」なんて、カッコいい事を言っていたが、共に潰し合いしてるだけではないか。子供も子供で、家へ帰って何しているかと思いきや、自分の部屋に籠りっきりで、勉強もせず何時間もゲーム三昧に明け暮れる毎日。これでは、学力低下当然の帰結であり、高校生の家庭学習時間の問題も何が原因かは、言わずもがなであろう。こうしたおバカな子供達を躾も出来ず、自分達の代わりにゲーム機器やパソコンを子供に宛がい、自分の子供の顔も六すっぽ見ずに、親達自体も各人がパソコン画面に見入り、AmazonビデオやFC2に現を抜かしているのと違うだろうか。これでは、教育荒廃に拍車を掛けるのも当然であり、頷ける話だ。

【ブッシュ「オイルウォー」マスター逝く】チェイニーらネオコン仲間と共謀して湾岸戦争を仕組み、テロ戦への布石を創ったブッシュ親爺が亡くなった。「世界の警察官」となり、その後のアメリカ「単独行動主義(ユニラテラリズム)」へ直走る立役者となった。「砂漠の嵐」作戦でパウエルやシュワルツコフ等の制(軍)服組が、幅を利かせる切っ掛けとなった。冷戦崩壊後、仮想敵創りに彷徨しつつカムバックに余念の無かった、「軍産複合体」が完全復活した。イラクフセインが、世界の悪者役を買って出て、12年後にはブッシュ息子にとうとう抹殺される憂き目に遭う。親爺は、国連を都合良く利用し安保理決議をベーカーに取り付けさせ、戦争突入への「大義」が未だ辛うじて用意された。だが、バカ息子になってそれが確保し得ず、「大量破壊兵器」所持の言い掛かりを口実に、米軍単独行動主義で完全なる国際法違反の「侵略戦争」が挙行され、小泉純一郎政権はそれに追従した。その後、大量破壊兵器の存在が完全な「デッチアゲ」だったという事が世界的に公認されるが、日本政府は何一つ未だに総括すらせず仕舞いで、今日に至る。フセイン処刑後、新たな悪役としビン・ラディンが立候補する運びとなる。その後の流れは皆さんも御存知の通りだ。

【キチジロー&江上少尉の「悲痛」】遠藤周作「沈黙」で描かれた「キチジロー」と、ほぼ同様な「痛み」を抱き続け、艱難辛苦の人生を送り続けた人物はいなかっただろうか。生き続ける事は、死ぬ事より辛い「責め苦」として、彼の魂に絶えず蔑みの雷鳴の如く、鳴り響き続けていたのではなかっただろうか。否、もう一人の人物はどうだっただろう。それは、映画「大日本帝国」で、篠田三郎が演じた江上少尉だ。私はこれ迄、何度、江上に自分を重ね合わせて来た事だろう。戦争犯罪のカドで留置されたフィリピン刑務所内で、彼の恋人であった夏目雅子演ずる「京子」が、江上との別れ際で涙に咽び江上に訴え乍ら言い放った最後の言葉が、私の思いを代弁してくれているのだ。だが、それを打ち消すような、それを遥かに凌駕する程のパワーを抱いた江上少尉の恋人京子への「心の叫び」を発露する「絶叫」</a>に感動し、思わず涙した私だった。このブログ記事を書いているこの瞬間でも、それを思い出す度、涙目になる自分をセンチメンタルで軟弱な利己主義者だと自覚し、確認するだけでは済まないのである。そして、いよいよ、最後の処刑の瞬間、江上の発した辞世の絶叫が、全てを象徴的に物語る「警句」として、私の心に反響し続けているのだ。そして、これら殆ど全ての営みに神の如く鎮座し、我々を操り続ける覇権システムがあり、その史的検証をしなければ、累々の涙と屍が待ち構え続けるのだ。

僕の名前は「チッポ」。「チポ」とも呼ばれている。余り聞かれない名前だけど、ポチの反対と聞けば納得して覚えて貰えるかも。これから僕のお父さんの書き物を紹介するね。その殆どがボヤキに似たお父さんのストレス発散パフォーマンスで、読まされる方は大いに迷惑で堪ったもんじゃないけど、読者諸氏も僕に免じて御容赦下さい。何か感じた事があれば、最後のコメント欄に書いて下さいね。

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今年は戌年だった。私は犬(自分の飼ってるチポだけを指す)をコヨナク愛しているが、「犬公方」と呼ばれ、「バカ殿」の代名詞ともなって来た、徳川5代将軍「綱吉」に対する見方と言うか、認識が、ここ数年でガラリと変わりつつある。その事に関し、少し言及したい。徳川綱吉は、皆さんが御存知の「生類憐みの令」で犬を人よりも大切にして、犬の事を「お犬様」と呼び、綱吉自身もお犬様と侮蔑的呼称で皮肉られ、後世に悪名を轟かせて行った。だが、彼は善政を布いたとも言われ、近年、バカ殿と云うイメージを覆す綱吉研究も多く示されて来ている。愛犬家の私は、これまで世間一般に流布されて来たバカ殿意識で、綱吉を見続けていた見方を、かなり変えざるを得ない心境に至っているのである。と言うより、彼こそは、「ロブスター論争」を逸早く見通し、先見性を持った生命倫理観を提唱し、且つ実践していたのではないかとすら思えて来ているのだ。先般、和歌山で「紀州ドンファン怪死事件」が世間を騒がせたが、奇怪な死に方をした大金持ちの彼は、綱吉同様、犬好きで、犬をこよなく寵愛していた人物であった。彼は、世間の人達が金でしか動かず、金に目が眩んで、自分に近寄るだけで、本心とは裏腹な態度を取る世間の嫌らしさに、辟易としていたのではなかったか。「カネの切れ目が、縁の切れ目」の諺通り、金が無くなると、それまでヘイコラして自分に群がっていた者達が、一気に手の平返しをして、寄り付きもしなくなる。こんな世を、誰よりも疎ましく眺め、人知れず孤独感に苛まれ続けていたのではないかと想像する。そんな中、唯一、彼の虚しくポッカリと空いた心の隙間を埋めて、癒してくれたのが、愛犬の存在ではなかっただろうか。私も愛犬と日がなベッタリと相思相愛の溺愛関係を継続していると、そうしたドンファンの心の底に沈んだ、どうしようもない程、哀しくて居た堪れない闇の世界を、何となく理解し得る様な気になってしまうものなのだ。今頃、怪死を遂げたドンファンは、あの世でも、愛犬と共に慈しみ合い、此の世を天上界から儚んで見下ろしている事だろう。それはそうと、犬公方徳川5代将軍綱吉の治世に、天下を騒がす大事件が起こる。赤穂浪士の吉良邸討ち入りだ。私は、赤穂浪士が、イエスを信じ殉教して逝った隠れキリシタン達や、特攻で散華して逝った隊員と同様の立場であって、状況は違えど本質的には変わらぬ心性傾向を有していたのではないかと、考えるのである。それは、逃げようのない閉鎖的精神空間領域に追い込まれた立場であり、その逃避行動不可能な「究極の極限」状況からの精神的解脱を、「大義」と云う「得体の知れぬ共同幻想」を持ち出して掲げ、それに依存して適応規制を図り、やり過ごそうとした心性傾向である。そうした赤穂浪士はテレビ・映画等で数多く取り上げられ、NHK大河ドラマでも、「赤穂浪士」として描かれ国民に親しまれた。私もそのうちの一人で、子供心に討ち入り時期に合わせて年末に向けたこの頃に放映された最終回を、固唾を飲んでテレビの前に釘付けになって見入ったのを、今も忘れる事が出来ないのである。長谷川一夫演ずる大石内蔵助が、滝沢修演ずる吉良上野介を追い詰め敵討ちを遂げる迄の討ち入りシーンを、家族で見入っていたのを思い起こす。芥川龍之介の三男で音楽家芥川也寸志作曲のテーマ曲が、ドラマを盛り上げるのにとても効果的に使われていて、今も口遊む事が出来る程の名曲だった。その後、大河ドラマは日本のお茶の間で毎週日曜日の夜の定番となり、それを見て我々は歴史上の人物イメージを刷り込まれても行く事となる。そして、その大河ドラマ赤穂浪士」の前年が、初代大河の「花の生涯」だった。その中で描かれた人物は、桜田門外の変で暗殺される「井伊直弼」だった。井伊を暗殺する水戸浪士の首謀者、「関鉄之助」を取り上げ映画化された「桜田門外の変」を、つい最近観た。彼等も追い詰められ、「覚悟」に翻弄された存在ではなかっただろうか。追い詰められた苦しい状況は、棺桶だ。だが、我々は最後にこの中で業火に焼かれて永遠の苦痛から解放されるのか~。これはカネ掛けずに上手く創った傑作ダ~!続きはこのドアーから☛エンター

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ロシアもなかなかやるね~!コレ
【映画に見える世相~追い詰められた「究極の極限」】1日に閉幕したG20首脳会議で、ロシアプーチンがサウジ人記者カショギ氏殺害事件への関与が疑われているサウジのムハンマド皇太子と大袈裟に「ハイタッチ」し、友好関係をアピールした。中国習近平国家主席も皇太子と経済協力強化で一致した。皇太子は、欧州などからは批判を受けたが、サウジの資金力を目当てに関係を維持したいトランプ米政権や中露を味方につけて事件の幕引きを図ろうとしているとみられる。兎角、露国は、過去社会主義の旧友として中国と暗黙の連携で、米国との一線を画した「差異化」姿勢を随所で示そうとする。このアトラクションも、そうしたロシアの現況を少なからず反映した映画ではなかろうか。また、水道法改悪のテーマ「水」を巡る攻防も、作中に込められ、今後の世界の行末に、良きに付け悪しきに付け、「ウォーター」がキーワードになるであろう事をも示唆する注目作だ。数年前、実際、ロシアに隕石が落下し、それが世界的に動画配信視聴され話題となった。私もそのうちの一人だった。それを異星人の宇宙船に置き換え、その異星人と主人公のヒロインが異種間恋愛を通し、CG合成技術でモビルスーツを着用した者達とのバトルシーン満載で、ハリウッド映画をパクリ捲りのエンターテインメント満載の作品に仕上げている。映画作品にも、米国との見せ掛けの覇権争いを意識した中国との共鳴性を感ずる。

 今年は戌年だった。私は犬(自分の飼ってるチポだけを指す)をコヨナク愛しているが、「犬公方」と呼ばれ、「バカ殿」の代名詞ともなって来た、徳川5代将軍「綱吉」に対する見方と言うか、認識が、ここ数年でガラリと変わりつつある。その事に関し、少し言及したい。徳川綱吉は、皆さんが御存知の「生類憐みの令」で犬を人よりも大切にして、犬の事を「お犬様」と呼び、綱吉自身もお犬様と侮蔑的呼称で皮肉られ、後世に悪名を轟かせて行った。だが、彼は善政を布いたとも言われ、近年、バカ殿と云うイメージを覆す綱吉研究も多く示されて来ている。愛犬家の私は、これまで世間一般に流布されて来たバカ殿意識で、綱吉を見続けていた見方を、かなり変えざるを得ない心境に至っているのである。と言うより、彼こそは、「ロブスター論争」を逸早く見通し、先見性を持った生命倫理観を提唱し、且つ実践していたのではないかとすら思えて来ているのだ。先般、和歌山で「紀州ドンファン怪死事件」が世間を騒がせたが、奇怪な死に方をした大金持ちの彼は、綱吉同様、犬好きで、犬をこよなく寵愛していた人物であった。彼は、世間の人達が金でしか動かず、金に目が眩んで、自分に近寄るだけで、本心とは裏腹な態度を取る世間の嫌らしさに、辟易としていたのではなかったか。「カネの切れ目が、縁の切れ目」の諺通り、金が無くなると、それまでヘイコラして自分に群がっていた者達が、一気に手の平返しをして、寄り付きもしなくなる。こんな世を、誰よりも疎ましく眺め、人知れず孤独感に苛まれ続けていたのではないかと想像する。そんな中、唯一、彼の虚しくポッカリと空いた心の隙間を埋めて、癒してくれたのが、愛犬の存在ではなかっただろうか。私も愛犬と日がなベッタリと相思相愛の溺愛関係を継続していると、そうしたドンファンの心の底に沈んだ、どうしようもない程、哀しくて居た堪れない闇の世界を、何となく理解し得る様な気になってしまうものなのだ。今頃、怪死を遂げたドンファンは、あの世でも、愛犬と共に慈しみ合い、此の世を天上界から儚んで見下ろしている事だろう。それはそうと、犬公方徳川5代将軍綱吉の治世に、天下を騒がす大事件が起こる。赤穂浪士の吉良邸討ち入りだ。私は、赤穂浪士が、イエスを信じ殉教して逝った隠れキリシタン達や、特攻で散華して逝った隊員と同様の立場であって、状況は違えど本質的には変わらぬ心性傾向を有していたのではないかと、考えるのである。それは、逃げようのない閉鎖的精神空間領域に追い込まれた立場であり、その逃避行動不可能な「究極の極限」状況からの精神的解脱を、「大義」と云う「得体の知れぬ共同幻想」を持ち出して掲げ、それに依存して適応規制を図り、やり過ごそうとした心性傾向である。そうした赤穂浪士はテレビ・映画等で数多く取り上げられ、NHK大河ドラマでも、「赤穂浪士」として描かれ国民に親しまれた。私もそのうちの一人で、子供心に討ち入り時期に合わせて年末に向けたこの頃に放映された最終回を、固唾を飲んでテレビの前に釘付けになって見入ったのを、今も忘れる事が出来ないのである。長谷川一夫演ずる大石内蔵助が、滝沢修演ずる吉良上野介を追い詰め敵討ちを遂げる迄の討ち入りシーンを、家族で見入っていたのを思い起こす。芥川龍之介の三男で音楽家芥川也寸志作曲のテーマ曲が、ドラマを盛り上げるのにとても効果的に使われていて、今も口遊む事が出来る程の名曲だった。その後、大河ドラマは日本のお茶の間で毎週日曜日の夜の定番となり、それを見て我々は歴史上の人物イメージを刷り込まれても行く事となる。そして、その大河ドラマ赤穂浪士」の前年が、初代大河の「花の生涯」だった。その中で描かれた人物は、桜田門外の変で暗殺される「井伊直弼」だった。井伊を暗殺する水戸浪士の首謀者、「関鉄之助」を取り上げ映画化された「桜田門外の変」を、つい最近観た。彼等も追い詰められ、「覚悟」に翻弄された存在ではなかっただろうか。究極の極限まで追い詰められた苦しい状況は、棺桶だ。だが、我々は最後にこの中で業火に焼かれて永遠の苦痛から解放されるのか~。これはカネ掛けずに上手く創った傑作ダ~!
僕の考えてることを、橋本智津子女史がこの本でまとめていたよ。先越されちゃってたね。

【上からの拷問vs下からの拷問って、要するにMorSかと云う事(マルキストはどっちダ~!?)】
小浜逸郎氏ブログ「ことばの闘い」で、水道法改悪に関し私もコメントしたが、以下に紹介するコレだ!

【平和と水はタダ同然では無い】
(肱雲)2018-11-30「日本の水」は、世界でトップクラスの上質で安全性の確保されたものだ。日本人は、そうした水を当たり前の様に、水道の蛇口を開けば、タダ同然で何時でも何処でも簡単に飲めると思っているし、事実、災害時以外はその通りだ。こんな国は、世界広しと言えども、日本かスイス位であろう。世界に冠たる「水(道)大国」なのだ。それを、海外に出て初めて知り、実感する事になる。世界をリードして来た欧米先進諸国ですら、基本的に絶対安心して飲める水確保は、「ミネラルウォーター」を購入しなければ、可能とはならない。それ程、我が国の上水道浄水技術は、秀でた高度技術を有す。こうしたレベルは、「水道法」の下、水道事業は基本的に自治体が独立採算制で運営するシステムとなっているからだ。だが、そうした水道事業を支える人口が減少しているため、水道管、浄水場などの設備の維持・更新費が上がり、現状の設備を維持しようとすれば水道料金を上げなければならない。こうした公営事業の赤字補填をどうするかが課題となる中、過去の三公社や郵政事業同様に、水道も民営化しようとする流れの中で、今回の水道法改訂の運びとなっているのであろうが、入管法改悪以上に殆ど審議時間を掛ける事も無く、スルーしてしまうとは言語道断である。我々の「命に直結する水」を、「外国メジャー」に都合良く扱われ、利益を簒奪されるのは目に見えた話ではないか。そしてそのツケは、我々国民への水道料金値上げとなって跳ね返り、低質化し安全でない水を飲まされるという結末になる。こんな悪い状況でも企業は利益を出さなければならず、ましてや役員報酬や株主配当という新たなコストも発生するだろう。民営化に伴う利益追求は、更なる水道料金値上げに繋がり、サービス低下は不可避となろう。こうした事への関心が、殆どの国民には認識されておらず、それだけ、水確保は何もしなくても当たり前の様に可能だとする、日本人の余りにも楽観的で能天気な国民性向の証左ともなっている。グローバル経済の荒波の中で、虎視眈々と我が国の富を掠め取ろうとする外国資本の動向を、絶えず注視していなければならない。平和と安全保障同様、水も安穏としたオマカセ対応では、死守出来ないものである事を、再認識する必要に迫られている。

いろいろあるね~
きなこのブログこれはエグイ!ね~、スルドイ!ね~、ヤルね~!
言葉の正しい使い方が確認出来る
コレ色々使えるかもヤッパ「有名と無名」は「月と鼈」、「天国と地獄」の格差🐜
ブログとは?僕みたいな何にも知らないアホにも分かる様に解説してくれる
「目指せ芥川賞」なんて、誰も相手にしてくれまへん完全なる「劇団ひとり」ならぬ「ブログ一人」てかワンコを救え
政治ブログランキング上位…「かっちの言い分」&「BBの覚醒記録

ブルース・リーがドウタラと言って来て、その師匠の何たるかをちょっと前まで全然知らなかったとは。こんな日本人もいたのに、彼はブルースを感じさせるブルース・リー
知られざる少林寺拳法
  
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